No.160 2003.1.14.

《 各地からの便り 》

●山々の紅葉が美しく京都の街が映える季節となりました。先生にはますますご健勝にご活躍のこととお喜び申し上げます。突然お手紙を差し上げております。私のこと、覚えていただいておりますでしょうか。99年11月14日左京区役所での「人権学習」の際、終了後、中学生の頃、子供会でご指導いただいたということで、ご挨拶させていただいた者でございます。その節は大変失礼致しました。その後、先生のご著書をご送付賜りながら一片のお礼状も差し上げずお詫び申し上げます。
 はからずも、今回地域小学校で開催されます人権学習の講師が藤田敬一先生とお聞きし、是非拝聴させていただきたく、出席届を出させていただきました。でも忙しさにまぎれ、ご著書を完読させていただいておりませんし、ご送付いただきましたお礼を申し上げておりませんことが気になり、お顔を会わせることが恥ずかしい思いがし、お手紙を差し上げました次第です。今日までの失礼はお会い致しました時にお詫び申し上げます。
 当日どんなお話がお聞き出来るのか、今から楽しみに致しております。ではお会い出来ます日まで。さようなら。2002.11.20.   (京都 W.Kさん)

コメント.
 学生時代、京都市左京区錦林きんりんで子供会をやっていたときの中学生Wさんと三十九年ぶりに再会したことは、以前に書きましたが(140号、99/12/28)、その後音信が途絶えていたんです。そこへこのお便り。恐縮しておられる気持がとてもよく出てますよね。そして昨年11月27日、京都市左京区の養正小学校で、またふたたびの再会。うれしかった。
 当時の錦林の暮らしぶりは亀井文夫監督作品『人間みな兄弟−部落差別の記録』(60年3 月完成)の冒頭シーンに一部出てくるように厳しく、Wさんの人生も平坦であったはずがない。しかし現在は地区外に住み、民生委員・児童委員として活躍している。校長さんは「大変協力してもらっています」と感謝しておられました。まもなく娘さんが結婚するのだけれど、Wさんには相手の男性の職業が気に入らず、娘さんから「お母さんは、いつも差別はあかんというてるくせに」と批判されているらしい。「今夜は、先生にもガツンとやられた」と感想をもらすその物言いには「結婚反対」を取り消す気配が感じとれ、「ええんやないの。しっかり母親に反論できる子どもを育てたんやから」というと、彼女はちょっと照れました。

