No.163 2003.8.15.
《 随感・随想 》

ホームページ開設顛末記
藤田 敬一
 「パソコンの勉強がてらホームページ(以下、HP)をかわりにつくっていいかしら。」宇治に住む長女(HPネーム「J2」)からこんなメールが入ったのは、5月16日のことでした。
 三年ほどまえに買い求めたノートパソコンVAIOでメールのやりとりはなんとかできるようになってはいる。しかし、それも勤勉というにはほど遠い。ましてインターネットのHPにアクセスしてどうのこうのする気はなかったんです。古書探しも、新刊書の注文も一応は試みたけれど、インターネットでなければならぬというわけのものではない。天気も道路情報も、そして列車の時刻もさしあったってはこれまでどおりのやり方で間にあう。そこへHPをつくろうよという提案だから「えっ」という感じがしないでもなかった。でも待てよ。ひょっとしたら『通信』や部落問題全国交流会、『こぺる』とはちがった世界が開け、別の形の出会いが生まれるかもしれない。挑戦してみる価値はありそうだ。技術的なことはすべてJ2におんぶ、だっこでいく。それでいいのならやってみるか。というわけで、あとは一瀉千里、一気呵成。ついに6月16日公開のはこびとなりました。ウキウキワクワク気分の二か月。アクセスは1700人超。はじめてお会いする人から「HP、拝見しましたよ」と声をかけてもらうこともあり、当分、はまりつづけそう。
 さて、これまでの体験によれば、HPのおもしろさは自己表現の自由さにあるようです。わが家のネコたちや山小舎の写真を載せたり、阪神タイガースを思う存分応援したり。制作兼管理人であるJ2のセンスも大いにあずかって実にのびやかで、やわらかに仕上がっている。なによりも、わたし自身がどんどんしなやかになってきているのがわかる。「あるがままのわたしと家族・ネコたち・友人との交感世界」を関西風に味つけしてさしだす。そんな雰囲気になってきました。露悪趣味だと顔をしかめる向きがあるかもしれないけれど、そんなことは一切おかまいなし。「これが藤田敬一なのだ!」といったところです。
 では、各コーナーのリードを紹介しましょう。


 「おいでやす」。京都の小さなお店では、お客さんが入ってこられたら、このように声をかけて迎えます。やわらくかくて、包み込むような感じのことばでしょ。/「まいど」。主に大阪のお店で常連のお客さんにかけることば。/わたしは京都出身で、大阪道頓堀生まれ、京都育ちのおふくろの影響もあってか、いまもって関西弁が抜けません。そこで、感謝の意を込めて、「われらがホームページ」をはじめてお訪ねくださったあなたには「おいでやす」、そして再訪してくださったあなたには「まいど」とご挨拶させてもらいます。(略)
 「おきばりやす」。仕事などで外出する家族や店員さんにかける京都弁。気遣いが感じ取れるやさしいことばです。NHK の朝の連続テレビドラマでお聞きになった方もあるはず。おふくろもよう使ってました。いまでは、J2が受けついでおります。さあ、お好みのコーナーにおでかけください。それでは、「おきばりやす」。(「トップページ」8/2)

 「川向こうから」。あの世からのメッセージではありません。わたしの住んでいるところが川向という地名で、それにちなんでつけただけのこと。「『同和はこわい考』通信」のあとがきと併用します。/このコーナーは、いってみればわたしの身辺雑記。日々の出来事と感想を気ままに書き連ねます。「そんなことをホームページに載せてどうするんや」といわれると、ちょっと困る。しいて答えるなら、「わたしという人間をまるごと知ってもらうため」ということかなあ。「お前さんをまるごと知ってどうなるんや」と畳みかけんといてくださいね。人は誰しもいくらかの自己顕示欲があるもんですから。(「川向こうから」6/16)

