『同和はこわい考』の十年
「同和はこわい考」通信インターネット版
 II 住田・灘本「往復書簡」を読む
自分のなかの“被差別部落民”像を見つめることの意味 藤田 敬一

 ある読者から往復書簡について

(略)驚きました。こうまで部落民で在るということはこだわらなければならない問題なのだろうかという疑問を抱きました。(略)こうした個人の内面に深く関わる問題は、公開討論という形とは不相応ではないかしらと思います。親しい者同士で酒でもくみかわしながらしみじみと声で以って伝達し合う方がはるかに相応しいように思いました。文字はどうしても固定化し気どるものですから。二人の間に何かを産み出すというより、相手の心臓に直に矢を射っているように感じられ、しかもその全体が、私のようなものにはわかりにくいのです。(略)こだわりと負い目が奇妙に入り組んでいるような論議で、読むほどに辛くなりました。

との感想が寄せられました。
 たしかに往復書簡は一見したところ、被差別部落に生まれ育ち、いま現に被差別部落民の「内面的な弱さ」を正面に見すえ、その克服を課題として活動している住田さん(一九四七年、大阪市生まれ)と、被差別部落の外に生まれ育ち、十余年来近代部落史研究に従事しつつ、いくつかの大学で講義もしている自称「部落民三世」の灘本さん(一九五六年、神戸市生まれ)との、「被差別部落民としての正統性」をめぐる議論のようにみえます。そのように受けとれる文章もありますしね。それがなにか読む人を息苦しくさせるのかもしれません。
 わたしがお二人に『通信』で公開討論するようお願いしたのは、正統性を争ってもらうためではもちろんありませんでした。いわゆる差別する側に立つ者・差別される側に立つ者双方が「被差別部落民とはなにか」を自己の内面を通して問うことは、各自の資格・立場を対象化・相対化し、ひいては差別−被差別関係の呪縛= “とらわれ”から自らを解き放つためには不可欠の作業だと考えてきたからです。それは、わたしがこれまでくりかえし強調してきところです。

「いま解放運動の存在根拠が問われている」(『同和はこわい考を読む』阿    吽社、一九八八年)一七九頁以下。
「自らの課題をまさぐる一つの試み − 第五回部落問題全国交流会から −」(京都部落史研究所『こぺる』一三三号、一九八九年一月)九頁以下。
「差別−被差別関係の現在を凝視する」(『部落の過去・現在・そして…』阿吽社、一九九一年)
 しかし、わたしの考えはなかなか理解してもらえないようです。たとえば、この読者の方はお便りのなかで

中学校に勤めていた私の友人はこの一学期末で教師を辞めてしまいました。解同の幹部のお子さんが弁当を忘れて、お母さんが後から学校にいつも届けに来られるそうです。すると教頭先生が走り出て「ありがとうごいます」と最敬礼をして受けとるそうです。一事が万事こんなふうで「もう教育は成立しない」と言って辞めたとのことです。又、解同の幹部の息子さんを「やーい、アトピー」といってからかったある私立高校生はそれだけで停学一週間の処分となりその子の両親は「部落だけはさわりたくない」と言っています。両側から越えるどころか、ますます溝ばかりが拡大してくるようで何となく不気味です。

と書いておられる。
 このような話を聞くたびに、わたしはなんともやりきれない気持になってしまいます。その“やりきれなさ”は、事象の表面だけがとりあげられて、背後にあるものが顔を出さないことからきている。この例でいえばこんな疑問がわくのです。

最敬礼して弁当を受けとる教頭や、息子をからかっただけで生徒を停学処分にする学校側に、この幹部や家族はどのような対応をしたのだろうか。そしてこんな遇され方から感受される人びとの“まなざし”、あるいは人と人との関係を幹部や家族はどのように考えたのだろうか。
一事が万事、最敬礼して弁当を受けとる教頭のごとき遇し方をする中学校の教員たち、それに絶望して退職した教員、幹部の息子をからかった生徒を停学処分にした高校の教員たち、処分された高校生とその両親、そして「両側から越えるどころか、ますます溝ばかりが拡大してくるようで何となく不気味です」と書くこの方、それぞれの被差別部落民像、あるいは被差別部落民との具体的な関係はどのようなものだったのか。

いずれも実は「被差別部落民とはなにか」「被差別部落民であるとはどういうことか」との問いに深くつながっているはずです。
 前川む一さんはわたしとの往復書簡で次のような事例をあげています。

