「同和はこわい考」通信インターネット版
敗北の歴史から


−−『紅風』の停刊をむかえて
師岡 佑行
部落解放中国研究会 『紅風』第100号 1989年3月 掲載

■1 『紅風』創刊の背景

 『紅風』の第一〇〇号が発行された。だがこれで停刊になる。なんとも淋しい。『紅風』は一九七七年九月の創刊だが、前史があって「中研」とよばれた部落解放中国研究会の「会報」をひきついだ。「中研」は七一年一二月、国交回復直前の中国を訪ねた西日本部落解放活動家訪中団のメンバーを中心に結成された。この訪中団は、当時部落解放同盟の中央執行委員をしていた泉海節一氏が中心になって編成したもので中央オルグの駒井昭雄氏ら八名だった。研究会をつくろうとよびかけたのは、この訪中に参加しなかった中央執行委員の西岡智氏である。
 中国では文化大革命の末期だったが、その影響はまだ強かった。ただし、解放運動のなかに影響が及んだのは毛沢東の著作を読んだからではなかった。そうではなくて、戦後、部落解放運動の実践の中で、要求の実現を大衆自身のたたかいによってはかってさた活動家がすくなからずいて、ひとびとが差別をとおして世の中のしくみまで考えるにいたるのは、自分自身が糾弾闘争に参加したり、あるいは行政との交渉に加わることによってであると確信していた。当時、ヒアリングという聞きなれない言葉がはやったが、その言葉の意味する少数の幹部が大衆抜きに行政当局との話合いによって要求を満たそうとするやり方に、こうした活動家たちは批判的であった。これでは大衆のなによりの学習の場が失われてしまうことになる。そして、密室での話合いはかならず個人的な利益をもとめ、あるいは誘導する場となって、解放運動にとって百害あって利なしとみた。このヒアリング方式はひろがる傾向にあるが、このままでは解放運動が腐敗し、堕落し、駄目になってしまうと強い危機感をいだいたのである。
 一九六九年には、矢田教育差別事件において部落解放同盟と日本共産党との対立が頂点にたっした。泉海氏は解放同盟矢田支部支部長の戸田政義氏とともに起訴され、西岡氏も告訴されていた。矢田支部を中心に公判ごとに裁判闘争がすすめられ、各地で共産党との争いが激化した。「中研」はそのたたかいに積極的に参加した。しかし、共産党が解放運動にあたえる影響はそれほどではないとみていた。それよりも問題は、解放同盟のなかに、大衆的な運動をきらい、ヒアリング方式ですべてことを解決しようとする動きがしだいにつよまってきていることにあるとみた。この動きが大勢を占めれば運動が運動でなくなると考えたのである。
 中国では文化大革命の末期だったが、活動家をひきつけたのは中国革命が大衆路線で成就された点であった。大衆路線にもとづく部落解放運動を築きあげようというのが「中研」の共通意志だったといえる。

