同和はこわい考通信 No.44 1991.3.4. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
被差別部落大衆の「内面的な弱さ」をどう考えるか
 -第7回部落問題全国交流会第4分科会「わたしの解放運動」の報告に代えて-
住 田 一 郎
1.
 当日、私が用意したレジメは時間の関係でおおまかなものに終り、レジメの内容は討論のなかで深めてもらうこととし、ほとんど割愛してしまった。参加者は神奈川・三重・京都・大阪・兵庫・岡山と各地にわたっており、分科会の進行も、できるだけ各地の状況・課題をふまえた参加者一人一人の問題意識が出されることに重点をおいた。その結果、私がレジメで提起した事柄については直接論議されることは少なかった。しかし、

この間、解放同盟による行政闘争(糾弾会も含めて)を受けてきたが、なぜ部落差別になるのか分からず、聞くこともできない状況が続いている。
各種の同和対策事業の中には、吏員である私たちが理解できず、納得できないものも多い。
純農村部落においても同盟に結集している農民たちが、他地域の農民の多くが農業機械を新規に購入し多額のローンに苦しんでいるのを見て、「何を彼らはあくせくしているんや。わたしらは役所と交渉すればタダで機械が届くのに」と鼻で笑っている状況が、残念ながらある。

等々の話や、各地の解放運動の現場で、近年急速に同和対策事業実施にまつわる歪み・特権化意識・融和主義化が進行しているのではないかとの意見もあった。
 こうした現状にみられる矛盾は、「オールロマンス」以来、行政闘争に重点をおいてきた部落解放同盟による運動の帰結、つまり大衆とは、具体的な要求を実現し、その成果を提示し続けないと動かないものだ(物取り主義)と、かたくなまでに捉らえてきた運動指導者にみられる《大衆蔑視》の帰結なのだろうか。それはむしろ、20数年におよぶ特別措置法にもとづく同和対策事業の中で、解放運動=対策事業という図式が、いつのまにか部落大衆自身の意識の中に深く定着してしまったことの現われではないのか。
 いずれにしても、私がこの分科会で問題提起したかったことは、討論の中で出された前述の意見と大いにかかわっている。被差別部落外の人々との連帯行動の必要性が最近とみに強調されているにもかかわらず、現実には思うように展開していない要因はなにか、ということである。とりわけ部落に居住し、日々運動に参加している者としての立場から捉えた被差別部落大衆内部に見られる問題の一端(主観的な把握は免れないが)であった。当然のこととして連帯行動には、もう一方の当事者である部落外の人々が抱えている課題も大きいに違いないが、ここでは私の問題意識のみを指摘することで報告に代えさせていただく。

2.
解放同盟の指導の下での住民の努力にもかかわらず、産業、職業の不安定によって貧困をよぎなくされ、それに伴う教育文化の低位性が、複雑な人間関係、合理性と社会性に乏しい人間像を形づくっている。

しかし、部落差別の結果、日々生起する諸問題に対し住民の中には、それが部落差別であることを知らず、あるいは意識的に、部落差別であることを否定しようとす層があり、今日なお厳として残る差別の実態を認めようとしない。

[私はこの指摘を、たんなる「寝た子を起こすな」という人々を指しているとは捉えていない。もっと深く部落差別であることを見抜けぬまま、その事実に負い目を感じたり、また反対に「あぐら」をかく被差別部落大衆の存在も視野にいれていると考える。──住田注記]

