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《 通信余聞 》
顔が見える呼応の場として
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藤田 敬一
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一年ぶりに『通信』を発行して二か月、インターネットによるメール交換やホームページもいいけれど、『通信』は捨てがたい媒体だと実感しています。 発行を思い立ってから郵送完了までの二週間、充実した日々を送ることができました。そんなエネルギーがどこから湧いてきたのか不思議です。何かがわたしを奮い立たせたとしか考えられない。大垣で友人が発した、「カンパを送らないから郵送を打ち切られたのだと思っていました」というひとことが直接のきっかけだったことは前号に書いたとおり。カンパ云々はともかくとして、『通信』がとどかないのは、「あなたとは今後お付き合いをいたしません」というメッセージとして受け取られていたとすれば実に困る。そんな困惑がわたしを駆り立てたみたいです。発行後、何人かの方からそんな内容のお便りがとどいたところをみると、杞憂でなかったんですね。
ああ、なんというやさしさ、繊細さ。 転居先不明や死去によって郵送できなくなるのはあたりまえですが、そのほかに、気が小さくて、度量の狭いわたしのこと、「向きあう気のない人に『通信』を送る義理はない」とばかりにエイヤッと郵送を打ち切った人は数知れず。しかし今回の長期休刊が『通信』を待っていてくださった人にまで要らぬ推測を煩わせたのは、まことに申しわけないことでした。
Tさんとは十数年前、東京都教育庁の招きで出かけたときに知り合った仲。とんぼ帰りの忙しいあいだに粋なお店でちょっとだけ一杯やったことが忘れられない。そんな方と縁切りなどどうしてできましょうぞ。 もっとも、「暫く『こわい考通信』が届かなかったので、除名されたのではと思い、割り切っていました」と、きわめて冷静に受け止めた方もおられるから、世の中はおもしろい。 閑話休題。原版の作成から印刷、B4からB5への折り畳み、宛名印刷と宛名貼り、切手貼りと封筒入れまで、誰の手も借りず、わたし自身の労働によってつくりあげた『通信』をとどける意味を考え続けた二週間。500部近い宛先のほぼ9割はお顔をおぼろげであれ思い出すことがでる人びとばかり。もちろんこの18年間、一切音沙汰のない人もいるし、明らかに読んでくださっていないことがわかる人もいる。しかし、それはまあ仕方がない。重要なのは、返事や反応があろうとなかろうと、わたし自身の手でメッセージを送りとどけるという行為なんですから。
切手一枚に手渡しを実感してくださるHさんの想像力。 『通信』に貼る切手がなくなって200枚買いに西改田簡易郵便局に急いで出かけたら、「藤田先生」と書かれた封筒のなかから記念切手などが机の上にずらっとならべられ、選んでくださいとおっしゃるではないか。そうか、この一年、いつ買いにくるかわからないのに準備しておいてくださったのだ。そう思うと感動してしまいましてね。そしてお気づきかどうかわからないけれど、西国の人には東国の、東国の人には西国の、というように切手の図柄を考えながら貼るようにしているんです。それがわたしの「こだわり」。お笑いめさるな。
目ざす相手に言葉をとどけるには「人の手」が必要だとTさんはおっしゃる。つまり、手抜き、ズボラはいけないということでしょう。『通信』の「目ざす相手」ははっきりしている。それはお一人お一人の「あなた」。 そこへゆくとホームページはいささか勝手がちがいます。どなたが読んでくださっているのか皆目見当がつかないからです。手応えというか、向き合っている確かさが感じにくい。そこが活字による『通信』と電子による通信のちがいでしょうか。
情報とは、不特定多数の人に提供される記号によるデータです。しかし『通信』は、わたしの、わたしによる、わたしのための、「あなた」という存在への私(通)信です。「わたしのための」とは「誰かのためではなく、まずはわたし自身の自己確認のための」という意味。そこから「顔が見える呼応の関係」が生まれたらうれしい。そんな気持でこの18年間、発行してきました。『通信』は情報という記号によるデーターではありません。文字(活字)だって記号だという理屈は成り立つでしょうが、そこには切れば血が出る人間の思いがこめられているんです。いずれにしても、こうして『通信』は不定期ながらの発行を再開しました。
職場の古紙の裏に書かれた「ラブレター」(ご本人の説明)の一節に、泣き虫のわたしは「探偵ナイトスクープ」の西田敏行局長みたいにハンカチを取り出してしまうありさま。こういうお便りにはほんとに弱いんだ。 『通信』を通して、こころが交わりあう交感、こころが響きあう共感、こころが強く重なりあう同感の輪がひろがればと願っています。(05/6/11記) 《 採録 》