■2 部落解放中国研究会の発足

 「中研」が発足したのは七〇年代のはじめで、狭山闘争がたたかわれ、東京高裁で死刑判決が無期懲役にかわったものの無罪をかちとれなかった時期である。しかも、たんに時期が重なるだけでなく、「中研」のメンバーは狭山闘争に直接かかわってきたものが多かった。解放同盟が本格的に狭山闘争に取り組むのは七〇年にはいってからだが、同和対策事業特別措置法の完全実施と狭山差別裁判反対を全国にうったえてまわった解放同盟の行進隊に参加したごくわずかの同盟員が、学生たちと公判闘争を準備するところからはじまった。この行進隊の隊長は西岡氏、副隊長は駒井氏であった。七四年秋には十一万人という大規模な参加をみるにいたったが、当初は解放同盟委員長朝田善之助氏の熱心な指導があったものの同盟幹部の多くはあまり参加しなかった。迷惑顔でさえあった。
 しかも、その解放同盟の内部において、狭山闘争をすすめようとする少数の幹部の間でも意見がまとまっていたわけではなかった。ひとつは、スローガンをめぐってで、狭山差別裁判反対か、糾弾かが争われた。もうひとつは、どのように陣型をつくるかであった。当時、全国を席捲した大学闘争の余波をうけて、学生、市民、労働者や労働組合、市民団体、政治団体などがなだれをうったように、この闘争に加わってきた。これと共闘をくむか、拒否するかである。ふたつの争点は密接にかかわりあっていて、拒否を主張するものは「反対」をとり、共闘を主張するものは「糾弾」をとった。
 ここには狭山闘争をどのようにすすめるかについての戦術上、ひいては路線上の対立があり、前者を代表するのが朝田委員長、後者を代表するのは西岡狭山中央闘争本部事務局長であった。朝田氏は大衆動員を否定しなかったが、学生、とくに「三派」とよばれた新左翼の政治集団の参加をきらい、石川一雄氏の無罪を差別論を基礎において実証的に明らかにすることを重視した。これにたいして西岡氏は狭山闘争の大衆的展開に力をいれ、またどのような政治集団であれ、公判闘争を主導する解放同盟の指揮にしたがうかぎり、排除する理由はないと主張した。これは運動の実際のうえでおこった対立であり、『解放新聞』紙上に西岡氏の事務局長解任が報ぜられるまで激化した。紙数からこの点についてこれ以上ふれないが、狭山闘争のなかに戦術、路線のちがいがはっきりとあって、「中研」の結成にさきだって解放運動のなかに大衆を土台にした路線をめざす流れがあり、その流れが「中研」にあつまったといえるのである。

■3 京都府連の分裂と朝田善之助委員長の辞任

 矢田教育差別事件の後、共産党が各地で部落解放同盟正常化連絡会議をつくり解放同盟と対抗し、同盟も組織の強化と再編をすすめた。この活動の中心だったのが泉海氏であった。泉海氏はこのころ同盟中央本部の企業対策部長で、各府県に企業連合会を設立することを通じて組織の再編をはかった。当時、解放同盟東京都連合会はほとんど活動らしい活動をしていなかった。狭山事件をうったえるなかで支部が目覚め、つくられていった。