『同和はこわい考』の十年
「同和はこわい考」通信インターネット版
『同和はこわい考』の十年 − なにがみえてきたか − 藤田 敬一
『こわい考』とその波紋

 『こわい考』は、岐阜でつくっていたサークル・太平天国社発行の『天国つうしん』に、一九八五年十二月から八七年四月まで「同和問題意識調査を読む」と題して断続的に連載したものがもとになっている。ちなみに「同和はこわい考」というのは、八六年十月号からつけたタイトルで、本にするとき書名にしたのだが、この表題はごく自然に頭に浮かんだ。「同和はこわい」という意識、心理の分析を抜きにして、あれこれ理屈をならべたてても意味がない。めざす本丸はこれだという気持であった。それに、「考」が考証、考究、考察、論考の「考」であることは少し辞書を調べればわかってもらえるだろうと思っていた。ところが、この書名が要らぬ誤解を与えた。わたしが「同和はこわい」と主張しているかのように受け取られたのである。ある県連に寄贈したら、「あれ、おまはんのセンスか」と詰問調の電話がかかってきた。彼との関係はいまも切れたままである。人には誤読の自由があり、誤解の権利があるというのは真理だとあらためて教えられたのだった。
 さて、『天国つうしん』の配付部数は一七○部、読み手はごくごく親しい友人・知人にかぎられていた。七○年代以来、部落解放運動の再生・蘇生をもとめて運動の渦中に身を投じ、悪戦苦闘しあたげく疲労困憊して岐阜に戻り、一から考え直そうとして覚書風に書き始めたものである。『天国つうしん』は規模といい、対象といい、ちょうどわたしの身の丈にあっていたから、力まずに考えを述べることができた。
 たしか八六年の秋ごろだったと思う。友人が「ワープロでうち直してパンフレットにしようか」「本にしたらどうか」といってきてくれた。うれしかったけれど、不特定多数の人の目にふれるような形にする気はなく、婉曲に断った。部落解放運動の中で書いた文章のほとんどすべてがなんの反応も呼び起こさなかったことに、正直いってまいっていたからである。師岡佑行著『戦後部落解放論争史』第五巻(柘植書房、一九八五年)が、部落解放中国研究会の機関誌『紅風』(一九七九年九月〜十一月)にのせた「部落解放運動の現状に切り込む論争を−『解放新聞』紙上の師岡・大賀論文を読む」を取り上げてくれたのが唯一の例外で、わたしの文筆をふくむ活動は完全な一人相撲、空振り三振だった。もう金輪際、運動にかかわって顔が見えない人を相手に文章を書いたり、話したりするようなことはすまいと心にきめていたのである。
 ところが、八六年十二月十四日、京都部落史研究所主催の「シンポジウム:地対協部会報告・意見具申の意味するもの」に参加したことで考えが変わった。所長の師岡さんがパネラーになり、事務局長の山本尚友さんが司会を担当するということで、開会挨拶の役がわたしにまわってきた。短い挨拶をしたあと、各パネラーの意見に耳を傾けたのだが、どなたの発言もみな地対協部会報告書と意見具申への批判に終始し、質疑応答もありきたりで、なかなか本題に入らない。こんな話を聞くためにわざわざ岐阜から出てきたのではないとイライラし、とうとう黙っておれなくなって、「地対協の意見が市民に受け入れられやすいことにもっと注目すべきだ」と会場から発言した。そしたら拍手が起こるではないか。わたしの意見を公表する意味が少しはあるかもしれないと思ったのはそのときである。
 さっそく岐阜に帰り、太平天国社の友人たちと自費出版の計画をたてた。自費といっても太平天国社に資金などあるはずがないし、友人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。そこで印刷業を営む戸田二郎さんに、こちらのふところ具合を打ち明けた。なんとか五百部ぐらいは発行できそうだという。五百部なら友人、知人が買ってくれるだろうということで出版に踏み切り、戸田さんに作業を始めてもらった。ところが途中でその話が阿吽社に伝わり、「あうん双書」の一冊に入れてもよいとの連絡があって、一転、阿吽社からの発行ということになったのだった。
 誰しも自分の書いたものが本になることはうれしいものだ。しかし、わたしは喜んでばかりいたわけではない。これまでの経験によれば、「主観的にどうであれ、客観的には差別の拡大、助長につながる」、「利敵行為だ」との批判が起こることが充分予測できた。わたしには、それらの批判に答える責任がある。お前に、責任を果たす覚悟はあるのか。どんな形で責任をとるつもりなのか。想像するだけで気の重くなるようなやりとりに耐えられる気力が、お前にあるのか。そんなことを自問し、自答していた。「この冊子を読んでくださる方に」「あとがき」「太平天国社の紹介」を書き終えて阿吽社に原稿を渡し、『こわい考』が自分の手から離れた段階でも、これから起こるであろう波紋を考えて緊張する自分をもてあまし、酔うと感情が高ぶり、われながら始末に負えなかった。
 全文七六頁、目次とうしろにつけた往復書簡などを加えてもわずか一三六頁、書棚に立てれば両側の本に隠れ、よほど注意しないと見落としてしまうくらいの小冊子である。ある人は「書店で見たが、薄っぺらなパンフレットだから買わなかった」というし、ある新聞社は「パンフレットだから書評の対象にはしない」ときめたという。分厚くて硬い表紙の本のほうに目移りするのが人情というものである。『天国つうしん』に連載中は、かすれがちな手書きのファックス印刷だったためか目を通さなかった人が、本になってウワサを聞いて初めて読んだということもあった。ことほどさように世間というものは、内容より体裁に惹かれるのである。また、無名の者より有名な人に重きをおくのも世の習い。あれこれ考えてみると、『こわい考』が無視されてもおかしくはなかったし、無視されるかもしれないと悲観的になることもあった。しかし『紅風』の編集をしていたころ、このテーマは遅かれ早かれいずれ共通の課題になると確信していた。もしそれが共通の課題にならないとしたら、部落解放運動に前途はないとさえ考えていたのである。
 八七年五月十六日、阿吽社で出来たての『こわい考』を手にした。五八年六月、部落問題研究所で木村京太郎さんから「部落問題を勉強するには、本を読むことも大切やけど、ともかく未解放部落へおいき。そこで人びとの暮らしぶりを見て、人びとの思いと願いを聞かしてもらうことが肝心やよ」とのアドバイスを受け、木村さんの名詞の裏に書かれた紹介状をもって京都田中の朝田善之助さん宅を訪れたのは七月中旬だった。あれから二十九年がたとうとしている。この小さな本は、部落解放運動の中で学び、考えてきた事柄がつまっていると思うと感慨深く、お世話になったいろんな人の顔が浮かんだ。師岡笑子さんならどんな感想をいってくださるか、無性に聞きたかった。わたしは、運動の中でしんどくなると師岡さんの家によく出かけた。師岡夫妻はわたしの仲人でもあるが、笑子さんとは学生部落研いらいの知り合いで、持病の喘息で酒が駄目な佑行さんにかわって相手になり、わたしのとりとめない愚痴を聞いてくださった。『こわい考』は愚痴の産物だと書いたことがあるけれども、愚痴をいうことによって情況を対象化し、問題のありかがわかることもある。黙って愚痴を聞いてくれる友人こそほんとの友人だとつくづく思ったものである。しかし、その笑子さんはすでにいない。「三十年目の答案」を読んでほしかった朝田さんもいない。そのころまだお元気だった木村さんと病床にある米田富さんには感謝をこめて一冊お送りすることにした。
 その日、校正原稿をもとに書いてくださった横井清さんの書評「『心理』と『思想』の狭間から」(こぺる編集部編『同和はこわい考を読む』阿吽社、一九八八年所収)の原稿を読ませてもらった。わたしの思いと考えをまっすぐに受けとめてくださっているのを知り、うれしかった。
 出版前に野坂昭如さんと土方鉄さんの推薦文を掲載したチラシを友人、知人に送っていたこともあり、各地からぞくぞくと電話などでの注文が届いた。京都部落史研究所の機関誌『こぺる』は、「『同和はこわい考』を読む」と題する連載を開始し、まっさきに紹介してくれた『京都新聞』は論説委員の吉田賢作さんとわたしとの対談を三回にわたってのせ、『朝日新聞』には編集委員の高木正幸さんの書いた記事が、『朝日ジャーナル』には千本健一郎さんによるインタビュー記事と「『同和はこわい考』論議の渦中から」の連載がのった。読者欄に住田一郎さんの投書を見つけ、それがきっかけになって知り合うということもあったし、発行から一年たって共同通信が『こわい考』とわたしを紹介する記事を配信し、それを読んだ島根県隠岐の読者から便りが届くということもあった。忘れられないのは、リラ亭のマスター木村勝次さんを初め、友人や読者が身近な人に勧めてくださったことである。 『こわい考』はみんなでいっしょに広めたのだった。現在の発行部数は三万、まわし読み、複製をいれると読者の数がどれくらいになるか想像もつかない。いまも読者を広げている。どうしてこのような現象が起こったのだろうか。
 『こわい考』の中で、わたしはおよそこんなことを述べたのだった。

