同和はこわい考通信 No.40 1990.10.5. 発行者・藤田敬一

《 再録 》
人間の問題についての思索の旅へ──受講生のみなさんに
 (岐阜大学教育学部における授業「言葉と人間:部落差別から考える」の報告)
藤 田 敬 一
1.
 昨年度に引きつづいて授業「言葉と人間──部落差別から考える」を二コマ担当し、33通の感想文を読ませてもらいました。本来ならお一人お一人にご返事すべきですが、その条件がありません。そこで感想文のいくつかを紹介しつつ、わたしのコメントを記して、みなさんへの返事とします。
 さて6月末の木曜4限、時候と時間帯からいって、眠くなる条件がそろっていたにもかかわらず、多くの人が熱心にわたしの話に耳をかたむけてくれたことに、まず感謝したい。教員が講義をし、受講生が聞くのは当り前といえばそれまでだけれど、テーマが必ずしも万人共通の関心事とはいえず、したがって眠りこける人がいてもおかしくないからです。
 みなさんにとって、わたしの話は、おそらくはじめて聞く内容だったのでしょう。被差別部落の地名を隠さず、わたし自身が岐阜で見聞してきた差別の実状も率直に述べました。「同和問題がこんなに身近に、これほど深刻な形で存在するとは全く知らなかった」というある受講生の述懐には、未知の事実にたいする驚きがある。驚きがなければ関心も問題意識も生れはしないのです。すべてはここから始まります。
 ところでわたしは『同和はこわい考』(阿吽社.1987)に、つぎのように書きました。

人びとは、その成育史の中で必ず部落問題にであうとはかぎらない。個別利害にかかわって、ぬきさしならぬ状況のもとで部落問題にであう人はごく稀だといってよいだろう。大多数の人は、まったく知らないか、ばくぜんと伝聞によって知っているにすぎないように思う。(11頁)

これはわたし自身の体験にもとづく感想です。加えて岐阜という土地柄を考えると岐阜大学学生の大半が部落差別問題について、「まったく知らない」か「ほとんど知らない」状態にあると予測していました。しかし33通の感想文(27人)から見るかぎり、「まったく知らない」受講生は圧倒的に少数で、ほとんどの人が部落差別問題について、なにがしかの知識を持っているといってよろしい。
 なによりもこの二十年のあいだに学校同和教育が確実に広がったことがうかがえます。しかし問題がないわけではありません。

○部落差別問題については小学校・中学校・高校を通して何らかの形で話し合った覚えがあります。しかし、決まって「差別はいけないと思います」「差別をなくしましょう」といったあいまいな結びで終わったものでした。その過程においても差別の種類・度合を生徒達があげるだけで、先生は問題をつきつめることはしませんでした。

この人は、これまで受けた同和教育に批判的ですが、それらの授業に何が欠けていたのか、「問題をつきつめる」とはどういうことなのか、ちょっと考えてみる必要があるようですね。

○部落差別についての講義を受け、初めて知ることばかりだった。今現在まで、部落差別が続いているということ自体、意識していなかった。例えば、小学校の道徳の授業などで、部落の問題について話し合った記憶があるのですが、その時は、「江戸時代には、こういう差別があった。それについてどう思うか?」という話し合いのみだった。当然私は、今まで続くような根の深い差別意識の問題とは捉えていなかったのである。その上、自分の住んでいる岐阜にも部落が存在しているということも、私にとっては初耳で、驚きました。無知すぎることが恥ずかしいばかりだった。

学校で部落差別が過去の問題として語られているはずもないでしょうが、古い昔の話として受けとる生徒が少なからずいることもたしからしい。「今現在まで、部落差別が続いているということ自体、意識していなかった」「今まで続くような根の深い差別意識の問題とは捉えていなかった」との感想は、「えた・非人」をあだ名に使ったり、早稲田大学の落書きのような事象がおこったりする背景を説明してくれます。同和教育、歴史教育を担当する教員の方々に、その辺りのことをお聞きしてみたい衝動にかられます。

○「部落」という言葉を初めて聞いたのは小学校の高学年ぐらいだったと思う。8 ミリビデオで見て初めて知った。どうしてこんなことをするのか、その当時、わからなかった。ただ、こういう差別があるんだとおぼろげに覚えた。その後人の話で部落民の人はと殺を職業としている人が多いと聞いた。