ある学校で秋の運動会の日、マイカーでの参観、物売り禁止を、職員会議で決定した。ところが当日、校庭内に一台のタコ焼きの車が侵入してきて、堂々と営業を開始した。驚いた学校当局は、それを注意したところ、その学校の用務員のMさんが飛びだしてきて、こう叫んだという。「俺の弟じゃ。俺の学校で、俺が許可して、俺の弟が商売して何が悪い!」この人、解放同盟員である。(『同和はこわい考』八○頁)

前川さんはこれを「正当な権利主張とはいえない逸脱した横車の例」といっているんですが、わたしの受けとめ方はこうです。

この事例を読んで、私はいろいろ考えさせられました。Mさんの発言もさることながら、この学校におけるMさんの遇され方が、まず気になります。遇する方にも、遇される方にも、目くばりをしたい、そんな風に感じます。/Mさんは「俺の弟じゃ。俺の学校で、俺が許可して、俺の弟が商売して何が悪い!」といったといいます。日ごろからMさんが、この学校でどのように振る舞い、それを校長はじめ教職員が、どのように眺めていたか、この発言は物語っています。「うるさいから、文句はいわずに、見て見んふりをしておこう」という遇し方と、「ある程度、好き勝手にやっても、校長らは、よう文句はいわんやろう」という、Mさんの「見通し」とが、うまく合致し、その上でのMさんの振る舞いがあると予測されます。(同上書、九○頁〜九一頁)

つまり、この事例の背後には学校の教職員なら教職員の被差別部落民像とMさんならMさんの被差別部落民としての自己像があり、それぞれの像が交叉するところに特異な遇し方・遇され方が生じ、それらが全体として差別−被差別関係を成り立たせているのだと、わたしは考える。もしそうだとしたら、いわゆる差別する側に立つ者・差別される側に立つ者それぞれが、それぞれの被差別部落民像を見つめ、人と人との関係を凝視することからはじめるしかないのではありませんか。片方だけではダメなんです。住田さんと灘本さんにお願いしたのは、お二人が被差別部落民であることを自認しているからであって、当然お二人の議論に対しては、被差別部落外出身者からの意見が突き合わされることが求められます。住田・灘本「往復書簡」は、被差別部落民同士の議論ではなく、いわば「両側から超える」論議の発端としてある。少なくともわたしはそのように考えてこの連載を企画したつもりです。
 もっとも、この企画には被差別部落民を自認する人びとに「被差別部落民とはなにか」「被差別部落民であるとはどういうことなのか」を語ってもらいたいという、わたしの永年の願いが強く込められていることは否定しません。
 今岡順二・中島久恵・灘本昌久・山城弘敬・山本尚友さんたちの座談会「部落青年のアイデンティティー」(前掲『部落の過去・現在・そして…』所収)が示しているように、この二、三○年間における経済の高度成長と同和対策事業の進展は被差別部落のありようを大きく変化させました。生活形態が多様化し、かつて強調されたような“共通利害にもとづく連帯感(同胞意識、キョウダイ意識、帰属意識)”が一段と稀薄になったことはまぎれもない事実です。被差別部落の共同体的結合の弛緩や被差別部落民意識の変様が注目されてすでに久しく、“古き良き時代”を懐かしむのではなくて新たな共同体意識を作り出さなければならないとも主張されてきました。一言でいえば、被差別部落民としてのアイデンティティー(自己確認)が問われている情況といえます。