この引用は、1968年の大阪・住吉同和教育協議会発足「趣意書」からのものである。20数年も以前にすでに指摘されていた永年の部落差別による被差別部落大衆自身の生活に色濃く残された「内面的な弱さ」の克服を私たちは以後の運動の中でどのように具体化してきたのかが問われている。残念ながらここに示された「内面的な弱さ」を部落差別の実態として正面にすえるという点では、69年7月にスタートし、以後20数年に及ぶ対策事業をもってしても、やっと今日とば口に達した状況ではなかろうか。この間の対策事業の有効性を決して否定しているのではない。対策事業は実態的差別のハード面の改善には有効性を発揮してきたが、「内面的な弱さ」というソフト面の克服に対してはあくまでもその条件を整えるにすぎない限界性を持っているのである。「内面的な弱さ」の克服は、対策事業の中心的課題ではない。それは部落解放運動に結集した部落大衆自身の自己変革をも促す重要な課題なのである。もちろん、対策事業と部落解放運動の課題が対立するのではなく、ある意味では不可分な関係にあるのだが、それぞれの独自な役割をあいまいにするわけにはいかない。
 とくに、先に下線を引いた箇所にいう「実態」は、ハード面での変化・改善と違い表面的には捉えがたいだけに、ややもすれば部落大衆にとって素通りされやすい事実である。ましてや出身者以外の人々にとっては、「内面的な弱さ」は部落差別の否定的な結果なのだから、その責任を部落大衆に押しつけることはできず、ストレートに指摘できないとして、気づいていてもオープンには指摘しにくい課題でもあったのではないか。出身者でない人々は、自主規制しながら「部落解放運動に連帯する」「部落差別の現実(実態)に学ぶ」をスローガンとして掲げ、部落大衆を一方的に「学ぶ対象」としてのみ客体化し続けてもきたのである。ただ、この出身者以外の人々の配慮が部落大衆にとって決してプラスにはなってこなかった現実は、あまりにも多く見られる。この善意の配慮が結果的に部落大衆の「自らを見つめる」、つまり自己変革の芽を摘んでしまってきたのではなかったか。
 その結果、部落大衆の多くは、このような解放運動の中で、出身者以外の人々との連帯のありようを、部落大衆への「限りない歩み寄り(寄り添い)」としてしか理解できず、対等・平等にともに成長し、ともに歩む連帯行動をイメージできなかった。自らと異なった生活を背負った出身者以外の人々から学ぶべき内容は数多くあり、その機会もなかったわけではないにもかかわらず、これまでの部落解放運動は「ともに育ち学びあう」視点を軽視してきたため、部落大衆の多くは、部落内での「狭い生活範囲の体験」のみに安住し、それからの脱皮を自らの課題とすることすらしてこなかった。

