同和はこわい考通信 No.35 1990.5.28. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
言葉と人間についてー“川向こう”の場合
藤 田 敬 一
1.
 三年ほどまえ、知人からわたしの住所について「変わった地名やねぇー」といわれたことがある。わたしの住所の「川向」が歴史研究者である知人の関心を惹いたのだった。またあるとき「藤田さんの住所から、てっきり被差別部落に住んでいるものとばかり思っていた」という人がいた。いまの住所に移り住んで16年、話のなかで直接にふれられたのはこの二回だけだが、この他にも川向という地名に差別にかかわるイメージを重ねる人がいるかもしれない。川向(こう)がタブーにされて久しいからである。
 『差別用語』『続差別用語』(いずれも汐文社刊)によると、川向(こう)に関して次の四例が載せられている。

1)NTV要注意放送用語(73年)
  放送上使ってはいけない言葉…〔同和関係〕…川向こう…
2)岐阜日日新聞
  禁止しているもの…◇川向う…
3)日本俳優連合「“差別用語”問題に関するアンケート結果」(75年)
  (11)差別用語(を)…具体的に列記して下さい。…②部落に関するもの…川向う…
4)NETテレビ・放送用語委員会「NET禁句・いいかえ第三集」(75年)
  放送上さけたい用語例 ※印は、その使い方にまったく差別が含まれていない場合に限って許容されるもの。
  …川向う※…

また俳優である花沢徳衛さんの体験談は、川向こうという言葉がメディアの場でどのように扱われたかを伝えて興味深い(「差別用語」.『部落』1987年7 月号)。

…だいぶ前の話になるが、NHKのドラマ“御宿かわせみ”で、宿の河を隔てた向う岸で、火災が起こり、立騒ぐ宿泊客を番頭の私が静める場面。「皆さんどうぞお静かに、火事は河向うですから御心配ありません」。放映の時見たら、わたしの口がパクパクするだけで、其処だけ音が入っていない。局で聴いたら『河向う』が差別用語だから、という話。/小学校中退で、芸能界へ入る前は差別された経験はあるが、人様を差別する精神など持合せていない私だが、そんなむずかしいことをいう人達は敬して遠ざけたい気持になってくる。

ここに挙げた例はいずれも10年以上前のものだが、現在も状況はそれほど変わっていないのではあるまいか。

2.
 それにしてもいったい川向(こう)という地名、あるいは言葉がどうして差別にかかわるイメージと重なるのだろう。手もとの日本語辞典を開いてみる。

1)『広辞苑』 岩波書店.
 かわむかい[川向] 川を隔てたむこうの岸。対岸。
  かわむこう[川向] 「かわむかい」に同じ。──の火事:自分と何の関係も
            ない事件のたとえ。対岸の火事。
2)『日本国語大辞典』 小学館.
 かわむこうの=喧嘩(けんか)[=火事(かじ)](大きな川をへだてた向こ
         う側で喧嘩や火事が起こっても、こちら側までおよんでくる恐
         れがないことから)利害関係がなく、自分の心身に少しも痛み
         を感じないことのたとえ。対岸の火災。川向いの喧嘩。
3)『新明解国語辞典』 三省堂.
 かわむこう[川向(こ)う] 川を越えた向こうの方一帯。[狭義では、東京
               の都心部から見た墨田区・江東区を指す]

川向こうとは第一義的には「川の対岸」ということにすぎない。川をはさんだA地区とB地区はお互いに川向こうであり、侮蔑とか蔑視といった意味は含まれない。「川向こうの喧嘩・火事」の場合も、川があちら(人様)とこちら(自分)との関係を遮断する壁の隠喩になっていて、それゆえに傍観者的な見方を許容することが可能という点では大切なテーマがひそんでいるけれど、そのままでは侮蔑・蔑視につながりそうにない。
 問題は『新明解国語辞典』の狭義の意味の方である。「都心部から見た墨田区・江東区を指す」言葉としての川向こうを微妙な語感もろともに理解するのは、東京を知らないわたしにはむずかしい。とはいえ都心部・中心から見た、隅田川の向こうに位置する周縁・周辺、山手から見た下町に対する、ある種の別世界(異界)意識はおぼろげながら感得できる。
3.
 金達寿さんの『わがアリランの歌』(中公新書.No.470)につぎのような箇所がある(94~95頁)。

