同和はこわい考通信 No.43 1991.1.31. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
『ちびくろサンボ』と差別語
 -第7回部落問題全国交流会第2分科会「差別とことば」の報告にかえて-
灘 本 昌 久
はじめに
 昨年行われた部落問題全国交流会の第2分科会「差別とことば」では、ここ2、3年来話題になってきた『ちびくろサンボ』問題がとりあげられた。会場には、差別と表現の問題に関心をもつ人たちが50人近くあつまり、熱心に論議をたたかわせた。とくに最近差別語が問題化する事件が多発しているマスコミ・出版業界からもかなりの参加があった。ここでは、本来交流会の分科会報告者として、当日の議論を紹介すべきであるが、勝手ながら、私が『ちびくろサンボ』問題をどう考えているかについて述べることで、報告に代えさせていただきたい。なお、径書房より出版された『「ちびくろサンボ」絶版を考える』もあわせて読んでいただければ幸である。

『ちびくろサンボ』絶版の経過と私のかかわり
 1988年11月から翌89年1月にかけて、日本国内各社から出版されていた絵本『ちびくろサンボ』がいっせいに絶版になった。『ちびくろサンボ』が黒人差別であるとする堺市の黒人差別をなくす会の抗議を受けてのことであった。同会によれば『ちびくろサンボ』の絵本は、黒人差別であるとして諸外国で絶版になっているというのだ。
 自分が小さい時から読み親しんできた物語が突然黒人差別の象徴として葬り去られたこと自体に大きなショックを受けるると同時に、「サンボ」「マンボ」「ジャンボ」という登場人物の名前そのものが差別であるとする論法に違和感が残った。
 それからしばらくして、知り合いのアメリカ人にサンボ問題につき意見をたずねたところ、サンボがアメリカで禁書扱いにされているとは聞いたことがないというのだ。私は、彼が白人なので、黒人の問題には無頓着なのだろうくらいに思っていると、数日後出版物のテーターベースを検索してサンボ関係の書籍のリストをパソコン通信で送ってきてくれた。さっそく全部注文し、4 週間ほどたつと小包がとどいた。絵本が3 冊、研究書が3 冊入っている。開いて驚いたのは、中のサンボの絵本に見たこともない挿絵がついていたことである。後にわかったことのだが、日本で売られている『ちびくろサンボ』は、文章や挿絵がオリジナルのものとは違っていたのだ。『「ちびくろサンボ」絶版を考える』の口絵にオリジナルに近いものが全ページカラーで掲載されているが、原作に描かれているサンボは「黒人に対するステレオタイプ」という批判とは裏腹に、ネグロイド系の「黒んぼ」とは違う顔つきのサンボ君が姿をみせている(だだ、お父さんのジャンボ、お母さんのマンボはかなり黒人風の顔ではある)。
 また研究書のうちの1冊『サンボ詳解』(原題:Little Black Sambo;A CloserLook)を読むと、さらに『ちびくろサンボ』批判への疑問が大きくなった。この『サンボ詳解』は、The Council on Interracial Books for Children (子どものための人種融和本普及協会とでも訳すべきか)という機関がサンボ批判を基調として作ったものだが、ここにはサンボの歴史と批判の要点が簡潔にまとめられている。
 内容のすべてを紹介する紙数がないが、これを読んで気づいたことのひとつは、『ちびくろサンボ』は1899年の出版当時から批判されていたわけではなく、イギリスからアメリカにわたり、主には1960年代から70年代にかけて、黒人の公民権運動の盛り上がりと連動するかたちで批判がたかまっていったこと、それまでは黒人関係者の間でも黒人の子どもが活躍する推薦図書として扱われていたことである。
 また、批判の内容も日本で語られているような、「サンボ」が黒人に対する差別語であり、絵がステレオタイプであるというだけでなく、もっと多くの点で攻撃されていることを知った。たとえば、サンボが裸足で歩いていることやサンボたちが地面に落ちた虎のバターを食べたことは、黒人を野蛮人扱いしている。サンボの服装の色が原色の組み合わせで、これは黒人に色彩感覚がないという偏見をあらわしている。又、169枚ものホットケーキを食べるシーンは、黒人を異常な食欲の持ち主とみなす黒人への偏見をあらわしている、などなど様々な批判が書きつらねてあったのだ。これらの批判を読んで、それまでモヤモヤしていた胸のつかえが、逆の意味ではあるが、すっきりとした。もともと差別的なモチーフを含んだ作品が批判される場合、通常は作品が世に出て比較的早い段階でなされるのが普通である。また、差別であるかないかについて被差別者の間で大きく意見が分かれることは少なく、批判の内容もそれほど分裂することはない。逆に、作品が出て年月を経て批判が開始され、しかも被差別者の中で賛否が分かれた場合は、差別であるとする認定の背後になんらかの別の問題が伏在していることが多い。