そして、働き人だけでなく、小企業者が参加し、従来の都連の姿勢を批判し、改組を要求するにいたった。この動きは、都連指導部をゆすぶったばかりでなく、東京都当局をも困惑させた。松本正都同和対策部長はこれに対処するため、同盟中央にはたらきかけて改組を妨げ、都連執行委員会に出席して要求に屈するなと激励し、京都に朝田委員長を訪ねて西岡、泉海両氏にたいする処分をもとめた。さきの動きの背後に両氏がいるとみてのことである。この見方はまちがいではなかったが、松本同対部長のやったことは行政当局の大衆運動にたいする干渉以外のなにものでもなかった。
 しかし、運動上の戦術、路線で対立している朝田委員長らは事実上これをうけいれた。不可解な事実として、一九七二年六月の大阪府連第二〇回大会で泉海氏が突如、副委員長を不信任とされ、そのポストからはずされてしまったことをあげることができる。大衆闘争で運動をすすめようとする泉海氏の考えに同意しないひとびとも少なくなかったが、だからといって論争が行なわれたり、路線をめぐる争いが誰にもわかるような形ですすんだりはしていなかった。思いもかけない不信任票であった。ただ、この不信任が代議員ひとりひとりの考えによったものでないことは、候補者の名前を記し、泉海氏だけに×をつけた小さな紙切れが一部(とはいえ多数)の代議員にまわされていたことにしめされている。 明らかに組織的な排除だった。そして、その後、中央本部の企業対策部長のポストをはずされ、無任所の中執とされてしまう。中央委員の長谷川初巳氏の懸命の努力によって、泉海氏は一年をまたずして大阪府連副委員長に復帰するが、すこぶるアンフェアなできごとであった。「中研」のあゆみのなかで忘れることのできない事実である。
 おなじ頃、中央本部でちょっとしたトラブルがおこったことがあった。 これを理由にして中央オルグの駒井氏が謹慎を命ぜられ、さらに七三年三月の第二八回全国大会において無期限権利停止処分に付されようとした。いずれも朝田委員長の指示にもとづくものであった。しかし、京都府連の代議員や各地の「中研」の会員の奮闘によって、この統制委員会の提案は多数の反論を受け、保留となり、棚上げとなったのである。だが、朝田氏はこれにこりず、京都府連のなかで駒井氏を支持し分派活動をおこなったとの理由で中野孫四郎、山野宗次、安田敏彦、大西栄三郎、東前周一、堤半兵衛、北井正一、清水隆各氏と駒井氏の九人の府連幹部を一方的に除名した。いわば府連の主な幹部のすべてを除名する暴挙であって、この朝田氏のやりかたにたいする民主化闘争が「中研」の会員はもとより広範に取り組まれ、全府下にひろがったのである。民主化闘争は一年にわたってつづくが、中央本部ではことに泉海氏がうごき、孤立した朝田氏は京都府連委員長を辞任し、翌七四年四月、第二一回京都府連大会で統一がなされ、吉田明氏を委員長とする新執行体制が発足した。「中研」の闘いという面から見るならば、おそらく、この京都府連の民主化闘争が、勝利したほとんど唯一の例であろう。