 「『同和はこわい考』通信」インターネット版へのアクセスが1 万人をこえたといったら、ある人から「1 万や2 万なんて、大したものやないですよ、藤田さん」と、いとも簡単にいなされたことがあります。そらそうかもしれません。先日の新聞に「庶民の『武器』−接続15万件」という投書が載っていましたから。5 年半かかったにしろ「接続15万」人という数字は、わたしの想像をこえます。HP開設から3 週間で400 人といってびっくりしているようではアカンのですかね。/「『同和はこわい考』通信」を発行して16年余。この間、各地のみなさんからいただいたお便りは四千数百通、一年280 通ほど。その一通一通に励まされ、支えられてきました。「筆まめ」「手紙魔」と揶揄されるわたしのこと、そのすべてに返事を書いてきたことはいうまでもありません。そんな双方向の「呼応の関係」に、「生かされてあるわたし」を実感してきたのです。では、HPではどうか。期待半分、不安半分というのが正直なところです。そこで、連載第1 回目は、身内、つまり友人や親戚からのご祝儀(?)メッセージです。(「各地からのメッセージ」7/5)

 隠れファンやおまへんで−まわりは中日ファンと巨人ファン一色。そんななかでの忍従の32年半。もっとも18年前は美酒に酔いました。史学科の学生H君と二人で、5 階のベランダから「阪神優勝万歳!」の幕を垂らし、「バンザイ!バンザイ!」と叫んだために、「あいつらタワケや」と陰口をたたかれたとか、たたかれなかったとか。/想えば、小学生のころからのファンなんです。ただ一度だけ浮気をしたことを正直に告白します。小西得郎監督率いる松竹ロビンスが立命館大学の衣笠球場をホームグランドにしたとき、京都のチームを応援せなアカンといわれて後援会に入りました。それだけです。いや、もう1 回あったかなあ。それは、浮気というよりも、アンチ巨人で西鉄を応援したにすぎないんです。ほれ、58年の日本シリーズ。3 連敗4 連勝で西鉄が巨人に勝ったとき、宇治分校の生協食堂でテレビ観戦したことが忘れられない。この2 回だけです。ホンマです。ウソはいいません。(「阪神タイガース」6/29)

 福沢諭吉は明治元年(1868)山口良蔵あての書簡で「最早武家奉公も沢山に御座候。此後は双刀を投棄し、読書渡世の一市民と相成候積」と書いた(『福沢諭吉選集』13巻46頁、岩波書店、81/11)。これをもじっていえば、わたしは財布面では「無職渡世の年金生活者」であり、生活面では「読書・講演・ミニコミ発行渡世の一小市民」です。なかでも読書は生活の基軸といってよろしい。お酒が趣味でないのと同様、読書は趣味ではありえない。なぜならお酒も読書もいのちのもとだからです。アッハハ。/ところで読書には、どうも二つの型があるようです。一つは、ひいきの店にカンバンまで居座る型。もう一つは、次から次へと店を渡り歩く型。わたしの場合、前者は、たとえば、阿部謹也、網野善彦、長田弘、鶴見俊輔、藤田省三、横井清など。後者は、最近の例でいえば、荒畑寒村『谷中村滅亡史』(岩波文庫、99/5)から布川清司『田中正造』(清水書院、95/5)、林竹二『田中正造−その生と戦いの「根本義」』(田畑書店、77/10)へ、さらに『新約聖書』(マルコによる福音書・マタイによる福音書・ルカ文書。岩波書店、95/6、95/10)へというぐあい。どちらの型にもおもむきがあって、優劣をつけるわけにはまいりません。/いずれにしても退職後の読書は当分のあいだ濫読にならざるをえないと思ってます。若いころに読めなかったもの、読みたくなかったものが読めるようになる。そうして次第に落ち着くところに落ち着くでしょう。時間はあまりなさそうだけれど、あせることはない。このコーナーでは、そんなわたしの読書の周辺を書いていきます。(「読書の周辺」6/29)

 気になるのは、どなたがアクセスして、どのような感想をおもちになったかがわからないこと。顔が見える「呼応の関係」が好きなわたしには手応えがもうひとつ感じられないのが寂しい。しかし、この『通信』だって郵送十六年余、とんと音沙汰なしという人もいる。封筒に切手を貼って送っても、読まん人は読まんし、便りをくれん人はくれんのです。「夜店のひやかし」、「紙芝居のただ見」を想いおこせば、いくらか気持もおさまるというもの。インターネットだからというわけではなさそうです。必要なのは、印刷・郵便の世界とHP・インターネットの世界を自由に行き来する精神だと思います。以上が、とりあえずの感想です。


