『同和はこわい考』の十年
「同和はこわい考」通信インターネット版
 I 差別とたたかう文化会議との「討論」
「個人の見解」と「組織の見解」について 藤田 敬一

 先日、友人から雑誌『部落解放』六月号の小森龍邦さん担当コラム「きのう きょう あす」に『こわい考』をめぐって「差別とたたかう文化会議」の見解が出たように書いてあるけれども、ほんとうかとたずねられた。急いで開いてみたところ、つぎのような文章が目にとまった。

「差別とたたかう文化会議」(野間宏議長)は、われわれの闘いの前進をはかって、文化の側面から、あれこれと協力していただいている団体である。ときには、文化活動における指導も受けている。/その「差別とたたかう文化会議」の総会の席上、世上論議されている『同和はこわい考』(藤田敬一著)についての見解をまとめられたようである。一つには、「地対協」が「同和はこわい」という大合唱をしているときでもあり、この書物の「タイトル」が「どうしても気になる」と指摘しているということ。/二つめには、「地対協」路線を批判すると言いながら、「行政に対する批判が抜けているのが欠点だ」と言われる。/三つめには、「それに『両側から越える』と言っておられるわけですが、(中略)むしろ私は、被差別の側に、徹底して立ちきる。その深いところから発言していく立場が必要だと思います」とまとめておられる。(五六頁〜五七頁)

これはなんとも要領をえない文章である。だいたい「『差別とたたかう文化会議』の総会の席上、世上論議されている『同和はこわい考』(藤田敬一著)について見解をまとめられたようである。」という文には主語がない。文章の流れからいえば文化会議が主語のようにとれる。ところが奇妙なことに引用文中に「むしろ私は…」という一人称単数の主格が出てくる。「文化会議が組織としての見解をまとめた」のか、「文化会議の総会の席上でなされた一個人の発言がまとめられた」のかはっきりしない。また小森さんは「見解をまとめられたようである」と伝聞の形をとりながら、中略の注記まで加えて「見解」の文章を引用しているのであるから、文章化されたものが存在するにちがいなく、読むほうとしては戸惑うほかない。
 わたしは、一応「差別とたたかう文化会議」の会員で、この二月の総会案内ももらっている。所用のため欠席したが、後日、知人が総会の様子をかなり詳しく伝えてくれた。自由討論の場で『こわい考』がとりあげられたからである。しかし文化会議が組織としての見解をまとめたとは聞いていない。念のため文化会議の事務局担当者にも確めてみたが、そんな事実はないということだった。そういえば、小森さんも後の方で「野間先生が今回、『被差別の側に徹底して立ちきる』ことを指摘された」と述べていて、上掲引用文の主語が野間さんであり、文化会議でないことがわかる。文化会議の総会で野間さんが口頭で見解を表明し、それがメモかなにかにされて部落解放同盟中央本部に伝えられたというのが、ことの経緯らしい。だから文化会議が組織としての見解をまとめたというのは誤解である。わたしは友人にそう答えておいた。
 さて小森さんの文章によって、わたしは『こわい考』に対する野間さんの見解の一部を知ることができた。一部というのは、小森さんの引用には欠落があると考えられるからである。わたしの聞いているところによれば、「藤田さんはけっして差別者ではありません」と、野間さんは繰り返し強調したという。わたしを差別者と規定して呼び捨てにしたり、『こわい考』を事実上、禁書扱いにする事態も地域によっては起こっている。野間さんの意見がそうした事態に対する憂慮の表明かどうか、わたしは知らない。いずれにしても小森さんの文章にこの部分が引用されていないのは事実であって、呈示された野間さんの見解が部分的であることに変わりはなく、しかもそれが野間さん自身によって公表されていないことに、わたしはこだわりを感じている。また小森さんは野間さんだけでなく、日高六郎さんの「(『こわい考』は)行政批判の点が抜けている」との意見も紹介しているけれども、これは伝聞にすぎない。
 野間さんや日高さんの『こわい考』に対する意見、見解を、わたしもぜひ知りたいと思っている。しかし残念ながら小森さんが引用、紹介するのは確かな根拠、つまり公表された文章にもとづくものでない上に、部分的断片的すぎる。このようなものをお二人の意見、見解として受けとってはかえって礼を失することになろう。野間さんや日高さんには部落解放運動をとりまく状況と、この一年の論議をふまえて、ご自身の意見、見解を公表してもらい、その段階でわたしなりの考えを明らかにするほうが、論議を脇道にそらさないためにもいいように思う。
 いま一つ小森さんの文章全体に、そこはかとなく漂う権威主義についてもふれておかねばなるまい。確かに人は権威に弱く、無名の人より有名な人の見解に、個人名より組織名の見解にとらわれやすいものだ。だからいつまでたっても有名人や組織名の見解を重宝がる人があとを断たない。それが一定の権威をもつと信じられているからにちがいない。小森さんの文章に著名な人の言説によって自説を補強しようとする権威主義を感じとったのは、わたしだけではないはずである。
 だが、すでに『こわい考』をめぐる論議はいわゆる有名、無名などにかかわりなく展開されていて、そこでは「誰が語っているか」ではなく、「何が語られているか」が問われている。京都部落史研究所所報『こぺる』や本『通信』に掲載されている文章をみてもらえばそのことが理解されるだろう。
 有名人や組織名の見解によって納得したり、考えを変えたりする人ももちろんいるだろうが、そんな人びとによって維持される権威が案外もろいことは、いまさら贅言を要しない。組織や既成概念にとらわれない自立した個々人の思索と討論を欠くなら、いかなる見解も空談と化すしかないのだから。
 ところで小森さんはこの文章の中でつぎのように述べている。