■4 狭山闘争の敗北と暴力団との闘い「浪速闘争」

 忘れられないことといえば、一九七四年の末から七五年のはじめに大阪の浪速支部で展開したたたかいがある。七四年といえば、その一〇月、東京高裁において寺尾裁判長が石川氏にたいして有罪の判決をおこない、狭山闘争が敗北を喫し、運動が大打撃をこうむったときである。その直後、兵庫県の北、但馬では八鹿事件が起こり、共産党はそれまでの解放同盟にたいする暴力集団よばわりを一層つよめた。解放運動の歴史のなかで、これほど一度に組織の死命にかかわる大問題が複数でおこったことはかつてなかった。泉海、西岡、駒井氏ら中央幹部は東奔西走しなければならなかった。
 そのとき、浪速支部で紛争がもちあがった。浪速支部では地区環境の整備がはかられ、実態調査が支部書記長の長谷川初巳氏の指導のもとにすすめられていた。全共闘闘争の敗北の後、学生たちのなかで大学にあきたらず部落のなかで活動しようとするものが少なくなく、浪速支部ではこれらの学生を調査員として積極的にうけいれた。
 浪速部落は、近世の渡辺村の後身で西浜とも呼ばれ、関西−日本一の規模をもつ大きな部落である。しかし、住宅の一部が改修をくわえられていたものの、それも老朽化がはなはだしく、環境はよくなかった。環境の改善、仕事の保障、低学力の克服などが運動の最大の課題におかれ、長谷川氏を先頭に支部をあげて取り組んでいた。
 浪速支部の運動の特徴は、住宅にせよ、奨学金にせよ、行政当局にたいする要求は大衆討議にかけて決定し、大衆行動をつうじて実現することをめざした点である。長谷川氏ら自身も一支部員としてこのような形の住宅要求の運動に参加するなかで部落解放運動にめざめさせられてきた体験がそこにあった。大阪では矢田支部がこのようなたたかい方をすすめてきており、浪速支部は矢田支部を先輩としてまなぶところが大きかった。ところが、行政当局はなるべく大衆交渉を避けようとした。また、解放同盟大阪府連のなかにも大衆を組識する努力を面倒がり、いわゆるヒアリング方式で問題の解決をはかろうとする幹部がすくなくなかった。というよりも、主流であった。このため、運動内部でしばしば摩擦が生じた。
 しかし、浪速支部はけっして地元の問題だけに取り組んでいたのではなかった。おりから本格化した狭山闘争にも積極的にくわわり、中央委員でもあった長谷川氏のひきいる支部の青年たちは、狭山中央闘争本部の行動隊の中心であった。私には、一九七四年一○月三一日、高裁前の二重、三重に放水車や武装警官にとりかこまれた日比谷公園小公園の二つの会場につめかけていた人々に石川一雄氏にたいする有罪判決がつたえられたとき、低いうめくような地鳴りに似た名状しがたい声があがったのが昨日のことのように思える。判決にたいする憤りから参加者がいつ暴発してもふしぎではなかった。ゲバ棒をもちヘルメットをかぶった集団も少なくなかったのである。だが、この日のデモは予定通り、事故もなく無事終了した。もしこのとき、行動にたいする強力な指導と統制がなければ、規律なき集団に転化するのは必至だった。その任務をはたすうえで力を発揮したのは、行動隊であり、とりわけ、そのリーダーだった長谷川氏である。この日の状況は狭山闘争のなかでももっとも困難な局面のひとつであって、それを無事切りひらいた功績は大きい。
 長谷川氏は、この年の夏、全国行進に参加して以後、ほとんど東京にいて狭山事件の公判闘争の指導にあたっていた。ひさしぶりに大阪にもどった長谷川氏をまちうけていたのはねぎらいの言葉ではなかった。
 このころ、浪速支部にたいして同支部の一部の業者が浪速の地域で実施される工事に参加できるよう推薦してほしいと申し入れていたが、支部としては筋違いであるとしてうけつけなかった。当時、支部が業者の直接的な利害にかかわることは運動団体の性格をゆがめるとして、やってはならないこととされていたのである。この支部の態度に不満な業者たちは長谷川氏の指導にもとづくものとみて長谷川氏を非難し、攻撃しはじめた。攻撃は言葉だけでなかった。背後に組関係者の動きもみられ、支部事務所には防衛のために大勢の支部員や調査員が昼も夜も詰めかけた。また、事態を憂慮した解放同盟員「中研」の会員が全国からあつまり、解放同盟中央本部の所在地でもあった浪速の部落は騒然となった。
 この状況にたいして、浪速支部を支持する泉海、西岡、駒井氏らがかけつけて指導にあたったが、大阪府連も中央本部もなすすべもなく積極的に動こうとはしなかった。なかでも身を挺して指導にあたったのは泉海氏であって、組上層部とも直接に面談して交渉をすすめたこともあった。だが、相手方はあくまで長谷川氏の退陣を主張してゆずらなかった。浪速部落の非常事態をなくすためにこの要求をのむほかはなかった。支部事務所のホールにあつまったひとびとに泉海氏が事情を手短かに話して了解をもとめ、ピケを解くにいたったのである。大衆的な闘いによっての結着ではなくこうして終止符をうつことにたいして、だれもが納得できない顔つきであった。このようにして浪速闘争は終わった。そして長谷川氏は浪速をはなれ、京都にうつり住むこととなった。