3.
 次に、被差別部落大衆自身の「内面的な弱さ」、「低位性」とはいったい何か、それはどこから生まれてきているのかについて、私なりの考えを述べようと思う。
 これまで部落問題として被差別部落の「低位性」が論議される場合、ほとんど例外なくハード面の生活実態(住宅環境・仕事・教育)についてであった。ハード面の生活実態への対応が同和対策事業の中心的課題とされたことは、当時の劣悪な部落の実態を考えるならむしろ当然ともいえる。ところが、同和対策事業の課題がこの生活実態に限られ、それにしたがって部落差別の「低位性」の指摘もこのハード面のみに限定されるなら、部落問題としてはあまりにも一面的ではないか。
 永年にわたる部落差別による弊害(低位性)が住宅環境・仕事・教育を含めた部落大衆の生活全般に現われてきたのなら、その弊害が部落大衆の生き方=生活スタイル・生活意識・子育てに反映しないはずがあろうか。反映していると捉えるほうが正しいのではないか。
 つい30年前までの部落の外観的な実態は映画『人間みな兄弟』で余すところなく描かれている。しかし、この映画の主題ではないので当然なのだが、内部にうごめいている部落大衆の生活のありさま、具体的には支配の構造は描けていない。たとえば、あのあまりにも有名なワンショット、幼い兄弟が「箸とお椀」を持って食事によばれにいく場面をどのように捉えるか。一方には、部落外の人々の多くは、この場面を部落の「優しさ」として捉え、他方は、この場面をどこにでもある現象とは見ず、ただ血縁関係の間での出来事にすぎぬと冷静に受けとめている部落住民は少なくない。
 後者の現象を、住吉では「みがち」(身びいきという意味に近い)という。あるお婆さんが保育所に孫か身内の子どもを、お菓子をたずさえて迎えに行く。迎えの時間はいっときになり、孫も身内の子どもも、他の子どもたちと遊んでいる。お婆さんはお菓子をみんなの前で孫と身内の子、それに町の有力者(昔は高利貸しなどだったが、今は解放運動の指導者も含まれる)の子どもにのみ分け与える。これは部落内では決して特異な現象ではない。だから、このような場面に遭遇した身内の少ない、有力者でもない家に他地域から嫁いできた母親たちには「部落は優しい」とは思えず、言い知れぬ悲哀と冷たさを感じてしまう。映画の場面に「優しさ」を感ずる見方が誤っているとは、私はいわないが、彼ら自身の主観的な見方、「思い入れ」から、他方の「冷静な判断」まで拒絶してはならないのではないか。
 解放運動が起こるまでは、部落は「強者である高利貸し」が「弱者である多くの貧困家庭」からお金を吸い上げる高利貸し天国であった。吸い上げるという表現は当時の部落内の力関係をリアルに表わしてはいない。ありがたく貸してもらっているという卑屈な表現のほうがぴったりな状況であった。月の稼ぎがなくなる20日前後に借金して、月末に一割の利子をつけて返す。形式上は月はじめに借りて月末に返すと月一割の利子なのだが、ほとんどの人は20日前後に借りるので実質は10日で一割の利子となる。「十日一」といわれる所以である。また「入れ」という制度は、月のはじめに五千円借りて、毎日百円を二ヵ月60日間返し続けると、六千円返すことになる。利子は二ヵ月で二割の高率となる。その他にも「米や酒を回す」金融制度、伝統的な頼母子講の変形したもの(結局は弱者が高率の利子負担となる形態)があり、弱者はこれらの制度を複数利用し、また利用せざるをえず、稼いでも稼いでも暮らしが良くならないのである。同時に、この高利貸しは何名かの「手元」が「入れ」の集金係として小遣い銭程度で雇われており、高利貸しが前面に出ることはほとんどない。しかし、高利貸しを中心としたタテ支配は「手元」をも巧みに使うことによって実現していた。初期の解放運動で獲得した生業資金の導入をめぐって町が二つに分裂するのもこの状況が原因だった。
 こうした生活矛盾をもろに受けるのは子どもたちで、歳をごまかして働きに出たり、幼い弟妹の面倒や家事をまかされたために不就学・長期欠席を余儀なくされ、義務教育終了の証書すらもらえなかったのである。その上、高利貸し天国は高利貸しのボスに逆らうこと、意見を述べること、心証を害することを、弱者に躊躇させる。この配慮は、彼らの子どもにも「ボスの子ども」との対等な関係をさえぎってしまう。部落の中に、「一定の主義・主張を持たない者が勢力の強い者にしたがって、自分の安全をはかろうとする考え方」、事大主義的な姿勢が強いのもこれと関係があるのではなかろうか。
 これまでの解放運動は、この地縁・血縁との対決で対策事業という即時的な「利益」を部落大衆の前面に出すことによって「勝ってきた」が、残念ながら「理屈=解放運動の思想」によって「勝ってきた」とはいいがたい。
 以上、部落大衆の「内面的な弱さ」=「低位性」の要因として高利貸し天国を維持し続けてきた部落の生活実態を見てきたが、これはあくまでも要因の一つであり、「低位性」解明の糸口であるにすぎない。さらに、私は「内面的な弱さ」を明らかにする上で、部落大衆が部落差別によって余儀なくされた「閉鎖性」による、部落外の人々との自由な「コミュニケーションの欠如」が及ぼしてきた「人格形成期における<弊害>」の解明が必要であると思っている。

4.
 最後に「内面的な弱さ」の歴史的経過をふまえつつ、今日の部落解放運動が「内面的な弱さ」を克服するのではなく、むしろ助長しているのでないかと思わざるをえない状況についてふれてみたい。
 最近よく聞かれ強調される言葉に「部落の優しさ」がある。各種の同和教育研究会の報告レジメの一つや二つには必ずこの言葉が含まれている。多分、使っている人々は(教師が多い)善意に違いない。だが、部落民である私からみても特別に「優しい」とも思えず、世間一般でも当たり前のことが何故「部落民の優しさ」として称賛されるのか。うがった見方をすれば、彼らは部落差別を受けてきた悲惨な部落民がほんとうは「優しい」はずがない、にもかかわらず実際に家庭訪問や識字学級で接してみると「優しかった」、この事実に驚き、「部落民の優しさ」を必要以上に強調しているのではないかと思う。
 数年前に、私は地域の識字学級生の一泊合宿に参加する機会があった。その時、識字学級の講師である一人の教師が

私は識字に参加して受講生の優しさにうたれました。ほんとうに優しく、教師の私(“差別者の私”とよくいわなかったものだ──住田注記)を受け入れてくれるんです。こんな経験は10数年の教師生活でもはじめてのものでした。

