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《 再録 》
現実の階層意識にどう切り込むか
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藤 田 敬 一
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いまから十年ほど前、早稲田大学の男子トイレなどで連続して落書きが発見されたことがある。「早大にも差別あり(ヘンサチ差別)」と題された落書きには74、72、71、68、48の「ヘンサチ」のランクづけがしてあり、それぞれ「階級」として貴族、中流、下層、プロレタリア、部落民が、さらに「学部」として、法・商、教(体育を除く)・政、一文・理、二文・社、教(体育)があてられていたという。 つまり偏差値74点の法学部と商学部は貴族階級であり、48点の教育学部(体育)は部落民だというわけである。別の落書きでは国王-貴族-上流市民-中流-小市民-非人-外人というのもあったらしい。
ところで、一昨年の春、わたしは岐阜大学教養部の講義中に、これを紹介したところ爆笑が起こった。なぜ笑ったのか一週間、考えておくように伝えて講義を終え、次の週にレポートを書いてもらった。一五〇枚あまりのレポートからは心理的葛藤の渦に投げ込まれた学生たちのうめきが聞こえてくるようだった。困惑、不快、反発、抑圧委譲(転嫁)、諦観…。 しかし学生たちは必死になって自らの意識のひだに分け入ろうとしていた。他者に対する笑い、まなざしは、当然のことながら自らにはね返ってこざるをえない。
「自分の属する学部、学科でなくて救われた」との感想を述べた学生は多い。部落民=48=教(体育)に仲間と一緒に笑ってしまったものの「私にとってあの笑いは“お前なんか、虫けらだ”と言われているようにも感じた」と書いた音楽科の学生。笑ったあと、父親が中学の体育教師であることに気づき愕然とした学生。偏差値を基準にして友だちや自らをランクづけしてきた自分が恥ずかしい、情ないと述懐する学生もいる。 もちろん最下層に部落民を位置づけたことに目を向け、部落差別問題にふれたレポートもあり、「現在では偏差値別の身分制度が出来ているのではないだろうか」「身分なんてものはなんだろう。人間を階級づけられるものがあるのだろうか」と、この落書きに伏在する身分・階層意識の問題を見つめる学生もいる。他方、部落民に比せられた体育科のある学生は
と書いている。歴史上の身分制度の授業が、この学生の人間に対するまなざしのところまで届いていないのだ。 この落書きはジョークだ、パロディーだと軽く受け流すのも一つの考え方ではある。「もっと若者の笑いについて研究せよ」と忠告してくれる学生もいた。しかし、わたしには、学生たちの意識の基層にあるものが、なんらかの契機で容易に攪拌されて、表層に浮上し、階層意識と結びつくように思われてならない。あるいは偏差値によるランクづけが、階層意識を引き寄せるとともに、かつての身分を顕在化させるのかもしれない。いずれにせよ、学生たちの人間観、価値観の核心に偏差値によるランクづけがあるとみて間違いないのではないか。 もしそうだとすると、現実に生徒、学生がとらわれている人間観、価値観に切り込むことなしには、そして彼ら自身が、その呪縛から自らを解き放つ営みをすすめるのでなければ、身分制度は過去の一制度としてのみ理解されるにとどまるだけでなく、「えた」「非人」をあだ名に使う事象や、この落書きに類する事例はあとをたたないのではないかと、いまわたしは考えている。
コメント.
本稿は『社会科教育』1989年3 月号(明治図書出版)に掲載されたもので、再録にあたり、一部表現を改めたところがあります。
《 採録 》
藤田敬一著『同和はこわい考』についての報告
(差別とたたかう文化会議『かいほう』Vol.2-3.1989.2.10.)