■5 同和対策事業の功罪

 『紅風』が定期的に発刊され、「中研」が組織的に活動できたのは長谷川氏のはたした献身的な努力に負うところが大きかった。文字通り四六時中、各地からはいる電話をうけ、気持ちよく相談にのり、どこへでも足をはこんだ。ワープロもいまほど普及しておらず『紅風』発行の経費を節約するために和文タイプライターを買ってみずからキーをたたいて全文をうちだしたこともあった。あまり読み書きがすきでなく、解放運動に参加するようになって、はじめて自分で自家製の辞書をつくって勉強したという長谷川氏がである。毎月の発送も長谷川氏と青年たちの無償奉仕によっておこなわれた。編集は藤田敬一氏が岐阜からかけつけて精力的におこなった。『紅風』が発行された一九七七年から八九年までの一〇年余は、全体として部落解放連動の主流である部落解放同盟がしだいに国家にとりこまれていく時期である。もちろん、同盟のなかにも、周辺にも、この流れに抵抗する動きがあり、「中研」はその中心にいた。
 六九年に制定された同和対策事業特別措置法は十年間の時限法であるが、国家の側に有効に働くのはとくに後期の五年である。それほどに運動しなくても改善のための予算が組まれ、支出された。このため、部落の環境は目に見えて変化した。それと同時に予算や事業をめぐって私利をはかるものが少なくなく、新聞を賑わすようになった。ヒアリングは当然のこととされた。このような運動のありかたに対抗するものとして、『紅風』の主張や論説は書かれた。
 前川む一氏の「私たちの被差別部落の兄弟が、肩をいからせて、世間を歩くようになったのは、一体いつからのことで、何がそうさせるようになったのか」とのするどい発問をおこなった「『運動』が置き忘れてきたものは」という文章は、藤田敬一氏の『同和はこわい考』に掲載されて話題と物議をかもしたが、じつは八一年の秋、藤田氏の「部落外出身者としての私の『思い』」とともに『紅風』第四九、五〇号に掲載されたものであった。ただ、このときは、まったく話題にもならなかった。『紅風』にはこのように問題にならずにおわってしまった座談の記録や文章が多い。
 たとえば、解放運動は“朝は朝星、夜は夜星”という長時間の不安定な仕事からの解放をめざした。公務員がふえた。だが「昔のほうが、言葉ではいわなかったけれど人間的やった。いろんな施策があるが、結局、ぼくらなにかをとられたのとちがうか、いうて話しているんです。魂をとられたと思う。それと、生きていくという気魄もとられたのとちがうか。差別されたって、蹴られたって立ちあがって生きていくのやと、親もそういうてました。貧乏は貧乏なりに、貧しいものどうしが仲よくし、助けあっていかなあかんのやで。あれが欲しい、これが欲しいと思っても、親は買うてやりたいけれども買える状況とちがう、だからコツコツ勉強して、コツコツ仕事しとったら、いつかエエことあるねんで、いうて。そういう話のなかで辛抱することとか、生きていく道というの教えてきましたわね。」これは『紅風』の八一年七月号にでている青年活動家の鼎談のなかでの浅川仁というペンネームのひとりの発言である。
 あやうく融和主義と受けとられかねないが、解放運動がかちとったさまざまな施策とひきかえに失ったものがなんであるかを運動の立場から部落の生活のなかできちんとつかんでいる。そして、いま運動がなにに直面しているかも語られている。
 施策を獲得することを第一としてきた戦後の部落解放運動をになってきた指導者たちは、その運動の意義とともに、その結果が部落におよぼした弊害についても、自分たちがもたらしたものであることを認めなければならなかった。そうして、はじめてわかい活動家と手をたずさえることができるのだが、そうしたことはまれであった。わかい活動家たちが、戦後初期と比較にならないほど困難な状況におかれていることをまったく理解することなく、運動の行き詰まりをあげつらうことがあまりにも多かった。そして、この鼎談も『紅風』誌上の他の主張や座談会とおなじように言いっぱなしにおわった。
 これは、一例にすぎない。しかし、さきの前川氏の文章が『同和はこわい考』に採録されて、はじめて運動に大きな衝撃をあたえたように、『紅風』にのせられたまま今日まで日の目をみなかった主張の多くが、いまもなお生命力を保持しているといってよい。この点で『紅風』はまだ生きている。