 ところが被差別部落民意識の稀薄化は語られたことはあっても被差別部落民意識そのものが正面切って論じられることはこれまでほとんどなかったのではないでしょうか。わたしはぜひともこの点について本格的に議論したいと思い続けてきました。すでに山城弘敬さんの「被差別体験と部落民としてのアイデンティティー」 (『同和はこわい考通信』海賊版、二号、三号、未完)、中島久恵さんの「私のなかにある両側」(前掲『同和はこわい考を読む』一九頁以下)、津田ヒトミさんの「『ふまれた者の痛みは、ふまれた者にしかわからない』か」(同上書、四○頁以下)などの文章や前掲座談会があるけれど、まだわたしの渇望はいやされていない。
 そこに住田さんと灘本さんのやりとりが交流会でなされた。わたしはお二人とも近しいし、これまでもたびたび一緒に議論しあってきた間柄だから、渡りに船と公開討論をお願いした次第です。お二人の議論がきっかけになって、差別される側に立つ者・被差別者・被差別部落民という資格・立場とその固定化・絶対化、もしくはその対象化・相対化について被差別部落民を自認する人たちと存分に語りあえたら嬉しい。「親しい者同士で酒でもくみかわしながらしみじみと声で以って伝達し合う」のはいいことですし、わたしも好きですが、個々人の被差別部落民像とそれにもとづく遇し方・遇され方が全体として差別−被差別関係総体を成り立たせているわけで、狭い範囲の仲間内の議論でおさまるはずがない。それに差別する側に立つ者・差別者・被差別部落外出身者、ときには「一般」「周辺」などと呼ばれ、自らも「部外者」「外の者」であることを自認し、資格・立場の差異という溝・壁の前でめまいを起こしている人も仲間に入ってもらって公開の場で論議したい。そう考えた上での企画です。
 もちろん、わたしの企図が簡単に実現できるとは思っていません。被差別部落民を自認する人といっても、そのありようも意識も多様です。とりわけ部落解放運動に加わっている人びとにとって「被差別部落民とはなにか」は、ほとんど自明のこととされていますから、こうしたテーマ自体なじみにくいものでしょう。他方、被差別部落外出身者といっても、同和対策事業や同和教育、部落解放運動にかかわり被差別部落(民)について「正統かつ正当な理解と認識」をもつ人や、既成の思想・理論・運動に批判的な人からはじまって、被差別部落の近辺に住み日常的に被差別部落(民)に関するあれやこれやの噂に接している人、学校や職場、地域で啓発・教育の対象にされている人、あるいは話には聞いたことがあるが被差別部落民に会ったこともないという人、かつて部落解放運動に加わったことはあるがいまではすっかり運動から離れ関心もなくなった人、直接的に部落解放運動にかかわったことはないけれど深い関心を寄せている人にいたるまで、これまた千差万別です。それらの人びとすべてに「被差別部落民とはなにか」を語れというのがそもそも無理な注文です。
 にもかかわらず、わたしは部落解放運動が共同の営みになるためには前述したような形態と内容の論議が必要で、それを抜きにしては資格・立場の対象化・相対化はとてものことではないが不可能であり、隔絶された差別−被差別関係の止揚など夢のまた夢でしかないと頑なに考えるものです。だから住田さんと灘本さんが、わたしの願いを聞きいれて往復書簡形式の公開討論をしてくれたことは画期的でした。読者からも「関心をもって読んでいる」とのお便りが少なからず届いています。
 以上のような経緯からして、当然次はお二人の問題提起にわたしが応える番です。
そこでまず被差別部落民を前にして怯んだこともあるわたし自身のなかの“被差別部落民”像をたどり、その上でお二人の議論についての意見を書くことにします。しばらくお付き合いくだされば幸甚。
(原載『同和はこわい考通信』五三号、一九九二年一月)