●全国交流会の後で直ぐにお便りを差しあげるつもりだっただったのですが、何故か「ボランティアのことについて何かを書くことが億劫」となり、ついつい遅くなってしまいました。そこで、ちゃんとした文章にすることを諦めて、この手紙の中に取り留めもなく書いてみることにしました。読み辛いかと思いますがお許しください。
 「リバティおおさか(大阪人権博物館)」は、1985年12月に被差別部落の生活用具などを展示する歴史資料館としてオープン、10年後の1995年12月に「人権から見た日本社会」をテーマとする人権の総合博物館としてリニューアルした時からガイドボランティアの制度を取り入れたそうです。当初の50名は、定年退職者も多かったので、5 年以上経過すると体調不良などで活躍できなくなる人も生じ、昨年(01)末には活動しているメンバーが半数近くになったようです。今年(02)の春に登録者の意思確認が行われ、追加募集をすることになり、新しいメンバー14名を加えて40名あまりで再編成されたようです。
 私は、3 月に面接、4 月と5 月に研修を受けて6 月から活動を開始しました。40名余の全員のメンバーとまだ接触する機会はありませんが、6 月から約半年間に一緒に活動できた半数以上のメンバーとの交流では、それぞれがガイドボランティアを結構楽しんでように感じています。定年退職者がメンバーの中心です。やはり、元行政の同和担当者や元教職の同和教育担当者の定年退職者が多いようです。中には、子育てが一段落した専業主婦や現役の普通のサラリーマンで土日に社会活動に参加したいからと活動している人も少数ですがいます。
 博物館の研修時の資料によれば、2000年度の入館者は85000 名弱で、うち約半数が小・中・高校の学生、また団体の見学者が約70%を占めているようです。先輩のガイドの話では、今年は7 月、8 月の来館者が多かったので合計人数はやや多くなりそうだとのことです。約半年の経験では、学生は団体見学がほとんどで、沖縄を含む九州・四国・中国地区の学校から修学旅行で来館するもの、また、近畿地区の学校からは遠足とか総合学習やゆとり学習の一環として来館することが多く、「ピースおおさか」や奈良の「水平社博物館」の見学と一緒に組まれているものが多いのですが、何故か「ユニバーサルスタジオジャパン」の後に「リバティおおさか」に来た学校もありました。北海道や東北地区からもありましたが、関東・東海・北陸地区などからも少数ですが来館された学校もあり、中には東京から大学生の団体見学もありました。大人の場合も、行政や企業の人権研修としての団体見学が相当数あり、個人の意志で来館するのは比較的少ないように感じています。
 ガイドの仕事の一つは、団体の見学者に別室で博物館の案内ビデオを放映して資料の見方などを若干補足説明すること、その団体から希望があれば館内を解説しながら案内することです。
 もう一つの仕事は、被差別部落・女性差別・民族差別・障害者と環境問題の各コーナーに待機して、見学者の質問に答えて解説することです。 団体の見学者は、強制的に参加させられているからか、無表情に館内を通り過ぎるだけの人が多くて案内することが嫌になることがあります。そんな団体でも、参加者の中に一人でも関心を示して質問をする人がいると、嬉しくなって解説していることもあります。また、団体の中には、見学の事前の取り組みを行ったのか、全員が熱心に見学する団体もあり、そんなときは思わず熱が入ることもあります。
 団体の案内が終了した時に、儀礼的なお礼を代表から言われることもありますが、中には全員からお礼の言葉や気持ちのこもった帰りの挨拶があることもあります。また、お礼状や感想文が届いたこともあります。ただ、この半年の体験では、熱心に見学するのは自分でお金を払って個人の意志で来館する少数の人々のように感じました。でもその中には、団体の強制参加の際に、この博物館の存在を知り、改めて個人の意志で来られた人がありましたから、一人一人の見学者への対応が大切だと感じています。たまに子どもたちから質問されて答えに窮したり、思わず考えさせられることになったり、改めて勉強させられることもあります。また、少数ですが、お礼状をいただいたり、その場でお礼を言われたり、喜んでもらえることもありますが、何よりも帰る時の子どもたちの笑顔を見ることで満足させられます。とりあえずは、週一日活動することにしていますが、ボランティアのガイドを楽しくやらせていただいております。
 おかげさまで、これまで折角学んだことを生かせる場が見つかったように感じています。遅くなりましたが、近況報告まで。 02.12.5. (大阪 I.Hさん)

コメント.
 東京の方の企業で部落問題を担当しておられたIさんと知り合ったのは交流会でした。その後、Iさんは大阪に移り、そして退職。現在、お便りにあるように大阪人権博物館でガイドボランティアをなさっている。仕事として部落問題・人権問題にかかわった方が、仕事を離れてからもこうして活動なさっていることに、わたしはいいしれぬ感動を覚えます。