(1)  八六年の地対協「部会報告書」「意見具申」、八七年の地対室「啓発推進指針」は、いわゆる自然解消論・部落責任論・部落更生論をとなえ、部落解放運動の存在根拠を否定している。しかし運動側の批判は地対協の主張が市民に受け入れられやすいことを見落としている。
(2)  動は好むと好まざるとにかかわらず、「同和問題はこわい・うるさい・面倒で避けた方がよい問題」「またか」「うんざり」といった市民の根強い意識を直視すべきである。
(3)  この間の運動、事業、教育・啓発の前進にもかかわらず、なぜ差別事象が頻発するのかという問いに、これまで部落問題解決のために取り組んできた者は真摯に答える責任と義務がある。ところが、いっこうに議論が起こらない。それは部落解放運動が「差別・被差別」の共同の営みになっておらず、対話がとぎれ、関係がゆがみ、ねじれているからではないのか。
(4)  「差別・被差別両側の隔絶された関係」を生み出しているのは、一方では「差別する側」と自己規定する人びとの「被差別側の体験・資格・立場」への拝跪があり、他方では、「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益は一切差別である」との差別判断の資格と基準をめぐるテーゼがある。
(5)  この隔絶された関係を変えるには、「差別・被差別の両側から超えて、差別・被差別関係総体を止揚する共同の営み」としての部落解放運動を創出する以外にはないのではないか。

 わたしのこうした意見は、運動、事業、教育・啓発の場で苦悩してきた人びとの問題意識と響き合ったのであろう、各地で読書会が開かれたり、わたしあての便りが届くようになる。矢も楯もたまらなくなって八七年六月、反響を伝え、誤読を正し、誤解を解き、書く人・読む人の境目を超えて問題のありかと解決の道をともに考えるべく、この『通信』を発行し始めた。いだいたお便りを独り占めする気になれなかったし、なによりも責任を果たしたかったのである。書いたら終わり、出したら終わりという文筆・出版の世界の常識など眼中になかった。長谷川初己さんが『紅風』の原稿を簡易タイプライターでうっているのを横で眺めながら、いつかは個人通信を出したいなあと夢見たことも関係しているかもしれない。わたし自身、この『通信』のおかげで『こわい考』以後も思索を続け、深めることができたと思う。
 『こわい考』は、予想していたとおり部落解放運動のこれまでの発想になじんできた人びとの戸惑いと反発を惹き起こした。実際、ある組織からは「異端審問」のような場に呼ばれたことがある。「『こわい考』は運動を妨害している」、「二つのテーゼ批判は運動の根拠を崩壊させるものだ」と批判する人。「部落民でないものになにがわかるかなどという話は聞いたことがない。ここで挙げられている例はほとんどが個人的な古い体験で、運動の現状を正しく反映していない」と非難する人。「安もんの週刊誌みたいな題名でつろうというところが気にくわん」と吐き捨てるようにいう人。三十年来親しくしてきた人にわかってもらえないのが辛くて胃が痛んだが、「ぼくも、そういって人を黙らせたことがある」と述懐した方、「素直な意見やね」と声をかけてくださる方がいて、ほっとしたことを覚えている。
 しかし八七年六月の部落解放同盟第四四回全国大会で名指しの批判を受け、十二月二十一日付『解放新聞』に、まるまる一ページをさいた『こわい考』批判の基本的見解が発表されるにいたる。「権力と対決しているとき − これが味方の論理か」との副題がついていた。お前は敵か、それとも味方かと問い、味方でなければ敵であるかのようにきめつけるこの基本的見解は、始まったばかりの開かれた論議に水を差そうとするものだった。見解が発表されるやいなや、わたしを避ける人が出てきたり、ある自治体からは講演を断る電話が入る。なんとも情けない話にムッとしたが、もはや同盟中央の見解でいったん始まった議論がしぼむことはなかった。議論がしたい、議論しようという空気が徐々に広がっていったからである。話を聞いてやろうという同盟支部もあり、孤立しているという感じはしなかった。
 同盟中央はわたしを「いびつな発想と差別思想の持ち主」と論難した。だが、どんなラベル、レッテルわたしにはったところで部落解放運動をとりまく情況にいささかの影響も及ばさないことに同盟中央は気づくべきだと考えていた。「いうことはわかった。これ以上発言せず黙っているように」とのサインが届いたことがある。いわれて黙るくらいなら初めから発言などしない。発言したかぎり、発言に責任を負い、その中で少しでも部落解放にいたる道を明らかにしたいと願ったのである。そしてこの十年、同盟中央の基本的見解にもかかわらず、論議はとぎれることなく続いてきた。それはなぜだろうか。
 「持続は力」という人がいるが、わたしにはこの言葉の意味がよくわからない。「力」とは何か。影響力という意味だろうか。そうではなかろう。それは「持続することによってつちかわれる思索の力」を指しているのではあるまいか。自分の言葉で思索し続けることで、それまで見えなかったものが見えるようになることがある。執拗に「人間と差別」について思索を続ける人びとがいたからこそ論議が継続できたのだと思う。『こわい考』はその素材になった。
 もちろん、人は忘れっぽくできている。熱は必ず冷め、風で舞い上がった葉は、いずれ地上に落ちる。いつまでも『こわい考』にかかずらわるわけにいかない。みんなそれぞれの問題を抱えているのである。いつぞやも書いたように、人は自ら信じる道を歩むしかないのであって、その道が交差するとき、出会いが生まれ、出会って挨拶を交わし別れゆくこともあれば、しばし同行することもある。『こわい考』を介してたくさんの人と出会い、そして別れた。寂しいけれどもそれでいいのだと思う。人はいつかは別れるのだから。
特異なのは、『こわい考』になみなみならぬ関心を寄せ、批判の文章を書き続けてくださった小森龍邦さんである。「もう相手にしなさんな」と忠告する人がいたが、わたしはしつこいほど小森さんの意見を紹介するとともに、反論した。小森さんだからではない。出版にあたって、批判する人が誰であろうとも、きちんと向き合おう、それがわたしができる責任の取り方であると思い定めていたからである。小森さんとわたしとのあいだで言葉の真の意味での対話が成り立たなかったのは残念だが、それは仕方がないとあきらめるほかない。
 わたしは、若いころから学生運動、日中友好運動、部落解放運動などにおいていろんな組織に属したことがある。その経験から、運動にかかわる組織に属するのは二度とご免こうむるときめている。ところが、小森さんは最近“同和はこわい考派”なるものがあるかのようにいいふらしている。先日、同じようなことを、古くからの友人からもいわれてびっくりした。ここではっきりいっておきたいのだが、そんなものは存在しない。八四年八月、太平天国社創立十周年を機に岐阜で開いた「交流会」が終わったあと、参加してくれた友人たちに送った礼状がある。そこには『こわい考』の原形的な考えがあるので引いてみる。