学校で教わっても、その後の成育史のなかで伝聞により「被差別部落(民)というものは」式の概括的イメージが注入されることも大いにありうるわけで、教育の効果を過大評価するのは禁物です。

2.
 他方、家族や親戚、友人からから聞いた人も多く、この場合には偏見が入り込みやすいことはいうまでもありません。『同和はこわい考』にも書いたように、「知っている」からといって安心はできないのです。

○何かの折に、結婚の話題の中で、「下駄屋とか肉屋は気をつけないかんよ。」という話を耳にしたことがあり、子供ながら不思議に思い、「どうして?」と聞いたが、はっきりした返事を覚えていない。

○部落とゆうのはあまり聞いたことがないが、滋賀県に住んでいるおばあさんに、「あそこは昔、部落で汚かった。しかし今では、みんなきれいな家で…」と聞いたことがある。また肉屋とか靴屋に朝鮮人が多いとも聞いた。そのぐらいの事しか聞いたことがなかったのである。部落問題に直接関係のない地域の者にとっては部落問題は、このぐらいの意識しかないのである。

「下駄屋・靴屋・肉屋は被差別部落民が多い」という概括的イメージはいまもなお生き残っているのです。それにしても「肉屋とか靴屋に朝鮮人が多い」とはどういうことでしょうか。ここには「肉屋・靴屋=被差別部落民」という概括的イメージと、「被差別部落民=朝鮮人」という民族差別を前提にした異民族起源説との観念連合がみられます。

○以前大阪にいるいとこに「大阪にはかわいい子がいるけど、気をつけなければいけない」と言われた。この「気をつける」とは部落の人に気をつけろとのことだ。結婚する時に問題になると言った。

○私の父も差別意識を持っている人です。(中略)養老の高田に(ある…藤田補う)被差別部落についてもひょっと話に出てくることがありました.「あそこの女の人はきれいやが、手を出すと怒鳴りこまれて金をとられるんやど。」とか、「そこの人に『ヨッちゃん』と言ったらあかんぞ。」とか、「あそこの人は恐いで気をつけなあかん。」などです。

「かわいい子」と「気をつけること」と「結婚する時に問題になる」こととの連関にも、見逃すことのできない偏見が潜んでいます。被差別部落には美人が多いというのは、かつて聞いたことのあるおきまりの話であって、なんの根拠もないデタラメな偏見ですが、それが今も若い人に伝えられているのです。結婚をめぐるトラブルの可能性への警戒心からこんな偏見が生まれたのかもしれません。

○親から聞いたのは“集団性”“金銭にからむこと”である。例えば、交通事故などでよく聞く「Aさんが事故をやったら相手が部落の人で、ひどい目にあっていた。事故は相手がどこの人かわからないからこわい」。この中に金銭にからむ点と集団性(背後に何かいるのではというおそれだと思う)が出ていると思う。

○中学の頃、両親が「被差別部落内でけんかすると、部落住民が全員包丁を持って加勢しにくるらしい」と話していたのを聞いたことがあります。

○私が、初めて被差別部落の話をきいたのは、中学生の頃だったと思う。それは、父からきいた話で、その人たちは、おこると集団になってやってきてこわいので、おこらせないようにしないといけないというような内容だった。

みなさんの親といえば、ほぼわたしと同世代の50歳前後と推測されますが、なかにはこのように「こわい」意識にとらわれている人もおられるわけで、「因習的差別意識」の媒介者はしっかり再生産されているというべきでしょう。「古くさい考えをもっているのは老人で、若い人はそんな差別意識はないから、次第になくなってゆく」などとのんきなことをいう人がいますが、この「若い人」が「古くさい考えをもつ老人」になるのです。社会意識というものは年齢、世代で断ち切れるほどヤワなものではありません。

3.
 それはともかく、みなさんは被差別部落(民)について、「なにも知らない」のではなく、いろいろなルートを通じて噂話として結構「知っている」のです。そのことをまず押えておいてほしい。重要なのは、伝聞による噂話を批判的に検証することでしょう。
 ある受講生はこう書いています。