わたしのなかの“被差別部落民”像をたどり、人と人との関係を考える 藤田 敬一

 自分のなかの“被差別部落民”像をたどるとは、とりもなおさず、過去における被差別部落民との出会いと、そのさいに結ばれたイメージを、未来と対話しつつ、現在の時点で意味づけることにほかなりません。それは、いわゆる被差別部落民を自認する人にとっても基本的には同じでしょう。被差別部落民であれ、被差別部落外出身者であれ、それぞれに“被差別部落民との出会い”があるからです。わたしの場合は、もちろん被差別部落外出身者としての体験になります。
 一九三九年一月、わたしは京都市下京区に生まれました。松原通り千本西入るの生家を中心に半径一里、四キロの円をかくと、東七条と西三条の二つの被差別部落が含まれます。しかし小学校に入るまで、被差別部落について、なにか聞いたり、体験したという記憶はありません。
 四五年四月、空襲を避けるために、わたしは滋賀県木之本町の国民学校初等科一年に入学します。三歳年上の姉と一緒に、父親の商売上のつてをたよって縁故疎開したわけです。疎開先の家には、わたしと同い年の少年がいました。仮にK少年としておきます。あるとき学校から帰っていつものように三人で遊んでいると、近所の悪童連中が「ひろせー、ひろせー」といって石を投げつけるのです。「ひろせー」がなにを指すのか、わたしにはさっぱりわからない。あとで知ったところによると、近くの被差別部落を意味する地名でした。悪童連中は、わたしたち姉弟をあずかってくれた家のおじさんが、その被差別部落の出身であることを家族などから聞き知り、K少年とわたしたち姉弟をいじめたに違いない。これがわたしと部落差別問題との最初の出会いでした。姉などは警戒警報が発令されて学校裏の防空壕に入ろうとすると、同級生の女の子から「あんたは、ひろせの子やからあかん」といわれ、入れてもらえなかったといいます。
 「被差別部落民とはなにか」を考えるたびに、わたしはいつもこの出来事を思い出し、考えこんでしまうのです。被差別部落出身者の家に疎開して石を投げつけられたというのは、たしかに特異な体験ですが、同じく石を投げつけられても、わたしたち姉弟とK少年とでは、体験の意味がまったく違うのではないか。少なくともわたしたち姉弟にとっては、それはエピソードにすぎなかった。しかしK少年にとっては、忘れることのできない、あるいは意識の奥深いところにとぐろを巻き、いつなんどき意識の表層に現われるかもしれない、忌まわしくて恐ろしい原体験だったのではないか。それにしても、なぜわたしたち姉弟はこの体験をエピソードとして忘れることができたのか。姉が防空壕に入れてもらえず、漆の木の下で警戒警報の解除を待ち、おかげで漆にまけたことが部落差別問題と関係していることになかなか気づかなかったのはどうしてなのか。どれもこれも、自分たちの家がそのような仕打ちを受ける可能性のまったくないことを親から教えられて安心したからではないのか……。
 わたしにとって被差別部落民とは、なによりもまず「石を投げつけられるような仕打ちを受ける家や地域の人びと」としてあったということです。人と家と地域は分かちがたくつながっており、それらが丸ごと、「わたしたちの家」と「K少年の家」との違いを意味していました。このような“被差別部落民”像が前提になり、家族や親戚、知り合いなどから、まことしやかな噂話を聞くうちに、「なにか世間とは違った風習をもつ、こわい人びと」といったイメージが形づくられていったように思います。
 ですから小学校時代、戦前・戦中の伊東茂光校長の同和教育で有名な崇仁小学校の生徒と徒競走をしたとき、紫のスクールカラーになんともいえぬ恐怖を感じ、しばらく紫色が被差別部落民の色のようにみえたのでした。崇仁の子がつけている鉢巻きやランニングシャツが紫色であることから、紫色は被差別部落民の色なのだという「しるし」づけをしたのです。実在が「しるし」を求め、「しるし」が実在を表わしたというべきかもしれません。いつしか被差別部落民は、畏怖・忌避の対象であり、実体をもつ存在に変わっていました。
 一九五八年初夏、大学一回生のとき、部落問題研究所の常任理事だった木村京太郎さん(一九○二〜一九八八)に「部落問題の勉強をするには、本を読むのもいいけれど、未解放部落に行って話を聞かせてもらうことが肝心」と教えられ、名刺の裏に書かれた紹介状をたよりに京都・田中の朝田善之助さん(一九○二〜一九八三)宅をはじめて訪れた夜のことも忘れられない。会議が終わって十人あまりの青年たちが車座になり、酒盛りがはじまりかけていました。わたしも招じ入れられたのですが、湯飲みをとりに階下に行くのは面倒だから、お薄の茶碗でまわし飲みしようということになりました。ところが茶碗が順次まわされて近づくにつれ、わたしの身体が震えはじめたのです。とっさのことで、なぜ震えるのかわからなかった。それが「けがれ」意識によることに気づいたときには、われながら驚いてしまいました。被差別部落で、飲食を共にするという状況が、わたしのなかの「けがれ」意識を目覚めさせたとも、あるいは日頃は気づかない「けがれ」意識が、その意識の対象とされる人びとの存在を仲立ちとして自覚されたとも考えられます。わたしは必死になって震えを押さえこもうとしました。
 いつぞや朝田さんがこんな話をしてくれたことがあります。京都市役所の嘱託かなにかしているとき宴会があり、一人の課長が朝田さんの前にきて酒をついだ。そこで返杯といって杯を差し出しながら