私どもとしては、今日の部落解放運動をとりまく情況が、各自のアイデンティティーを問うているのではないかと考えています。この十年、狭山闘争などを通して、多くの人が部落解放運動に加わりました。しかし「興冷め」現象も起こっているようにみえます。それだけに、これまでの部落解放運動のありかたと、私たちのかかわりかたに問題はなかったのかどうか、ふりかえってみることも無駄ではないはずです。差別−被差別関係の固定化と、組織・運動の物神崇拝から私たち自身、まだ自由ではないようですし、ステレオタイプ化した被差別部落(民)像も根強く、使いなれた言葉をあやつっていないとはいえません。そうしたなかで部落解放の課題そのものを見失かねない情況も一方にあります。
 その意味で、なにはともあれ部落解放運動にこだわりつづけてきた友人が一堂に会したことは有意義でした。二日間の議論は多岐にわたりましたけれども、「両側から超えて対話をつなぐ」ことをめぐってすすめられたといえます。これはいささかオーバーな表現をすれば画期的だったのではないでしょうか。

一回かぎりのつもりで開いた集まりが十三年も続くとは思ってもいなかったし、続けなければならないなどとも考えていなかった。次も開きたいと思い、開こうという人がいただけのことなのだ。「自分以外の何者をも代表しない」「結論や方針を求めない」「多数をめざさない」を唯一の了解事項として一年に一度だけ集う会が組織であるはずがない。こぺる刊行会にしたところで一口五千円の基金を寄せた人でつくったもので、会員にはなんの特典もないかわりに義務もない。『通信』にいたっては、この十年のうち数回、人に手伝ってもらったことはあるが、あとはすべてわたし一人で発行してきた。わたしと友人たちとの関係が組織に類するように見えることがあるかもしれないが、それはあくまでも外形であって、友人関係以外の何ものでもない。「個々人の自由な思索と意志にもとづく自主的な結合だ」といくら標榜しようと、組織というものはどこかで個人を縛る。そんなものはもうイヤなのだ。「ねばならぬ。べきである」と己れにも人にも強制したくない。自らの内なる声にだけ従って生きたい。「何事も義理と無理はあかん」「他人の褌で相撲をとらない」「天下国家から論じない」「わたしから出発する」「一人でできることは高がしれているけれど、一人だからこそできることがある」。これが、『こわい考』と『通信』をとおして、わたしが会得したものである。

部落解放運動をめぐって

 『こわい考』には大きくいって二つのテーマがあったように思う。一つは部落問題解決のための取り組みに関するものであり、もう一つは差別・被差別に関するものである。前者は運動・政治にかかわり、後者は心理・思想にかかわる。ところが、『こわい考』には部落解放運動の方針、展望がないと批判する人がいた。たしかに、わたしは今後の具体的な方針や展望を論じてはいない。むしろ、そんなものはないと指摘したのである。
 長くなるが、『こわい考』の一節を引用する。

 部落差別をなくすにはどうしたらよいか。いま部落解放理論は、この単純にして素朴な問いかけの前に立ちすくんでいるように、わたしにはみえる。いやいや、わが組織がかかげる解放理論にもとづいて運動をすすめれば、たちどころに解決できると豪語する人はいる。いつの時代にも、こんな楽天家はいるものだ。しかし、そんな快刀乱麻のごとき理論、方法があるとは思われない。疑う人は日々生起している差別事象 − 匿名のはがき・手紙・電話による嫌がらせ、落書き、結婚差別などをみればよい。これらの事象は、行政機関の怠慢の結果だろうか。(略)行政が差別の根源だと簡単にはいえそうにない。それではアメリカ帝国主義と日本独占資本、あるいは日本帝国主義が差別を再生産しているのか……。もう、こんな議論は止めにしよう。
 ところで、『戦後部落解放論争史』(柘植書房)の著者師岡佑行さん(京都部落史研究所所長)は、現在を新しい状況にもとづく部落解放理論形成の過渡期だと述べているけれども、あるいは過渡期のずっと手前にわたしたちはいるのかもしれない。かつて部落解放理論は明解に「部落解放への道」を指し示しているかのように思われたものだ。観念、意識諸形態は下部構造に規定されているのであるから下部構造を変革しさえすればよろしい。下部構造の変革とはなにか。生産力の発展にもとづく新しい生産関係の創造−革命、これである。一切の改良は革命主体形成のための手段にすぎない……。
 だが社会主義がぼやけ、革命がぼやけてくるにしたがって、部落解放理論もぼやけてくる。「目的」が薄れ「手段」が前面に出てきた。一九六五年の同和対策審議会答申がその指導理念となり、高度経済成長がそれを支える。同和対策事業によって劣悪な環境の整備もすすみ、七〇年代中期には五〇年代ごろの実態は大きく改善されてくる。狭山差別裁判糾弾闘争の展開とともに、被差別統一戦線・反差別統一戦線の結成が主張され、「被差別部落を住民自治、解放の町、根拠地に」というスローガンも提起される。世界的な反差別・人間解放の波と、それは呼応しているように受けとめられた。しかし、まもなく部落解放運動をめぐって状況は錯綜しはじめ、同和対策事業をめぐる不祥事が頻発し、組織矛盾が噴出する。その要因の一つには「行政施策の積み重ねによる部落解放の達成」という行政闘争論の問題があったのだが、その理論的検討は放置されたままである。部落解放理論は事態の進行に対応しきれなくなっている。
 こうした状況を前にして「あなたは同和問題を解決するためには今後どのようなことが必要だと思いますか」とたずねられたらどう答えたらよいだろうか。   (二九頁〜三一頁)