サンボは差別語か
 『同和はこわい考通信』の読者の多くの方は読んでくださっていると思うが、私は、京都部落史研究所月報『こぺる』137・139号(1989年5・7月号)に「差別語といかに向き合うか」を書いた。ちょうどサンボ問題に首を突っ込みつつあるのと時期を同じくしている。詳しくはそちらを読んでいただくとして、要点は、差別語というものは具体的な状況の中では疑いもなく存在するように感じるが、実際には歴史的な経過の中で差別的な意味を表現しやすい言葉としてあるだけで、言葉そのものに差別が宿っているわけではなく、新平民にせよ、特殊部落民にせよ、生まれながらにして差別語というわけではなく、部落民自身により積極的な意味を持つ自称としても用いられもしたし、差別的な意味でも用いられた。
 サンボという言葉がアメリカの具体的な状況の中で差別語として用いられていたとしても、サンボが黒人への蔑称として用いられているわけではない日本では、アメリカのサンボ論議をストレートに持ち込めないわけである。ところが『…・絶版を考える』の中で岩波書店の安江良介氏が語っておられるように、岩波書店が『ちびくろサンボ』を絶版にした理由は「サンボ」が黒人への蔑称であり、「マンボ、ジャンボ」もチンプンカンプンという意味では侮蔑的意味を含んでいるというものであった。つまり、差別語は禁止されるべきであり、問題はある言葉が差別語であるかないかを知っているか知らないかであるというわけだ。
 差別語を禁止するという発想は、サンボ問題を袋小路に追い込んだ。日本における日本人と黒人の関係を考える中でサンボ問題を位置づけるのではなく、「サンボ」という言葉の差別性が大前提となって、絵本『サンボ』の存在が日本での黒人差別の証明になってしまったのである。したがって問題がサンボをなくすのか、なくさないのかと仕立てられ、絶版に同意しない人には差別者の烙印が押されてしまった。