と、真顔で発言した。この発言に正直、私はムカッときた。と同時に、この教師はほんとうは部落民のわれわれをオチョクッテいるのではないかと思った。受講生からの「部落差別の生い立ちや部落の生活」をこの教師が親身に興味深く聞き、読み書きの指導をする関係(それも相互に一方通行の)の中だけで、受講生がこの先生に「優しく」対応しない方がむしろおかしいのではないか。
 このレベルでの「優しさ」論議なら目くじらをたてることもない。だが実際には、「部落民の優しさ」は方々で一人歩きしているのである。識字受講生と講師である教師との関係がこのレベルのまま停滞し続けていいわけがない。お互いの価値観をさらけだし、時にぶつかりあう中で、お互いの価値を尊重し合い、それぞれの「優しさ」を確認し合う、開かれた関係が求められているのである。この「開かれた関係」が成り立っていない段階での「部落民の優しさ」の強調は、部落大衆の「内面的な弱さ」の克服には決してプラスに作用することはない。
 つぎに、被差別部落の住民が講師に招かれた際に決まって出される質問に

部落民の経済的に悲惨な状況は講師の話で理解できたが、それなら出身者でない私たちの貧乏とはどう違うのか。

というものがある。多くの講師は

“わてらの場合は、部落差別つきでんがな。なんなら一度立場を代わりまひょか”と答えたら、質問者は“ぐうの音”もでん。

などと手柄顔に話すのである。ほんとうに質問者はその答えに「ぐうの音もでなかった」のかどうか。少なくともその講師は質問者に「部落差別がどのような貧困をもたらし、結果的に一般的な貧困とも違っている」点について、誠実に自分の言葉で答えるべぎあった(「貧困」に優劣をつけるナンセンスは今問わないとしても)。ここでも部落民である講師たちは、出身者以外の人々の生活から学ぶ機会があったにもかかわらず、「ためにする」質問として切り捨てているのである。
 これら二つのエピソードは、部落大衆の「立場の絶対化」(部落出身者の部落出身者以外の人々への優位性の確認)を部落・部落外の双方から補強していることを示している。この状況のまま、残念ながら今日の部落解放運動は停滞しているのではないか。もし私たち部落民がこの状況に安住し続けるなら、私たちは自らの「内面的な弱さ」=「低位性」に気づくこともなく、向き合うこともなく、自己変革の課題も見い出だせないことになるだろう。
 部落大衆の「内面的な弱さ」=「低位性」をめぐる客観的な事実の指摘は、差別されてきた部落大衆を否定し、他の人々に差別する根拠を与え、それを肯定するものではないかと、解放運動の指導者やその同伴者たち(学者、教師など)から激しい非難をこれまでに何度も、私は受けてきた。しかし、花崎皋平は『解放の哲学をめざして』(有斐閣新書)の中でこういっている。

差別解消のたたかいを待ちうける落とし穴に落ちないことです。その落とし穴とは、差別する側の価値観を被差別の側がよしとしたうえで、その価値観の物差しでの平等の分け前を要求するありかたです。お前たちがビフテキを食っているのなら、おれたちにもビフテキを食わせろ、といったたぐいの差別解消論がそれです。こうした落とし穴にひっかかるのは、解放の主体が、自分たちの価値観をはっきり自覚したかたちでつかんで、支配する側の価値観に対置していないときです。

私はこの指摘に促される。この指摘に含まれているような困難な状況が、今日の部落解放運動の前に厳然と存在することを声を大にして言い続けねばと思っている。そして部落差別とはなにか、差別はどのような形で部落内外の人々の日常生活に影を落とし具体的にあらわれるのか、を冷静に究めるための重要な一歩として、部落大衆の「内面的な弱さ」を見続けることは避けて通れないのだと、私は考えている。