できれば、『同和はこわい考』について、これ以上、「地対協」路線を勢いづけることのないよう、藤田敬一氏らの自重をお願いしたい。(略)思いきって、「地対協」路線の全面的批判を展開した著作をお願いしたいところだ。これからもわれわれと連帯してもらいたいし、その道がまだそこに残されていることを思う次第だ。

まず第一に、わたしは『こわい考』が地対協路線を勢いづけているとは考えていない。なにをもってそのように小森さんは判断するのだろうか。もし「法務省の役人云々」程度のことなら、すでに「部落解放運動をめぐる率直な論議を − あわせ聞けばあかるく、かたより信ずればくらし −」(『こぺる』一九八八年五月号)で論じておいた。第二に、地対協・地対室の三文書に対するわたしの批判は、『こわい考』の他、「地対室の正体みたり枯尾花−『啓発推進指針』を読む」(『紅風』九二号〜九四号 一九八七年七月〜九月)、「地対協・地対室批判の一視点」(部落解放基本法制定要求国民運動京都府実行委員会編『非人権国家の論理』一九八八年二月)および前掲『こぺる』論文などで展開している。もっとも小森さんの視点と同じというわけにはゆかないけれども。そしてこれまで指摘してきたように、いま重要なのは深部からの地対協・地対室批判であって、そのためには部落解放運動の基本的問題について率直な議論をする必要がある。したがって小森さんに、わたしの前掲諸論文に関する意見をぜひ明らかにしてもらって論議をさらに広く深く進めたい。第三に、昨年十二月、中央本部「見解」が出たあとも、部落解放同盟に対するわたしの想いになんの変化もない。わたしなりに共同の営みとしての部落解放運動の創出にむけて努力しているけれども、それが小森さんのいう連帯と重なるのか重ならないのか、連帯の内容が不明である以上、わからないとしかいえない。ただ金時鐘さんのいう「切れて繋がる」関係がつくれたらと願っていることを付言しておく。
(原載『同和はこわい考通信』一三号、一九八八年六月)