筆者に聞く−『つくりかえられる徴−日本近代・被差別部落・マイノリティー』(解放出版社、04/11)を書いた黒川みどりさん(3)「解放の展望を切り拓くために」
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(『解放新聞』05/5/23)
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− (笠松明広編集長)最近のところで、黒川さんが書かれているのは、『同和はこわい考』にたいする評価です。 *(黒川みどりさん)はい。 − もう一つ、『INTERVIEW 「部落出身者」12人の今、そしてここから』(解放出版社・03年)の評価。要するに多様性という問題と、それから『同和はこわい考』でいえば「両側から乗り越える」努力、あるいは立場の絶対性ではなくってということですけどね。そのあたりをちょっと。 *藤田さんご自身も、じゃあどうすればいいかという明確な展望を出していらっしゃるわけではないと思います。でも、藤田さんが部落問題を外側からだけでなくて、ご自身も苦闘されてきた経験をふまえつつ、内在的に部落問題と向き合いながら、ああいう提言をなされて、いろんな意見、これまで出てこなかったいろんな意見をよび起こす、一つのきっかけになりました。そのことの思想運動としての意味は、大きかったんじゃないかと思っているんです。 藤田さんの問題提起というのも、部落民像が今多様化して、それを模索していくという流れに、期せずして、行き着いてきているような気がしているんです。そういう意味では、今の新しい若い世代から出てきているような模索と重なってくるようなものが、あるんだろう、と。それが「部落民とは誰か」という、問いにもなっているんだろうと思うんですけれども。 − ただ、いま、ひじょうにむずかしいのは、多様化というなかで、一つの大きな解放の戦略が、なかなか見えないところがあると思うんですね。 *そうですね。 コメント. 黒川みどりさんは静岡大学教育学部教授。著書に『共同性の復権−大山郁夫研究』(信山社、2000/7)などがあります。 ところで、『つくりかえられる徴』のなかで、黒川さんはこう書いておられます。
黒川さんは、わたしの思索のあとをたどり、その意味を部落解放運動の思想の歩みのなかに位置づけようとしてくださっている。ありがたいことです。 ただね、わたしは実態が変わってきたから「部落民とは何か」を問うたのではないんです。実態の変容は視野に入っていたし、そのことを考えなかったわけではないけれど、「部落民」という存在そのものを問いたかったのです。「部落民とは何か」と「部落民とは誰か」とはちがいますよね。前者は本質を問い、後者は概念の適用範囲を問う。「わたしは(あなたは)部落民である。わたしは(あなたは)部落民ではない」という自明とされてきた〈存在〉について問いを発することから根源的な思索がはじまる。それなくしては「人と人との関係を変える」ことなどできるはずがないと思っていたし、いまも思っています。「部落民」を自明の存在として立論する物言いは、遅かれ早かれその脆弱性を露呈するしかないでしょう。 さて、黒川さんは「藤田さんご自身も、じゃあどうすればいいかという明確な展望を出していらっしゃるわけではない」という。たしかにそのとおり。以前なら、「雑誌の『展望』すら廃刊になった時代に、展望なんて語れますかね」なんて軽口をたたいていたけれど、いまはちがいます。「全体の展望を語ろうとするとき、人はまちがいやすい。全体から語るな。自己限定的に語れ」とみずからに言い聞かせている。「解放とは彼岸にあるのではない。『いま、ここ』の人と人との関係のなかにある」と考え、「一人でできることは高がしれているけれど、一人だからこそできることがある」と信じて、わが道を歩むだけ。 それにしても、『解放新聞』で『こわい考』が取り上げられるのは何年ぶりになりますか。「中央本部は、『同和はこわい考−地対協を批判する』(藤田敬一著)にたいし、『地対協』路線と同水準のもの、国家権力と対決している時に部落解放運動にたいする味方の発言とは評価できないとして、きびしく批判していくことを決定した」という文章ではじまる「基本的見解」が『解放新聞』紙上に発表されたのは87年12月のこと。つまり「差別思想、いびつな発想」の持ち主と断定されて18年。でもね、「見解」が引用する、
とか、
とかは、今日の情況にもあてはまるはず。疑う人は、高知の「モード・アバンセ」、大阪の「ハンナン」、名古屋の「フジチク」を見よといいたいな。 『こわい考』は、古書店の店頭に百円の値札をつけてならべられることがあろうとも、断じて古本、古書ではないというのが、わたしの確信です。『解放新聞』の今回の記事によってはじめて『こわい考』を知った人がいるかもしれない。そこから何かが生まれることを期待して悪いわけはないですよね。 《 再録 》
思い出はつきず−矢田で学んだことなど