《 寄稿 》

部落解放同盟中央本部「『同和利権の真相』への見解」を読む
野町 均(高知)
我が党は正義の権化、他党は邪悪のかたまり、という絶叫を、音量も大きく、スピーカーから流すのが、政争や選挙の方程式であり、党派性ということである。・・・・・・・・・どの政治家であれ、どの政党であれ、大小の欠点のないものはない・・・・・・ただ、口がさけても・・・・・・公式に認めないのが、政治のルールである。
                     (京極純一『文明の作法』より)

 昨年宝島社が刊行した『同和利権の真相』は相当な売れ行きだったらしく、今年になって第二冊目も出版された。二月だったか、大阪は梅田にある大型書店をのぞいてみると、正面フロアーに『同和利権の真相2 』がおよそ前後十列都合二十列にわたり平積みにされていた。ざっとの見当で一列に十冊、とすれば二百冊がならんでいることになる。同和問題への関心が低いとしばしば関係者は嘆息するが、この光景を見る限りため息をつかなければならぬ状況はなさそうである。
 一冊目、二冊目ともに同和問題の解決、部落解放という美名のもとで生じたさまざまな利権の問題を追及している。理屈としては利権は同和問題のみならずいろんなところで見られる現象だからあらためて驚くには及ばない。人間には善の能力もあれば悪の能力もある。同和問題に関係する者だけが例外であるはずがない。
 ただし、同和対策事業終結とほぼ時をおなじくして行政機関の情報開示や説明責任という流れがあって、事態が明るみになってきたという状況がある。くわえて部落問題を避けておこうという自己規制の精神的雰囲気が多少なりとも変化してきている。一冊目の表紙にある「マスメディアが黙殺してきた、戦後史最大のタブー」というコピーの背景にはこうした事情がある。
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 部落問題の解決を標榜する運動団体のなかで『真相』は特に(と書くのは全解連にしてもこの問題とは無縁でないからで、この点はつとに著者の一人寺園敦史が指摘している)部落解放同盟と利権のかかわりや行政との癒着を採り上げて、解放同盟を「人権マフィア」と非難している。
 新聞や雑誌の記述がすべて真実だなどとはだれも思っていないだろうし、スキャンダラスな論断はかえって胡散臭さを増す。しかしそうしたことがらを割り引いてなお、同和対策事業がおこなわれるなかで運動団体の一部が利権に走ったとする記事はどう考えればよいのだろう。
 書かれてある内容が事実ならば組織としてそれをどのように認識しているか、偶発的なものなのか構造的なものなのか、それぞれに応じた再発防止策や自浄作用はどうあるべきかがとりあえずの課題である。もちろん事実が誇張、歪曲されているならば反論があってしかるべきだ。
 ところがこれまで部落解放同盟はなんらの見解も発表しなかった。黙殺も選択肢のひとつかもしれないが、ことは小にしては団体の名誉に、大にしては国民の部落問題についてのイメージや考え方、視線にかかわっている。黙殺は疑心を深めるばかりだ。ましてや「権利のための闘争」を呼号してきた団体である。名誉の毀損は権利の蹂躙にほかならないのになんの反応もないとすれば「権利のための逃走」ではないかとさえ思っていたところへ『解放新聞』四月十四日号が部落解放同盟中央本部「『別冊宝島Real 同和利権の真相』への見解」を掲載した。
                    