一九八八年3 月20日の全体討論会(総会)は、総会で決議する事項は簡略にすませ、文化会議の今後のあり方と当面の課題は何かの実質的な討論を主体にすすめることになった。総会というより全体討論会でありました。/討論会は、沖浦さん、金城さん、辛さんの三人の発題でおこなわれた。開会の遅れと発題がそれぞれながかったので、会場全体での討論の時間が余りとれないまま、閉会の時刻が迫りました。/けれども、野間議長から、藤田敬一さんの『同和はこわい考』について緊急の提言があり、それに関わって、師岡さん、寺本さんの発言がありました。すでに七時になっていました。野間議長の提言を諒承して、閉会となったが、定められた時刻より二時間もオーバーしていました。
ところで、野間議長の提言の要旨は、「①『同和はこわい考』というタイトルがどうしても気になる。現実状況でそのタイトルがどう社会的に機能するか、配慮が必要ではないか。②「地対協」路線に対する行政への批判が不十分である。③差別・被差別の「両側からこえて共同の営み」との主張であるが、自分の場合、被差別の側に徹底して立ちきり、その深いところから発言していくことが重要。④そうした不十分な批判すべき点はあるが、藤田さんは狭山闘争をはじめ部落解放運動に深くかかわってきた人であり、決して差別者ではない。このことを確認しておきたい」といったものでありました。 師岡さんはそれをうけて、『同和はこわい考』を書いた藤田さんの真意が、あくまでも地対協を批判し、その融和主義を打砕くこと、そのために、真しに『共同の営み』を考えている。その藤田さんの問題提起は重要である、と自身の現実状況への認識をふまえての発言でした。 つづいて寺本さんは、「野間さんの提言を諒承したうえで、今、部落解放運動が非常に危機的な状況にあり、地対協路線にみられるように、部落解放同盟への攻撃が集中してかけられ、きびしいところにたたされている。そうしたなかで、少しでも敵に利するようなことはさけ、慎重であるべきで、討論が創造的なものにならなければならないということでありました。 この野間議長の提言を全員で諒承して集会を終えたのでした。とくに文化会議の見解として決議したのではないが、野間議長の提言はたんなる個人的見解ではなく、議長としての責任ある提言であったのです。 文化会議ではすでにそれ以前に、同誌が発行されてまもなく、運営委員会で文化会議の固有のあり方と存在意義を探るため、大賀正行研究部長(部落解放研究所-藤田注)に参加を願い、「部落解放運動の今日」の問題提起をうけ、糾弾中心の第一期から行政闘争の第二期、そして国際的な反差別共闘の第三期に入るにいたったこと、そこでの文化のたたかいの重要性について、部落解放同盟、とくに大賀さんの見解をきかせてもらった。その際、大賀さんからこれを読んでくれるようにと提供されたのが藤田敬一さんの『同和はこわい考』であった。大賀さんがどのような意図で提供されたかは、あきらかではないが、文化会議のありようとかかわりあるものとして運営委員会は手にしました。 だが、その後、これが中央本部見解として問題とされて以来、野間議長は、藤田さんと連絡をとり、直接に話し合って、これが不毛な討論に終わることなく、よい成果を得る方向でのりこえる方途を探り、その努力をされてきました。全体討論会での緊急提言もそのためであります。そのために強くこの討論会への藤田さんの出席を要請されてきました。師岡さんの万障くりあわせての討論会参加も野間さんの強い要請があったからであります。藤田さんをまじえての十分な話し合いを願っての要請であり、それは文化会議の議長としてとられたことであり、それをふくめて私たち文化会議として諒承したのでした。 残念なことに、野間議長との話し合いも、討論会への藤田さんの参加も得られませんでした。 その後、『部落解放』第二七九号で、部落解放同盟中央本部書記長の小森龍邦さんが、『大衆と共に興る』という小論で、野間議長の先の提言に言及されたのですが、それを文化会議の総会でまとめられ、議決された見解のようにとらえていますが、参加者全体が諒解したとはいえ、討議を経て決議したようなものではありませんでした。もちろん、諒解しあったものとして責任をおい、今後も創造的な相互の対応をすすめることはいうまでもありません。ことに、野間議長が「藤田さんは差別者ではない」と強調されたことは、共に文化会議の会員として今後のみのりある活動をつづけていくものとして重要であります。残念なことに小森書記長は、その点に触れずに小論を終えています。野間議長の提言の要旨としては不十分であるというほかありません。 こうした経過をふまえ、副議長の村田恭雄さんと事務局のメンバーが、藤田さんを訪ね、話し合いの機会をもちました。状況の経過を伝え、この問題をどう創造的にのりこえていくのか、その可能性を探ったのでした。その話し合いそのものは、みのりあるものであったと思います。
コメント.