文化会議の自立性が問われている 藤田 敬一

 先日、差別とたたかう文化会議から一通の封書が届いた。それには「再結集の呼びかけ」のほか、新旧の規約と体制(案)、加入申し込み用葉書、そして『会報』Vol.二−一(八八.一○.二○)が入っていた。用向きは、規約を改正し、体制を強化するから会員の再登録をしてほしいということである。
 わたしは、文化会議の総会に一、二回出席したことはあるものの、会費の長期滞納者であり、機関誌『差別とたたかう文化』もめったに読まない不熱心な会員だったので、「文化会議は体制の弱さから会員の力を結集しきれず活動の停滞をきたしております」というのを読むと、なんとも申しわけない気持になってしまう。これからは心を入れかえて、きちんと会費を払うようにしようと思うものの、いま一つ心がはずまないのは、どうしてだろうか。
 呼びかけ文の「権力の文化攻勢に対して反差別・人間解放の文化を創造し、うちかた(め)ねばなりません」という意見に反対ではないし、これまであった団体加盟の文言を削除し、個人加盟を原則にした規約の改正、事務局次長を新たに置くとの強化案に異論があるわけでもない。そこでつらつら考えてみるに、どうもこのところ、わたしの関心が運動における自立、連帯・共闘とはなにかという点に向けられていることと関係があるようなのだ。
 呼びかけ文には「部落の完全解放と人間の全的解放をもとめ、民主主義の確立に重大な意義をもつ部落解放運動が強力にすすめられなければなりません」とあり、また部落解放同盟との恒常的な連帯・協力関係の樹立がうたわれている。一般論としてはよく理解できるのだけれど、わたしにはこれがすんなりと受けとめられないのである。
 ところで小森龍邦さんが『部落解放』一九八八年六月号のコラムで『同和はこわい考』をめぐって文化会議が批判的見解をまとめたかのような書き方をし、これを読んだ友人が、ほんとうかとたずねてきたので、何人かの方に確認したけれども、そんな事実はなかった。友人には、それは誤解だと答えておいた。ここまでは本誌一三号「随感・随想」に記しておいたから、おぼえている人もおられよう。
 しかし、これで終わったとは、わたしは考えていない。なぜなら小森さんの文章などから推測すると、文化会議の総会で野間宏さんが口頭で見解を表明し、それがメモかなにかにされて部落解放同盟中央本部に伝えられたというのが、ことの経緯らしいからだ。しかもそれがあたかも組織の見解であるかのように紹介されたのである。当然、文化会議として一言なかるべからずだと、わたしなんかは考えるけれども、いっこうになんの話も聞かない。一つの組織の総会(総会として成立せず、討論会になったそうだが)でなされた個人の発言が組織の見解として世間に流布されるがままにしているといわれてもいたしかたない。
 『こわい考』という小冊子がいずれの組織でいかなる扱いを受けようと、そんなことはどうでもよろしい。一人でも多くの人によって、思索と討論の素材にしてもらえれば、それで十分だ。加えて組織運営について云々する気力も、いまのわたしには正直いってない。文化会議が部落解放同盟との連帯や協力関係の樹立をかかげるにしても、せめて小森さんの誤認と読者の誤解を解くことぐらいしてもおかしくないと指摘したいだけである。そうでないと文化会議の自立性、主体性が問われるのではあるまいか。
 部落解放運動の中で、わたしは自らの「随伴的かかわり」にいやけがさし、なんとかならないかものかと考えつづけた。前川む一さんとの往復書簡はそのあがきの跡である。大西巨人さんは、これを「卑屈奇怪な表現」と一蹴しているけれども(『朝日ジャーナル』一九八八.八.五)、当時のわたしとしては、自分の心情をこのようにしか言い表わすほかなかったし、いまも運動における「随伴的かかわり」の問題はけっして小さくないと感じている。文化会議が再結集にあたって、『こわい考』をめぐるこの間の経緯に対してどのような措置をとるのか、注目せざるをえないのもそのためである。

『会報』(Vol.二−一)に掲載されている一九八八年度全体討論会(総会)報告には(討論会の)終りに、藤田敬三(ママ)さんの『同和こわい考(ママ)』について、師岡佑行さん、寺本知さん、野間宏議長の発言があった。その発言の内容は別に報告する。