「エッタの杯やけど、ええか」というたったら、その課長、まっさおになって震えだしよった。

朝田さんは、いたずらっぽく笑いながらこういいました。しかし、とても一緒に笑う気にはなれなかった。その課長がどんな気持だったか、およそ見当がついたからです。
 わたしの「けがれ」意識が、被差別部落民を「不浄な人間」として遇するような人びとを親戚にもつ父親の差別的な意識や心理、それらをはぐくんだ風土と深いところでつながっていたことはいうまでもありません。その後、部落解放運動などを通して、「けがれ」意識は、次第に弱まり、溶けて消えましたけれど、かつて歴史のなかに濃密にみられ、現在も息づく「けがれ」意識に強い関心をいだくのは、このような体験にもとづきます。
 朝田さんの家を訪れて自らの差別意識に気づかされたわたしは、自分を変革せねばならないと考えました。大学で部落問題研究会をつくって活動する一方、田中子供会を手伝ったり、大阪・矢田の実態調査に参加したり、京都の錦林で子供会をやったりして、被差別部落の人びとの生活と思いにふれることができました。亀井文夫監督作品『人間みな兄弟−部落差別の記録』(一九六○年三月完成)には、当時の錦林や矢田が出てきて懐かしい。貧しく苦しい生活のなかにも、人びとには「どっこい生きている」たくましさがあり、飾り気がなく、あけっぴろげな人柄に魅せられました。箸と茶碗をもった兄妹が近所の家へ食事に行く『人間みな兄弟』の一シーンは、被差別部落の温かさ、優しさを象徴するものとして随分と感動したものです。
 それに学生のあいだにはブ・ナロード(人民のなかへ)の雰囲気が残っていて、インテリゲンチャと人民大衆との結合の必要性と重要性がまだいくぶん信じられている時代でした。それはインテリゲンチャを自称する人間の思い上がりともいえますが、ただ、わたしはそんな雰囲気のなかにあって、被差別部落こそ自らの意識変革の場だと、一途に考えていたようです。中国革命や中国共産党の大衆路線に惹かれていましたしね。とくに六○年七月、安保闘争の敗北からまもなく、二週間にわたり、関西の十をこえる大学部落研が参加して実施された矢田地区総合実態調査は、わたしにとって忘れることのできない体験でした。調査票をもって各戸をまわる面接方式で、学生口調のためもあって、「お前ら、税務署のまわしもんか」と追い返されるメンバーもいました。部落解放同盟矢田支部のみなさんに叱られたり教えられたりして、なんとか調査を終えたとき、自分のなにかが変わったように感じたものです。わたしのなかの“被差別部落民”像は急速に転換しました。
 しかし、そこに大きな落とし穴が待ち構えていることには気づかなかった。被差別体験や、被差別部落民であることのしんどさ・つらさ・不安・恐れを聞き知るにつけ、ある型にはまった“被差別部落民”像が出来上がり、被差別部落民をそのような紋切り型の人間類型にはめこんで理解するようになったのです。そこに金時鐘さんのいう、戦後民主教育のなかで育った先進的意識、あるいは被差別者を庇護しようとする意識がなかったとはいえず、被差別体験、被差別の立場への過度の思い入れや感情移入があったことも否定できない。そんなわたしにとって「差別の結果」論や「反社会をも社会性としてとらえる」見方は、まことに快刀乱麻のごとき理論でした。
 また朝田さんはよく「部落の実状をありのまま書くと、それは差別の拡大・助長につながる」といっていました。差別意識の充満する社会で、被差別部落の劣悪な生活実態とそこにくりひろげられる人間模様、被差別部落民の弱さらしきものを少しでも言ったり書いたりすると差別につながるというのは、恐ろしいほど説得力があり、わたしは永いあいだ朝田さんのこの言葉を自分自身に言い聞かせたものです。被差別部落民のマイナス面や弱さを言ったり、書いたりするのは論外で、感じたり、考えたりすることすら差別だと思うようになったとしても無理はなかった。
 ところが七○年代から八○年代にかけて、『同和はこわい考』に述べたような体験をするうちに、わたしの“被差別部落民”像があまりにも固定的で、それが、わたしの人間理解を偏ったものにしていること、その根本のところに隔絶された差別−被差別の関係が伏在していること、そのような人と人との関係は幻想としての“被差別部落民”像と不可分で、それらが一体となって差別−被差別の両側の人びとをつなげ、とらえ、縛っていること、そして他ならぬわたし自身が、被差別部落民・部落解放運動・部落解放同盟にすり寄り、「主体なき同一化」を追い求める随伴者にすぎないことに気づかされます。
 かくて、言うも愚かな悪戦苦闘があり、疲労困憊したあげく、自らの“被差別部落民”像を対象化・相対化することを通してはじめて、幻想としての“被差別部落民”像の呪縛から逃れられる、そう思いいたったのです。
 とはいうものの、ことは、わたし一人の問題にとどまらない。重要なのは、いまもって幻想としての像、イメージが人びとをとらえ、縛っているという事実であり、部落解放運動が共同の営みにならないという現実なのです。被差別部落民を自認する人も、被差別部落外出身者として自己を規定する人も、人と人とのこのねじれた関係を変えるために、「被差別部落民とはなにか」を自らに問うことが求められている。それは避けて通れない課題です。
 加えて、わたしは、人と人とが個々の人間としてではなく、それぞれの帰属する集団を前面にだしたり、属性の一つをもって自己を代表させたりして出会うことの空しさを感じています。もちろん個人はどこまで帰属する集団や属性、歴史や社会から自由かという問題があり、人間一般など存在しないとの議論があるにしても、いわゆる反差別運動やその組織についていえば、帰属意識があまりにも過剰すぎる、もう少し自らの帰属意識を突き放し、自己を深く掘り下げることがあってもいいのではないかと思っているのです。
 以上、わたしのなかの“被差別部落民”像を、だらだらとたどってしまいました。
 整理しすぎたかなという気もしますが、ともかくこのような変遷があって、“被差別部落民”像をめぐる、わたしの現時点での問題意識がある。
 さてそこで、現在のわたしに住田・灘本「往復書簡」はどのように映るか、です。
 発端は、『「ちびくろサンボ」絶版を考える』(径書房、一九九○年)所収の座談会における灘本さんの次のような発言でした。