追悼集会実行委員会編『故戸田政義・西岡洋右・山上益朗さんの想い出〜夢に描いたまちづくりの結晶とともに〜よき日のために闘いつづけて…』 05/3所収) |
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藤田 敬一(岐阜)
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思い出を書くように、とのご依頼である。一九五九年以来の思い出はつきず、それを書くとなれば誌面が足りそうにない。あえてお三人に共通する思い出をあげるなら、部落解放運動をめぐって、たとえば「部落解放とは何か。部落解放にいたる道は何か」について真剣に議論しあったことだ。意見が対立して感情が激したこともしばしば。三年前だったか、自主財源の評価について戸田政義さんと意見が衝突したことがある。帰宅した戸田さんから「ちょっと来てくれ」との連絡が入った。寄せてもらうと冒頭から論争再開。議論が白熱してきて、わたしは思わず言った。「のどが渇いた。ビールがほしい!」。結局、その晩は岐阜へ帰らず(帰れず)、矢田に泊まることになったのだった。ことほどさように論争が人間的信頼関係をそこなうことはなかった。それは人間を、差別する側と差別される側とに固定的に区分する二項対立的発想から自由な関係が生きている、世にも珍しい光景の一齣といえるかもしれない。/それにしても、戸田さんをふくめて矢田のみなさんから学んだことは多い。なによりも生き方を教えてもらった。「藤田君、人間にとって大切なものは何か考えなアカンよ。大きな家に住むことか。きれいなおべべを着ることか。漢字や横文字が読めることか」と問われたのだった。学歴・学校歴・職種・職業・肩書きで人間を見ることの愚かしさも学んだ。 矢田に寄せてもらうようになって四六年。わたしも六六歳になった。部落解放とは何かを熱く語りあった人びとが亡くなっていくのは淋しい。しかし、それが人生というものだろう。矢田で学んだこと、議論したことをこれからの生き方にどう活かすか。わたしはそれを考え続けている。 コメント. これは3月30日、大阪市矢田人権文化センターで開かれた、戸田さん、西岡さん、山上さんの三人を追悼する集会に寄せた文章です。京都では理論を学んだけれど、矢田ではこころを教えてもらいました。理論の運命なんてはかないものです。しかし、こころはそうではない。だからこそ部落解放運動とは何を目ざす運動なのかを、こころを軸にして検証してほしいという思いがわたしには強い。集会の席でもそのあたりのことを少し申し上げました。 《 講演日録抄 》
○4月21日(木) 京都桂の姉の家で目覚める。昨夜は遅くまで姉や姪と話し込んだので寝不足気味。昼前、大阪市教育センターに向かう。大阪市同和教育主担者研修会だ。午後3時から1時間半、「これからの同和教育を考える」と題して話す。参加者は300人を越えていたみたい。後日、感想がとどく。「『人権問題がこころにとどくことはむずかしい』という視点に立たれつつ、それでも先生の人間存在すべてをかけて、むずかしい問題に正面から取り組んでおられることが、ひしひしと伝わって参りました。熱い情熱にこころをうたれました。人間存在の深い部分から人権問題に迫ることの大切さを痛感いたしました。ひとの本音を見さだめなければなりませんし、こころの深い部分から人権問題を考えなければならないとも、強く思いました。つまるところ、人権問題は、人間観の問題なのだとあらためて認識した次第です。先生のお話をうかがい、とても勇気づけられました」。矢田にはよく寄せてもらっているが、大阪市教委に招かれたのははじめてのこと。わたしの思いが伝わったようで、正直うれしい。わたしを招くよう提案してくださった方、いろいろ困難が予想されるなかで招くことを決定してくださった方々、そして授業が終わったあと出かけて熱心に聞いてくださった教員のみなさんに感謝したい気持でいっぱいだ。 ○5月31日(火) 豊田市立上郷中学校「人権を考える集い」。3人の生徒さんの意見発表のあと、50分ほど「人間について考える」と題して話す。後日とどいた感想文のなかから。「藤田さんのお話でとても胸にとどくものがありました。それは『いじめ』のお話でした。自分はこの9年間、ずっと差別を受けてきました。藤田さんのお話を聞いて『そういうこと、あったなぁ』と思いつつ、過去にあった『いじめ』のことを思い出していました。でも、そのかなしい思いを『勇気』にかえて、これからの人生をのりきろうと藤田さんのお話の中で思いました。自分も金子みすゞさんの『わたしと小鳥とすず』が大好きです。この詩は小学校の時、知りました。それ以来ずっとうたっています。藤田さん、“人間”とは誰かと巡り合うためにあると、私は思っています。うまくは言えませんが、私はそんな気がしています。」 《 川向こうから 》
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