とある。三人の方の発言内容を公表するだけでなく、どうしてこんな具合になったのか、経緯と背景をきちんと説明してほしい。
 ある知人が、小森さんの文章を読んで「『こわい考』について文化会議でこう簡単に意見がまとまるようでは文化の中身が問われるなあと、なかばあきらめの心境だった」と書き送ってきた。ことは文化会議の再結集の基本にかかわるなどというつもりはないが、部落解放運動における文化会議の自立、連帯・共闘のありかたの問題が存在していることはたしかであって、それだけに対応が注目されるのである。期して待ちたいと思う。
(原載『同和はこわい考通信』一九号、一九八八年十二月)

《採録》藤田敬一著『同和はこわい考』についての報告
(差別とたたかう文化会議『かいほう』第二巻三号1989.2.10)

 一九八八年三月二十日の全体討論会(総会)は、総会で決議する事項は簡略にすませ、文化会議の今後のあり方と当面の課題は何かの実質的な討論を主体にすすめることになった。総会というより全体討論会でありました。/討論会は、沖浦さん、金城さん、辛さんの三人の発題でおこなわれた。開会の遅れと発題がそれぞれながかったので、会場全体での討論の時間が余りとれないまま、閉会の時刻が迫りました。/けれども、野間議長から、藤田敬一さんの『同和はこわい考』について緊急の提言があり、それに関わって、師岡さん、寺本さんの発言がありました。すでに七時になっていました。野間議長の提言を諒承して、閉会となったが、定められた時刻より二時間もオーバーしていました。
 ところで、野間議長の提言の要旨は、「(1)『同和はこわい考』というタイトルがどうしても気になる。現実状況でそのタイトルがどう社会的に機能するか、配慮が必要ではないか。(2)「地対協」路線に対する行政への批判が不十分である。(3)差別・被差別の「両側からこえて共同の営み」との主張であるが、自分の場合、被差別の側に徹底して立ちきり、その深いところから発言していくことが重要。(4)そうした不十分な批判すべき点はあるが、藤田さんは狭山闘争をはじめ部落解放運動に深くかかわってきた人であり、決して差別者ではない。このことを確認しておきたい」といったものでありました。
 師岡さんはそれをうけて、『同和はこわい考』を書いた藤田さんの真意が、あくまでも地対協を批判し、その融和主義を打砕くこと、そのために、真しに『共同の営み』を考えている。その藤田さんの問題提起は重要である、と自身の現実状況への認識をふまえての発言でした。
 つづいて寺本さんは、「野間さんの提言を諒承したうえで、今、部落解放運動が非常に危機的な状況にあり、地対協路線にみられるように、部落解放同盟への攻撃が集中してかけられ、きびしいところにたたされている。そうしたなかで、少しでも敵に利するようなことはさけ、慎重であるべきで、討論が創造的なものにならなければならないということでありました。
 この野間議長の提言を全員で諒承して集会を終えたのでした。とくに文化会議の見解として決議したのではないが、野間議長の提言はたんなる個人的見解ではなく、議長としての責任ある提言であったのです。
 文化会議ではすでにそれ以前に、同誌が発行されてまもなく、運営委員会で文化会議の固有のあり方と存在意義を探るため、大賀正行研究部長(部落解放研究所−藤田補注)に参加を願い、「部落解放運動の今日」の問題提起をうけ、糾弾中心の第一期から行政闘争の第二期、そして国際的な反差別共闘の第三期に入るにいたったこと、そこでの文化のたたかいの重要性について、部落解放同盟、とくに大賀さんの見解をきかせてもらった。その際、大賀さんからこれを読んでくれるようにと提供されたのが藤田敬一さんの『同和はこわい考』であった。大賀さんがどのような意図で提供されたかは、あきらかではないが、文化会議のありようとかかわりあるものとして運営委員会は手にしました。
 だが、その後、これが中央本部見解として問題とされて以来、野間議長は、藤田さんと連絡をとり、直接に話し合って、これが不毛な討論に終わることなく、よい成果を得る方向でのりこえる方途を探り、その努力をされてきました。全体討論会での緊急提言もそのためであります。そのために強くこの討論会への藤田さんの出席を要請されてきました。師岡さんの万障くりあわせての討論会参加も野間さんの強い要請があったからであります。藤田さんをまじえての十分な話し合いを願っての要請であり、それは文化会議の議長としてとられたことであり、それをふくめて私たち文化会議として諒承したのでした。
 残念なことに、野間議長との話し合いも、討論会への藤田さんの参加も得られませんでした。
 その後、『部落解放』第二七九号で、部落解放同盟中央本部書記長の小森龍邦さんが、『大衆と共に興る』という小論で、野間議長の先の提言に言及されたのですが、それを文化会議の総会でまとめられ、議決された見解のようにとらえていますが、参加者全体が諒解したとはいえ、討議を経て決議したようなものではありませんでした。もちろん、諒解しあったものとして責任をおい、今後も創造的な相互の対応をすすめることはいうまでもありません。ことに、野間議長が「藤田さんは差別者ではない」と強調されたことは、共に文化会議の会員として今後のみのりある活動をつづけていくものとして重要であります。残念なことに小森書記長は、その点に触れずに小論を終えています。野間議長の提言の要旨としては不十分であるというほかありません。
 こうした経過をふまえ、副議長の村田恭雄さんと事務局のメンバーが、藤田さんを訪ね、話し合いの機会をもちました。状況の経過を伝え、この問題をどう創造的にのりこえていくのか、その可能性を探ったのでした。その話し合いそのものは、みのりあるものであったと思います。