●石原英雄さん(京都)から
 ★部落問題全国交流会、高木奈保子さんの終わりの挨拶が感動的でした。現実を見つめること、現実を見つめ、現実に沿って議論することができたと言われました。理想論や、気合いを入れるための話、脅しつけて要求を認めさすための話はもういらない。現実はどうなっているのかを踏まえた議論がなぜかできない。それを人々は求めていたのだと思います。全国交流会でしかできない議論とは、こういうことだったのでしょう。
 講演がなく、分散会も作らない形であったので、どうなることかと不安もありましたが、討論の時間が多く持たれたので、各地からの切実な問題、抱き続けてきた疑問、こう考えたらどうだろうという提案が次々に出されて、かなり充実したと思います。また70人くらいの人数が適当ですね。東京から来られた人が言われたように、自分の意志で金と時間を都合して参加されたわけですから、それぞれの人が部落問題の現状に接して、考える材料を持ち帰ることができれば意味があると思います。できるだけ多くの切実な現状と的確な分析、様々な意見、各地の運動状況を聞く、共感共鳴を確かめる、心のこもった出会いを求めるという参加者の立場に立てば、集まりが大きくなると乱雑になり、運営が形式的管理的になるので、小さい方がよいのではないでしょうか。そういう人がたくさん来てもらいたいという願いと、小さい方がよいということの均衡がとれていたと言えるでしょう。
 僕の持ち帰ったものは藤田さんの「部落問題の問題性が解体した。フィクショナルなものを引きずったままで再構築をやらないかんものか」という提起、野町均さんの「血縁、土地の記憶を政治的に拡大してきた。しかしその後の変化でそれでは説明できなくなっている。もう少し客観的に地区の内外を眺めてみるところから始めてみてはどうか」という意見、Hさんが部落史編纂の過程でぶつかった部落の人々の怯えに驚きとまどった話、その他たくさんあります。
 山下力さんは「個人的な取り組みで個人は解放される。個々人の戦いを支えるために組織を作る」と言われました。「実現しないユートピアを目指さない。そんなことを言って仲間を煙に巻いて引きずらない」と悲壮な決意をされたことの先がこれだと思うと感慨深い思いがします。すごいところに到達したものです。しかし一方では原点に戻ったとも言えるのではないでしょうか。僕はこの言葉を心底信じられます。まだまだ考え続けたいことがたくさん出ました。でも、この場で早急に総括すると、何か縮こまってしまいそうなので、このくらいにしておきます。
 ところで、支部役員をやくざが牛耳っていることで悩み抜き、神頼みならぬお寺さんの勧めで交流会に参加された方がありました。懇親会で飲み始めると、日頃の悩みをどんどん出して相談しておられました。「ムラの人が仕事をしない。福祉施設に勤めるムラの人が1日1時間しか働かない。福祉施設利用者の老人をほっといてたばこを吸っている。定刻に出勤できないことが当たり前とされている。市の職員や外の人がちやほやするので肩で風を切って歩く。ちやほやした裏で舌を出していることがどうしてわからないのやろ」といった悩みです。根本的なことです。その方は、何とかしたい、何とかしなければと焦りに焦っている様子でした。運動経験もあるTさんに、「どうして今のようになれたのか」と、かなり食いさがって訊いておられましたが、Tさんは「こぺる」を読み、交流会に来るようになったからだと答えておられました。簡単にノウハウを伝えることなどできるはずがない。
 ビールを飲みながら、たくさん話をしました。交流会はこうして悩みを出し合ったり、愚痴を言い合うことに意味があるのです。愚痴を言ってカタストロフィーしながら何かを考えるところがあるはずです。その方は当初の予想以上のお土産を持って帰られたと思われます。交流会には出会いがあります。それが楽しみです。それは何ものにも代えがたいことです。奈良県連の集会も有意義ですが、こちらも負けてはいないようです。終わってすぐには去りがたい人たちの気持ちが伝わってきました。(02.10.7.)

コメント.
 第19回部落問題全国交流会は昨年十月五、六の二日間、東本願寺の大谷婦人会館で開かれました。参加者は七十人あまり。十八年前が五十人だから、人数の上でも原点に回帰しつつあるのかもしれません。交流会で議論されたことがらの要点は、住田一郎さんが『こぺる』(No.117,02/12)に「特別措置法終結後の課題」と題して書いておられますのでお読みいただければ幸甚。
 わたしは、運動や組織、理論や思想といっても、とどのつまりは一人ひとりの生き方の選択に帰着すると考えるようになりました。そんなテーマがやっと議論の視野に入ってきたといえるのではないか。V・E・フランクル『意味への意志』(春秋社、02/7)の一節を紹介したのも、そのような議論がおこることへの願いからです。それにしても石原さんには人の話を豊かに聞きとる力があるなあ。

★本屋で宮崎学『近代の奈落』(解放出版社、02/11)が目に付いたので買ってきました。読みやすい本でした。福岡、奈良、京都、大阪、和歌山、熊野、長野、東京とまわって、部落解放同盟の幹部に会い、水平社創立者や戦後の活動を聞くといった内容です。活動家列伝としてもおもしろい。
 部落、部落民、部落差別は、過去に行くほどはっきりと見える。でも現在はどうか。著者にとっては、「部落民」は疑う余地なく存在するようです。その「部落民」と部落解放運動に自分の理想を託そうとしています。しかし、現在の「部落民」の姿が見えない。歴史上の活動家や現在の同盟幹部が何人も登場しますが、各地を訪れながら、部落で生活している人が、この本には一人も登場しません。ムラを歩き、新旧の建物を見ても、そこから人が立ち現れてこないのです。
 著者の意図とは正反対に、著者にとって部落・部落民とは、理想であり、幻想であるようです。(02.12.2.)