 とはいえ過度の期待は禁物である。なぜなら「我が党は正義の権化、他党は邪悪のかたまり」と絶叫し、たとえあやまちがあっても公式には認めないのが「方程式」「政治のルール」であるとするならば、この種の意思表明は再発防止や自浄作用よりも党派の正当性の主張が優先されやすい。そうした観点からいえば、『真相』への反論としては、まあ、こんなものかいな、ここらあたりが落ち着きどころなのかもしれない、というのが「見解」を一読しての感想であった。「見解」が「方程式」と「政治のルール」にのっとって出された文書だとすれば、内省や謙虚を期待してもお門違いというものであろう。だから興味も関心も湧かなかったといっているのではない。それどころかこの文章は、現在の部落解放同盟の発想や思考形式がよく表れている点でたいへん興味深かった。そこのところを読みながらメモしておいた箇所を敷衍しながら以下述べてみよう。
 第一に、「見解」はずいぶんと「権威」にとらわれている。とらわれすぎているといってよい。文章の冒頭には「水平社創立80年以上の歴史と伝統を持つ部落解放同盟として、『別冊宝島Real』のようなエセ「ジャーナリズム」ともいわれる出版物に、まじめに正面切って反論するつもりは毛頭ない」とある。記述内容よりもまず『宝島』が「エセ『ジャーナリズム』」かどうかが問題にされる。それはこれまでの『宝島』の企画特集が愚にもつかぬものであり、みんな相手にしていないことでおのずとわかるはずで、ゆえに自分たちも相手になどしないという。
 しかし多くの人は掲載雑誌が「エセ」かどうかより、記述された内容が「エセ」かどうかを知りたいと望んでいるのではないか。記述内容のすべてにわたる検証がむつかしいのはわかっているが、すくなくとも他人事ではないのだから、検証できたことがらに関してあやまった記述ならば反証を期待し、事実ならば事態をどう認識しているかを表明してほしいのだ。もしもおなじ内容が権威あるとされる新聞や雑誌に掲載されたと仮定して、そうなってはじめて「まじめに正面切って反論する」とすれば権威主義もここにきわまれりである。それとも権威あるとされるジャーナリズムは同和利権の問題を採り上げたりしないと考えているのだろうか。だとすれば「マスメディアが黙殺してきた、戦後最大のタブー」はなかなかのリアリティをもって迫ってくる。
 第二。これまで糾弾こそ反差別の生命線と訴えてきたわりには『真相』のごとき「確信犯」には腰が引けている。解放同盟は当初『真相』に対し「真摯に反論するに値しない」と考えていたと述べる。以前はともかく同盟が現在、部落問題をめぐる言説世界には「真摯に反論するに値する」ところと「値しない」ところがあると認識しているのをわたしははじめてここのところで知った。とすればいまの糾弾行為は「真摯に反論するに値する」ところになされているのであって、「値しない」ところは無視するに如かずと考えているのだろうか。
 部落解放同盟と日本共産党の確執は周知の事実で、「見解」は『真相』を「日共=「全解連」の別働隊」として見ている。ならば解放同盟はこうした本隊、別働隊をふくめてのキャンペーンにどのように対応してきたのか。「見解」を要約すれば「デマで塗り固めた差別キャンペーン」にはいまさら反論する気にもなれない、ということになるようだ。反論は「地道な活動」だとともいう。解放同盟からすれば差別の元凶、真の敵だから、糾弾も辞さないとすべきだと思うのだが、ここに対しては「地道な活動で」の反論となるのである。ただし、「まじめに部落問題にとりくんでいる方がたから」「激励と怒りの多数の声が寄せられ」てこうした声に応えなければならないと考えるに至って見解を述べることにしたのはよかった。なにしろ別冊宝島Realシリーズは「スキャンダラス」であり「出版物を売るための大衆迎合に満ち」ているのだ。だとすれば宝島に取り込まれているような大衆にこそ解放同盟はみずからの「真相」を語らずにだれに語るというのか。
 第三に、部落問題における自己責任のあり方がある。すなわち「見解」は「個個の部落出身者の過ち」は基本的には自己責任に関することがらであって「部落解放同盟や部落出身者全体の問題」にはならないと考えている。これが断定的に過ぎるとすれば、個人のあやまちを「全体の問題」に関連させるのにはきわめて慎重である、といってよい。「見解」は利権問題についての報道姿勢や手法を重視し、分析をくわえ、批判する。
 「事柄の一部分だけを単純化して抜き出し、その部分をことさら強調し、さらに社会的な偏見や差別意識に迎合する形で、情報をわい曲する」。「攻撃対象の不都合なことがらを極大化し、攻撃対象の積極面をまったくいわないことであるとともに、自身の都合のよいことがらを極大化し、自身の不都合な事柄をいっさいとりあげない」といったふうに。そしてこうした姿勢、手法での報道は「差別キャンペーン」であって「個個の部落出身者の過ち」を「部落解放同盟や部落出身者全体の問題とすりかえ」ているという。「すりかえ」を排し、「個個の部落出身者の過ち」は基本的には自己責任に関することがらであるする考え方は賛否はともかくひとつの見識であるだろう。
 ただしわたしは、たとえ一片の落書きであっても、それは「個個の過ち」にとどまらず、背後には国民の意識や行政のあり方など社会「全体の問題」が存在しているとほかならぬ解放同盟の方々から教えられた経験をもつ者であり、それゆえにここのところはおよそ奇異に映ってしまったのは否めない。
                    