コメント.
 すでに本誌で二回にわたって差別とたたかう文化会議「総会」(一九八八.三.二○)における『こわい考』論議とその後の事情についてふれ(一三号、一九号)、文化会議の対応に注目してきたわたしとしては、今回このように論議の経過と一定の見解が発表されたことは、なにはともあれ喜ばしいかぎりです。それに野間宏さん、寺本知さんの意見の概略を知ることができ、小森龍邦さんが野間さんの意見を、一部欠落させて紹介したこともはっきりしました。
 しかし野間さんの意見(報告では野間提言)がどうして文化会議の見解として受けとられるようになったのか、報告を読んでもまだよくわからないところがあって困惑するほかないというのが、正直な気持です。そこで以下、「創造的な討論」を願って、わたしの疑問点を二、三述べ、あわせて感想を記すことにします。
 第一は、野間さんの意見に関してです。報告は、一方で「全体討論会」における「野間議長の提言を全員で諒承し」たが、それは「とくに文化会議の見解として決議したのではない」、「文化会議の総会でまとめられ、議決された見解」ではないとしつつ、他方では「野間議長の提言はたんなる個人的見解ではなく、議長としての責任ある提言であっ」て、参加者全員は「諒解しあったものとしての責任をお」うともいう。なんとも込み入った論理で、わかりにくさは否めない。
 わたしにいわせると、「全体討論会」の参加者全員が野間意見を諒承・諒解(この言葉もわかりにくい)したのなら、「組織の見解(案)」として取り扱い、しかるべく総会で「組織の見解」に変えればすむことでしょう。そこのところがアイマイにされているので、わかりにくくなっているようです。このアイマイさが小森さんをして野間意見を「組織の見解」と誤解させたといえるかもしれません。
 つぎに報告は参加者全員に野間意見を「諒解しあったものとしての責任」があるというけれども、どうしてここで責任の問題が出てくるのかわからない。出席した知人などは「野間さんの意見、考えはうけたまわった」ということで討論会は終わったものと理解していたようだから、「責任を負え」なんていわれたらきっとびっくりするにちがいない。
 ともかく、わたしは、この報告を読んで、個人と組織、組織における個人と個人の問題は永遠の課題なんだなあとあらためて感じいった次第です。
 第二は、小森さんの文章「大衆と共に興る」(『部落解放』一九八八年六月号)で紹介されている「文化会議総会の見解」なるものと、報告が要約する野間意見とが類似していることについてです。『通信』一三号で、わたしは「文化会議の総会で野間さんが口頭で見解を表明し、それがメモかなにかにされて部落解放同盟中央本部に伝えられたというのが、ことの経緯らしい」と推測をまじえて書きましたが、二つの文章の類似はこの推測が正しかったことを示しているといえそうです。ところが報告はこの経緯についてまったくふれていない。討論会参加者以外の会員にはまだ知らされてもいない野間意見が、ほぼ要旨通りに「組織の見解」として同盟幹部によって公表されたのはなぜなのか、明確な説明が必要でしょう。ことは文化会議の組織としての自立性、主体性にかかわるはずです。
 ところで文化会議『かいほう』第二巻二号(一九八八.一二.二五)に「<差別とたたかう文化会議>の再結集にさいして、これまでの会員のみなさんに再度訴えます」と題したアピールが載っていて、こんなことが書かれています。

