同和はこわい考通信 No.34 1990.4.23. 発行者・藤田敬一

《 網野善彦さんの本を読む 》 ②
単一民族・単一国家の幻想を打ちくだく歴史叙述
橘  尚 彦
1.
 今年正月のテレビで、笑福亭鶴瓶がこう言っていた。「東京の下手な芸人より、大阪のおもろい素人の方がよっぽどおもろいでっせ」。これは真実である。大阪人の私が言うのだから、間違いない。しかし大阪の玄人芸人である鶴瓶が、以前に東京進出を企てて見事失敗したのもまた事実である。「東京の人間は、しゃれのわからんしょもない奴っちゃ」と言ってしまえばそれまでだが、これがたとえば、鶴瓶がモンゴルで大阪弁でしゃべって受けなかったとしたらどうだろうか。「そんなもん言葉が通じんし、だいいち民族が違うんやから当り前や」となって、「モンゴル人はしゃれがわからん」という人はあるまい。しかしモンゴル人と同じく鶴瓶の面白さを理解できない東京人は、はたして大阪人と同じ「民族」なのだろうか。
 かつて上州人・中曽根康弘氏は「日本は単一民族国家」と発言して、日本列島に暮らすアイヌ人や朝鮮人を無視するものだ、と批判を浴びた。しかしこの時の批判は、日本人=単一日本民族を前提にするもので、単一国家観を批判する者はなかった。したがって、天皇を「天空に輝く太陽」と仰ぐ中曽根国家観を批判するためには、まず単一民族幻想・単一国家幻想を粉砕しなければならない!
 いやいや、ここでの問題は鶴瓶である。日本人が単一民族であるとすれば、我々大阪人が東京人に感じる違和感、東京で感じる居心地の悪さの原因はいったい何なのだろうか。西日本と東日本の文化、民俗、社会制度などの違いについての個別研究は『東日本と西日本』(1981.日本エディタースクール出版部)に詳しいが、その原因を明確に示した研究はなかった。この違和感に明快な回答を与えてくれたのが、網野善彦氏の『東と西の語る日本の歴史』(1982.そしえて)である。この本によれば、鶴瓶の面白さのわからん東京人は、実は大阪人から見て、モンゴル人と同じ“異民族”だったのである。しかも西日本と東日本は、古代以来、対立と抗争を繰り返してきた別々の“国家”だというのだから、これでは「しゃれが通じんのは当り前や」。───というわけで、以下この本の内容を紹介していきたい。