コメント.
 宮崎学『突破者とっぱもの』上下(幻冬舎アウトロー文庫、98/12)がおもしろいと教えてくれたのは野町さん。楽しく読めました。その宮崎学が部落問題にどう切り込んでいるか興味がなくはない。で、先日書店で立ち読みしたところ、ある同盟幹部のよた話が目にとまり、いっぺんにイヤになってそのまま書棚へ。そのときふっと中上健次の『紀州−木の国・根の国物語』(角川文庫、朝日文芸文庫など。元本は78年刊)を思い出した。部落解放運動について甘いところがあるが、肝心なツボはおさえている。だからいまでも読者があるのでしょう。さてしかし、宮崎学の新著にそんな力があるかどうか。

●住田育子さん(ブラジル)から
★ベレーンで五日間の研修を受けて、ようやくトメアスーに入りました。途中、アマゾン川をフェリーで渡ります。道路の両側に見える人々の暮らしは圧倒的な貧しさで、ここで人が生きて子どもを生み育てているという事実は胸につき刺さります。トメアスーはアマゾンでもっとも成功した日系人のコロニア(日系人は今でも植民地と呼んでいますが)ですが、現在は多数の若年・中年層が日本に出稼ぎに行っています。
 赤道直下ですから、日中はもちろん暑いのですが、朝・晩は涼しく、ひと雨あると、ひんやりした空気がアミ戸から入り、ほんとにさわやかです。トメアスーは水と食べ物が豊富なので、飢えるということがないから、勤勉さが身につかないと、日系人が非日系人を評しています。豊かな日系人が多いトメアスーの治安も悪化する一方で、熱帯のさわやかな夜を散策できないことが、何と言っても残念です。
 郵便物はほぼ届くようですが、念のためにお送りしてみます。自宅はまだ決まりませんが、勤務先の住所(毎日行きます)をお送りしますので、「通信」送っていただけるでしょうか。(2002.7.15)

★はるばるアマゾンまで『通信』158 号、今日(8月19日)届きました。ほんとうにありがとうございます。朝、焼きたてのパンを買いに行く道でウルブーという黒いハゲワシが異常に増えていました。草むらに野犬が倒れていたのです。何十羽のウルブーが死体をあさりだしたと思ったら、強烈な臭気がただよってきました。炎天下になる前に犬は骨だけになっているでしょう。きのう、出張からの帰り、道端でめずらしくナマケモノを見ました。のっそりとあいきょうのあるあのナマケモノです。近くの農場で働く労働者の自転車とすれちがったら、運転しているアロウドが「ああ、かわいそうに。あのナマケモノはつかまってしまいますね」と言いました。「彼らはつかまえてどうするの?」と聞いたら、食べるのだそうです。最低賃金で家族を養っているから、ナマケモノはごちそうなんですね。アロウドは「彼らも飢えているから仕方ありません」と言いましたが、ほんとにそうだと思いました。
 ものすごく暑いとか、ムシが多いとか、騒音や臭気がひどいとか、病気が多いとか、運転が乱暴だとか、人間、そういうことは何とか慣れるものですが、覚悟はしていたとはいえ、ブラジルの階級社会はほんとにすごいですね。日系人はほとんど農場主(パトロン)の側ですが。「労働者」と呼ばれる使用人の一日の賃金は10ヘアイス。ブラジルの最低賃金は月250 ヘアイスだそうです。1 ヘアウ(複数はヘアイス)は約50円です。中流の収入は月4000ヘアイスだとか。この階級社会につきあうのは、私には大変なことです。音に聞こえた南米の階級社会と向き合う貴重な2年間、なんとか生き延びるにはやはり直視するしかないでしょうね。もう少し見えてきたら、レポートします。(2002.8.20.)

