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《 随感・随想 》
『こわい考』出版・『通信』発刊四周年を迎えて
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藤 田 敬 一
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『こわい考』が出版されてはや四年になります。わたしの内に積もり積もったものが思わず口からほとばしり出たとはいうものの、わずか136頁の小冊子がわたしにとってこれほどまでに大きな意味をもつとは正直いって予測できませんでした。 もともと岐阜の太平天国社から自費出版して、それも300部か500部ほど友人が買ってくれたらいいと考えていたので、阿吽社の双書の一冊に加えられ、多くの方に読んでもらえただけでなく、さまざまな波紋を呼んだことは驚きでした。 1987年6月、波紋を追いかけるべく出した『通信』も今号で46号をかぞえます。この間、多数の方々からお便りを頂戴しました。その数は約2000通、いずれもポンポンにふくらんだ19冊のファイルは、わたしの生の証にほかなりません。総額166万円をこえる切手、カンパが寄せられたこともあわせて報告させていただきます。たった一人の細々とした営みですが、『こわい考』と『通信』を通じて結ばれたみなさんとの絆は、確実にわたしを励まし続けてくれているのです。 部落差別の現状、部落解放運動の現在と未来について、なんとしても開かれた論議がなされなければとのわたしの思いは強まりこそすれ、弱まることはない。地対協・地対室の対応や政治状況に起こった、なにほどかの変化にもかかわらず、部落解放運動が差別・被差別関係総体の止揚にむけた共同の営みとしてあることが不可欠だとする認識に、いささかの変更もない。しかし差別・被差別の隔絶した関係そのものは相変わらず頑丈で、その結果「部落差別とはなにか、その実態はどうなっているか、どうすれば部落解放が達成されるのか」といった部落解放運動の基本問題について公然とした論議が起こりにくいという情況に変わりはないことは、残念ながら認めざるをえない。「部落差別意識は多少残っていて、差別事象が時として発生するとしても、解決すべく取り組まなければならぬほどの部落差別問題はない」とされかねない事態が迫っているのに、こんなことでいいのかと焦りにも似た感じを抱いています。 そうはいってもわたしがやっていることといえば、『通信』を発行し、友人たちと年に一回、部落問題全国交流会を開き、岐阜で狭山・甲山のビラをまき、招かれれば話をさせてもらうことぐらいで、歯ぎしりするだけがとりえのゴマメ人間にすぎない。ところが小森龍邦さん(部落解放同盟中央本部書記長)によると、世に、部落解放運動の主流にうるさくつきまとう「ブト」のごとき「同和はこわい考」一派なるものが存在するらしい(『部落解放』91/1 )。わたしにはとてもそんな力量はないし、第一、自分以外の何者をも代表しないことを前提に論議しようといっているのですから、徒党を組むなどということは問題外でしょう。 やはりこれまで通り、『通信』を介してのみなさんとの交感を大切にしつつ、わたしなりに思索と実践に励むほかないようです。今後どれくらい続けられるかわかりませんが、よろしくお付き合いくださいますように。
《 再録 》
照射しあう「私」と現代と中世文化
-横井 清著『光あるうちに』を読む- |
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藤 田 敬 一
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1.