「サンボ」に関する新たな証言
 従来、『ちびくろサンボ』に登場する人物の名前の語源については諸説があった。そのうち比較的流布している説は、スペイン語の「zambo」で、猿あるいはO脚を意味する。しかし、これはあくまでアメリカ南部での差別的用語として「サンボ」があり、世界の国々の言葉を調べれば、比較的近いものに「zambo」があるというだけで、『ちびくろサンボ』の作者であるイギリス人のヘレン・バナーマンが何からとったのかは、本人が故人となったいまとなっては知るすべがない。
 ただ最近になって、サンボ、マンボ、ジャンボの語源につき、従来の説をくつがえす有力な説が現われた。すでに朝日新聞1 月13日付の読書欄で簡単に紹介されているが、新説を唱えたのは国連関係機関でアジア方面の仕事を長くされている今井爾郎氏である。今井氏は次のように証言する。インド北方のヒマラヤ・グルカ文化圏(狭義にはシェルパ語圏)に「サンボ」という名前が多くみられる。シェルパ人口の多いネパールの首都カトマンズで50メートル四方の囲みに「サンボ」さんが入らない確率は低いという。そして、ほかならぬ今井氏が中央アジア圏言語文化人類学を学んだときに教えを受けたチベット出身の高名な先生自身、サンボさんだった。そして、この「サンボ」という言葉は「優秀な」を意味する。ジャンボ、マンボもよくある名前で、それぞれ「大世界」「たくさんの」という意味であるという。サンボという名前が普通に使われていたことともに、プラスイメージの意味を含んでいたことが指摘されている。
 シェルパ族を含む「グルカ」と現地で総称される人々は、イギリスと近い関係にあった。彼らは武勇にひいで、「グルカ連隊」を組織して戦争の請負をすることもあった。第2次大戦では、イギリス側につき、マレー半島では日本軍と、東アフリカ戦線ではナチス・ドイツ軍と戦った。こうしたイギリスとの近い関係は日常生活にも及び、インドで暮らすある程度以上の職業についているイギリス人に、グルカ族の執事、乳母、使用人がいることは当時みなれた風景であった。したがって、バナーマン一家にとって、サンボ、ジャンボ、マンボが身近な存在であった可能性はかなり高いわけである。
 また『ちびくろサンボ』の登場人物の名前だけでなく、物語そのものからも「グルカ」との関連を想像させるという。中国の雲南省、西康省、広西省などにも虎の話が多いが、トランス・ヒマラヤ方面にはこうした虎の話が集中している。
 こうしてサンボ、マンボ、ジャンボという登場人物の名前の語源に関する問題は、振り出しにもどった。確かにアメリカの歴史の中で、ある時期、ある地域で「サンボ」という言葉が黒人に対する蔑称であったことが事実であったとしても、そのことが1899年にイギリスで出版された『ちびくろサンボ』の原作そのものの持つ差別性に由来するという議論は成り立たなくなったといっていいだろう。
 そもそも、ある言葉が差別であるかないかを語源を根拠に判定しようとすること自体が不毛であり、無理なことなのだ。ある言葉の語源に関する説は常に新たな説でくつがえる可能性がある。言葉の意味を語源から説明しようとすると常に差別であるかないかが揺れ動くことになる。そうすると、すでにある意味をこめて発せられた言葉の意味が永久に決まらないという背理に陥る。したがって、サンボという単語の差別性を語源で証明しようとすることは間違いであるし、逆にサンボという単語の語源にプラスの意味が発見できたからといって、『ちびくろサンボ』を差別から完全に切り離すことができたと考えるのは、従来のサンボという言葉から差別性を説明するやりかたの裏返しになってしまうだろう。