《 読書 》
横井清著『光あるうちに-中世文化と部落問題を追って』(阿吽社)を読んで
津 田 ヒトミ
 藤田さんから感想を書いてほしいと依頼されて引き受けたものの、わたし自身の時間的かつ精神的余裕のなさと、なにより読みとる力量のなさから、たいへん乱雑な読み方しかできていないことを冒頭にお断りしておきたい。
 まずⅠ部で「中世文化の探求」として「やまい」「賤視と救済」等々について中世期の文献や史料を示しながら考察されている。少し歴史の勉強をしようと思い立ち、大学の通信教育の史学科に籍を置きながら、どうも古文書や史料が出てくると、ついそこを端折って書き下し文や解釈にいってしまう。そういう意味で本書を全く丁寧に読めていないことも、この際吐露しておく。
 さて、そもそもわたしが歴史をきちんと勉強しようなどと思い立ったのは、部落史研究の主流である近世政治起源説をすんなりと受け入れられなかったことによる。たいへん平たい言い方で恐縮だが、織豊政権(身分統制令としては豊臣時代)の民衆支配としての身分政策、つまり政治起源説に対するわたしの素朴な疑問は、政治的に穢多身分におとしめられたとされる、ある一定の集団は何故にそれに選ばれたのかということであった。
 その疑問にまさに答えんとして登場してきたのが、宗教起源説である。織田政権末期に頻発する一揆を担った抵抗の民、特に一向宗門徒の弾圧解体をとおして後にそれらの人たちが穢多身分にされたというのであった。だが、懐疑深いわたしはそれでも、なるほどそうだったのかとはいかないのだ。ある一定の人たちが何故に一向宗であったのかと考えてしまうからである。いくつかの選択肢の中から一向宗を選んだのではなく、彼らは一向宗しか信仰できなかった。確かに親鸞の人間平等の教えを信仰したのだというかもしれない。だが、彼らが社会的に低位なればこそ、平等でなかったからこそ、親鸞の教えに惹かれたのではないか。彼らは真言宗や曹洞宗を選ぶことはできなかったのだ。
 さらに、一向一揆における抵抗の民が後に穢多身分とされたとしても、それがすべての被差別部落にあてはまるものでなく、また一歩ゆずって一向一揆における抵抗の民が「かわた」(穢多)身分に固定されるにともない、何故に「屠」にまつわる役負担をさせられたのかという疑問が頭をもたげるのだ。
 そうなのだ、わたしのこだわりは「屠」なのである。そのような役を押しつけられた民というより、賤視と一体化した「屠」という役そのものに焦点がいくのである。わたしの生まれた村の起源は典型的な役人村(慶長年間に城下町の役人村としてつくられた)という意味では近世政治起源説で説明される。が、役人村に組み込まれていった人たちとは一体どんな人たちであったのかという疑問は、それ以前に「屠」に関連していたことに容易に結びつく。「皮革業などの『賤業』とされた職業に従事していた人びとはすべて近世部落に組み入れられたはずであるが、実際にはそうではなかった」し、「また、当時、必ずしも『賤業』視されていなかったと考えられる手工業や農業に従事していた人々の一部も、近世部落に編入された場合も推測される」(部落解放研究所編『部落解放史』上巻、161 頁)とか、あるいは「中世から一貫して賤視されている『非人』集団を統制・管理する集団として『皮多』『皮屋』が現れてくる。元々職人的な性格を持っていたそれらが非人集団と関わることによって『汚染』され、差別の刻印を受けるようになってくる」(『部落解放史ふくおか』56号、16頁)と説明する人もいるが、中世から一貫して賤視されている集団はすでにあったわけだから、そこのところでどうしてもわたしの腑に落ちてこないのだ。
 そして、それ故に、横井さんの

「(近世の)権力側の再編強化」の“対象”たる集団とは、既に既に、私たちのいう「被差別部落」なのではあるまいか。(本書175 頁)

という言葉がわたしのなかにすとんと落ちてくるのである。
 つぎにⅡ部「部落史・部落差別への照射」から共感した部分を抜きだし、また若干感じたことを記したいと思う。
 横井さんはこう述べている。

地域として「中世」末期にまで遡る被差別部落の実例は、特に近畿地方においてはけっして希少ではないし、(略)逆に明治以降に成立したことの明らかな部落も二、三にとどまらないと仄聞そくぶんする。現実には、おそらく現代の被差別部落の多くが「近世」のしかるべき段階に、しかるべき条件によって出発した…とみる見方は妥当としか言いようがないのであろうが、相当なスケールの差=時代の幅の中で被差別部落というものは歴史をつうじて産み出され、育まれてきたわけであって、部落差別ということと封建制との密接不可分な関係を強調するのであれば、いっそのことわが国における封建社会の時代全体を一望のもとにする視点に立つべきであろう。(176頁)