■6 解放同盟の腐敗と「西岡・駒井意見書」

 「中研」が七〇年代後半から八〇年代にかけてめざしたのは、部落解放運動−部落解放同盟の内部における不正、腐敗、堕落とのたたかいであった。『紅風』にはその記録がヴィヴィッドに書きとめられている。七七年九月に発行された『紅風』創刊号の「全青報告 みずみずしい感性に粘り強さを」には「三月同じ京都で開かれた第三二回全国大会が、利権と暴力、右翼融和主義に対する大衆的批判を公然と、大きな流れとして登場させた」とあるが、流れの主力は「中研」であった。香川県連と上杉書記長、駒井中執との話合いに「トラブルが起こ」り、「暴力問題が若干出てきた」と報告し、また「一部の暴力団が、組織の内部に介入してきている実態がある。もっといえば、山口組を中心とする暴力団が組織の内部に介入している事実がある」と指摘したのは、いずれも「中研」のメンバーであった。しかし、解放同盟中央は問題が提起されたことさえ迷惑がり、事実関係も明らかにすることなく、うやむやにしてしまった。いっぽう「中研」の側も、力量不足を理由にその解決のしかたをうけいれ、竜頭蛇尾におわった。
 運動の腐敗はいっそう深まった。ひろく知られているように一九八一年一二月に中央執行委員の西岡、駒井両氏が中央本部に「意見書」を提出した。当時、北九州市における土地ころがし事件に解放同盟幹部がかかわっていることを『赤旗』だけでなく、『朝日新聞』も報じ、大さな社会問題となっていた。これにたいし、作家の野間宏氏らも憂慮をかくさなかった。西岡、駒井両氏は、これを「戦後最大の危機としか言いようのない事態」ととらえ、北九州の事件など三つの事例をあげて、腐敗が構造的にすすんでいることを指摘するとともに、処分が濫発されていることをも警告した。
 しかし、中央本部は全同盟員のまえに「事態」を明確にして、問題の解決をはかるのではなく、逆に「意見書」の提出、公表が手続きのうえで間違っているとして西岡、駒井両氏の排除をはかり、鎮静化のために全国大会の延期という異例の措置にでた。腐敗の事実は新聞や週刊誌でひろく知られているにもかかわらず、なんの情報もあたえようとしなかった。『紅風』の八二年二月号に中央幹部学校のテキストとして配布された両氏と数名の中央執行委員の意見書のすべてを再録したのは、この状況にたいしてであった。『紅風』の読者、なかでも「中研」のメンバーは事態を正確に知ることをつよくもとめたのである。
 けれども、「調査、審理」を公然と行い、自己批判をふくめて「構造汚職」とよばれているものの真相をあきらかにし、処分すべきものは処分することをもとめた西岡、駒井両氏の「意見書」はまったく無視されてしまったのである。それどころか、中央執行委員会は問題とまっすぐにむきあうことなく、悪いのは両氏だとばかりに「意見書」を撤回しなければ、書記局員を解任するとの決定をおこなった。そして、結局、両氏はこれを認め、中央執行委員会はそれを了承するとともに第三七回全国大会をこの年秋にひらくことを決めたのである。この間、『解放新聞』(五月二四日号)が、上杉書記長と両氏とのあいだで「意見書」の内容は大会提出の運動方針案に全面的にとりいれることが確認されたと報じて一波乱があったが、誤報として処理され、記事を書いた記者の高橋章三氏に責任がおしつけられるという一幕もあった。
 しかも、この大会でかろうじて駒井氏は中央執行委員にえらばれたものの無任所にすぎず、西岡氏はえらばれなかった。いや、えらばれなかったというのは正確ではない。大阪府連は全国大会にさきだって、中央本部役員への立候補については府連委員会において信任投票を行なって推薦することとし、その信任が得られず、候補者にもあがらなかったのである。
 大阪府連委員長で中央執行委員の上田卓三氏は、さきの中央執行委員会において、この取り決めをふまえて中央役員の立候補には都府県連の堆薦が必要だと力説した。上田氏の主張は、なるほど文句のつけられないほど民主的な役員選出の方法である。しかし、その主張がなされた時期と状況からいえば、すでに読者にも明らかなとおり、運動にたいして直言をはばからなかった西岡氏をきりすて、排除するための方法だったのである。
 周知のように上田氏は、戦後最大の疑獄であろうリクルート事件にかかわって国会議員をやめたが、その根っこは案外このあたりにあるのではあるまいか。
 かくして、「中研」はまたしても、敗れさった。