(1935年、15歳のとき、東京の蒲田で)「店員入用」という貼り紙をした書店を一つ見つけた。…「店員入用」の貼り紙を見て来たことをいうと、すぐに奥から主人らしい小太りの中年の男が出て来た。そして彼は、私から履歴書を受けとりながら、
「ほうそうかい」と言って、まず、そこに立っている私を上から下までじろりとみた。しかしそれは決していやな目つきといった、そういうものではなかった。
「いま、いくつかね」と主人は、私から受けとっている履歴書の入った封筒を開けてみようともせず、つづけて言った。
「はい、十六です」と私は答えた。当時は、数え年をいうのがふつうだった。
 私は主人とのその短いやりとりをつうじて、ああ、これは大丈夫だな、と思ったものだった。…
「本屋も楽な商売ではないよ」というようなことを言いながら、主人は私の履歴書の封筒を開けた。どうしたことかそうなるとこんどは、ああダメかも知れない、という予感がすっと私の体のなかを走り抜けるのをおぼえた。妙なものだったが、案のじょう主人は、
「ああ、川向こうか。川向こうの人は、うちは───」と言って、履歴書を私に返してよこした。
 私ははじめ、「川向こう」ということばの意味がよくわからず、主人は私が遠い隅田川あたりの向こうに住んでいるものとまちがえたのではなかったかと思ったものだった。だが、それが「朝鮮人」ということをさしたものであることを知るのに、そう時間はかからなかった。
 そうとわかれば、もうそれ以上聞くことはなかった。私たちは唾でも吐きかけられたようになって、その本屋を出た。一郎は、
「ちくしょう、こんちくしょう」と言って、道路端の石ころを何個も蹴飛ばしながら歩いたが、私はだまったまま下をむいたきりだった。

これは当時、川向こうが「隅田川あたりの向こう」を指したことの証言でもあるのだが、書店の主人はそれで「朝鮮人」を示唆したのである。わたしにも「川向こうの子」といわれて遊んでもらえなかった幼い日の思い出をもつ友人がいる。
 たしかに川をはさんだA地区とB地区とはお互いに川向こうである。ところが両者のあいだにたとえば貧富などの違いがあったり、被差別部落がある側とそうでない側、あるいは在日朝鮮人が住んでいる側とそうでない側といった違いがある場合、人によっては川向こうという言葉に侮蔑や蔑視の感情をこめたり、そこに住む人びとを忌避・排除するときに使うことがありえたのであり、いまもありうるだろう。
 しかし言葉は、その背後に隠されている人と人との関係によって意味内容が動く面があると、わたしは思う。川向こうも同じである。わたしの住所の川向と、金達寿さんやわたしの友人が体験した川向こうを一緒くたに論じても問題の所在は明確にはならない。