すでに本誌で二回にわたって差別とたたかう文化会議「総会」(1988.3.20)における『こわい考』論議とその後の事情についてふれ( No.13、19)、文化会議の対応に注目してきたわたしとしては、今回このように論議の経過と一定の見解が発表されたことは、なにはともあれ喜ばしいかぎりです。それに野間宏さん、寺本知さんの意見の概略を知ることができ、小森龍邦さんが野間さんの意見を、一部欠落させて紹介したこともはっきりしました。
しかし野間さんの意見(報告では野間提言)がどうして文化会議の見解として受けとられるようになったのか、報告を読んでもまだよくわからないところがあって困惑するほかないというのが、正直な気持です。そこで以下、「創造的な討論」を願って、わたしの疑問点を二、三述べ、あわせて感想を記すことにします。 第一は、野間さんの意見に関してです。報告は、一方で「全体討論会」における「野間議長の提言を全員で諒承し」たが、それは「とくに文化会議の見解として決議したのではない」、「文化会議の総会でまとめられ、議決された見解」ではないとしつつ、他方では「野間議長の提言はたんなる個人的見解ではなく、議長としての責任ある提言であっ」て、参加者全員は「諒解しあったものとしての責任をお」うともいう。なんとも込み入った論理で、わかりにくさは否めない。 わたしにいわせると、「全体討論会」の参加者全員が野間意見を諒承・諒解(この言葉もわかりにくい)したのなら、「組織の見解(案)」として取り扱い、しかるべく総会で「組織の見解」に変えればすむことでしょう。そこのところがアイマイにされているので、わかりにくくなっているようです。このアイマイさが小森さんをして野間意見を「組織の見解」と誤解させたといえるかもしれません。 つぎに報告は参加者全員に野間意見を「諒解しあったものとしての責任」があるというけれども、どうしてここで責任の問題が出てくるのかわからない。出席した知人などは「野間さんの意見、考えはうけたまわった」ということで討論会は終わったものと理解していたようだから、「責任を負え」なんていわれたらきっとびっくりするにちがいない。 ともかく、わたしは、この報告を読んで、個人と組織、組織における個人と個人の問題は永遠の課題なんだなあとあらためて感じいった次第です。 第二は、小森さんの文章「大衆と共に興る」(『部落解放』1988年6月号)で紹介されている「文化会議総会の見解」なるものと、報告が要約する野間意見とが類似していることについてです。『通信』No.13で、わたしは「文化会議の総会で野間さんが口頭で見解を表明し、それがメモかなにかにされて部落解放同盟中央本部に伝えられたというのが、ことの経緯らしい」と推測をまじえて書きましたが、二つの文章の類似はこの推測が正しかったことを示しているといえそうです。ところが報告はこの経緯についてまったくふれていない。討論会参加者以外の会員にはまだ知らされてもいない野間意見が、ほぼ要旨通りに「組織の見解」として同盟幹部によって公表されたのはなぜなのか、明確な説明が必要でしょう。ことは文化会議の組織としての自立性、主体性にかかわるはずです。 ところで文化会議『かいほう』Vol.2-2 (1988.12.25)に「<差別とたたかう文化会議>の再結集にさいして、これまでの会員のみなさんに再度訴えます」と題したアピールが載っていて、こんなことが書かれています。
会員再登録催促の文章ですから、表現に多少の誇張があるのはやむをえないし、組織の外でなく内で批判してほしいというのも組織の内にいて努力している人からすれば無理ないとも思う。しかしそれにしても「会員の自覚的な参加が弱ければ弱いほど、文化会議は部落解放運動、部落解放同盟のたたかいに依存してやっと成り立つということになってしまいます」との文章は理解に苦しみます。なによりもこれでは「文化会議のあり方のきびしい反省」が帳消しになりませんか。 わたしには文化会議の組織運営に注文をつける気持など毛頭ない。ただ部落解放運動における自立と連帯、部落解放をめざす団体、個人の自立性、主体性が問われているといいたいだけです。 わたしは当初から『こわい考』について、公開の場で組織の枠を越え、自立した個人の間で論議することを願っていました。ですから「野間議長は…強くこの討論会への藤田さんの出席を要請されてきました。…残念なことに、野間議長との話し合いも、討論会への藤田さんの参加も得られませんでした」というのを読むと戸惑ってしまう。野間さんからの「総会」への参加要請については人づてに聞いてはいたものの、当日は先約があって出席できなかったのだし、野間さんと電話で『こわい考』についてお話したのは1988年6月、それもこちらからかけさせてもらったときが初めてでした。 しかしまあ、こんなことはいまとなってはどうでもよろしい。『こわい考』や部落差別問題の現状、部落解放運動の課題について、文化会議のみなさんと「創造的な討論」がこれからできるかどうかの方が大切ですから。
《 各地からの便り 》
私は、人間そのものを問うことをはじめたいのです
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M・N(京都)
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私は“「こわい考」通信”が発行されて以来、月1回が楽しみで楽しみで仕方ありませんでした。で、なにが楽しみかというと「こわい考」がでて、もう2年近く経とうとしているのに、今でもなお、あの本に対しての意見や、あの本が提起した問題について考えていこうとしている人がたくさんおられるということが。(もちろん私もその中の1人です!)