■7 部落解放中国研究会の敗北

 またしても、敗れさったのでなくて、いまにして思えば「中研」の命運はここに尽きたのである。『紅風』のバックナンバーをくると、「意見書」をめぐるうごきがなまなましくよみがえってくるが、一九八二年七月号の加藤元の名前の「『意見書』撤回の報に接して想う」という文章の終わりは「この七ヵ月間の攻防の推移を視ていて、結果、『意見書』という真摯な批判を、けっきょく受け容れることのない現在の部落解放運動に、失意をさらに一歩深くしたのは、あの解放新聞の報道に接した人の中に、どれだけ多くいたことだろうか、としみじみ思う」とむすばれている。含意に富む言葉だが、ここでの「失意」は「現在の部落解放運動」だけでなく、「力及ばずして、あるいは力尽きずして、現在に到った、われわれ自身のありようをも振り返ってみなくてはなるまい」とあって「中研」自体にもむけられている。そして、「失意」はさまざまなかたちで「中研」のメンバーをとらえていった。
 「失意」はこのとき始まったのではなかった。たとえば、『紅風』の同年三月号では「全国水平社創立以来の老闘士が『わしは何のために、食うものも食わんと運動してきたんやろ』と誰にいうことなしに呟かれたのを横で聞いた。その時、何ともいえぬ虚脱感に襲われた」ではじまる大友三平名の文章がある。大友は、そこでは「『蜜に群がるアリ』のごとく、組織暴力団が事業を中心に利権をあさり、あるところでは同盟の幹部が暴力団の傀儡政権となっているところもあると聞く。そのことが事実であるとすれば、もはや解放運動は『死に至る病い』に犯されているのではないだろうか。それらの勢力と闘っている勢力が健在であるならば、まだ救いようもあるが、多くは平和共存で進んでいるのが実態のようだ。」という。これを杞憂だとあざけるひとは、よほどおめでたいというしかないが、このような憂慮がここにきて、いっきょに深い「失意」となったといってよい。
 このとき、「中研」は一九七一年の発足以来、一〇年余の歴史をもち、『紅風』も発刊後、五年を経、五九号をかぞえていた。そして部落解放運動のさまざまな局面において大衆的な運動の形成をめざしてまじめに取り組んできた。だが、目標にたっしたことはごく稀で、浪速闘争以後、敗北の連続であった。
 なぜ、「中研」は敗北につぐ敗北を重ね、ようやく若い活動家の献身的な奉仕によって一〇〇号まで発行してきた『紅風』も事実上廃刊においこまれたのだろうか。