文化会議は、他の組織とは違って、完成してできあがった組織になる、ということができない存在です。それに参加する会員が自覚的に、日々、新しく創造しつづけるものです。
 規約で、文化会議の存在意義と目的が明示され、部落解放運動とのかかわりが言及され、ことにその運動の主体である部落解放同盟との恒常的な連帯・協力にふれています。けれどもその部落解放運動における文化会議の自立と連帯は、何か法則のように確立されている訳ではありません。むしろ日々の活動のなかで、時々刻々、状況に具体的にかかわり、やりとげていくことで創りだされてくるものだ、といわねばなりません。
 文化会議を存続させ、創出していき、部落解放運動のなかで自立と連帯をうみだしていくのは、会員の自覚的な参加によるほか、何もありません。それが弱ければ弱いほど、文化会議は部落解放運動、部落解放同盟のたたかいに依存してやっと成り立つということになってしまいます。それはこれまでの文化会議のあり方のきびしい反省点であります。そして、文化会議の部落解放運動のなかでの自立と連帯・共闘は、これからの課題といえます。
 この点からも、これまでの会員であったみなさんに、再度、会員として参加し、自覚的なかかわりをもってくださるよう訴えます。それがどれほど正しくきびしい批判も文化会議の外からではなく、内に会員として責任をもってなされない限り、それほど有効となりえず、文化会議の自立も連帯もうみだすことができないでしょう。

会員再登録催促の文章ですから、表現に多少の誇張があるのはやむをえないし、組織の外でなく内で批判してほしいというのも組織の内にいて努力している人からすれば無理ないとも思う。しかしそれにしても「会員の自覚的な参加が弱ければ弱いほど、文化会議は部落解放運動、部落解放同盟のたたかいに依存してやっと成り立つということになってしまいます」との文章は理解に苦しみます。なによりもこれでは「文化会議のあり方のきびしい反省」が帳消しになりませんか。
 わたしには文化会議の組織運営に注文をつける気持など毛頭ない。ただ部落解放運動における自立と連帯、部落解放をめざす団体、個人の自立性、主体性が問われているといいたいだけです。
 わたしは当初から『こわい考』について、公開の場で組織の枠を越え、自立した個人の間で論議することを願っていました。ですから「野間議長は(略)強くこの討論会への藤田さんの出席を要請されてきました。(略)残念なことに、野間議長との話し合いも、討論会への藤田さんの参加も得られませんでした」というのを読むと戸惑ってしまう。野間さんからの「総会」への参加要請については人づてに聞いてはいたものの、当日は先約があって出席できなかったのだし、野間さんと電話で『こわい考』についてお話したのは一九八八年六月、それもこちらからかけさせてもらったときが初めてでした。
 しかしまあ、こんなことはいまとなってはどうでもよろしい。『こわい考』や部落差別問題の現状、部落解放運動の課題について、文化会議のみなさんと「創造的な討論」がこれからできるかどうかの方が大切ですから。
(原載『同和はこわい考』通信』二二号、一九八九年三月)
2008.4.28.(2008.6.8.一部修正)