なにをいまさらと嗤われることを承知でいうと、わたしはこの十余年らい、読書の愉悦に浸っている。阿部謹也、網野善彦、横井清のみなさんの一連の先駆的著作からはじまって、最近では網野・横井さんともども日本中世史学界の新しい動向を推進するその他の人びとの仕事、さらには中世文学をめぐるあれこれの魅力的な著作を、そこは素人の気安さ、行儀作法もあらばこそ、気ままにそして楽しく読みつづけさせてもらっているのである。なにがそんなに面白いのかとあらためて聞かれると困るのだけれど、ひとつの作品を手引きとしてつぎの作品へと渡り歩くうちに、歴史や人間に関する自らの硬直した考え方、イメージの枠組みがしだいにゆるみ、そこかしこの箝がはずれ、以前に比べていくぶんなりとも頭がやわらかく、心がしなやかになってきたように感じるのだからしかたがない。
きっかけは、横井さんの『中世民衆の生活文化』(東京大学出版会、1975)だったように思う。とくに「中世における卑賤観の展開とその条件」「中世の触穢思想-民衆思想からみた」「中世民衆史における『癩者』と『不具』の問題-下剋上の文化・再考」「河原者又四郎と赤-民衆史のなかの賤民」の四篇にいたく心を揺さぶられたことはいまも鮮明に記憶のなかにある。歴史と人間に対する横井さんのまなざしに、これまでわたしがなずんできたのとは異質のものが感得されたからにちがいない。 そしてもう一点、差別意識に関するつぎのような論述に出会ったからでもある。
部落解放運動や同和教育のなかで語られる差別意識論、つまり「偏見は実態の反映である」との反映論、「支配階級の分裂政策によって差別意識が人民に注入される」との政策・注入論、「社会意識としての差別観念を、人は空気をすうように受けいれる」との空気論に対して疑問をいだき、差別意識の問題はもっと丁寧に多面的に、深く掘り下げて考えなければダメだと思いはじめていた頃で、この一節にわたしはずいぶんと勇気づけられるとともに、被支配者・被抑圧者たるべき民衆・人民・庶民をも取り込む“正体不明”の卑賤観、差別意識への尽きせぬ関心をかきたてられたのだった。 中世民衆の生活文化から、中世人の心理、感覚、意識、心性の歴史へと研究の対象を広げつつも、初発における問題意識にこだわり、既成の正統公式的な起源論、意識論にあらがい、賤民・河原者・非人・穢多・癩者・不具・盲人・狂・病といった、そこいらの研究者なら尻ごみしそうなテーマを執拗に追いかけ、部落差別の湧出源、人間と差別のかかわりをまさぐりつづける横井さんのその後の著作(『下剋上の文化』東京大学出版会 1980、『中世を生きた人びと』ミネルヴァ書房 1981、『現代に生きる中世』西田書店 1981、『的と胞衣-中世人の生と死』平凡社 1988など)、および本書『光あるうちに-中世文化と部落問題を追って』に収録された諸作品もまた、わたしにとって差別意識、人間存在の根源を考えるうえで格好の話し相手、相談相手になってきた。
2.
しかし実をいえば、なにが横井さんをこうした“しんどい仕事”にかりたてるのか、長いあいだわからなかったのである。『シンポジゥム差別の精神史序説』(三省堂、1977)における発言(本書356~357頁に一部引用)や「部落史研究と『私』」「京都幻像-ある小宇宙」「心理と思想の狭間から」(いずれも本書所収)などによって、ようやくおぼろげながら納得できたのだった。そのあたりの事情については簡単に要約できそうにないのだが、あえていえば「少年時における被差別部落の少年達との不意の『接触』を通じて、確実な原体験としていち早く定着していた」(本書354頁)部落認識の原点としての「部落はこわい」意識・心理を、思想や理論、政治的判断なるものによって押さえ込んだり、あるいは被差別部落民や運動、組織に身と心をすりよせて同一化することで葛藤から逃れようとは絶対せずに、あくまで個としての「私」のありように固執しつづけるがゆえの営みであったように、わたしにはみえる。
そしてそれは、当然のことながら個的な問題にとどめられるはずもなく、今日ただいまの「私」、現代から中世文化を照射することにつながりもする。