言葉と差別の関係は具体的状況の中で
 言葉と差別の関係は、具体的状況の中でしか考えることができない。理科の実験で材料を切りとってプレパラートの上で観察するようにはいかないのである。それを理解せずに単語を文脈から切り離してとってくると、サンボ問題と同じ有害無益な言葉狩りに類する現象がおこってくる。たとえばその例を「ぞうりかくし歌」をめぐる騒動にみることができる。
 『神戸新聞』1972年7月9日付は、「わらべうた『ぞうりかくし』/差別の歌だった/兵庫県教委が“自己批判”/保存楽譜から削る」という見出しの記事を掲げている。それによれば、県民文化運動の一環としてわらべ歌の収集、普及、楽譜作成を推進しようと、兵庫県教委が主催して「第1回兵庫のわらべ歌合唱祭」を展開中のところ、配布された楽譜集「ぞうりかくし歌」に差別の歌であるとクレームがつき、県教委は「自己批判」して回収したというものである。この「ぞうりかくし歌」は、子どもの遊び歌で「ぞうりかくしきゅうねんぼ/はしのしたのねずみが/ぞうりをくわえてチュッチュクチュ/チュッチュクまんじゅう誰が食た/誰もくわないわしが食た…」というふうな歌詞である。私自身も小さい頃歌って遊んだ記憶がある。この歌のどこが差別か不思議に思われるかもしれないが、クレームをつけた県教委同和教育指導室の役人のいうには、「きゅうねんぼ」は「長吏坊(ちょうりんぼう)」のなまったもので、「はしのしたのねずみ」は橋の下で生活する人たちをネズミにたとえ、橋の上からあざ笑ったものであるというのだ。この指摘に対し、県教委文化課長は「きめ細かな点検をしていなかった点を深く反省する」、また小西弥一郎解放同盟兵庫県連委員長は「悪いことを指摘されてすぐ処置をとった行政側の姿勢は一歩前進のように思う」とコメントしている。
 このわらべ歌が差別であるとの指摘は、『部落問題事典』(解放出版社)の「ぞうりかくし」の項でもふれられているように、同和教育の先覚者であった盛田嘉徳氏が部落問題調査研究会の『調査と研究』1964年6 月に発表した論文が最初のようである。この論文で、盛田氏は、「この小稿は、子供たちから草履かくしの歌を取り上げてしまうために書いたもでのは、けっしてない」と断りつつ、「チュウレンボ」(新聞ではキュウネンボ)は「チョウリンボウ」の転訛したものと推測している。そして「橋の下のネズミ」は、「こんな歌に、憶説的解釈を試みるなどということは、まことに愚かしいことではあるが、あえてその愚を試みる」として、「子供たちが、草履をかかえてこそこそとかくしあっている自分たちの姿から、貧しい雪駄なおしの姿を連想し、差別と圧迫に苦しめられて、世をはばかり、人を恐れるみじめな様を、ねずみに見たててあざけり歌った差別的な意味の歌である」との推測を述べている。これらが、根拠のない憶説に過ぎないことは大阪在住の民謡研究家右田伊左雄氏が『大阪の民謡』(1978年、柳原書店刊)の中で反論されているのでここでは省略するが、そもそも「チョウリンボウ」という部落への蔑称が使われるのは主に中部地方以東であり、近畿地方では使われないのであるから、生活の具体的な状況を考えれば、差別の歌であるとする意味はもとよりないのである。しかし、盛田説は本人の意図を離れて流布してしまい、その結果が上述の兵庫のわらべうた事件であったわけだ。まったく憶測が憶測を呼んでふくれあがっていく様は、滑稽でもあり、恐ろしいことでもある。
 しかし、さきほども述べたように、ある言葉が語源的に差別でないとしても、それが差別的に使われない保証にはならない。これは又聞きであるが、関東のある部落出身の婦人の証言によれば、小さいときに「ぞうりかくしチョウリンボウ」と歌ではやしたてられ、いじめられた経験があるという。これもまた真実だろう。
 つまりある言葉を「差別語なり!」として一般的に論じるわけにはいかないのだ。どういう人間関係の中で、どのような意味を含んで使われているのかをみきわめないと、差別を少しでもなくしていく契機になっていかない。むしろ、人の痛くない腹をさぐり、相互不信を助長してしまうような本末転倒の結果に終わるしかない。
 こうした言葉の表面的な詮索に足をすくわれて差別問題の取り扱いを誤っている例は枚挙のいとまがない。「ほー、ほー、ホタルこい。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ」という歌の「あっち」は部落のことで、この歌は差別であるなどという被害妄想的指摘も現に存在するのである。また、「馬鹿でもチョンでも」は朝鮮人差別、「片手落ち」は障害者差別であるという類いのクレームのつけかたは今ではめずらしくない風景になってしまったが、こうした差別の具体的なありようから離れて、使用されている単語を物差しにして差別を認定し批判するというやりかたは、現在の老舗しにせの「反差別運動」が一様に陥っている病理現象といわねばならない。

 ※なお、今井爾郎氏の説は径書房より『ちびくろサンボ速報』として『「ちびくろサンボ」絶版を考える』の最新の印刷分に挟み込まれている。すでに同書を購入された方で『速報』を読まれたい方は、返信用封筒を同封して径書房まで申し込まれたい。

《 各地からの便り 》
山本論文に寄せて
柴 田 則 愛(三重)
(前略)まず感心させられたことは、山本さんが一学生の感性を理論や思想、キャリアではなく、からだで聞き取ったことです。ぼくもそうしたいと思いつつも、いまだ思うにまかせず、同じところをぐるぐる回って眼を回わしています。
 山本さんが交流会でもおっしゃっておられた、「平等の関係をよしとするところと差別的な関係をよしとするところ」の意味は、本論文を読んでよく理解できました。たしかに、「差別という言葉によって、自分がなにを語ろうとしているのかを、模索し」続けなければならないと思います。ただ、その課題を、一人ひとりに課せられたものとして負わせることはできない気がします。他者になんらかの課題を課したとき、自分が「理念」となり、自らその「理念」に溺れ、同時に他者の人格を否定してしまうのではないでしょうか。
 ぼくはむしろ、人間関係のなかで自然と乗り越えられるもののような気がしています。ところがこの人間関係、なかなか面倒なものですから、できることといえば自分の狭い経験を笑いや感動のなかに取り入れ、それを他者に伝えることぐらいかもしれません。時間が速すぎて、貴重な経験が血肉化しないんですが、それをうまく経験しあえるような人間関係を作っていけば、「多義的となった差別という言葉の内部に安住」せずにすむはずです。
 差別を考えるには差別を考えないことだ、みたいなちょっと禅問答のようになってしまいました。ぼくも、「差別を不当とする根拠を自ら確かめつつ、言葉をつむいで」いくつもりです。