2.
 網野氏の東西日本自立国家説は、この本と論文「東国と西国──地域史研究の一視点」「南北朝内乱の社会史的意義」(共に『中世再考──列島の地域と社会』1986.日本エディタースクール出版部、に収録)で詳しく展開されている。東西日本異民族説は、「民族」の定義によって異論もあるだろうが、自立国家説は、私にとって自分の中で天皇中心史観を払拭しきれていないことに気付かせられた衝撃的な学説であった。
 我々の受けた学校教育では、「大和朝廷」による「統一」以来、日本列島は天皇を頂点とする単一国家として発展してきたという「通説」が教えられてきた。したがって、天皇の居住する畿内の文化・制度が普遍的・正統的なものであり、西日本と東日本の間の文化や民俗の違いは、単一国家内の地方の問題として解釈されてきた。一つの民族、一つの国家、一つの天皇、というナチスばりの歴史像が、常識として通用していたのである。
 さて、我々の学んだ教科書では、平将門(たいらのまさかど)は9 世紀中頃「承平・天慶の乱」を起こした「反逆者」であり、源頼朝は天皇によって任命された「征夷大将軍」として1192年、鎌倉に幕府を開いた、とされてきた。しかし網野説に立てば、関東八ヵ国から「本天皇」の国守を追放し、939 年「新皇」となった将門の戦いは、「東国『民族史』の中においてみれば、最初の国家の成立」であり、それ故将門の英雄伝説は長く東国人の心に残ったのである。荒俣宏の『帝都物語』は、将門の怨霊が「本天皇」の都になった東京を破壊する、実に過激な小説と言えよう。頼朝は幕府開設以前の1180年、鎌倉に居を構え、西国に対抗する権力を樹立、死せる以仁王(もちひとおう)を「新皇」とする「自立した東国国家は、ここに再びその姿を現した」のである。頼朝は、西国の朝廷に東国の統治権を認めさせ、「征夷大将軍」の官位を得ることによって西国の地頭職をも支配下に置く「日本国」の軍事的支配者になったのである。以後「沖縄・北海道を除く日本列島には、相互に制度的な関わりを持ちつつも、二つの国家、それぞれに統治権を行使する二つの権力が出現した」のである。
 しかも、東日本内部には東国と東北の対立、西日本でも西国と九州の対立という複雑な状況があり、九州と東国、西国と東北が互いに結びつきを深めていく。中世の歴史は、この相対的に自立した四つの地域が対立、抗争を重ねながら展開していくのである。この視点から見るなら、南北朝内乱は単なる天皇・公家勢力と武家勢力の争いではなく、天皇復権をめざす西国権力と東国権力、さらには東国権力内部での日本統一派と自立国家派の三つどもえの戦いだったのである。そして、東西日本統一政権の誕生は、徳川家康による江戸幕府の成立を待たねばならなかった。
「(関ケ原)の決戦に勝ち、大坂の陣を通じて、家康を主とする東国国家は、歴史上はじめて西国国家を征服したのである」。
 この本ではふれられていないが、1868年江戸幕府滅亡後、東北諸藩が「奥羽列藩同盟」を結成して西国の新政府に抵抗した戊辰戦争は、最後の東西戦争、新政府軍の江戸城占拠は西国国家の逆襲と言えようか。この時、列藩同盟が輪王寺宮公現(後の北白川宮能久)を「盟主」として(東武皇帝を称し「大政元年」と改元したという説もある)、将門以来の「新皇」をかつぐ東国国家の形態を踏襲したのは偶然であろうか。
 網野氏の研究は単に権力の推移を見ただけのものではない。国家の基盤となった社会構造、イエ的・家父長的・主従的な東国と、ムラ的・年齢階梯的・座的な西国との違いや、東西の権力を支えた民衆、とりわけ東国=九州、西国=東北を結んだ海の民、山の民の存在に注目している。そして稲作農業を生産の基準とし、畠作中心の東日本を生産力の低い遅れた地域としか見ない「発展段階説」では、東日本独自の発展をとらえることはできないと批判している。網野氏は東西別国家という一見極端な説を展開しつつ、日本列島の各地域の歴史を、支配者中心・権力所在地中心史観ではなく、地域の視点でとらえ直すことによって新しい日本史像を描くことの必要性を訴えているのである。

3.
 おおざっぱな紹介で、見落とした点もあるかと思うが、以下私がこの本によって気づかされた二つの点について記してみたい。
 一つは、天皇は日本列島の支配者「日本国王」ではなかったということである。
 我々の学んだ単一国家説に立つ日本史では、いやその結果である私の知識では、日本の政治権力の変遷は天皇の下での実権の争奪戦であり、天皇は利用される存在であっても常に形式的には日本列島全体の支配者であった。先に見た源頼朝による鎌倉幕府の開設も、日本国王の支配下にある「将軍」の統治機関であり、西国の天皇と対抗する東国の首長の政府とは理解されていなかった。したがって私には、後に被差別民とされる中世の職人が自らの職能の起源と特権の由来を天皇とその一族に求めている中で、一部の職人がその特権の由来を頼朝に求めていることが、長いあいだ理解できなかった。網野氏は『日本王権論』(1988.春秋社)の中で「鎌倉・室町時代には二人の王、琉球を加えると三人の王が日本列島にはいた」と明確に述べているが、近世においても東国と九州で、頼朝発行と伝える文書が、職人の特権を保証するものとして通用していたということは、東国国家の首長もまた聖なる王権であったことを雄弁に物語っていると言えよう。
 私の貧しい頭は、天皇は“聖なる王権”であるが、頼朝は“俗なる権力”にすぎない、と考えていたのである。「天皇」「将軍」という言葉が、王権の本質を見誤らせている要素は大きいと思うが、それはともかく、口先では天皇制を廃止し、日本を共和国に───などと言いながらも、西国人の私は骨の髄まで天皇制に呪縛されていたのである。この本を読むまでは気付かなかったとは、ああ情けない!
 二つ目は、王権にからむ「年号」の問題である。
 我々の教科書では、年号は天皇が定めるものであり、「年表」に載っていない年号は「私年号」であると教えられてきた。つまり年号の制定は、土地の支配のみか時間をも支配する者が帝王となる「公」的存在であることを示し、天皇の年号を使用することは、天皇の支配に屈伏することを意味しているのであるとされた。しかし網野氏は、最初の東国国家を築いた将門が年号を制定せず「暦日博士」をおかなかったことを「国家としての重大な欠格事項」とし、1181年、天皇が「養和」と改元した後も、頼朝支配地域で以前の「治承」を使い続けたことを東国国家の「独自な元号」と評価している。そして室町中期の東国で、「延徳」「福徳」という独自の改元が行われ、実際に使用されたことを「東国は完全に天皇の影響を離れた」とし、その背景に日光の宗教的権威を指摘している。地域で行われた年号を「私年号」と見る視点からは、「天皇の影響を離れた」歴史を描くことはできないであろう。 ひるがえって現在を見るなら、網野氏が「時間を天皇の死によって規定されるという、まことに珍奇きわまる事態をついにいまも許しつづけている日本人の一人であることに対する痛切な羞恥を、日本人の圧倒的な多数が共感することなしには、天皇は今後いつまでも『公』に関わりを持ちつづけるであろう」(「日本中世の自由について」注、『中世再考』所収)と記しているように、年号の問題はいまだ解決されざる現代の課題なのである。