一読明瞭、「部落はこわい」意識の追究は、中世における畏敬、畏怖、賤視の問題に直結すると同時に、それはまた、たとえば「清浄と汚穢」(『下剋上の文化』所収)、「中世の『遊女』を考える」(『現代に生きる中世』所収)、「殺生の愉悦」「説話と差別」「尿乞う人びとと河原者のこと」「触穢思想と中世」(いずれも『的と胞衣』所収)、「中世人と『やまい』」「賤視と救済」「民衆文化の開化」(いずれも本書所収)などの作品にみられるごとく現代人の常識をも撃たずにはおかない。 だが、横井さんが“自らの内なる呟き”に素直に耳を傾けるだけでなく、被差別者からの問い糾しの声とも向き合って、その営みをつづけてきたことを忘れてはならないと思う。
これらの言葉を投げつけられたことのない人、投げつけられても平然としておれた人は幸せである。とはいうものの変な譬えかもしれないが、横井さんも引用しているように「幸せはまどろみであり、不幸はめざめ」ともいえるのだ(『中世を生きた人びと』70頁。島崎敏樹『生きるとは何か』岩波新書より)。少なくともわたしにとって、このような言葉が吐かれる関係は間違いなく「不幸」だったし、それだからこそ「めざめ」への契機ともなったといえる。しかし、すでに横井さんは1979年、『同和はこわい考』より8年前、つぎのように述べていた。
横井さんのこの指摘を、わたしなりに咀嚼し、己れの体験と照合し、問題の所在を自らの言葉で表現するまでに8年かかったということである、といえば聞こえはいいけれど、故師岡笑子さんなどにさんざっぱら愚痴を聞いてもらったり、前川む一さんと往復書簡を交わしたりして、やっとのことで差別・被差別関係総体を対象化・相対化できそうになったわたしとちがい、孤立無援のなか自力で思索しつづけてきた横井さんの強靭にして柔軟な精神には、いまさらながら圧倒される。
3.
本書には、前著『的と胞衣』につづいて、日本中世史学界の新しい動向を示す諸作品も収録されているのだが、いまは省略に従うほかはない。わたしの手におえないということもあるが、主要には横井さんが本書を最後に「現実の部落問題についてはむろんのこと部落史そのものについても、今後多数の人前で自らの音声をつうじて語ることも敢えてしなければ、読者に活字をとおして自分の意見・体験を告げることも」しないと述べている(本書2頁)ことの意味を、残された紙数のなかで考えてみたいからである。
もっとも、わたしには人の心情をあれこれと詮索する趣味もなければ、暇もない。そんなことは噂好きの人がやればいい。だが、事柄が、横井清という、中世文化と部落差別問題、つまり歴史と現代が交叉する地平に「私」を置き、この三者の緊張にみちたやりとりのなかで真剣に生きてきた一人の歴史家の、部落史研究と部落解放運動に対する「惜別の辞」のように思われる以上、聞き捨てになどできるわけがない。 ところで部落史研究の現状について、わたしごときが喋喋すべきでないことは重重わかっている。しかし、啓蒙・啓発、教育・教化の場ではまことに単純きわまりない近世政治起源論、政策・注入論があいもかわらず幅をきかせ、人びとをウンザリさせているという事実の責任の一端は、旧来の部落史研究も負わねばならぬということぐらいわせてほしい。 それは横井さんが、冒頭に引用した『中世民衆の生活文化』の一節にはじまって、「中世賤民の生活」(『下剋上の文化』所収)、「『賤民』と『隷属民』」「映画『音次郎の庭』を見て」(いずれも『現代に生きる中世』所収)および本書収録の諸作品(「部落史研究の到達点と課題」「いちばん小さな“中世部落史”」「部落史研究と『私』」)、そして『部落解放史-熱と光を』上巻(解放出版社、1989)所収の作品にいたるまで、幾度となく問題提起しつづけてきたことと通底している。 わたしのみるところ、近世政治起源論が政策・注入論と一体となって部落差別の根本原因を政治、したがって行政に求める主張を支え、一学説の範囲をはるかに超えて部落解放論の一翼を担ってきたことは否定できない。 だが被差別部落の生活実態が大きな変貌をとげ、啓蒙・啓発、教育・教化が広範に推進され、反差別の共同闘争がますます拡大しているなどと声高に主張されているにもかかわらず、部落差別意識が根強く残っているのはなぜなのか、そしてその克服の道はどこにあるのかとの問いに、近世政治起源論、政策・注入論では応えられるはずもない。