つまり、わたし自身が抱き、それにもとづいて活動してきたこれまでの部落解放にかかわる発想や理論・思想、方針や取り組みではどうにもならないということなのだ。これが、部落完全解放路線なるものを求めてさまよいつづけたあげく到達した結論だった。この部分に関して、大西巨人さんから「殊に、甚大な疑義ないし異見を抱く」「ここの文章(文体)は、いちじるしく弛緩していて、内容のいかがわしさを私にまず覚えしめる」と批判された(「部落解放を『国民的課題』にする一つの有力有効不可欠な道」、『朝日ジャーナル』一九八八年八月五日。大西巨人文選四『遼遠』みすず書房、一九九六年所収)。わたしの主張のどこがいかがわしいのか、よくわからない。資本主義・独占資本・帝国主義が部落差別を再生産しているといった旧来の考え方を一蹴したことが大西さんをいらだたせたのかもしれない。しかし、十年たったいまもこの主張を変える必要をまったく認めない。
 問題のありようからして、当時もいまも、なによりも先ずこれまでなじんできた発想、理論、思想の枠組みから脱却することが求められているのである。「この先は行き止まりだ」と考えて別の道を探し求めるか、それともあいも変わらず行政施策の継続・拡充を要求するか、それが問われている。かつて「部落解放運動は差別と欲のとも連れだ」と喝破した意見さえあった。要求・欲望を差別とつなげ運動に人びとを結集するというわけである。言い得て妙だと感心はしたが、部落解放運動としてそれでいいはずがないと思っていた。わたしは部落解放中国研究会などの活動をとおして、「腐敗と堕落、利権と暴力」批判から行政闘争論批判をへて、部落解放理論の行きづまりを確認するにいたる。
 前号であげた「部落解放運動の現状に切り込む論争を−『解放新聞』紙上の師岡・大賀論文を読む」(『紅風』一九七九年九月〜十一月)はまだまだ硬い言葉を使い、旧い枠組みを引きずったままではあるが、わたしなりの一応の結論だった。梅沢利彦さんはこの論文と『こわい考』との関連について、

誤解のないように断っておくが、これは批判のための批判、あるいは議論好きの理論いじりではない。「部落解放運動がよってたってきた思想、理論の具体的分析、具体的批判こそが、いまなされなければならない」、「この特措法十年が何を生みだしたというのか。それがまず問われねばならない」(『紅風』二九号一九頁)という問題意識に支えられているのである。部落解放運動の死活に関わる問題を論じているのである。(略)今回の『同和はこわい考』は俗流化したテーゼ(「資格の絶対化」・「基準の絶対化」)を批判の対象にしているが、七九年論文の延長線上のものであることは明白である。  (『こぺる』一二四号、一九八八年四月。前掲『同和はこわい考を読む』所収)

と述べているが、「部落解放運動の死活に関わる問題を論じ」ようとしたことだけはまちがいない。冒頭に引用した『こわい考』の一節は、ほぼ三十年にわたる活動と思索の結論を凝縮したものである。その後もわたしの問題意識に揺らぎはなかった。
 『こわい考』から一年、論議が一巡した段階で『こぺる』に、「部落解放運動をめぐる率直な論議を−あわせ聞けばあかるく、かたより信ずればくらし」(一二五号、一九八八年五月。前掲『同和はこわい考を読む』所収)を寄稿した。その中で、

部落差別とはなにか、その実態はどうなっているか、どうすれば部落解放が達成されるのか、といった部落解放運動の根本問題について、いまほど真剣に議論しなければならないときはない。(略)部落解放運動は重大な局面にさしかかっているだとか、情勢は厳しいだとかいってられるほど状況はなまやさしいものではない。運動の存在根拠が問われ、これまでの理論や考え方の再検討が迫られているのである。(一四六頁、一七五頁)

と書き、なぜ旧来の枠組みを破らなければならないかをあらためて論じたのだった。
 『こぺる』復刊第一号にのせた「運動は人と人との関係を変えたか − 対話がとぎれる現状をみつめる」(一九九三年四月)も、

これまでの取り組みは、部落差別(意識)を媒介にした人と人との関係にどのように切り込もうとしてきたのか、そしてどこまで切り込めたのか、もし切り込めなかったとすれば、それはなぜなのか。

を分析視点として、これまでの運動や事業、啓発・教育を検討したものであり、

第一に、一九五一年のオール・ロマンス闘争以来、「差別事件を行政闘争に転化せよ」とのスローガンのもとに行政施策の拡充が追求されたけれども、事業、施策はあくまでもモノやカネであって、モノやカネそれ自体としては、人と人との関係を変えられなかったということである。(略)
 第二に、偏見を克服し、部落問題の解決のために努力する人びとの輪をつくろうとして、広範に啓発・教育が取り組まれてきたが、教える人と学ぶ人との分離が前提とされている啓発・教育は、具体的な人と人との関係を変えるには自ずと限界があったということである。(略)
 第三に、人と人との関係を変えるという点では、被差別部落出身者と被差別部落外出身者が一堂に会し、共通・共同の課題について論議し、その解決に向けてともに取り組む意味は大きいはずだが、共同闘争・国民運動なるものの空洞化・形骸化は目をおおうばかりで、部落解放運動における被差別部落の内と外との溝は基本的には埋めることはできなきあったということである。(略)
 以上、要するに、糾弾闘争をふくめ、これまでの取り組みは全体として人と人との関係に切り込めず、その変革に成功してこなかったといえる。部落解放運動七十年のこの現実をどうみるか、これがすべての出発点である。