4.
 単一民族幻想・単一国家幻想を打ち破ることによって、様々なものが見えてくる。天皇は日本列島にいた複数の王様の一人に過ぎない──という天皇制を相対化する視点は、その最大の成果であろう。従来の天皇制についての研究は、否定するにせよ肯定するにせよ、天皇の存在を絶対視することによって、その実態を過大にあるいは過小に評価してきたのではないだろうか。また畿内中心史観から、特殊なもの、例外的なものとして切り捨てられてきた各地域の独自の歩みを、日本列島の歴史の中に正しく位置付けることも可能になろう。
 部落史研究にも同じことが言えると思う。我々“西国人”には畿内の部落を一般的な部落と見なし、北陸や東北の少数点在部落を、あえて言えば“特殊な部落”と見る傾向はなかっただろうか。この本では「宿」の成立について、東西の相違が考察されているが、網野氏が言うように「差別の問題を本当に克服するためには(略)各地域の個性と実態に根ざしたきめ細かい研究」が不可欠なのである。
 それにしても、甲州(山梨)生れの網野氏が「たまり」や「赤だし」の味にカルチャーショックを受けながら名古屋でこれらの研究を進め、この『こわい考通信』が岐阜から各地に発送されているのは、何を意味しているのであろうか。名古屋も岐阜も東国と西国の中間、いわば国境地帯である。国境地帯には、東西の相違を相対的にとらえ、両側をつなぐ回路が隠されているようだ。地域の歴史を見つめつつ、東西の両側から越える、新しい日本列島の歴史像の創出に期待したい。

コメント.
 橘さんの職場は京都新聞社整理部です。
 ところでわたしの住む岐阜は、橘さんによれば東日本と西日本との国境地帯らしいけれど、岐阜では「かった」は「買った」であって「借りた」ではなく、うどん・そばの汁も関東風で濃いから、京都生れのわたしの感じからすると、アヅマに近い。しかし岐阜は中心からみれば周縁にちがいなく、理屈の東日本、情緒の西日本にはさまれているという点では、境界地域といえるかもしれません。橘さんの指摘は「周縁・境界にいる者はもっとがんばれ」との励ましとして聞きました。
*網野善彦氏著作目録(追加)
 『ことばの文化史』中世 1~4.
   勝俣鎮夫・笠松宏至・佐藤進一と共編著 平凡社 1988~1989