☆コメント.
41、42号の山本尚友さんの論稿について、柴田さん以外からもお便りをいただきました。たとえば京都のHさんのお手紙には「山本さんの論文、深く感銘を受けました。身の丈にあった思想を生きること、生地の良さを生かしてゆく心の態度を育成してゆくことの難しさを教えられ、きびしい忠告を受けたような感じがしました。こういう形で人間の解放を考えている人たちがおられることを知ったことは、とても嬉しいです」とあり、愛知のYさんは41号2頁に紹介されている、解放新聞社における出来事にショックを受け「なんとも虚をつかれた感じ」と述懐しておられます。もちろん「むずかしい」といった感想もあり、当方としては返答のしようがないのですけれど。

《 採録 》
部落解放を考える婦人の会第13回総会(12/1)
 (社会主義婦人会議『婦人通信』227号、1991.1.5)
 一二月一日、松本治一郎記念会館で部落解放を考える婦人の会第十三回総会が開かれました。/部落解放を考える婦人の会は、婦人民主クラブ、日本婦人会議、社会主義婦人会議、などの団体と個人で運営されています。/(中略)この総会直後、八鹿高校事件で、起訴されていた解放同盟員の有罪が確定しました。各地で差別事件があとをたたなし、より陰湿化しているとの感もありますが、狭山事件当時とくらべて状況は良くなっているとは決して思えない現実があります。政府・行政の開き直り的姿勢も目にあまるし、「同和はこわい考」問題、「長崎市長への手紙」問題、先頃のウォルフレン著「日本/権力構造の謎」をめぐる問題など、キチンととらえたちむかってゆかないといけないのではないかという危機意識に似たものを新たにした次第です。(川合伸江)

☆コメント.
“「同和はこわい考」問題”という表現が面白いので採録させてもらったのですが、この方の抱いておられる危機意識の中身はそれなりに伝わってきます。しかし、あんまり身内にだけ通じる問題意識、危機意識によりかかると、えてしてひとり合点に陥りやすいもの。状況を突き放してみるゆとりがあってもいいのではありますまいか。

《 あとがき 》
◇年末年始は、横井清さんの新著『光あるうちに-中世文化と部落問題を追って』(阿吽社)の紹介文(『こぺる』No.158,1991/2に掲載予定)を書いて過ごしました。トルストイ『光あるうちに光の中を歩め』(岩波文庫)、オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』(岩波文庫)を読んだりして脇道にそれ、一気呵成というわけにはゆかなかったのですが、横井さんと二人で話し合っている感じがして、いい新年を迎えることができたと思ってます
◇前号の横井さんの著作目録で『下剋上の文化』を『下克上の文化』と間違いました。訂正します。
◇先日、久し振りに大阪の矢田に出かけてきました。みなさんにお会いして話を聞かせてもらったり、カラオケ大会に飛び入りしたり、温泉に入ったりで、楽しかったですなあ。また近いうちに寄せてもらいますから、その節はよろしく
◇読者からのお便りに「同和はこわい考通信」編集部様という宛名があって苦笑してしまいました。時々学生のK君が助けてくれるのですが、ほとんどわたし一人でやってます。ただ、一筆も書かずに印刷物としてお送りすることが多いので、そのように勘違いなさる方がおられるのかもしれませんね。複雑な気持です
◇1990年12月18日から1991年1月8日まで、愛知、三重、奈良(2)、東京(2)、大阪(4)、京都、島根、岐阜の13人の方から計45,500円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。

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