また、11世紀初めの公家の日記に、死んだ牛の解体作業に従事している「河原人」が登場しているが、彼ら河原者や坂者、散所者たちの「『仕事』と、そこに込められた『意味付け』は、明らかに近世へと受け継がれたものであった」とも言い切っている(213頁)。
 部落史が近世政治起源説にとどまっているべきではないと、わたしがどうしても思うのは、ケガレ観が人の意識として明らかに中世から連続しているからである。部落の解放、または差別からの解放というものを展望するとき、歴史の中で経済構造を超えて脈々と受け継がれてきたこれらの意識(横井さんのいう「差別する心」の根)を見据えないというのなら、政治がつくったものは政治で解決しうる、政治で解決させるという短絡の中に甘んじていればよいだろう。
 しかし「屠」にまつわる「意味付け」にどこまでもこだわらないではいられないわたしもまた、そこにとどまってはおれないのだ。
 今、ここにきて横井さんは

あえて言っておこう。「部落差別とはなにゆえの差別であるか。それはまだ誰にもわかっていないのだ」と。すべては、再び、ここから始まる。(214頁)

という。そして以下、「差別する心」の根をさぐるために、横井さん自身の心の在りように深くおりていく。
 横井さんもまた、「結局自分たちの気持ちはあなたにはわからない」といわれた経験があり(219頁)、その意味で自らを「外」と規定する。「外」の横井さんが

「私」(運動とか政治的関係とかの事態の急転下で、大あわてで衣服を脱ぎ替えたり(略)する必要性も零であるとされる『私』-津田注記)はここに在るのであり、「私」の内に「差別心」は脈々と息づいて「私」を叱咤激励してくれているのである。(221頁)

というのなら、とりあえず「内」なるわたし自身にもまた「差別する心」が息づいているといわねばならない。
 そして「被差別体験」が勇気を持って語られるように、「差別体験」(「この世に生を享け、物心つき、幼児から少年少女へ、さらに青年期へと否応なく生い育ってきた過程で、自分の眼と心に映っていた被差別部落」に対する“自意識”)を語ることもまた、その心根を探るために必要なのだという。だから横井さんは、藤田さんが同じように自分自身の「差別する心の根」におりていき、「こわい」という意識を引きづり出していった『同和はこわい考』の「全体の論述内容については、ほとんどそのポイントの一々がこちらの腑に落ちてきた。不幸なまでによく分か」ると、共鳴するのだろう(253頁)。
 だが、横井さんをして「差別体験」を語る前置きとして「そこに体裁を整えたいし、そうせねば……と思いつづける限りでは、(略)(とても)文字に表わせたものではない」といわしめるとき、これまでそういうふうに「差別体験」を語らせなかった「内」の歪みをつくづく自覚せずにはおれない。
 たとえば横井さんの「差別体験」は、幼い頃、少年たちから金品を奪われたときの「あそこの地区の少年たちだと」の“直感”としてあり、また児童公園で三角ベースをやっていると、「一丁先の地区の子らが(迫ってきたとき)、ただひたすらにこわかったのである。仕方なく早々とフィールドをあけ渡して逃散した」という体験としてある。そしてそれが「差別だと言われようとて、『私』はこれを大切に扱いたいと考える」というのだ(225頁)。
 「内」なるわたしたちは、あまりにも早急に「それは差別だ」と指弾し、「そうでした」とか、あるいは「悪かった」と認めさせることで決着させていなかっただろうか。もっといえば、そのような“直感”や「こわい」という意識を差別だというとき、差別=悪という形で早々と結論づけてしまうのは、それらがあまりにも根深いことを知っているが故に、これが出てくると大変な怒りと落胆に見舞われ、とても手におえないという思いの中で、それ以上「こわい」意識にふれたくなかったのでないだろうか。
 横井さんや藤田さんは、そのことを知っており、重要性にも気づいているからこそ、“直感”の、あるいは「こわい」意識の根元を丁寧にゆっくりと探っていこうとしているのだともいえる。
 まさに人が死に追いやられる壮絶な差別を前にそんな悠長なことをとの声が聞こえてくる気がする。が、しかし、根本の問題は、それが差別だと、あるいは差別は悪いということを認めることではなく、お二人が言い続けてきた「差別とは何か」を探ることではないだろうかと、わたしも思うのだ。
 蛇足かもしれないが、敢えてつけ加えるならば、横井さんが立命館大学院生の頃部落史料収集の仕事で部落に足を入れてから

こんなにひどいとはうかつなことに知らなかった。(略)路地は概して行き止まりである。子らの遊び場所もない。やっと分かった。幼い頃、地区の子らと「遊び場」を争わねばならなかったことの意味、(略)この子らがいつかのように、他人の金品に狙いを定め,肉迫する日がくるとしても仕方なく思われた。(230頁)