3.
 ところで花沢さんのいう「そんなむずかしいことをいう人達」とは誰なのか不明なのは奇妙といえば奇妙である。花沢さんは、姿の見えない「人達」にびくついて「河向う」というセリフの音声をカットしたNHKの誰かさんの措置についてはなにもふれず、また「河向う」がなぜ差別用語なのか問いただしもしなかったようであり、「河向う」をめぐって現出した右往左往の底にひめられている人びとの意識に目を向けようとしない。むしろ花沢さんは誰かさんの抱いた不安や危惧の責任を、運動団体や被差別部落民に押しつけたがっているようにみえる。
 いずれにしてもここには「糾弾されるかもしれないと考える人」と「糾弾するかもしれないと考えられている人」との目に見えない絆を媒介にした幻想の関係がひそんでいると見てよい。しかし幻想であろうと、これもまた人と人との一つの関係の現われに違いない。
 ただ人と人との関係は二重、三重に交錯しているし、言葉が生きる場も多様だから、一筋縄ではいかない。言葉とそれにこめられる感情・意識、その背後の人間関係をあからさまにすることからまずは取りかかるしかないのではないか。そうすれば川向(こう)という言葉についても、さまざまな問題群が浮かびあがってくるように思われる。たとえばわたしたちの空間意識もその一つである。
 川向(こう)は、人びとがずっと遠い昔から川に対して抱いてきた異界との境のイメージと重なっている。『文化人類学事典』(弘文堂)によれば、川は大地を二つの異なる世界に分断する境界であり、同時に両者をつなぐものでもあった。三途(さんず)の川の信仰は、川によって世界が分けられるとの考えの表われであるし、「桃太郎」や「一寸法師」で、桃が川を流れてきたり、一寸法師がお椀の船に乗って川を下って都へ行くのは、川のもつ異なる世界を交流させる働きを意味しているとされる。
 川向(こう)に、中心からはずれたところ、親密な関係をあまり持ちたくないところというイメージがつきまとい、異界の感じがするのも、おそらく前者の意味あいからだと考えられる。橋向こうもまた同じだろう。
 「川向こう」「橋向こう」を禁句にし、人間と自然、人と人との関係にかかわるせっかくのテーマを捨てて顧みないのでは、あまりに惜しい。
 昨年に引き続き今年の全国交流会でも「ことばと差別」の分科会が開かれる。分科会での論議に期待したい。

《 採録 》
大野 隆「『同和はこわい考』批判」
 (全国部落解放青年同盟機関誌『戦民』第 3号.1990-3)
はじめに
 87年 6月「同和はこわい考-地対協を批判する」(藤田敬一)が出版された。以降、少なからぬ論議を呼んでいる。藤田氏は「同和はこわい」という根拠について差別糾弾(闘争)をめぐって彼自身が感じてきた被差別の側の問題点をあげながら、展開している。彼は、「『主体なき同一化』を特徴とする随伴者である限り」(と自己を規定し)「自己との緊張も生れようがなく、従って差別・被差別関係総体の全体像をとらえることは不可能」「『人と人との関係・意識のありようをきちんとみすえつつ『対話がとぎれるしくみ』に風穴をあけ、『両側からこえる』試みを!」と主張している。
 この主張は、70年代狭山-部落解放運動主体の、また新左翼運動の差別問題への関わりをめぐって残してきた課題の“うわべ”をかすっているが故に、活動家達に“ある種の説得力”=混乱を与えている。それだけでなく藤田氏は、かつて中核派-戦闘同志会キャップであった沢山からの糾弾や解同の活動家の主張や、糾弾会などの具体的場面をおりこんで書いているのですんなり読み手に入りこんでいく。
 しかし、そうであるがゆえに一層怒りがこみあげてくる。それは、彼の文章のずるさにある。「いつだれからくる批判もほどほどにかわしたい」といわんばかりに、もってまわったいいまわしや、あいまいな語尾が多い。で、自分のことは、「『軟弱無能』だといわれてもしかたがない」と批判の矛先をかわすためにのみ、まず自分の「弱さ」をさらすのである。
 これらに表現されるものは藤田氏の立場の客観性にある。彼が部落差別に衝撃をもって部落解放運動にかかわりはじめたにもかかわらず、敵日帝国家権力の攻撃のにつまりの中で尻尾をまいたということだ。許せないことに、であれば謙虚に“隠居”すればよいものを、“一石を投じる”として評論を開始したことである。
 藤田氏の主張は、現実の部落解放運動への絶望を基調としたものであり、闘う勢力がかかえている課題について何ら応えていくものではない。彼自身が部落解放運動の只中に身をおいているのではないから当然の事ではあるが、のみならず、「被差別の側の問題」として展開している内容は、部落解放運動の地平をネジ曲げる反動的代物である。/藤田氏は、86年 8・5 地対協基本問題検討部会-12・11地対協意見具申にまさしく勇気づけられて筆をとったといわれてもやむをえないであろう。事実この本が、反動的行政の必読文献に指定されていることは、藤田氏自身その悪行の深さを自覚しなければならない。/我々は、「同和はこわい考」で展開されている「両側からこえる」論に対する徹底した批判を軸に展開する。