○私は小さい頃、親が共稼ぎだったため、昼間だけ人の家にあずけられていた。高富の肉屋さんである。幼稚園から帰るといつもてばさき(手羽さき…藤田注)を食べさせてくれた。とてもおいしかったし、おじさんもおばさんもとってもやさしい人だった。ある日、その家の大きい冷蔵庫を見せてもらった。豚がさかさにつられていた。なんかとてもこわいものを見た気がしたけれど、当時(「同時」の誤りか…藤田)に、おじさんやおばさんは大変たなあ、すごいなあと本当に感心した。後におじさんやおばさんは「部落」の人だと聞かされた。「部落」という言葉と8 ミリビデオの映像がおぼろげに私の中で結びついた。しかし私はそこで、だから何なんだとしか思えなかった。そんな変な言葉でおじさんやおばさんを形容することはできない。そんなことよりも何よりもおじさんやおばさんはとてもやさしい、いい人なんだ。「部落」ということを私自身まだよく認識していないのかもしれないけれど、これからも差別の眼なんか持ちたくない。(中略)私も~らしいという話はいくつも知っている。でも実際聞いたようなことは見たこともないし、恐いとかという感覚にはならない。


この人は、伝聞による噂話を幼い頃の貴重な体験と照らし合わせることで、偏見から自由になっています。これを読んでなにか温かいものを感じました。わたしのいう「共同の営み」のなかには、こうした「生活の共同」も含まれます。「共同の営み」のなかではじめて偏見、差別意識は溶けてゆくのですから。
 しかし、みんながみんなこのような体験ができるわけではありません。むしろ幼い頃に親などから聞いた話が偏見を植えつけることが往々にしてあることはこれまでみたきた通りです。つぎに引用するのは善意の説明ですら子どもに大きな影響を与えた例です。

○私が初めて部落差別について聞いたのは中学1年位か、小学6年位だったかと思う。何かのはずみで「新平民」というのが出てきた。「何、それ?」と聞くと、「歴史の時間に士農工商というのを習っただろう。その下にいた人について聞いたことがあるだろう。そういう人達だ」と父が答えた。そして差別されてきたこと、明治以降も差別されてきたことなどを聞いた。その話し方は、自分がしてきたというものでなかったが、「いわれのない差別だ、なくさなければいけない、お父さんは絶対しない」というものでもなかった。(行動には表わさないというもの)その時、私がはじめにたずねた事は「私の家は?お父さんとお母さんは?私は?……ああよかった」というのだった。この頃はこの差別について深く考えていなかったし、ずっと続いているかも知らなかった。その時、私の顔にも喜びと安心感を表していたように思う。この時の心が絶対、今の私の心の中にも生き続けていると思う。

お父さんは、おそらく学校かどこかで部落差別問題についてまとまった話を聞いたか読んだかされたのでしょう。一応歴史的な経過について子どもに伝えてはいるものの、それが部落差別を峻拒するようなものではないことを敏感に嗅ぎとった子どもは「私の家が差別される家でなくて、ああよかった」と素直に喜んだというのです。そしてそのときの感情はいまも自分の中に生きているという。
 部落差別問題に関するそれなりに正当な知識ですら、その話し方や雰囲気によってはまっすぐに届かず、むしろ親の意識の襞に潜む心の微妙な傾きが子どもに伝わり、永くその心をとらえてはなさないとすれば、あれやこれやの概括的マイナス・イメージにもとづく奇想天外・荒唐無稽な噂話が及ぼす影響は察するに余りがあります。
 みなさんの周囲で被差別部落(民)をめぐって隠微にささやかれている噂話は、たんなるゴシップやスキャンダルではありません。それは日常生活、暮らしのなかで被差別部落(民)を忌避・排除する役割を果たします。だからこそ噂話を批判的にみることができるだけでなく、噂話の伝聞サイクルを断つ視点が求められるのですが、そのためには差別の実状を知ることから出発するしかない。わたしはそう思います。

4.
 ところが世間には「部落・部落、同和・同和といわなければ自然になくなる」という意見があります。「知らないなら、知らせなければよい」という、古くからある考えですが、ほんとに「知らせなければ、差別はなくなる」のでしょうか。

○消極的な考えであるが、私は、部落差別のことを子どもたちに教えない方が、子どもたちも知らずに大人になり、やがて部落なんて言葉は消えていくのではないだろうかと思っていた。

○そんな(同和…藤田補う)教育をしないでおけば、多くの人が知らないままにすんで、それでいいではないかと思っていた。

○私は部落問題についてほとんどなにも知りませんでした。またあえて知ろうともしませんでした。なぜなら、私の中には、そういった複雑な問題をわざわざ取り上げて波風をたたせたくないという気持ちがとても強くあったからです。今でも、心の隅ではそう思っていて、考えに行きづまると必ずむくむくと大きくなります。知らなければ知らないままですぎていくのに、どうしてわざわざ寝た子を起こすようなことをするのだろうかと思ってしまうのです。

ある事象を知らないということは、その事象がその人にとって「存在しない」ということにすぎないのであって、事象の存在そのものを否定できはしません。けれども人は、「知らない」ことは「存在しないこと」として、見ないままで生きてゆけます。わたしにしてもそうです。だから部落差別問題を知らないことで人を責めるわけにはいかない。ただ差別の実状を知ってほしいと願うだけです。わたしは実状を知ってもらうためにいくらかの素材をお話ししたにすぎませんが、多くの人が「やはり知らないなら、知らせなければいけない」と受けとめてくれ、正直ほっとしました。しかし、みなさんの関心はさらにずっと先へいっているようです。

○真剣に考えれば考えるだけ、私はいったい何をすればよいのか、分らなくなる。(中略)では知って、どうするのか。この先が進まないのだ。

○私達はやっぱり部落差別はいけないことだ、自分の問題として考えなければいけないと思います。そう思うことは簡単です。ふつうだれだってそう思うような気がします。でもその先いったい私達はなにができるのでしょうか。私にはどうしたらいいのか思い浮かびません。実際に何も動けません。でも関係ないですませたくはないです。

まあ、そんなに焦らないでください。知ることも重要な実践なのですから。わたしが大学一年生のとき、京都市内の被差別部落に出かけて勉強し始めてから32年になりますが、いまだに知る努力をしているといえます。本で勉強してもいいし、被差別部落の人びとから話を聞かせてもらうのもいい。要は、はじめて差別の実状を知ったときの驚きにともなう関心、問題意識を大切にしつつ、「問題・課題とわたし」との関係を凝視することです。当然そこには困惑、葛藤が生れます。

○講義を聴いていて、なぜか、とても苦しかった。「知らないことだから」と見向きもしなければ、私はこれまでどおり、確かに知らなくたって、何の支障もなく生きていけただろう。知らなければいいことかもしれないが、逆に、知らないからこそこわいのだ。(中略)今からでもまだ、人間を平等にとらえる心を養っていくことも可能かもしれないと思えたことが、私の感じたとらえ所のない苦しさを少し軽くした。単純な問題ではないことも知ることができた。 「私は知りません」と、それですまされる問題ではないことも…。

○今まで、差別問題に限らず、私にとって人の不幸は“人の不幸”であった。私の不幸ではなかった。水俣病の不幸も、部落差別の不幸も“私のこと”ではなかった。「かわいそうだ」と思ったし、「公害も差別もいけない」とも思った。けれど、それは一方で、「私は、そういうめにあわなくてよかった」と、思ってしまったのも事実であった。人の不幸によって、自分の幸せをたしかめた、ということである。人の不幸が自分のものになる、というどころの話ではない。───人の不幸を自分のものにする…などということが、本当にできるのであろうか。/「他人は他人さ」と、冷めきった態度をとるつもりもないが、かといって…。私は、まだ、積極的にどうしたらよいか、わからないでいる。

○差別について考えようとすると、なんだか苦しくなってくる。それは差別をしている自分の姿をまず思い浮べるからだ。差別を考える=私の心の中の差別を考える=自分の弱く汚い面と向き合うことだからだ。自分の嫌な所は見たくない。(中略)他人の弱さや不幸につけこんだことによって得られる安定はいらない。私は本当の安定がほしい。(中略)1回のレポート提出でなんら私自身結論がでない。もやもやしたものが残っている。けれど、私の今の立場でできることは、自分の弱い心を見つめること。「何が差別で、何が差別でないのか」を正面から見つめて判断しようという態度でいることだ。これは、この先ずっとつづく。

「わたし」を真摯(しんし)に深く見つめることによって、人は困惑と葛藤の渦に巻き込まれます。しかし、それは人間の問題、人間存在の根源に関する思索への旅立ちでもあるんです。そして同行者がいるというものの、とどのつまりこの旅は一人旅ですからね。気がせいたり、嫌になったりすることもあるかもしれません。そんなときは、休憩をとり、途中下車するなどしてもいいじゃないですか。長い旅路なんですから。
 それではみなさん、「一路平安!」、道中ご無事で。

コメント.
工藤力男さん編集・発行の『第二次 修羅──授業「言葉と人間」通信』No.14(90/9)に寄稿したものを少し補正して再録しました。

《 全国交流会参加記 》
その1.差別と平等について
東 谷 修 一(兵庫)
  7月21日、22日に行なわれた部落問題全国交流会で過ごした時間は私にとってとても楽しく、久しぶりに生身の人間と係わった気がしました。(日ごろ立場とか地位にとらわれているサラリーマンやOLたちとつき合っていると、私の目には彼ら彼女らが死人に映ることがあります。)交流会に参加している人々のあたたかい、優しさにふれると、私は初参加にもかかわらず、何度も参加しているような気分になり、なぜか故郷に帰ったような安心感がありました。交流会の雰囲気は、そのようなあたたかい優しさに包まれていたが、議論になると白熱をおびてきました。
 私の参加した第一分科会では山本尚友さんの差別と平等をテーマにした話が行なわれました。その話は、差別にも良い差別と悪い差別かがあるとか、差別と平等は共存すべきだとか、刺激に富んだ問題提起であり、私は深く考えさせられました。 山本さんの問題提起は、反差別のよりどころを問う、自明性への懐疑であり、差別は絶対に許さないという反差別の絶対化からくる自分にかけた呪縛からの解放ではないかと思います。たとえば、差別をなくし、平等な社会を作るのを希求することに、私たちはおおむね何も疑わず当然視してきたのではないでしょうか。平等な社会とはどういう社会なのか、私たちはどれだけ深く考えてきたのでしょうか。平等な社会にも、異質なものを排除して、同型同質を強いる画一的な平等社会の意味をも孕んでいるのではないでしょうか。翻って、差別にも私たちにとって、良い面と悪い面があると、私は思います。しかも、差別というマイナスをプラスに変えてきた人々の歴史があるのではないでしょうか。差別という苦しみを受け自殺や犯罪に追い込まれる人たちがいる。他方、差別という苦しみを共にかかえることによって互いの信頼感や連帯感を昂めてきた人々の歴史もあったのではないでしょうか。
 どうやら、私たちは、差別のマイナス面をいたずらに強調するだけで、長い目で、大きな目で、差別や平等の意味を問うた方がいいのではないでしょうか。
 ところで、第一分科会の論議の中で、山本さんが、差別と平等が一如になるのが理想であるような話をしていましたが、仏教の理念について、私は深く考えたことがないので、やっかいな言葉ではあります。差別をなくし、平等な社会へではなく、差別と平等という近代的な二元論的世界を超えるということなんでしょうか。差別を超えた世界とはどういう世界なんでしょうか。
 もちろん、差別され、否定されている被差別者にとって差別のない平等の社会に憧れる気持ちもわかります。障害者である私にとっても人並の生活や能力が、輝いて見えることがあります。だが、私の場合、健常な友人たちとつき合っていく中、彼らも、彼らなりの悩みを持ち、問題を抱えていることに気がついた。その中で、差別さえなくなれば、人並の生活さえできれば、不幸はなくなるという考え方が薄れてきました。むしろ、私の心の中には、差別をも栄養源として自分という花を咲かせたいという想いが募ってきました。山本さんの問題提起やみなさんの論議を聞く中、ますます、その想いは募るばかりです。

コメント.
全国交流会には、あたたかくて、優しい雰囲気があったと、東谷さんにおっしゃってもらえて、主催者のひとりとしてこんなに嬉しいことはありません。「一見、旧知の如し」、人との出会いはこうありたいものです。

その2.ひとりの人間として差別を考える──部落問題全国交流集会──
大阪・Y
 差別を語るのは気が重い。差別されるのはカッカして怒るけど、差別していることには無頓着だから。それでも参加してみようと思ったのは、藤田敬一さん発行の「同和はこわい考」通信の魅力による。第七回部落問題全国交流集会には、人間と差別をめぐって、おおいに討議し、思索を深めようと150 人程の人が集まった。
 網野善彦さんの話は、職能民が18世紀に「エタ・非人」として制度化されるまでの歴史を、「日本」を国号とした律令国家が 7世紀に成立してからの解体と変質、古代と中世の「賤」の差異、さらにその中で、人と自然とのつりあいのアンバランスさが、「穢れ」としておそれられ制度化される様が論じられた。「差別」と一言で済ますのではなく、不得手な歴史を学びつつ、自分の価値観を検証する機会となった。
 現代は「差別発言」から「差別商品」まで、差別という言葉がいろんな意味に使われ、威力をもっている。在日朝鮮人、障害者、部落民、女性など入り雑じっての「差別と平等」の分科会では、いきつもどりつの論議に引き入れられた。結論はない。しかし、差別用語が禁句となり、法律的に平等になっても、差別が多様に重層化しているのはみんな知っての通り。甲山事件の山田さんが、「人権侵害に対して責任をとらない構造が戦後社会をつくってきた」という、そういう社会に乗っかって生きているのだから、かなり心して自分に厳しく、人にも愛情を持って厳しく触れ合わなくては。そこから社会と未来が見えてくる───。

コメント.
『人民新聞』No.727(90/8.25)の「言わせて聞いて」から転載させてもらいました。「Y」さん、来年は声をかけてくださいますように。

《 採録 》
 状況から──部落問題はトレンディー?(『毎日新聞』90.9.20.夕刊)
 一昔前に比べると、部落問題についての発言がずいぶん自由に行われるようになった。「人権」が世界を解読するキーワードとなった今、人権侵害の特殊日本的具現としての部落問題が人々の意識上に再浮上しつつあることは一般的にみて歓迎すべき事態といえるが、だからといって喜んでばかりもいられない。
 例えばテレビの徹夜討論番組が「タブーに挑戦」と称して二夜にわたってこの問題をとりあげたが、全体としてみれば、これまで部落問題の解決にほとんど貢献してこなかった各界文化人たちが部落差別をレトロな問題としたうえで、差別表現の解禁、糾弾闘争の否定に論点を絞りこむという政治的な矮小化だけが目立った。
 被差別部落の人々の間にもテレビが二回とりあげただけで「部落問題はトレンディー」と有頂天になる姿がみられたが、あまりに単純にすぎる。部落問題を真にトレンディーにするには、多くの重要な問題が山積しており、そこにむしろ焦点を合せるべきだ。一例をあげれば、藤田敬一・岐阜大助教授が87年に出版した『同和はこわい考』(阿吽社)。解放理論や差別・被差別の関係論の分野でかなり古色そう然たるものを残しながらも、差別・被差別の両側からそれぞれの立場を乗り越えて共感にいたる道を説き、注目されたが、タイトルが衝撃的だったために、議論はその点に集中し、本質的な論争にいたらず空中分解した。
 最近、被差別部落の中から出た『月夜のムラで星を見た』(みなみ・あめん坊著、情報センター出版局、910 円)は藤田氏の論点を超える面白さがある。著者は部落解放同盟大阪府連池田支部書記長、南健司氏で、ムラ(被差別部落)の日常を軽妙なタッチで描きつつ、差別と闘うことの困難を率直に描いていて考えさせる。ことに部落民衆の「卑下の意識構造」を分析している叙述などは、差別・被差別の両側の呪縛性を照射しており、「乗り超え→共感」の前提部分を明るみに出している。部落問題を真にトレンディーにする一つの具体的な試みとして注目できる。(晃)

コメント.
このコラムの筆者は毎日新聞大阪本社記者、八木晃介さんと思われますが、『こわい考』をめぐる議論が書名のために空中分解したかどうかは、八木さんの断定にもかかわらず、それこそ議論の余地があるのではないでしょうか。

《 あとがき 》
*10月一杯、別の仕事に没頭すべく、40号を早めに出します。次号は11月中旬の予定
*先日、同志社大学の同和教育委員会に招かれ、話をさせてもらいました。大学における同和教育が直面する壁について、みなさんと懇談でき、ほんとによかった。また人の輪が広がった感じです
*『こわい考』の 6刷2000部が出ました。これで 2万5000部になります
* 9月25日から29日まで、岡山、大阪、三重、愛知の 4人の方から計 1万8000円のカンパをいただきました。ありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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