■8 敗北のもたらしたものと部落解放運動の目指すもの

 「中研」が発足したばかりの七〇年代のはじめ、会員になったばかりの中年の部落の労働者で解放同盟員が、いまは悪名たかい毛沢東語録を開いて「『人民に奉仕する』とはいい言葉だなあ」と感にたえないように語ったのをおぼえている。この赤い小さな本は、その人にとってまじめに読んだはじめての本だったのである。それから二〇年あまりたったいま、この人が解放運動をどのようにみてきたことかと思う。おそらく、いつかの時期に虚脱感におちいり、失意をいだかざるをえなかったのではあるまいか。そして、ひとたび思想にとらわれたことがあるだけ、それはいっそう深いはずだ。
 「中研」がめざし、『紅風』がとりあげてきたことはけっして誤りではなかった。しかし、なにひとつ成就することなくおわろうとしている。なぜ、そうなったのであろうか。理由はひとつではないだろうが、私には浪速闘争をはじめとして、いつも腰くだけだったことが思いだされる。もちろん、妥協は避けられないが、詰めるだけ詰めたうえでのそれではなしに、元も子もなくしてしまうような妥協の連続であった。「力及ばずして、あるいは力尽きずして」というささの言葉は、このことを指している。敗れたとしても、精いっぱい闘ったとすればそれなりの充足感ものこされたはずだ。闘いきることのなかった敗北は、不信をかもし、不信は内部の対立をうみだしていった。
 そして、不燃焼におわった敗北がもたらしたのは、疲れであった。大衆路線にもとづく部落解放運動をきずきあげようとするのは理想にすぎない。われわれは資本主義の世のなかに生きているのだから、この現実をはっきりとつかんで活動しようという現実主義が芽生え、広がっていった。「中研」の会員のすべてがそうだったのではない。おそらく、利権と暴力におかされている解放運動の現代にあきたらない活動家がもっとも多く結集していたのが、「中研」であった。けれども、少なからぬメンバーが理想はタテマエだとして、現実主義に走った。いぜんとして大衆の名において語られることは多かったが、しだいに内容を失い、言葉だけが空を舞うこととなった。闘いきらずにかんじんなとき妥協をかさねたこと、現実主義におちいったこと。このふたつが「中研」を衰退にみちびき、『紅風』を停刊においこんだ主体的条件である。
 七〇年代後半から八〇年代にかけての日本経済の大さな変化にもとづく社会の変動は、空前の汚職をうみだしたリクルート事件の母胎でもあるが、「中研」のなかに現実主義をかもしだしたのもこれであった。
 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」は、よく知られているように『全国水平社創立宣言』の末尾の言葉である。部落差別をなくす運動が人間の解放をめざすものだとひとびとに呼びかけている。部落解放運動とは、生活のなかから容易に達成されることのない理想の実現をもとめる理想主義の運動であることを、全国水平社は出発点においてしめしたのだ。理想とは、しょせん空想家の夢物語にすざないサと皮肉をこめた嘲笑でふっとばすのが通常だろう。しかし、この理想は、実際の生活のなかからもとめられているものであって、そう簡単に吹きとばされるわけにはいかない。ここに部落解放運動の魅力がある。
 もともと、部落解放運動は理想主義を背骨にしている。もうすっかり古びてしまったコマーシャルをもじれば、理想主義のうすれた部落解放運動なんか解放運動ではないのだ。
 「中研」がめざし、『紅風』が底にすえたのはこの理想主義である。
 人と人とのかかわりを砕き、自然環境を壊し、公害をまきちらしての未曾有の経済発展がうみだしたカネ、カネ、カネ、モノ、モノ、モノの世界が、現実主義を「中研」にしのびこませ、「中研」を自己崩壊にみちびいたのであった。
 「中研」が事実上、崩壊したあとも『紅風』はなお発行されてきた。集団としての結集が失われたあと、なお理想の実現を願うものたちが辛うじて、この発行をささえてきた。なかでも鬼編集長とよばれた植松美行氏の献身なくしては一号もでなかったはずだ。植松氏が不惑の年を前にして、一医学生として学び直すこととなったいま、ついに停刊をむかえることになったのもやむをえないところであろう。


※この論文は、師岡 佑行さんのご遺族にお許しをいただいて掲載いたしました。ご協力に感謝いたします。
※小見出しの文字部分は、読みやすくするために管理人が付加したものです。
■師岡 佑行(もろおか すけゆき)さんの略歴
1928年 神戸市に生まれ、尼崎に移る。
1949年 尼崎市立長州小学校に在職中(代用教員)レッド・パージ。
1953年 立命館大学文学部日本史専攻に編入学。
1959年 同大学院終了。
1961年 日本共産党を除名。
1962年 立命館大学文学部講師。
1969年 大学闘争に全共闘を支持して同大学をやむ。
1971年 大阪矢田診療所に勤務。
1973年 「解放新聞社」主筆。
1975年 同社辞任。
1977年 「京都部落史研究所」(現在の京都部落問題研究資料センター)を主宰。
1999年 沖縄県那覇市に移住。
2000年 「京都部落史研究所」所長を辞任。
2006年6月12日 那覇市の自宅マンションから転落して死去。享年77歳。

■主な著書
「戦後部落解放論争史」全5巻 柘植書房 1980年〜85年
「近世日本思想史研究」(共著) 河出書房新社 1965年
「現代部落解放試論」 柘植書房 1984年
「京都の部落史」全10巻(共著) 阿吽社 1985年〜
「現代部落解放論 − いま部落解放に問われているもの」 明石書店 1987年
他多数。
2006.12.29.