(1)藤田氏の差別糾弾闘争観を批判する
 彼のいうところの「被差別の側の問題点」(は)(略)直接的には、藤田氏の“恩師”朝田善之助の提起した「三つの命題」=(朝田テーゼ)批判として全面展開されねばならない領域であり、部落解放同盟の運動-組織批判、少なくとも、「日本のこえ」への運動論-組織論批判をすればよいものを一切ふれていない。そして、批判の的を部落大衆の現状にすえているのだ。これでは、ブルジョア学者とどこが違うというのか?部落解放中国研究会のイデオローグであることを自認してきた藤田氏としたら、あまりにもおそまつではないのか?/糾弾(闘争)への見方も同様である。(略)人間がどこで変わるのか?とりわけ、部落解放運動において、何故差別糾弾闘争が出発点となり、生命線なのか?故全水活動家米田富の「恐怖は思索を生む」という言をまつまでもなく、「穏やか」だろうが「厳し」かろうが、差別されたものと産別したもの相互にとって、この差別の現実が、どれほど死活性をもつものかということだ。/藤田氏は、思想性をえぐるのではなく、「恐怖」(=それはしばしば他者への刃に転化される感情である。)へとむかっている。それだけではない。「差別の厳密性の問題」として、差別糾弾する側に問題をおしつけているのだ。
 彼にとって差別問題は生きてきた過程も含んだ生き方の問題として決してならない。「同和はこわい考」の初めの項目で、自分の差別意識の形成についてのべているが、父母の評価と生れ育ったところの風土の問題でしかなく、藤田氏自身が幼いころからどんな生活をし、どんな人々と出会い、衝撃をうけ悩み、生き方を選択してきたのかとして明らかにできない。差別意識の形成という対象化がくりかえし観念化され、階級支配の構造との関係で明らかにできない。(略)
 彼にとって差別問題は、超階級的なものであり、実に、「観念」、「心のありよう」の問題にすぎない。被差別の側にとって、核心的には、生死をめぐる問題として厳に存在しているにもかかわらず。/だから彼にとって「糾弾=恐怖」であり「無限責任の恐怖」であり、必然的に「『主体なき同一化』を特徴とする随伴者」となりはてるしかない。/糾弾(闘争)をめぐる恐怖とは、第一に「部落民は何をするかわからない」という意識からうまれるのであり、第二に自分自身が行った言動の差別性が全人民の前に明らかになることへの自己保身からうまれるものである。/それだけではない。藤田氏の部落民に対するみ方-というよりも抽象化された人間観として明らかである。(略)糾弾闘争は、事実確認会-糾弾会という形で、事実をはっきりさせ、問題性格を明らかにし、部落大衆を先頭に差別と闘う労働者人民を大衆的に組織して闘われるのだ。(略)彼は糾弾闘争の現場での差別者とそれを糾弾する部落大衆・労働者人民の関係と、共に差別と闘うという前提にたつ部落民と一般民の連帯共同関係を混同させている。/藤田氏は糾弾闘争及び地平をネジまげる役割しか担っていない。「地対協のお先棒担ぎ」といわれてもしかたあるまい。

(2)「両側からこえるこころみ」の論理のギマン性とその反階級性
 藤田氏の「両側からこえるこころみ」論の出発は、小ブル民主主義者としての自己の全面破産をなんとかとりつくろい部落解放運動上における新たな位置を確立しようというものに他ならない。/(略)彼は(略)部落大衆とむきあう現場において、相互批判するような、互いの思想性・階級性をえぐるような討論を行っていない。これは「同和はこわい考」であげている全場面に共通している。(略)ただの一度も面とむかって被差別大衆とのシビアな相互討論もできない輩が「両側からこえるこころみ」もないものである。これほどのギマンはない。/運動にかかわって半年-一年でもあるまいに、現場現場で問題は何かを率直に討論できない己れを把えかえすことなく部落民の側や、糾弾闘争の問題があるとする事は筋ちがいである。(略)

むすび
 結論的にいえば、この「同和はこわい考」が少なからず論議を呼んでいるという否定的現状の突破の鍵は以下 2点に要約される。
 第一に日本階級闘争が歴史的に残してきた差別問題-民族問題の解明(その対象化の方法と帝国主義-階級支配との関係)であり、第二に我々が70年代きりひらいてきた階級的革命的部落解放運動の地平において朝田テーゼの革命的批判を行うことである。/(略)藤田氏は(略)「自己否定の論理」-「血債」にからめとられた己れの小ブル的「啓蒙主義的」思想をまずは徹底して、血ヘドをはく思いで総括を行うのが先ではないのか?(略)朝田テーゼは、部落差別を「私的所有の属性」と語り、「封建遺制論」を批判せんとしながらも階級支配との関係において解明することに失敗し、天皇制-日帝国家権力の問題、他の被差別との関係、国際連帯の視点について欠落させたものである。/(略)藤田氏は、自らの総括かけて朝田テーゼの批判的総括を為すのが先決ではないのか?/藤田氏は、「同和はこわい考」において、部落解放運動からの逃亡をきめこんだのであって、我々は、それをひきとめるものではない。しかし彼には、どれだけ反動的なことをやっているのか自覚しておいてもらわねばならない。(略)

コメント.
 約三分の一を原文のまま抄録しました。こうした論文は全文を掲載してもらいたという声がありますが、勘弁してください。ところでわたしは党派関係の事情にうとく、全国部落解放青年同盟がいかなる団体なのか知りません。ただ、その論旨、文体が本『通信』23号(89/4)に採録した加茂論文(全国部落解放研究会連合・全国部落青年戦闘同志会機関誌『荊冠』No.16)に酷似しているのは面白いですね。なお『戦民』の連絡先は「大阪市西区北堀江3-11-9 コーポ西村506  全国部落解放青年同盟(Tel.06-543-0043)です。

《 案内 》
 岐阜・甲山事件を考える集い──第二審差戻し判決を批判する──
 ──山田悦子さんをむかえて・映画と弁護士さんの話──
  ☆6月24日(日)午後1時から
  ☆岐阜市メモリアルセンター研修室(駐車場あり)
  ☆参加費 500円

《 あとがき 》
*『こわい考』『通信』が出てから三年になります。このあいだ一人でこっそり祝杯をあげました
*「筆マメですなあ」とよくいわれるのですが、これにはなんとも返事のしようがない。「ヘヘヘ」と笑ってごまかすほかありません
*連載『網野さん』は執筆者の都合で休みました。なお前号で網野さんのお名前が一箇所間違っていました。また『ことばの文化史』は網野・笠松・勝俣・佐藤さんたちの共著ではなく共編です。お詫びして訂正します
*土方鉄さん(作家)の作品集『妣(はは)の闇』(解放出版社)、仲田直さん(京都産業大学)の著書『人権思想の歴史と現代』(阿吽社)が出版されました。お二人とも古くから部落解放運動にかかわってこられた方です。一読をおすすめします
*先日久しぶりに富山に出かけたのですが、あいにくの天気で剣は見えなかったものの、車窓からは富山湾の向こうに能登半島が眺められ、結構でした。「ます寿司」もうまかったし
*リラ亭がカリン亭と名を変えて復活しました。新しいマスターはかつての酔客Hさん。これで酒縁の座も解散しないですみ、京都がまた近くなった感じです
* 4月19日から 5月17日まで、京都(3)、滋賀、愛知、三重、東京(2)、岐阜の 9人の方から計32,820円の切手、カンパをいただきました。ありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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