《 各地からの便り 》
地域活動または共同作業の実践から
栗 田 尋 美(京都)
 いつも、「同和はこわい考通信」をご送付いただき、ありがとうございます。
 通信No.30・31を拝読しながら、若干感じるところがありましたのでお便りします。(略)先ず、近況ですが、昨年 6月に行われた<部落解放研究第3回京都府集会>以降、徐々にではありますが、河原地域の活動がようやく府下レベルで知られるところとなったようで、最近では、滋賀県、大阪府下、徳島県、京都市・府下各地より、地域活動の実態について研修・交流を、地域として受ける機会が増えてきました。来られる方々は、地域や行政の関係者にとどまらず、一般的なコミュニティ活動のリーダーや子供会指導者等も含まれています。こういった研修・交流のつど残念に感じることは、いわゆる<解放運動>が行政等の<外>に向けられたものとして語られてはいますが、内に向けた活動として、あるいは共同作業として実践されている地域が、いまのところ河原以外に見当たらないことです。
 さて地域活動あるいは共同作業の実践的課題は、上から降ってくるものではなく、各地域ごとの必要性のなかからしか生れてこないように思います。ある意味では、部落解放に向けた実践はすぐれて地域性を帯びたものであり、具体的な個々の事象については個々に解決されていくしかないように思えます。<差別>は、地域周辺において最も具体的でかつ陰湿的であると思えることが多々あります。河原青少年センターは、河原地域が独自に企画・運営する事業として<地域プログラム>が設定され、地域内外を問わず同じ条件に基づく、<登録制>による活用がはかられていますが、この登録をめぐって、センターに来たい子どもとセンター(地域)に行かせたくない保護者との間に葛藤が生じ、それを通して、いわゆる<差別意識>が視えてきます。地域と周辺との間に、依然として<視えない壁>が存在することを感じます。この壁は地域内からは、被差別の<視えない壁>として存在してきましたし、周辺にとっては自分たちとを隔てる意識の上に成立させてきたやはり<視えない壁>であるように思います。壁の内と外との間に、内外を区別する根拠の一切無いことが明白である以上、この意識は<誰もが疑わない共通性=文化の中に仕組まれたもの>であるかのように存在し続けてきたものだと考えることが可能です。あえて<視えない壁>の内側に付け加えることがあるとすれば、地域として共同性が自閉したことによる閉鎖的な実態が残存していることだろうと思います。地域ではこのことを<文化が閉ざされた>ことによる地域の不利益だと考えています。
 河原地域の活動は、この<文化が閉ざされた>ことによる地域の不利益をどのように克服していくのかを、地域住民自らの実践課題として設定した時点から、その内容が変わってきたと言えます。地域の婦人リーダーが最近行われた交流会の席上で<十数年前に住宅が改良され、保育所が建設され、そして隣保館が建設された。住民要求の結果として眼にみえる物の要求が通ってしばらくたったとき、心の寂しさを感じた。そのようなときに、内に向けて厳しい実践を課せるリーダーが現れ、今までとは全く異なる方向の活動を共に進めていくことになった。そして今、何が変わったのかと言えば、自分自身の意識が変わっただけだと思う>と語っています。具体的には、<あいさつをしよう><玄関を使って出入りしよう>という呼びかけが新たな活動の始まりであったと聞いています。その後の主要な活動の流れとしては、地域のそれまでの経過をたどる<あゆみの会>から、子どもたちの教育の課題にスポットを当てた<子育て会>、そして子どもたちの教育や地域の教育力の向上を基盤として支える、文化環境の向上に焦点を当てた<ふるさとを考える会>へと続く、地域内に向けた活動が持続されてきました。
 河原地域では、<閉ざされた文化>をめぐる課題への対応として、このような地域住民の世代間交流を基本においた人間関係の活性化を軸とし、閉ざされた文化の回復や固有の文化の発掘をはかるとともに河原のアイデンティティを確認する、いわば内に向けた作業とともに、一方では、周辺を含めた広い視野での新たな文化環境の創造をはかる活動を設定しています。<閉ざされた文化>をめぐる課題が、必然的に地域の内に向けた課題と周辺との関連での課題との二面性を持つからだと考えられます。後者の活動は、地域内に向けたコミュニティ活動が熟成してきた、1987年10月の河原青少年センター開館をさかのぼること 2年前から、避けられない現実の課題として、その活用の方向が検討されてきたのです。
 ここから、地域における<共同実践>が具体的な課題として設定されることとなったわけです。一方的に既存の<文化>性に同化するのではなく、<誰もが疑わない共通性>であるかのように深く沈潜している意識の成立を無化するために、新たな共通性=文化的連続性を確保・創造する<共同実践>を具体的に位置付けていくことが必要となったのです。<共同実践の契機となる課題>を、私たちは<子育て>に求めました。河原青少年センターを地域側からオープンした根拠と展望は、誰にも共通してかつ課題となっている<子育て>を、とりわけ先端的課題である<地域としての子育て>として共同実践する過程に、新たな人間関係をつくりあげていこうとするところに求められると考えたわけです。センターを核として、共通体験を積み重ねる子どもたちは成長し拡大する集団であり、その子育てに必要な環境づくりを、広がりのある地域的な視点(共同実践課題としてとらえる)から見つめ直す。あるいは成長する子どもたちの人間関係をバネとして、保護者集団が新たな人間関係を創りあげる。いわば新たな地域社会づくりを目指した実践としてとらえることも可能だと思われます。ここに、差別意識の成立する背景を無化しうる可能性を想定することが出来るのだと考えています。また、センター通信誌<かわらっ子(=センターに集う子どもたちの総称)>を、行政と地域の共同編集により、センター登録者をはじめ不特定多数に向け、現在 700部発行していますが、登録者・保護者・職員・教員・ボランティア等々が自由に表現できる、<子育て>に関する情報誌としての位置付けをしているだけであり、<部落解放>をうたい文句にしているわけではありません。極めて一般的な、それでいて先端的な課題をとらえて、そこに新たな共通性を創り出すしかけをしていくことが<運動>の今日的な課題と言えるのではないかと考えています。河原地域の共同実践も緒についたばかりであり、突出しようとする意識と、ギャップを感じざるを得ない意識とのはざまで、有形無形に無数の葛藤があります。しかし、着実に実践を積み上げていくしかないように思われます。河原青少年センターに押しかけてくるかわらっ子やその保護者、そしてボランティアが徐々に増加してきた今日、河原地域の考え方とその実践が確実に支持されてきているように感じるからです。
 やや強引に私の<関心事>に引き寄せた感想になってしまいました。これまでの地域の内に向けた活動の集大成である、地域青年層の手による<かわらっ子第1集>、共同実践の摸索である<かわらっ子=センター通信誌>をお送りいたします。