と結論づけたのだった。
 もちろん、わたしのこのような意見にかかわりなく、日々の部落解放運動は展開されている。各種の全国集会は人であふれ、そこでなにがしかの充実感を得る人もいるにちがいない。にもかかわらず「部落差別とはなにか。その実態はどうなっているのか。部落解放とはなにか。どうすれば部落解放を達成できるのか」を根底的に問わない取り組みの結末は容易に想像できる。
 「運動団体や運動についてどうのこうのいうのは、もういいんじゃないか。放っておけば」と忠告してくれる人がいる。しかし、わたしは、部落差別に苦悩している人がおり、部落問題の解決を求めて苦闘している人がいて、部落差別(意識)を媒介にした関係に縛られている人がいるこの〈現実〉から出発したい。差別の問題は人間存在の根源にかかわるがゆえに、運動・政治の問題は避けられず、心理・思想の問題、もっといえば文学・哲学の問題としてのみ扱うわけにはいかないのだ。少なくとも、わたしにとってはそうである。もし、人間の〈現実〉の苦悩を無視もしくは等閑視すれば、わたしの人間理解と言説は空虚なものにしかならないという気がする。こざかしい議論をする人はいくらでもいるが、〈現実〉と切り結ばない議論はいかに精緻に見えようと空疎でしかない。あくまでも〈現実〉と格闘する人びととつながりながら「人間と差別」について考えたいのである。
 『こわい考』から四年、部落解放運動に注目すべき動きが現れた。大賀正行さんの部落解放運動第三期論である(『第三期の部落解放運動−その理論と創造』、人権ブックレット三〇、部落解放研究所、一九九一年七月)。わたしは、この著作から大賀さんの運動の現状に対する危機感を読みとった。彼はこういっている。

「部落解放とは何か」「どういう状態をもって部落解放というのか」ということを規定する必要があります。「そんなもん、まだ先のことや」「そんな抽象的なこと、議論しても観念論になる」ということで、今までこんな議論を余りしませんでした。しかし、そろそろはっきりさせる必要が出てきたと思います。(略)第三期を強調するというのは、今まで通りのやり方ではいけない。部落民とは何か、部落解放とはどういう状態をいうのか、理論的にもはっきりさせて完全解放ということを射程に入れて、お互いに知恵を出し、腹をすえて取り組もうということです。(一八頁〜一九頁)

大賀さんは「部落解放とはなにか」を、将来実現されるであろう「ある状態」と考えているようだが、そのことはさておき、運動にとって肝心カナメのこのテーマを議論してこなかったと告白するその率直さ、「今まで通りのやり方」ではその先は行き止まりだというその感覚こそ、わたしが運動に求めてやまないものだった。
 翌九二年五月、部落解放同盟第四九回全国大会において上杉佐一郎さん(当時委員長)は「沈滞と保守主義を排し、旧態依然とした『部落観』や闘争スタイルから自らを解放していくことが急務」だとして、中央理論委員会の再開を提案し、それにもとづいて同年八月、上杉さんを委員長、小森龍邦さんを事務局長とし、大賀正行・村越末男・鈴木祥三・石元清英・野口道彦・三輪嘉男・小林茂・寺沢亮一・土方鉄・田村正男・元木健・森実さんらを専門委員とする四部会体制を整えて出発した。とりわけ、大賀さんを部会長とする第三期運動論部会は基本的課題を扱う中軸で、理論的諸課題として、

 (1)部落解放運動とは何か(歴史的総括と現状)
 (2)部落完全解放とは、いかなる状態か
 (3)完全解放への条件整備はどうあるべきか
 (4)部落の完全解放と国内外の反差別闘争との関係はいかに位置づけられるべきか
 (5)部落解放運動の将来展望

があげられた。その一つひとつが部落解放運動七十年の総括と深く関連している以上、どのような内容のものが最終的に出てくるか、当然わたしは注目した。
九三年十月、名古屋で開かれた第二七回部落解放全国研究集会第五分科会で、

(大賀さんの)極めて率直な意見、提言に感動すら覚えます。今の大賀さんの考えだったら、数年前の『同和はこわい考』の出版に対して、中央本部がとった圧殺の態度はとられなかったでしょう。大賀さんは、『こわい考』に対して再評価はないのでしょうか。いずれにしても、いまだかつてない率直な開いた解放同盟の姿勢にエールを送りつつ、提言する段階においても、同様の認識で取り組まれることを切に要望します。

との参加者から出された意見を大賀さん自身が読み上げて紹介したという。この分科会には上杉さんもパネラーとして出席していたから、これは明らかに同盟中央の姿勢が変わりつつあることのきざしであり、「提言」が思い切った内容になるのではないかと、それなりに期待した。
 一年近くたって中央理論委員会の「提言」として出されたのが部落解放同盟中央本部編『新たな解放理論の創造に向けて』(解放出版社、一九九三年十一月)である。そこではこういっている。

これまでの運動と組織は、「特別措置法」時代の終結により大きく構造的転換を余儀なくされることは明らかである。また、権力による新たな攻撃に対する備えも必要である。しかるに法延長慣れというべきか、法期限後に対する危機意識が欠如している。また、「特別措置法」という有利な条件は一部に「甘え」や「行政依存」のぬるま湯的状況と自主解放の精神を麻痺させ、一種の「バブル運動」ともなりかねない危機的状況を生みだしている。(略)部落の実態や部落大衆の生活の大きな変化、部落をとりまく周辺地域や国民意識の変化は、従来の要求や運動に転換を求めている。行政闘争主導の第二期とも言うべき時代の、とくに「特別措置法」以後の運動の総括、わが組織の長所と短所、あるいはその強さと弱さをえぐりだし、「部落解放運動とは何か」「完全解放を担いうる主体はできているのか」と自問し、大胆な点検と改革への取り組みが必要となっている。(一七頁)

「危機意識の欠如」、「行政依存のぬるま湯的状況と自主解放の精神の麻痺」が見られるという。この程度のことなら七○年代中・後期の運動方針にも書かれていたが、それが旧来の発想、理論、思想の点検へとつながるとすれば運動に転換をもたらす可能性があると、わたしは考えた。そんなこともあって、『こぺる』誌上で大賀さんと対談したのだった(「部落解放運動新時代の可能性」一七号、一八号。一九九四年八月、九月)。九六年夏の部落問題全国交流会に大賀さんを招いたのも、運動内部における発想の転換について議論がしたかったからである。
 だが、危惧していたように、「(運動と組織の)大胆な点検と改革への取り組み」は提唱したことすら忘れられ、部落解放運動第三期論は反故にされた。格差をもって差別だとし、人権予算の名のもとに特別措置の継続を要求する主張が罷りとおっている。新綱領をめぐる議論の低調さに現れているように、「部落差別とはなにか。その実態はどうなっているか。部落解放とはなにか。どうすれば部落解放を達成できるのか」といった根本問題を考える気力はうせてしまっている。運動は今後ますます迷走するだろう。そうなれば、部落解放運動はなんのために存在するのかという根源的な問いが公然と投げかけられるにちがいない。いや、そんな問いが出されるならまだしも、黙って人は去るかもしれないのである。そのとき、「人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは寧ろ必然である」(水平社宣言)と自信を持って答え、呼びかけられる人がどれだけいるだろうか。
 運動の中で苦悩している人は少なくない。先日、ある支部の幹部たちと話し合う機会があったが、若い一線の活動家なのに元気がない。よく聞いてみると、日々の活動が「部落解放」につながっているという実感がないというのである。そこで、『こわい考』以来、わたしなりに思索したあげくたどりついた次のような「部落解放への見通し」を語った。

おたがいに差異を認めつつ、一人の「丸ごと生命いっぱいの人間」として向き合い、民族や性別、生い立ちや障害など個人の自由な意志で選択したわけでなく、個人の努力で変更できない事柄を口実にして他者を忌避・排除する差別に立ち向かう共同の営みを続けるとき、気がつけば両側を隔てていた溝が埋まり、壁が消え、差別・被差別の二項対立ではない、新たな関係が生まれているにちがいない。部落差別とは、結局のところ人と人との関係に帰着する以上、個人と個人の関係を人間らしいものに変えることから始めるしかないのではないか。

わたしの話がどこまで青年たちの心に届いたかわからないけれども、「この先は行き止まりだ。しかし、発想を転換して、もっと広く深く人間の問題として差別を考え、人と人との関係を人間らしいものに変えるべく、関係を変えたいと願う者が一歩踏み出して努力する先に道は開ける」ということだけは伝わったように思う。
 このようなわたしの意見を「部落解放をめざす運動と組織の解体論になるのではないか」という人がいる。「初めに運動・組織ありき」ではなくて、「わたし」から出発し、個人と個人との関係を重視するという意味ではそういえるかもしれないが、だからといって既成の運動と組織を解体せよと主張しているわけではない。同盟中央の動向とかかわりなくこれまでの取り組みを振り返り、運動と組織の発想転換をすすめようとしている人びとが現にいる。特別措置・特別枠になじんできたことによる影響は根強く、そう簡単に発想の転換がすすめられるとは思われない。しかし困難を承知で「旧い自己からの脱皮」に挑む人びとがいるのである。組織・集団に縛られず、さりとて組織・集団を否定せず、それらの人びととゆるやかな呼応の関係をたもちつつ、わたしは「わたしの部落解放運動」をつづける。

呪縛から解き放たれた関係を

 『こわい考』が波紋を呼んだ主な原因は、部落解放運動における対話のとぎれとその背後にひそむ差別・被差別の隔絶された関係を具体的に指摘したことにあったように思う。
 ある読者はこう述べている。

何かひっかかるのです。これが何なのか、いろいろ考えてみました。だいたい学者さんというのは、物事を客観的に冷静に見る眼を必要とされる商売です。だから、何か、突き放したような書き方になるのは仕方がないとは思いますが、どうもしっくりしないのです。それがなぜなのかを、ずーっと考えてみて、次のような結論が出ました。
 それは、作者に、部落差別に対する“怒り”みたいなものを、あまり感じないということです。いったい、作者には「差別は許せない!」「部落を解放しなくちゃいけない!」という、必要とでもいうか、せっぱつまったものはあるのでしょうか。(略)ぼくの場合、自分が直接差別されて、その“怒り”をバネに、運動をはじめ、自分の子どもにだけは同じようなめにあわせたくない、もし、子どもが差別にあっても、その時、言い返せるだけの力をつけてやりたいという気持ちできょうまで続けてきました。この作者が、運動を始めた契機は何なのでしょうね。作者にとって、部落差別は、どうしてもなくさなければいけない必要のあるものなのでしょうか。(『同和はこわい考通信』一二号、一九八八年五月)

この人は、「ぼくは、この本が気にいりました」と書き、「解放同盟中央の物乞い路線」「差別の切り売り」を批判しつつ、わたしの物言いが客観的にすぎる、冷静すぎる、何か突き放したような感じがする、部落差別に対する怒りが感じられないといい、わたしに部落解放運動にかかわる契機、必然性があるのかと問う。
 彼が求めるのは、「差別は許せない!」「部落を解放しなくちゃいけない!」と、“部落差別への怒り”を自分たちと共有し、その“怒り”を、表情・しぐさ・言葉・行動で表現するような人間なのであろう。
 人は、苦しみ・悲しみ、憂さ・辛さ、怒り・嘆きを共有する人を求める。他者との交感・共感・同感を願わぬ人はいない。願うからこそ言葉を発し、文章を綴るのである。そのことを否定しているのではない。問題は、運動や組織が「怒りの共有にもとづく一体感」を必要とし、それによって「こちら」と「あちら」を区分けし、「こちら」の団結心と「あちら」に対する闘争心を高めようとすることなのだ。この「怒りの共有にもとづく一体感」が事柄のありようを見えなくさせ、人と人との関係をいびつなものにしてきたのではないか。
 わたし自身、部落差別の現実への怒りと「怒りの共有にもとづく一体感」なるものに舞い上がり、まわりの人びとが見えず、事柄のしくみが見えなかったのである。そのあたりのことについて、『こわい考』ではこう書いた。

わたしも偉そうなことはいえない。つい最近まで「差別の結果」論にとらわれていたのだから。思えば、学生時代に朝田善之助さんから「反社会も社会性としてとらえること」と教わって目からうろこが落ちたような気持になったものだ。社会的秩序からの逸脱行為としての「反社会」も「差別の結果」論というプリズムを通すことによって、了解可能となるばかりでなく、その「暴力」すらも反体制、反権力、反秩序の位相にあるようにみえたのだった。(略)しかし、どこかに違和感があったことも事実である。被差別部落民、部落解放運動、部落解放同盟にすり寄っている感じが抜けなかった。それは、いまから考えると、わたしの「被差別像」がありきたりの啓蒙主義的なそれから一歩も出ていなかったからだ。その意味で、わたしは、まぎれもない随伴者であった。「主体なき同一化」を特徴とする随伴者であるかぎり自己との緊張も生まれようがなく、したがって差別・被差別関係の全体像をとらえることは不可能だった。(『同和はこわい考』六七頁〜六八頁)