そうこうするうちに同和対策事業をめぐる不祥事が頻発し、部落解放運動への信頼、信用は確実に低下した。あまつさえ地対協・地対室の三文書に示されるような、因習的な差別意識は時の経過とともに薄らぐとの自然解消論、民間運動団体の行き過ぎた言動が原因で新たな差別意識が生まれているとの部落責任論、したがって部落差別の解決のためには民間運動団体や被差別部落民が国民の尊敬を得るように努力することが肝要との部落更生論が公然と主張されるなど、部落解放運動の存在根拠そのものが問われる事態が到来してしまったのである。旧来の部落史研究が、かかる事態を将来せしめたというつもりはないが、少なくとも責任の一端はまぬがれそうにない。 横井さんの述懐(本書「はしがき」)をわたし流に敷衍していえば、差別意識の湧出源に切り込まず、近世政治起源論、政策・注入論という「堅忍不抜の枠組」を護りかつまたそれに護られ、差別意識と宗教・職業・異種観との関係を究明しない部落史研究などは、行政闘争、同和対策事業促進の理論的根拠としていかに信奉されようと、豊饒な成果を生んでいる中世史学界の新しい動向とは無関係に「狭い穴蔵の中に低迷」しつづけるであろうことは、贅言を要しない。
1980年にこう書きつけていた横井さんは、いまあらためて「自分の心の中に、事、志と違うという惧れの生じている以上、何を記しえ、何を語りうるであろうか」と述べる(本書334頁)。抑制のきいた言い回しになっているとはいえ、その矛先が部落史研究にだけ向けられていないことはあまりにも明白だろう。
4.
横井さんは、今後「人間とは、何か」を見据えながら、本来の研究領域である中世文化・民衆文化の世界に深入りしたいという。部落史研究と部落解放運動の現実が、「私」と現代と中世文化が照射し合う場に生きてきた一歴史家にいかなる思いを強いてきたかは想像にかたくない。
横井さんの心情を忖度しようとして引用するのではない。部落差別問題が、つまりは部落解放運動が光明を減じているとの思いは、わたしのそれでもあるからだ。 本書を手にしてからというもの、「光あるうちに」の一言が、わたしのなかでこだましつづけている。光とはなにか。わたしについていえば、それは水平社創立宣言のいう光、部落解放運動の光にほかならない。失望の念を禁じえぬままに、かすかに灯る光明をたよりに、「今日でも遅くはない!」(253頁)と自らを励ましているのだけれど、前途は杳として定かでないことおびただしい。 それにしても、五百年前、京都に生きていた一人の山水河原者、又四郎の言で本書が閉じられているのはまことに印象深い。
人間としての証を求める心根が込められた又四郎のこの言は、「すべての『被差別部落民』、並びに、すべての『一般』の両頬を打ち続けてやまぬ」とされる(本書335頁)。この結びは、人間と差別のかかわりを考える人びとのみならず、差別・被差別関係総体への重い問いかけともなっている。この問いかけを無視・軽視するのは自由である。しかし、その先が行き止まりであることはいうまでもない。 人間の解放を語るには、人間存在の根源に対する深い洞察が不可欠だ。その意味では、これまでの部落解放論はあまりにも人間をのっぺらぼうに描きすぎた。部落解放の理論と思想、運動と組織の人間的基礎が新たな視点で議論される必要があり、その際、本書における横井さんの提言は避けて通れないはずである。
コメント.
京都部落史研究所所報『こぺる』(No.158,91/2)に寄稿したもの。いくらか語句を訂正しました。『こぺる』の読者には重複しますが、悪しからず。
《 あとがき 》
★ごぶさたしました。お元気ですか
★リラや山吹から卯の花へと庭の主役がかわり、まもなく富有柿の白い花が目を楽しませてくれるはず。岐阜はいま新緑の季節、気分がよろしい ★全国交流会が近づいてきました。ぜひお出かけください。開催要項など詳しいことは次号で ★3月17日から5月1日まで、大阪(2)、京都、三重、岐阜、愛知(2)、岡山、東京(2) 、福岡、富山(10)、神奈川の22人の方から計18万6,688円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎) |