同和はこわい考通信 No.38 1990.8.10. 発行者・藤田敬一

《 報告 》
第七回部落問題全国交流会(7/21~7/22)を終えて
藤 田 敬 一
1.
 木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)に沿って湿った暖かい空気がさかのぼり、山にさえぎられてどっかりと腰を落ち着けるので、濃尾平野の北端に位置する岐阜のこのあたりの夏はまことにすさまじいのですが、梅雨明けの京都も負けず劣らず厳しい暑さでした。それなのに各地から 150余名の人びとが集まってくださったのは、ありがたいことでした。
 定刻から少し遅れて浄慶耕造さん(兵庫)と矢野よしゑさん(岐阜)の司会で開会。まず土方鉄さんの挨拶がありました。この五月、解放新聞社を退職したばかりの土方さんは以前よりずっと元気そうで、部落解放運動の過去・現在にふれながら「絶望と希望」について語られたのですが、おそらくそれは新しい作品のモチーフになるのではと考えたりしました。
 ついで京都府連委員長の吉田明さんから例年通りメッセージをいただきました。「お上のしくじりを沙汰してやれ」とおっしゃったお母さんの話は、何度聞いてもいい。むかしの母親はけっして「偉い人になれ」とはいわなんだというのも心にしみます。
 そのあとわたしが「これまで何をどのように論議してきたか」を手みじかに話させてもらいました。冒頭にこんな話をあえてしたのは、参加される方にぜひとも二日間通して議論に加わってほしいと考えたからです。やむをえない理由で講演だけお聞きになるのはいたしかたありませんが、できるなら一緒に「人間と差別」をめぐって語りあいたい。夜の懇親会で酒をくみかわしながら未知の人と議論もしたい。おたがいに名前や住所を教えあい、手紙や通信、ニュースの交換を約束するといった、文字通りの交流会でありたいと、わたしは思ったのです。堅いことをいうなあと受けとった人もおられるかもしれません。しかし、いま自分が感じていること、考えていることを丸ごと出しあってはじめて「差別・被差別両側の隔絶した関係に風穴を開ける」ことが可能なのではありますまいか。
 そして風穴を開けるには、なにはともあれ「自分以外の何者をも代表しない」個人の集りでありたい。どこまで個人でありうるかという問題は残るものの、組織・党派・集団・グループの言葉ではなく自分の言葉で語りたい。まして相手の経験・資格・立場を盾にその発言を抑えるようなことはしたくない。だから当然、相手をやっつけるための討論をせず、結論めいたものを出し急いだりしない。そして交流会は個々人が自らの課題をまさぐる場だから、組織や運動の方針を求めてもらっても困ります。およそこんなことをわたしは話しました。そして最後に交流会が差別・被差別という関係から無縁な場としてのアジール(避難所)であってもいいけれど、そこから日常的な差別・被差別関係の境界領域がさらに広がってゆけばなお嬉しいと申し添えたのでした。

2.
 さて、古代末から中世末まで数百年にわたる時間と空間をふまえて聖別(聖なるものとしてある種の人びとを一般的、世俗的なものから引き離すこと)と賤視の歴史を概観された網野さんの講演は、祇園祭最中の京都ということもあってまことに興味深い内容でした。以下、わたしのメモによりながら聞きとった内容の要点を記しておきます。
 網野さんはまず「日本」「日本人」と、わたしたちがなんの疑問もなく使っている国号から説き起こし、常識の危険性について注意を喚起したあと、古代と中世の「賤」の差異にふれつつ、 9世紀から10世紀にかけて古代律令国家が変質・解体するにつれて職能民がどのように組み代えられ、12世紀ごろ神仏の「奴婢」として聖別化されたかを論じられました。
 交易や貸借、芸能は神仏とかかわるものとされ、したがって非人・河原者・放免(刑吏)・馬借・遊女もまたそうした職能の一つだった。ところが次第に人間と自然の均衡が崩れ、ケガレの制度化が進み、畏怖感は危機感へとつながる。14世紀には神仏・天皇の権威の低下とともに、それらの職能民を忌避すべき対象にしてゆく。牛や馬に対するイメージも、さらには女性に対する意識も大きく変化する。遊女が室町期に賤視される集団になる背景はここにある。そして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・家光らによる宗教の無力化、水田中心の差別の制度化が実現され、17世紀から18世紀にかけて「えた・非人」の制度化、雑賤民への差別の固定化が完成される。ただ差別の源流は多様であって地域差の問題を無視してはならないことはいうまでもない。またアイヌ、沖縄を視野にいれるなら「日本における差別」という言い方自体、不用意ともいえよう。
 「研究課題は山積していて大変だけど、がんばりたい」と結ばれて一時間半に及ぶ講演が終わりました。
 網野さんの著書を素人なりに追いかけてきたわたしには、新たな研究成果を盛り込んだ講演は、「おさらい」以上のものがありましたが、さっそく「正確な歴史認識の上に立って人間解放をすすめて行くことがいかに大切かを改めて感じました」との感想を寄せてくださった方があり、網野さんをお招きしてほんとによかったと思っています。
 それにしましても網野さんに導かれて宮本常一さんの『忘れられた日本人』『家郷の訓』(いずれも岩波文庫)や笠松宏至・勝俣鎮夫・佐藤進一さんたちが書かれたものを読み、大枚をはたいて『日本民俗文化大系』(小学館)を買い込んで拾い読みなどしたこの数ヵ月は、久し振りに充実した日々でした。欲求不満がいっぺんに解消されたみたいです。

3.
 ところで今年はいくつかの新企画がありました。その一つは甲山(かぶとやま)事件で被告にされている山田悦子さんにほんのちょっとの時間でしたが、無実の訴えと冤罪の底にあるものについて話していただいたことです。「他者の人権を犯して自らの人権は守れない」との述懐は、わたしたちへの重い問いかけです。
 もう一つは、分科会の時間を延長し全体集会を短くしたことです。一日目 3時間少々、二日目 1時間45分、計 5時間でもまだ足らないと感じられるくらい議論は活発でして、わたしの参加した第1分科会「差別と平等」でも、山本尚友さんの「差別と平等は並存すべき価値ではないか」「あらゆる差別に反対するとの主張は間違っているのではないか」といった挑発的な問題提起をめぐってこれまでになく熱い議論が展開されたといえます。一分科会30人前後の少人数だったのもよかった。「昨年以上に突っ込んだ議論ができた」というのが大方の人びとの感想ではなかったでしょうか。
 二日目の全体集会は分科会報告のあと、問題提起者から「加筆訂正・補足」があり、被差別部落の子どもの実状、「痛み」をめぐる差別・被差別両側の対話のとぎれ、啓蒙・啓発の限界と今後の方向といった分科会の中心課題があらためて提起されるとともに、部落解放運動への「絶望と希望」、現状の枠組みの打破など分科会では語りえなかったものも出され、全体集会にふさわしい中味になりました。
 やっと問題の所在がはっきりしてきて、議論がかみあいはじめたというのが率直な印象です。しかし部落解放運動の内実にふれている人でなければ議論に加われないと思い込ませるような話になっていないか、反省しなければならないところもあるようです。個別(特殊)を語って普遍(一般)にいたるというのは大変難しいことでしょうが。
 「具体的な成果はなくとも心にきざむ話がたくさん聞けました。みなさん来年またお会いしましよう」との前川む一さんの挨拶で幕を閉じました。
 わたしにとって交流会は、一年間わたしなりに取り組んできた思索と実践のひとまずの締めくくりであり、旧知の人との再会を喜び、まだ顔を知らない人との出会いを楽しむ場でもあります。ここから活力を得て『通信』の発行に精が出せるわけ。今年も充分滋養を吸収させてもらいました。
 なお、各分科会の報告者の方々から報告・討論の要旨と感想を『通信』に寄せていただくことになっています。 9月は山本尚友さんの「差別と平等」、10月は灘本昌久さんの「差別とことば」、11月は山城弘敬さんの「啓蒙・啓発と部落のいま」、12月は住田一郎さんの「わたしの解放運動」の予定です。

《 評論 》
構造主義は解放理論になりえるのか(上)
梅 沢 利 彦
1.構造主義とはどのような思想であるのか?
 「構造主義は解放理論になりえるのか」という論題であるが、こう書くと否定的な内容になるのが普通である。しかしここでは、単純に分らない点を書き連ねたと考えてほしい。
 柴谷理論の部落差別に関する規定は、「ほとんど人為的に、政治的に、きわめて任意にしつらえられた基準によるものであった。…そうして政治的に、社会制度的に、差別の根拠がすべてとりはらわれたあと、差別意識そのものが、まったく無根拠に、社会に定着してしまっている」(p179-180)というものである。この部分で2点だけ指摘しておく。ひとつは部落差別の政治起源論をとっていることである。なるほど部落差別が法制化されたのは近世以降だとしても、民衆の中に差別感が醸成されていることが前提になろう。だから民衆の中に差別感が生れてきた時期と契機が問題になっているのである。もう1点は現在残っているのは差別意識だけであるかのように書かれているが、社会に差別構造があるから差別意識が存在しているのではなかろうか。
 それはともかく、柴谷氏は政治的な社会制度化を1次のもの、それ以後を2次のものとされているが、ぼくは民衆の中の差別意識の芽ばえを1次、制度化を2次と規定した方がよいと思う。そうでないと「人間は、より親近なものに惹かれ、よく知らないものに対しては、警戒心または敵対感情をもつ」(P76)という同類・異類の認知という論点が死んでしまう。つまりヒトの集団があるとき、親近な者のグループがそうでないヒトを疎外し差別が発生すると措定するとすれば、差別の成立が「無根拠・恣意的・偶然」であることが理解しやすい。
 構造主義の産みの親がソシュールの言語論であることは、柴谷氏が「われわれの構造主義生物学」が、「ソシュールの言語論にもとづいて展開されつつある」(P73)と述べておられることをみても、明らかである。といってここで「シニフィエ・シニフィアン」の説をたどるのもしんどい。そこでぼくが感心した例証を、池田清彦氏の『構造主義科学論の冒険』から引いておきたい。それは虹を説明する各民族の言葉である。日本人にとっては虹の色は七色に決まっている。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫である。ところが英語では六色──藍は青に吸収される──であり、ウバンギの一言語であるサンゴ語やリベリアの一言語であるバッサ語では二色だという(P58)。まさに言葉が現実に秩序を与えており、秩序の基準が無根拠・恣意的であるという構造主義の主張が理解されやすい。
 柴谷氏の本は読者にあまり親切ではない。書かれたそれぞれの事例は具体的で分りやすい。しかし理論の背景にある構造主義生物学ついてはアウトラインも示されていない。だから読む者は「この部分はこういう趣旨ではないか」と推測するしかない。個人の体験の数だけ解釈が生れかねない。そこで差しでがましいが、竹田青嗣氏の『現代思想の冒険』に平明な解説を見つけたので、ご紹介する。竹田氏は構造主義の基本的な特質として、つぎの4項目をあげている(P44)。

(1) 関係論…ものごとの実体を直接問うのではなく、社会や文化や歴史といったものをその関係のあり方をとり出すという方法で問うこと。
(2) 共時論的分析…1社会や1文化の状態を、その成り立ちや経緯(起源や歴史)から問わないで、現在(ある一定の時)の総体的体系性として捉えようとする。
(3) 構造論…明らかに目に見え、人間に意識されている制度のあり方ではなく、むしろそれを支えている人間の無意識の<構造>に注目し、それを取り出そうとする。
(4) 形式化…レヴィ・ストロースの「二項対立」の方法に典型的に見られるように、要素を徹底的に形式化して、そこから関係の束を掴み出す。

たしかにこの方法は、歴史を生産力による社会の発展過程と捉える──したがって進んだ国と遅れた国という振り分けを可能にする──マルクス主義を否定している(共時論的分析)。また社会の発展段階とは関係なく人々の意識に巣くっているものを解明するのに、重宝な方法である(構造論)。ぼくもさっき何気なく「差別構造」という言葉を使ってしまったくらいである。

2.構造主義の反差別論
 構造主義の方法を要約した4項目を眺めていると、認識の方法ではないかと思えてくる。しかも現在のあるがままを切り取ってマナイタに載せるのだから、変化とか流動の相といったものは、視野に入らない。とりわけ人間が社会に働きかけをする契機が見当たらない。というより、破綻はしても社会変革の最も有力な理論だったマルクス主義を、総体的に否定してしまったのだから、思想の浮き草状況を作ったことになる。そこで柴谷理論がどのような反差別論を提出しているか見ていく。

 a 柴谷理論
 構造主義生物学者としての柴谷氏は、まず、生物・人間に共通に見られる同類認知の根元に「無根拠に成立した深層構造」(P75)があるとする立場をとる。ところで柴谷氏が反差別について初めて発言した「社会主義理論フォーラム 反差別部会」(85/11)では、部落差別=帰属問題として論じられる体験をした(P89-90)。帰属=同類認知であり、「無根拠性こそが、差別の本質」(P182)という本質規定が導かれている。ここから解放を目指す生き方は「自分自身の、これまでの暗黙のうちに仮定されてきた、共同の帰属性を否定することからはじめられなければならない」(P81)とされる。そしてこの選択は「強者/多数者集団のなかの、弱者/少数者集団に、帰属を変える」(P82)ことを意味するというのである。
 ここまでのところは、政治起源論と整合性を欠くところがあるとしても、それなりに分る。だが解放運動の批判として、<いわれのない差別>をなくすという運動は、「差別の本体をとりあげて、それこそが被差別に通ずる道だという論理を、つくってしまうから」「不毛だ」と論じている部分(P182)は、文意がどうも分らない。同和=同化ととり、<少数者として立つ>原則に反するとの主張なのか。またはこの文章のすぐ前に、「他のおおくの被差別主体が、どのように逆立ちしても手にいれる可能性のない状態」と書かれており、「その原因」として「不毛論」がつづく。してみると「潜在被差別グループ」と「顕在被差別グループ」(P116)との間に新たな差別を生み出すような片方のみの解放理論は不毛だと言っているのかも知れない。あるいは構造論的に無根拠に成立しているものは、なくすことはできないという文意かも知れない。いずれにせよ基本的に気にかかるのは柴谷氏がこの部分の文章で運動を「同和」で括っていることである。言うまでもなく「同和」は権力の側が使っているものであり運動側は使っていない。こうした捉え方では反差別共同闘争やNGOの運動の側面(その内実にはいろいろ批判があるにしても)が消えて、同和対策事業要求運動に矮小化される。氏の運動批判が悪意のものでないことは疑わないが、フェアーでない感じはぬぐえない。歪曲の弊害は池田清彦氏の『構造主義科学の冒険』の中につぎのように表れている。構造主義反差別論として柴谷氏の著書を推奨した短文が「これは同和すなわちみんななかよく、といったお題目が差別問題の本質的な解決にならない事を明らかにしたすぐれた論考です」(P228)と表現されているのである。「解放運動=同和=みんななかよく」と短絡されている。ここまでくると解放運動に対する揶揄としかとれないのではなかろうか。柴谷氏と池田氏に望みたいのは、対象を矮小化することなく、真正面から論じることである。 さて、では現在の運動を乗り越える理論は、どのように措定されているのだろうか。ひとつは「<人権>運動のなかに<部落解放運動を普遍化し、また具体化してゆく、という方向」。もうひとつは「普遍的な<人権>概念とは反対に、被差別部落の帰属意識に準拠し、その非普遍性を十全に全面におし出すこと」=「異叛」であるとされる(P185-190)。
 これらの運動で目指されるのは、「差別構造を排除して、そこにちがった構造を生成する」(P189)ことであるという。ここで注意しなければならないのは、この「構造」は、ぼくかが先に使った「社会の差別構造」ではなく、「人間の心のあり方、そのなかに構造化」(P189)されているものである。とすると、柴谷理論の運動は、社会に向けて、社会を変革する運動ではなくて──結果的にはそのような効果をもたらすとしても──個々人が自分の心を変革する運動になる。
 そのせいかは定かでないが、運動の契機は「たえず新たに生成される差別意識にたいする、個人の主体に根ざす闘争への決意」(P190)に求められている。この心情はサルトルが「投企」と名付けた心情と似かよってはいないだろうか。もっともサルトルは自由であるべく宿命づけられた人間が、客観的な世界に責任をとる選択として「投企」という概念を使っているのだが、客観的な世界を認めない構造主義にあっては、「決意」があるのみになる。
 いろいろあげつらったようであるが、実はここに構造主義の困難性が示されているのである。(つづく)

*コメント.
梅沢さん(NHK勤務)のこの文章は次号で完結します。

《 随感・随想 》
奇妙な凡例一則
藤 田 敬 一
 横井清さんの文章が読みたくて遅まきながら部落解放研究所編『部落解放史──熱と光を』全三巻(解放出版社)を買い、村越末男さんの「刊行にあたって」から読みはじめて凡例にいたり、次の文章に出会ってハタと立ち止まってしまった。

一、本書には、部落の地名が実名で数多く出てくるが、利用に際しては、これを差別的に悪用されることのないよう、くれぐれもお願いしたい。

周知の通り被差別部落の地名はいまも差別する人にとって重要な「しるし」とされ、したがって被差別部落の中には地名が表に出ることで苦悩する人がいるのはまぎれもない事実である。そして研究者も出版社も現在の地名はもとより歴史上の地名の取り扱いについて苦慮していると聞く。その意味で『部落解放史』が地名をそのまま載せたのは注目されよう。編者の部落解放研究所が、地名の取り扱いについてどのような見解をもっているのか、関心を寄せる人は多いはずだ。
 ところが『部落解放史』のどこをみても上に引いた凡例以外、なんのコメントもない。まあそれはよいとして、この文章の意味がよくわからないのにはまいってしまう。「これ(地名)を差別的に悪用されないよう」とは「読者は地名を差別的に悪用しないように」との意味だろうと最初考えたのだが、「本書の所有者は他人が地名を差別的に悪用しないように注意されたい」との意味にもとれる。
 前者の意味だとしても文章の不透明さはまぬがれない。「この注意書は無責任」との批判がありうるし、それこそ「地名を出すのは差別の拡大・助長につながる」との意見も論理的には成り立つ。一旦公刊された以上、注意書があろうとなかろうと「地名を悪用する人」が出ないという保証はなにもないからである。
 もし後者の意味なら、要するに『部落解放史』は人目にふれぬよう金庫に鍵でもかけて保管するしかない。編者がそんなことを「お願い」するはずもなかろうが、文章からそう読みとる人がいてもおかしくはない。
 『部落地名総鑑』を持ち出すまでもなく、被差別部落の地名の取り扱いをめぐっては、これまで様々な議論がなされている。そうした経緯をこの凡例はふまえているのだろうか。どうもそのようにはみえない。
 やはり事柄は「差別の拡大・助長につながる」という、これまで人を金縛りにしてきた主張の問題にゆきつく。1%でも差別の拡大・助長につながる可能性があるなら、そんな本は出版すべきでないといった意見すら聞かれるのである。『部落解放史』はこの問題を議論するのによい材料を提供してくれた。議論を発展させるために、ぜひとも部落解放研究所の見解を聞かせてほしいと思う。

《 あとがき 》
*今夏は一段と暑いようですが、いかがお過ごしでしょうか。わたしは交流会を終えたあとも、なにやかやと忙しくしております
*クーラーを断固として拒否し、しばらくやめていた経絡体操を再開したこともあって体調はすこぶるよろしい。この分では軽快に夏を乗り切れそう
*消夏法のひとつに読書というのがありますが、山野河海に出かけることもないので、たまりにたまった本を二、三冊同時進行的に読んでいます。陳凱歌『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 No.1008)は一気に読めて、しかも考えさせられる本です
* 7月 3日から 7月23日まで、岐阜(4)、大阪、神奈川、京都(5)、東京、新潟、福岡、愛知の15人の方から計60,944円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。

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