「差別の結果」論による正当化は、わたしの論理でもあった。
 「こちら」と「あちら」がある以上、どちらにもそれぞれの理屈と論理があるわけだが、わたしは一所懸命「こちら」、つまり部落民と部落解放運動と部落解放同盟に身と心をすり寄せてきたように思う。七○年代には糾弾や行政交渉に加わり、激しい言葉を相手に投げつけたこともあるし、研修会では「部落問題を自分自身の問題として受けとめたもらいたい」と語気を強めて語り、「無知は差別だ」といいつのったこともある。しかし、わたしの怒りと使命感は空まわりしただけでなく、気がつけば人びとの心を閉ざすことになっていた。
 次第に「こちら」と「あちら」の二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがさないかぎり、差別問題の実相は見えてこないと考えるようになった。「二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがす」とは、「側」に身と心をすり寄せない精神、あるいはどちらの「側」にも出入り自由な精神、要するに呪縛から解き放たれた精神をもつことである。それがいかに困難であるかわかったうえで取り組もうとしたのではない。傲慢に聞こえるかもしれないが、そうするしかなかったのである。『こわい考』は、「部落差別への怒り」を語ることを課題としていないのだから、「怒りの共有にもとづく一体感」を他者に求め、それになじんできた人にとってしっくりこないのは当然だったろう。ましてわたしを知る活動家が、味方だと思い、横並びでいっしょに歩いていたつもりの人間が突然一歩前に出て振り向きざまに注文をつけたように感じ、戸惑ったとしても無理からぬところがある。
 だが、同盟中央にとっては戸惑ったままですませるわけにはいかなかった。なぜなら、『こわい考』は部落解放運動の思想的な根拠を揺るがすものと受け取られたからである。
 ところで、先にあげた読者の感想には、どことなく「部落差別を受けたこともなければ、受ける可能性のない人間」に対する不信が感じられる。そうでなければ、作者(藤田)に部落解放運動にかかわる必然性、「せっぱつまったもの」があるのかと問うわけがない。しかし、さらにその底に、部落民である「ぼく」にはそれがあるという気概、「生きること、毎日の生活そのものが、差別とのたたかいである」(同上)という思いがある。このような「問いと気概と思い」が呈示されたとき、人はどう応えることができるだろうか。たいていの場合、沈黙するしかないのではないか。かくして、沈黙は対話のとぎれへとつながる。
 わたしは、いくどとなく「部落民でない者になにがわかるか、わかるはずがない」「足を踏んでいる者には、踏まれている者の痛さがわからない」といわれてきた。それは決してわたしだけの経験ではなかった。これに類する言葉が吐かれたり、あるいは「被差別」の体験・資格・立場が披瀝されることによって対話がとぎれてしまう事態が広く見られることは、多くに人が体験的に知っている。事柄は、部落問題にかぎらない。差別・被差別、抑圧・被抑圧、侵略・被侵略などなどにかかわる人と人との関係に共通する問題でもあるはずだ。
 わたしは対話がとぎれる原因を「差別される」側にだけ求める考え方を退け、そのうえで、しかし「被差別」の体験・資格・立場を絶対化することによって批判の拒否、共感の喪失、自己正当化の傾向を生み、それが差別・被差別関係の固定化を惹き起こしていることに目を向けるべきだと指摘した。わたしのこのような意見は「被差別側に責任を転嫁するもの」として反発を招いたのだった。反発した人の中に、「差別する」側の人間に「差別される」側を批判する資格はないという発想がなくはなかったと思う。それを一番率直に表現したのが小森龍邦さんだったが、濃淡の違いはあれ、感情的に反発した人に同じような心理的葛藤があったことはいなめない。ある旧い友人は『こわい考』がきっかけになって、自らの中にひそんでいた「部落民でない者に、部落民の気持が通じるはずがない」という心理・意識を一気に表面化させ、反発するということも起こった。意識の底に抑圧されていたものが噴き出した結果にちがいない。
 『こわい考』は、部落解放運動が暗黙の前提としてきた「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」という考え方でいいのかと問題提起した。そのために部落解放運動の根拠を揺るがすものとして批判されたわけだが、批判それ自体がかえって部落解放運動の依拠してきたのが、他ならぬこのテーゼであることをはっきりさせたのだった。いまでは大きい声でこのテーゼを主張する人はほとんど見られなくなったとはいえ、根はまだ残っている。運動の基調として復活する可能性はなくなっていない。もし復活するなら、いよいよ部落解放運動は孤立化の道を歩むしかあるまい。
 しかし『こわい考』の提起を受けて、新たな関係を模索しようとする人もいた。当時、部落解放同盟奈良県連書記長だった山下力さんは、次のように述べている。

すでに部落解放運動は六五年余の歴史を重ねてきた。その道すがら、多くの部落民でない人びとの関わりがあった。革命を志す人たちがいた。労働運動や農民運動の活動家がいた。差別の現実に憤慨して参加してきた正義感に満ちあふれる人たちも少なくなかった。そして、教師や学者、研究者、学生などのインテリゲンチャもいたのである。とりわけ、六五年の同和対策審議会「答申」、六九年同和対策事業特別措置法の制定と七〇年狭山闘争の開始によって大衆運動の高揚が導き出された頃には、まさにきら星のごとくに多才な人材が部落解放運動の周辺に見えかくれしていたものである。
 しかし、いま、その潮は静まりかえっている。これは一体どうしたことであるのか。確かに「足を踏んでいる者が踏まれている者の痛さをわかろうとしなかった」と結論づけて済ませられる人たちも少なくなかったのは事実であろう。しかしながら、すべての人が「そうであった」と私も思わない。思いたくないのである。私たちが追求してきた反差別共闘や部落解放国民運動が全く意味をもたなくなるからである。「なにがあったのか」という私のとまどいに藤田さんはズバリと切り込んできた。すなわち、部落解放運動に関わりをもってきた部落外の人々へのわが同盟の活動家の関わりに問題があったというのである。この問題提起を私は率直に受けとめたいと思う。
 部落民に限らず、被差別の立場にある人々には、各々固有の「感情の襞」のようなものがある。(略)差別問題と関わるとき、常にこの固有の「感情の襞」は大切に凝視しつづけなければならない。なぜならば、過去から現在に至るまで被差別の立場にある者は、逆の立場の人々からこの懊悩を無視され、傷つけられてきたからである。だからこそ、「お前らに何がわかるか」と殻に閉じこもろうとしてきたのだ。正直に言えば、私もその気持を捨てきれずにきた。
 しかし、いま、藤田さんは私たち活動家にその殻に逃げこむなと告発してきたのだ。誠にしんどいことを言う人である。実際のところ共同闘争の現場は困難が山積している。不毛の土地に小さな石積みを繰り返していく苦悩がある。これまでのささやかな経験などは何の役にも立たない。疲れて逃げたくもなる。それでいて部落解放運動の活動家としての立場だけは守っておきたいと思う。こんなとき、私たちが逃げ込んできた殻は、実に「甘酸っぱい」香りがする心安らぐ場所であった。
 藤田さんに見つけられたので私はもう秘密の場所には隠れないことにする。今日の部落解放運動の状況は、そんな甘っちょろいかくれんぼが許されるほど悠長なものではない。あらゆる被差別の立場の者が互いに課題を突きつけ合い、また、差別・被差別関係総体の止揚にむけた「具体的で、緊張にみちた共同の闘い」を模索しなければと私も考える。少なくなったけれども私たちの周辺にはまだ、部落解放運動に真摯に関わりつづけている部落民でない仲間がいる。どんな厳しい批判を彼らがしようとも、「部落民でないお前に何がわかるか」などと決して言うまい。いわんや、「それは日共と同じ役割をする利敵行為だ」とか「融和主義だ」などのレッテル貼りなどで守れる立場や権威など、運動に百害あって一利なしだと考える。批判の拒否は、結局のところ自らが「裸の王様」になる道しか残されていないと確信するからである。 (「ここちよい殻から抜け出すとき」『こぺる』一一八号、一九八八年十月。前掲『同和はこわい考を読む』所収)

長い引用になってしまった。わたしの問題提起の核心部分が確実に山下さんに受けとめられていることを知ってほしかったからである。
 「被差別正義」が罷りとおり、開かれた議論がなされず、対話がとぎれるかぎり、部落解放運動はいつまでたっても共同の営みにならず、「差別される」側が主人で、「差別する」側は客人という構図は変わらない。わたしは自らを客人と位置づけ、それらしく振る舞うことでよしとするわけにはいかなかった。なぜ客人として遇されることでよしとしなかったのか。それは、主人・客人の関係は接待の場面ならいざ知らず、人間の問題としての部落差別をともに考えようとする場には似つかわしくないからだ。なにより、それではあまりにも他人行儀、よそよそしすぎる。
 では、どうしたらよいか。わたしがたどりついたのは、体験・資格・立場の相対化と差別・被差別関係の対象化であった。
 『こわい考』に、こんなことを書いている。

自己の成育史や生活体験を絶対化してしまうと、他の人にも程度と質の違いはあれ、それなりの苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さがあることへの配慮がなくなり、「やさしさ」を失う。他者への共感がないところで人間解放への希求を語っても説得力はない。(六八頁)

体験・資格・立場の相対化とは、簡単にいえば自分だけが、自分たちだけがこの世の中で一番不幸だと考えないことである。ところが、伝統的な部落第一主義・部落排外主義的な考えが根強かったところへ特別枠の行政措置が重なったのだから、部落問題と部落民が特別化され、それが特権化を生む危険性があることへの警戒心が緩むのはやむをえなかったのかもしれない。特別化と特権化を防ぐには、体験・資格・立場を常に相対化する必要があったのだが、特別措置要求の合唱の中で、そんな声はかき消されるほかなかった。
 当然のことながら、そこでは紋切り型(ステレオタイプ)の部落民像が横行せざるをえない。先に引用した読者の感想のように、「部落民にとって、生きること、毎日の生活そのものが、差別とのたたかいである」と口に出していう人がいた。かつて啓蒙主義的な被差別像にとらわれていたころのわたしなら、こんな言葉を聞くとそれだけで降参していたが、次第にほんとにそうだろうかと疑いを抱くようになる。過剰な思い入れにもとづく誇張された自画像としか考えられなくなったからである。そんな暮らしをつづけていたら、しんどくなってつぶれるにきまっている。愉しいこともうれしいこともあっての暮らし、生活であるはずだ。それに他者の苦しみ・悲しみ、憂さ・辛さ、怒り・嘆きにときとして心を寄せ、共感・同感することはあっても、それらと無関係に日々の生活が過ごせるという人間の現実、限界から「部落民」だけがまぬがれているわけではないのである。暮らし、生活の一面を切り取って大写しにしたり、心理の揺れを拡大するとき、虚構が入り込む。
 ここまで来ると、「部落民とはなにか」という問題まであと一歩である。
 「部落民」をどう定義しても収まりきらないものがある。つまり、あいまいになってしまうのだ。

被差別部落民を一義的に概念規定しようとすることが無理なのです。なぜなら被差別部落民は法制的な存在ではなく、社会的な存在だからです。社会的な存在とは、この列島上に展開されてきた歴史に深く根ざしつつ、今日ただいまの暮らしのなかに生きる、部落差別を媒介にした人と人との関係においてイメージ化される存在だということです。/つまり被差別部落民を、なにか実体として存在するかのように概念規定するのでなくて、たとえばサルトル風に「被差別部落民とは、他の人びとが、被差別部落民と考えている人間である」(略)ぐらいにしておくほうが、固定的な幻想としての“被差別部落民”像から自由になり、立場・資格の対象化へとつながりやすいと思う。(略)
 そこで、わたしが考えるに、誰か他者を被差別部落民として見たり、遇したりする人、誰か他者から被差別部落民として見られたり、遇されたりする人それぞれが自らの“被差別部落民”像をたどり、部落差別を媒介にした人と人との関係をみつめ、おのれの生き方を選びとるしかないのではありませんか。そのときひょっとしたら立場・資格が対象化、相対化され、これまでのねじれた関係にもとづく出会いではなく、もう少しましな個人と個人との出会いが生まれるかもしれません。(略)とりあえずは「両側から超える」の「側」をとっぱらい、しかし現に生きている「側」にこだわり、部落差別の現状をみすえ、共同の営みをまさぐる、そんな人と人とのつながりを求めて、わたしなりに思索をつづけることにします。
 (「わたしのなかの“被差別部落民”像をたどり、人と人との関係を考える − 住田・灘本往復書簡を読む −」、『同和はこわい考通信』五四号、一九九二年二月。一部語句補正)

これが一応の結論だった。「あいまいさ」を逆手にとり、「あいまい」であるからこそ「個々の解き放たれた関係」がつくれるという考え方である。昔なら融和主義として批判されかねないものだが、わたしは「側」・集団・共同体間の関係を一気、一挙に「解き放つ」ことなどとても無理だと思う。それが可能だと信じたときに間違いが起こった。「個々の解き放たれた関係」を基礎に、その輪を広げていけば、道が開けてくるのではないか。そんなことを考えるようになった。
 いつぞやあるところで「一人でできることは高がしれているが、一人だからこそできることがある」といったら、「一人でできることとは、なんですか」とたずねた人がいる。そこで、「一人でなにができるか考えるのが、一人でできることの始まり、第一歩ではないですか」と応えた。詭弁を弄して逃げたわけではない。この二十年、わたし自身、一人で、自分の言葉で考え、表現するようにしてきた。そうすると各地に数は少ないが同じように一人で、自分の言葉で考え、表現する人がいることがわかってくる。正統かつ正当とされる常識的な考え方に納得できない、そんな人との出会いとつながりが、いまのわたしにはなによりもありがたい。
 野町均さんは、『こわい考』は部落問題についての言論の場を民主主義の精神で裏打ちしようとしたところに最大の意義があるのではないかという(『「同和はこわい考」通信』一一六号、一九九七年七月)。民主主義を多数決原理ぐらいにしか理解していない人は多いが、差別・被差別の隔絶された関係を変えるためには「異論表明を歓迎する寛容の精神」としての民主主義が不可欠であると、わたしも考える。『こわい考』がかかる精神の広がりに「なにほどかの力」を果たしたとすれば、やはりうれしい。
 『こわい考』が出た当初反発を示した人とも、いまでは親しい間柄になっているというケースもある。十年の歳月は、見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるようになるために必要な時間なのかもしれない。つまり、人は変わりうるものであって、焦るなということであろう。心したいと思う。

(原載『同和はこわい考通信』一二二号〜一二四号、一九九八年一月〜三月)
2008.4.28.(2008.6.8.一部修正)