私ははじめ「こわい考」を1回だけ通読した時、何か「冷たい感じ」を受けました。『部落民のやっている部落解放運動に対して、そこいらのエリート教授が何言うてるねん。地対協と同じこと言ってるだけやんか!!…』今から思うと、何て私は人間を理解しょうとしない人間だったのだろうと、つくづく思います。が、その時点ではなぜか「怒り=部落民の怒り?」だけがこみあげていました。それが2回読み、3回読みしていくうちに、今まで自分のことを全てわかっているかのような態度をとっていたことについての自己批判のようなものがこみあげてきたんです。 “私は部落民だ。そのことで、わたしはおごりたかぶって他の人間に対して差別したり、抑圧したりしてきたということについて、今の今まで気づかなかったのである。”というわけなんです。私は要するに「被差別性」(この表現がいいかどうかわかりませんが)に負けていたんです。「被差別性」というものにどっぷりとつかって自己の差別性すら見えなくなっていたのであると思います。そのことに気がついて、“一体、部落民部落民っていうけど部落民っていう存在そのものって何なのか”について考えてみようと思ったんです。 今まで「部落解放運動とは何か?」ということについてはけっこう語られてきたと思うけど、「部落民って何?」っていうことについては、なかなか言われて来れなかったと思うんです。だって「そんなこと今さら言うことじゃない」みたいな。「部落民」という存在そのものがどういうものかわかっているかのようにふるまってきたのではないかと思うんです。今なぜ「部落民」という存在を問うのか?それは人間そのものを問うことをはじめたいからです。だからはっきり言って「部落民」というものにこだわらなくても良いことだと思うんです。とりあえず私は「部落出身者」である以上、何らかのかたちでそのことを問われる時がくるだろうと思うので考えようとしているだけです。私は人間、私たち自身を問う作業をしていきたいと思っています。<具体的内容は、またあらためて>…
コメント.
「自らの資格、立場の対象化、相対化の作業をはじめつつある青年が、いまここにいる」と思いながら読ませていただきました。少し気持がたかぶっていけません。M・Nさんの思索の深まりとどうむきあうかが、わたしの課題です。四月中旬、京都の大学で新入生歓迎の催しがあり、そこでお会いできるはず。ゆっくり話をしたいものです。なお下線部分はお手紙では××になっていました。
《 あとがき 》
*過日、ある被差別部落で話をさせてもらいました。ところが集会所に集まってくださった40人ほどの聴衆の中で被差別部落の人は自治会長さん一人だけで、あとは行政と学校の関係者に隣接の自治会や婦人会の方ばかり。有線放送で繰り返し案内して、結局4 人になりましたが。「同和の話は辛い」「勉強は地区外の人がやればよい」ということなんでしょうか。ここ数年、各地で同じような場面に出くわすことが多いようです。無理に出る必要はないと思うけれど、なにか理由があるのか気になります
*甲山控訴審第4回公判に出かけてきました(2/22)。一谷証人に対する弁護側の反対尋問で「精神遅滞児の一般的概括的特徴などない」という前回の証言が確認されたにとどまります。いよいよ裁判は証拠採否決定の段階に入ります。次回は 3月24日午後 1時10分から * 2月20日から3月4日まで、東京(2)、三重、愛知、福岡、岡山の6 人の方から計15,440円の切手、カンパをいただきました。また騒々社の戸田さんから封筒5000枚を寄附していただきました。ありがとうございます *本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。 |