というふうに、その認識を変えていくのであるが、やっとそのことが分かった後もやはりあの頃の“直感”にこだわり続けるのは、現在も容易に抜けない「差別する心の根」にまで執拗におりていこうとするからなのだ。それには気の遠くなるような、ゆっくりとした丁寧な考察が求められるだろう。
 わたしたちは、とても手におえない気がして、近代ブルジョア民主主義を基盤とした法体系の「差別は悪だ」との取り囲みによる安易な決着によりかかりたくもなる。しかし、それでは差別はなくならないし、それでは「内」の者にしても、「外」の者にしても、真に差別からの解放を求めることにはならないことは、最低限認識する必要がある。
 「内」も「外」も含めて「人間とは何か」を求める中にこそ、人間が人間として差別から解放される鍵が隠されている。やはりそこからはじめるほかはない。
 横井さんの言葉をあらためて書きとめておきたい。

すべては、再び、ここから始まる。
光あるうちに光の中を歩め。

☆コメント.
 横井さんの新著については、わたしも感想を書きました(「照射しあう『私』と現代と中世文化」、『こぺる』91年2月号.なお拙文7頁上段左2行目の「部落意識」は「差別意識」の誤りです)。一読していただければ幸甚。

《 紹介 》
網野善彦『日本論の視座-列島の社会と国家』(小学館,90/11 、2600円)
同   『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房、91/1、1100円)

☆コメント.
 前者は『日本民俗文化大系』(小学館)の1・6・7の各巻に収録された諸論文(「日本論の視座」「遍歴と定住の諸相」「中世の旅人たち」「中世の『芸能』の場とその特質」)の補筆・修正したものを中心に新稿を加えて編まれた論文集。中世史研究の新しい動向を推進する人びとの仕事も丁寧に紹介されていて重量感がある。後者は「ちくまプリマーブックス」の一冊で、文字、貨幣と商業・金融、畏怖と賤視、女性、天皇と「日本」の国号などの章構成が示すように、網野さんの考えがわかりやすくまとめられています。差別の問題が随所でふれられているのも特徴の一つ。若い人むけの入門書という枠を超えています。

《 あとがき 》
☆この間、いろいろ忙しくしていて、二月は発行をパスしました
☆43号の灘本論文中、3頁上から6行目「部落民にせよ」は「新平民にせよ」の誤りです。お詫びして訂正します。われながら校正べたにはあきれます
☆1月25日、島根県木次町に出かけ、翌26日は松江の「冤罪と部落差別を考える市民集会」で少し話をさせてもらいました。参加者は50人ほどでしたけれど、動員で参加するのではない人びとの熱意が伝わってくる、いい集まりでした。終りにピアノでバッハの曲が演奏されるなど型通りの集会でなかったのもよかった。夜は、米子の友人たちも加わって遅まきながらの新年会。友とおいしいお酒を酌み交わせれば、これはもういうことなし
☆1月から2月にかけて、岐阜県でわたしの話を聞いてやろうという集まりがいくつかありました。二人の友人が勤める小さな小学校ではお婆さんをふくめた60人近い一年生の保護者の方が熱心に耳を傾けてくださり、岐阜市早田では親しいみなさんが一所懸命に聞いてくださいました。そして黒野。寄せてもらうようになってから17年目、お母さん方の招きではじめて話をさせてもらったのです。やはり時間というのは大切ですね。焦らずに、そして思い上がらず一緒に考えつづける姿勢を失わぬこと、これが肝心なのだと痛感しました。2月5日は、関市で開かれた岐阜県主催の「同和問題研修会」。700人ほどの参加者があり、熱心にメモをとってくださる人もいて、恐縮するばかり。岐阜へ来て20年、やっとこの地の人びととつながってきたなあと、しみじみ感じてます
☆さて、というほどのことでもないのですが、左肘を痛めてしまいました。師岡佑行さんによると五十肩の前兆で、まもなく左肩、さらに右肘、右肩へと広がるとか。ほんまですかねぇー。ワープロの打ちすぎのせいではないかと思っているのですが
☆『こぺる』(91/2)掲載の拙文につき「げんきになれました。地道に、ねばりづよく、ささやかな光、大切にしていきたいと思います」とのお便りあり。わたしが励まされました
☆1月26日から2月24日まで島根(4)、岐阜(2)、鳥取、京都(3)の10人の方から計58,660円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
☆本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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