コメント.
 宇治市における内と外との共同実践についてお便りをいただいた栗田さんは河原青少年センター(〒611 宇治市木幡河原5-5)に勤めておられます。

《 案内 》
 岐阜大学教育学部の授業「言葉と人間」が開講されました。毎週木曜日4限(3 時10分~4 時50分)、教育学部B 102教室.(聴講歓迎)

 4/12総論・言葉と人間(工藤力男) 4/19性差別と日本語(工藤力男) 4/26職業と人権(伊東久之) 5/10障害と人権(小川克久) 5/17民族と言語・アイヌ(工藤力男) 5/24民族と言語・朝鮮(工藤力男) 5/31宗教と人権(栗山義信) 6/7 教育とこどもの人権(神田光啓) 6/14環境と人間(杉原利治) 6/21部落 差別から考える・1(藤田敬一) 6/28部落差別から考える・2(藤田敬一) 7/5 沖縄から見た日本語(工藤力男) 9/6 教科書検定(梶山雅史) 9/13日本語と天皇制(工藤力男) 9/20総括討論(全教員)

*工藤力男さん編『修羅-授業:「言葉と人間」通信』が毎週発行されています。ご希望の方は藤田まで連絡くだされば本『通信』と一緒にお送りします。

《 あとがき 》
*甲山二審判決は無念でなりません。裁判が今後10年以上つづくことは確実です。岐阜の詩人吉田欣一さんは「無実の訴えを途中でやめてはいけない。やめたら権力犯罪の被害者である石川さんや山田さんに迷惑をかけるのだ」とおっしゃったことがあります
*どこまでやれるかわからないけれど、吉田さんの言葉を心にきざんで、山田さんに押しつけられた苛酷な生を身近に感じられるよう、数人の仲間とともに甲山デーのビラまきに精を出すつもりです
* 3月23日から 4月13日まで、大阪(2)、東京、京都、岡山の 5人の方から計 7,528円の切手、カンパをいただきました。ありがとうございます
*本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)

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