血統の話が出てしまいましたのでつけ加えますと、僕のおじいさん、おばあさんまではみな被差別部落に生まれ育って、僕は部落民三世です(笑)。血統は正しいんですが(笑)、いまは部落の外におります。(二三八頁)

これに対して住田さんが率直な疑問を呈したことから議論がはじまったわけです。その疑問とは、日頃「部落出身者ではあるが、ことさらに部落民としての自分自身にこだわることはないし、部落民であることを売り物にすることもない」と語っていた灘本さんが、なぜここで部落出身者であることを明らかにしたのかというものです。そこから被差別部落に生まれ育った者と、祖先が被差別部落民であっても被差別部落の外で生まれ育った者との違いが、部落差別問題のとらえ方、あるいは生き方に影を落としているのではないかとの問題提起につながっていきます。これに灘本さんが応え、さらにお二人の議論があった。論点は多岐にわたっていますが、ここではわたしの関心に引き寄せ、「自らを被差別部落民として他者に呈示することの意味はなにか」「被差別部落民とはなにか」の二点にしぼります。
 第一点について。
 灘本さんは、以前にも「血統的にはサラブレッドのような『賤民の後裔』なんです」と語ったことがあります(前掲座談会「部落青年のアイデンティー」。『部落の過去・現在・そして…』三頁)。だから、この「僕は部落民三世です。血統は正しいんですが」も、軽妙洒脱な灘本さん一流の口調なんでしょう。在日朝鮮人二世をもじって部落民三世(つまり被差別部落の外に居住するようになってから三代目)を名乗ったり、わざわざ血統の話を持ち出したりしていることからもうかがわれるように、灘本さんはそうした表現をとることによって被差別部落民の概念規定や部落差別問題、部落解放運動に対する自らのスタンス(構え方)をそれとなく示そうとしたのだと、わたしは受けとめています。
 しかし実をいうと、わたしもこの箇所でオヤッと思いました。灘本さんが屈折した形であれ、自らを被差別部落民として呈示する内的な必然性がよく理解できなかったからです。もっとも竹田青嗣さんの

僕がこの座談会に出てきたのは、一つは灘本さんが部落の出身で、僕が在日であって、そのところにも多少意味があると思ったからです。(前掲『「ちびくろサンボ」絶版を考える』二五四頁)

という発言などを読み、竹田さんや灘本さんがこの本のなかで、発言者の立場・資格を云々する不毛な論議をあらかじめ封じるとともに、差別問題をめぐって「差別する側の者」といわれる人びとが感じている「異様な言いにくさ」を解きほぐし、あるいは被差別者から「差別だ」といわれるとすぐ論争から撤退してしまう人びとに、「もう少しがんばらなくては」と励ますべく、自らの被差別者としての立場を呈示したということがわかりました。ただ灘本さんの全発言を読み返しても、どのような内的必然性があったのかは不明で、わたしが読みとったかぎりでは、論議に及ぼす効果を考慮した上でとられた戦術、方法だったようにみえます。
 この推測が間違っていないことは、灘本=被差別部落民=被差別者の呈示は、差別者・被差別者、差別する側・差別される側といった立場・資格にこだわる読者に、「被差別者がうって一丸となってサンボを糾弾しているわけではない」ことを知らせ、「精神を自由にして主体的に考え」、「差別問題に主体的にアプローチしてもらうための早道」として「多少なりとも意味のあること」だとの判断にもとづくと、灘本さんが「往復書簡」で述べていることからも明らかです(五○号、五頁〜六頁)。
 一読、納得しそうになります。にもかかわらず、わたしには釈然としないものが残る。それがなぜなのか、よくはわからないのですが、おそらく灘本さんが一方で「被差別の立場からという問題提起のやりかた」には根拠がないことを認めつつ、他方で差別問題をめぐる今日の状況下では意味があるので、あえて「被差別の立場」をかって出たところに、便宜主義、実用主義を嗅ぎとってしまうからではないでしょうか。
 また、「サンボを糾弾しない」被差別者の存在を認識することが、人びとの精神の自由と主体性の担保にかかわっているかのように述べているところにもひっかかってしまう。灘本さんのいいたいことがわからぬわけではないけれど、精神の自由とか主体性とかは、ほんとにその程度の認識で担保されるのかという疑問はさておくとして、灘本さんが被差別者としての立場・資格とその意見を過大に意味づけしているように感じられて仕方がないのです。
 被差別者としての立場や資格の呈示が、有効な一つの方法、戦術、闘い方だとする意見も当然成り立ちます。とくに部落差別問題の場合、その効率のよさは驚嘆するほどです。効率を高める人がいれば、効率を計算する人がいる。部落差別を媒介にした人と人との関係が存続するかぎり、このような人が出てくるのは避けられそうにない。しかし、自らの立場・資格を対象化・相対化して、人と人とのねじれた関係を変え、共同の営みを創出しようとするのであれば、少なくとも立場・資格に寄りかかったり、それをかかげて議論することには抑制的であるよう、おたがいに努めるべきです。その点、灘本さんは抑制がやや不足だったのではないですか。住田さんの疑問はそこを突いている。
 もちろん立場・資格の呈示の問題は、なにも被差別部落民・被差別者に限られるものではなく、誰もがどんなことで自分の立場・資格に足をすくわれるかもしれないのです。灘本さんに対して厳しいことをいうようですが、それは自戒のためでもあります。
 第二点、つまり「被差別部落民とはなにか」について。
 二度にわたる住田・灘本「往復書簡」が、被差別部落民としての正統性をめぐる議論のように受けとられる面があったことは、なんとも残念でした。しかし考えてみれば、お二人の議論そのものが、被差別部落民といわれる“存在”の曖昧さを示しているといえなくはないのです。
 住田さんは、被差別部落民を血筋(血統)、地域、共同体意識の三つを基準にして考えているらしい。血筋(血統)とは、祖先が旧賎民身分につながること、地域とは、その生活空間が歴史的に賎視の対象にされてきたこと、共同体意識とは、生活の共有と共通利害にもとづく連帯感、帰属意識を指すと思われます。
 ところが灘本さんは、「部落民であるかないかを考えるのは、差別したい人に一○○%まかそう」「部落民の範囲は、差別する人たちの基準にしたがって広くしておけばいい」「部落解放をめざすうえで、部落民の範囲を狭くする必要」はないという(五一号、五頁〜六頁)。
 わたしのみるところ、住田さんの意見は、非常に古典的というか、オーソドックスです。しかし農山漁村と都市とでは状況が違い、一概にはいえませんが、都市の場合、血筋・血統といっても、明治維新以降における人口の流出入により、祖先が近世の賎民身分にまでさかのぼれる人は、そんなに多くはないでしょうし、結婚して入ってきた人、その子どもはどうなるのかという問題もある。
 またその地域に住んでいることを基準にすると、被差別部落から出た人びととその子孫は除外されてしまいます。しかし、これらの人びとが、忌避・排除の対象に絶対ならないという保証はありません。地域に住む・住まないを基準に、被差別部落民であるかないかの線を引くことはできないのです。ついでにいうと、忌避・排除の理由づけにしても、「けがれ」意識や生活実態の低位性だけでなく、現在ではもっと複雑でしょう。被差別部落の生徒が通う中学校を避けるための越境があとを絶たず、校下の土地価格が低いところすらみられる。歴史的に賎視の対象になってきた地域であることを核にしながらも、被差別部落の生活文化や部落解放運動、同和対策事業、同和教育をめぐる、あれやこれやの虚実とりまぜての風聞、噂話とも関連して、忌避・排除の心理・意識、言動が再生産されているとみなければなりますまい。それらの複合したイメージが、被差別部落の外に居住する人びとに押しつけられる場合も大いにありえます。
 三つ目の共同体意識は、生活の共有と共通利害によってつくられるものでしょうが、高度経済成長にともなう生活形態の多様化によって、被差別部落の共同体意識が稀薄になっていることは否定できません。コミュニケーションの場として重要な役割をはたしてきた共同浴場が、家庭風呂の普及によってすたれつつあるのは象徴的です。人によって、階層によって、その意識はさまざまであるにしても、被差別部落にだけ、これまで同様の共同体意識が強固に残るとは考えられない。一九五○年代と現在を比べてみれば、共同体意識の弛緩傾向は歴然としている。
 このようにみてくると、住田さんのあげる基準は、いずれも揺らいでいるといわざるをえない。というより、そもそも被差別部落民を一義的に概念規定しようとすることが無理なのです。なぜなら被差別部落民は法制的な存在ではなく、社会的な存在だからです。社会的な存在とは、この列島上に展開されてきた歴史に深く根ざしつつ、今日ただいまの暮らしのなかに生きる、部落差別を媒介にした人と人との関係においてイメージ化される存在だという意味です。
 つまり被差別部落民を、なにか実体として存在するかのように概念規定するのではなくて、たとえばサルトル風に「被差別部落民とは、他の人びとが、被差別部落民と考えている人間である」、それをさらに、わたし流にいいかえた、

被差別部落民とは、他の人びとが“被差別部落民”として、畏敬・畏怖・賎視・恐怖・忌避・排除・拒否・憐憫・同情・庇護・共感・連帯・期待する対象として描く多様なイメージの複合されたもの。

ぐらいにしておいたほうが、固定的な、幻想としての“被差別部落民”像から自由になり、立場・資格の対象化・相対化へとつながりやすいと思う。そんな規定では同和対策事業における属地主義(対象地域内の居住が条件)や属人主義(行政用語でいう“同和関係者”が条件)はどうなるのかと心配したり、自分が何者なのかわからず不安だという人がいるかもしれないけれど、その種の心配、不安を追ってゆけば、被差別部落民といわれる“存在”の曖昧さに、必ず突き当たります。社会的な存在としての被差別部落民は、曖昧であることを特徴としているからです。曖昧さを強引に除こうとすると、“同和地区”の線引きとか“同和関係者”の認定のような行政的方法に頼らざるをえず、行政機関が同和対策事業を通して、被差別部落と被差別部落民を決めるという〈歴史の逆転〉が起こってしまう。ところが、そんなことをしたって被差別部落民といわれる“存在”の曖昧さは消えず、自分が何者なのかわからない不安、自己の存在が確定できない不安は残ります。
 住田・灘本「往復書簡」、とくに「被差別部落民とはなにか」をめぐる、お二人のやりとりを読んで、わたしがまず感じたのは、やはり“存在”の曖昧さからくる戸惑い、心理・意識の揺れでした。住田さんは、灘本さんを被差別部落民として位置づけようとしながら、「被差別部落に生まれ、育ち、今もその中で生き続ける部落出身者」である自分(五○号、二頁)と、「血筋はまぎれもなく穢多の末裔に違いないのだが、生まれたときから部落民として被差別部落で育ったのではなく、それ故被差別部落に生まれ生活を共有する中で身につく被差別部落民としての共同体意識を持たない部落民」としての灘本さんとの距離に戸惑っている(五一号、一頁)。
 かたや灘本さんも、「学生時代には、まわりの期待にそむかないように部落民として行動しました。今、自他ともに部落民と認めているんですが」との発言(『部落の過去・現在・そして…』五頁)と、「自分が部落民であるかないか考える必要もないと考えています」(五○号、七頁)「部落民であるかないかを考えるのは、差別したい人に一○○%まかそう」(五一号、五頁)との意見とのあいだに、あるいは「部落民であることを知る前と後ではアイデンティティーになんの断絶もないんです」との発言(『部落の過去…』五頁)と、「れっきとした部落民の諸氏」への、県人会レベル的親近感の確認(五一号、五頁)とのあいだには、たしかに揺れがある。
 住田さんの戸惑い、灘本さんの揺れは、どちらも被差別部落民といわれる“存在”の曖昧さに起因し、自己認識、自己確定の困難さに根ざしています。だから“部落民性”についての議論がかみあわず、被差別部落民であることの引き受け方に食い違いがみられても当然です。
 そこで、わたしが考えるに、誰か他者を被差別部落民として見たり、遇したりする人、誰か他者から被差別部落民として見られたり、遇されたりする人それぞれが自らの“被差別部落民”像をたどり、部落差別を媒介にした人と人との関係をみつめ、おのれの生き方を選びとるほかないのではありませんか。そのときひょっとしたら立場・資格が対象化、相対化され、これまでのねじれた関係にもとづく出会いではなく、もう少しましな個人と個人との出会いが生まれるかもしれません。
 わたしには、被差別部落民であることが呈示されて怯んだという苦い経験があります。「なぜ怯んだのか。なにが、わたしを怯ませたのか」、これが“被差別部落民”像をめぐる問題意識の出発点でした。こうして住田・灘本「往復書簡」に触発され、あらためて考えをまとめてみたのですが、もうひとつしっくりしないところがある。しかしまあ、なにごとも一気にというわけにはまいらぬものです。とりあえずは「両側から超える」の「側」をとっぱらい、しかし現に生きている「側」にこだわり、部落差別の実状をみすえ、共同の営みをまさぐる、そんな人と人とのつながりを求めて、わたしなりに思索をつづけることにします。
(原載『同和はこわい考通信』五三号、五四号。一九九二年二月)
2008.4.28.(2008.6.8.一部修正)