★『通信』159 号、届きました。ありがとうございます。石原さんの意見にちょっとこだわっています。「ある人にとって重大な問題で生き死ににかかわる問題でも、他人には取るに足らない問題であることもある」そのとおりなのですが、「ではなぜそれが生き死ににかかわるほど重大な問題なのか」というところが私にとって部落問題を考える出発点でした。実はそう言っている当人もそれほど重大な問題とは思っていないこともよくありましたから。「差別で死ぬものもおるんや!」と活動家がどなると、「そういう人もいるでしょうね」としか言えないものがありました。住吉には部落差別が原因(とみんなが言っていた)で自殺した肉親を持った人が何人もいたので、なおさらでした。でも死ななかった人はもっとたくさんいますよね。
 この問題は「ある人に非常に重要でも、他人には取るに足らない問題であることもある」という論理では片付けられないという気がしています。部落問題だけではなく、ほとんどがそうじゃないでしょうか。この狭い日系社会で生きている女性たちが眠れないほど悩み、落ち込んでいる問題は、私にとってはほとんど「取るに足らないようなこと」ばかりです。あさはかな告げ口、心ない中傷、そんなこと世間にはありすぎるのに、ブラジルまで来てまだそんなことを悩んでいるのですかと言いそうになりますが、ぐっと抑えています。娘が付き合っている相手がブラジル人だとわかり、ノイローゼ気味になっている人もいます。「ここはブラジルじゃないですか!」とあきれますが、「それがイヤなら移住しなきゃよかったんですよ」とは言えないものがあります。ではなぜそれほど悩むのか、それはつまり閉鎖的なコミュニティで生きているからではないのかという気がしてきました。これについてはこんどゆっくり書きます。ではまた。(2002.11.2.)

コメント.
 住田育子さんは昨年七月、ジャイカ(JICA−国際協力事業団)からブラジルに派遣され、日系人への日本語教育にたずさわっておられます。

《 川向こうから 》

●159 号を発行したのが交流会直前の十月四日でしたから、三か月のお休みになりました。『通信』が出せなかったのはただ忙しかったためです。ご心配なく。
●すぐる一年、各地で小学生から高齢者までいろんな人びととのいい出会いをかさねることができました。「おっちゃん、勇気をくれてありがとう。これからも何事にも負けずにがんばりたいと思う。ありがとう。最後に、阪神優勝!」滋賀県八日市市T中学三年の男子生徒が書いてくれた感想文の一節です。「阪神優勝!」は、講演で阪神タイガースファンだと告白したことへのエールです。
 事前に担当の教員から「少々やんちゃ坊主もおりまして、三年生の一部でガサガサするかもしれませんが、その折りには寛大なお心でお許し下さい」との連絡を受けていました。金髪どころか銀髪(白髪?)の生徒もいるとのこと。そういうことも折り込みずみの講演でしたが、寒いなか体育館の床に座って五十分、よくぞ話を聞いてくれたと、むしろ感謝したいぐらいです。「とても楽しかったです。ぼくは藤田さんにいろいろいわれました。点字ブロックと福沢諭吉と金子ミスズもいわれました。藤田さん、ありがとうございました。」障害児学級に在籍しているとは知らないでなんどかマイクをむけた生徒の感想です。わたしにとって先入観抜きの出会いは、かけ値なしの試練になっています。
●最近読んだ本から   V・E・フランクル『制約されざる人間』(春秋社、00/7)。「カントは、彼が晩年に重度の健忘失語を示したとき、いわゆる篩の状態で、もはや脳を意のままに働かせることができないようでした。(略)医師たちが対診するために彼を訪問したとき、彼に座るように勧めても、なかなか彼を座らせることができませんでした。そしてようやく医師たちは、彼ら自身が座らない限り、患者も座ることを拒んでいるのだ、ということに気づきました。そして彼らが座るやいなや、カントは動脈硬化した脳から、感動的な言葉を絞り出したのです。『まだ私から人間性への感覚が失われていませんでしたね。』」(116-117頁)カント(1724-1804)のこの挿話からなにを感得するか。フランクルはニコライ・ハルトマン(1882-1950)を引いて「依存にもかかわらずの自律」を強調し、そこに「精神的人格の有している力、精神の反抗力」をみるというのだが。
●9 月27日から1 月1 日まで、愛知、大阪、兵庫、千葉、滋賀、埼玉、京都、熊本、岡山、岐阜、三重の25人と1 グループから計95,360円の切手、カンパをいただきました。多謝。支出は郵送費(159号)、印刷リボン、ワープロ(ルポ)修理代など計63,225円でした。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-mail<k-fujita@h6.dion.ne.jp>, 郵便振替<00830-2-117436藤田敬一>)です。(複製歓迎)