 おそらく「見解」は『真相』の影響力を考慮して、緊急、やむを得ず公表されたのではないか。というのは、自身の正当性を主張するにしても、「デマに塗り固め」という箇所と「すりかえ」の問題については反証と分析をしっかりしておかないと説得力をもたないにもかかわらず、「見解」はここのところが不十分であることからの推測である。
 おそらくこの文章の基には、解放同盟の団結力や周辺との結束にひびがはいってはならないとの発想がある。そのぶん内向的な姿勢で執筆されている。換言すると解放同盟とその周辺の支持機関や人々、「多くの心配していただいているみなさま」に向けたアピールであって、『真相』の読者をふくむ多くの市民に向かおうとする姿勢は弱いというのがその印象である。
 『真相』のごとき報道には「市民はもう飽き飽きしている」という現状認識はわたしには反語としか思われない。
                        (二〇〇三年六月)

《 川向こうから 》

●約三か月のお休みでした。六月からホ−ムペ−ジの楽しさにはまってしまって。こういうときは自分の感覚に素直であれというのがわたしの信条。熱中したいときは熱中する。それでいいのではないでしょうかね。
●「〈川向こうから〉をはじめに読んで、それからはじめにもどって読みかえすというのが私の通信の読み方なのですが、そうすると通信全体に先生の願いというか感覚が私にまで伝わって、難しい内容であってもすーと読めます。いつもしっかり読み切っていますヨ。」(三重 Oさん)読み切りとはうれしいかぎりです。それにしても「川向こうから」を最初に読む人が多いのはなぜでしょうね。「心を込めて若い人たちと交流し、励まされている貴兄の取り組み、感服の他ありません。お元気で、くりかえしますがお元気で!」(沖縄 師岡さん)小学生や中学生に会うと、自分がスッポンポンにされていることに気づかされます。それがなんともかとも楽しいんです。「部落解放運動が大きくかわってきているのはたしかで、まことに必要なことですが、これまでの経緯をまとめもしないで、はい人権ですと看板かけかえて恥じぬ大学の授業科目等々、頭にきております。今しばし部落をかかげても逆にいいような気もしています。セクハラ防止の名のもと『被害者が不快に思ったら、それは加害者の意識にかかわらずセクハラです』というのは、踏まれた足の痛みの古いパターンを思い出させ、より不快です。一体何を学んできたのかといやになります。愚痴になりました。」(奈良 Cさん)お怒りはごもっとも。しかしまあ、大学なんてその程度のもんでしょうよ。
●5月30日から8月8日まで、島根、京都、大阪、岐阜、沖縄、東京、愛知、佐賀、滋賀の14人の方より計42,750円の切手、ふみカード、カンパをいただきました。ありがとうございます。支出は郵送料(162号)、印刷機用インクとマスター、中質紙、葉書など計85,085円。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-mail<k-fujita@h6.dion.ne.jp>, 郵便振替<00830-2-117436 藤田敬一>)、ホームページのアドレスは<http://www.h7.dion.ne.jp/~k-fujita>です。(複製歓迎)