No.159 2002.10.4.

《 各地からの便り 》

●いつの号もそうですが、今号(158号)はとくに考えさせられるところが二つありました。大阪.Kさんのお便りと藤田さんの老いについてです。Kさんのお便りには胸がしめつけられるような哀しい気持ちになりました。何度も何度も読み返しているうちに、先に逝った友人の手紙を読み返した時とだぶりました。
 鉄人28号もやがてはウルトラマンにかわりました。ヒーローは、いくつでも作れますが、藤田さんの代用はありませんので、せめてその反省を持ち続けていただければと願っています。  (三重 S.Nさん)

 コメント.大阪のKさんから先日お便りがありました。「イニシャルで載せていただいたので、大学時代の友人ぐらいにしかバレるはずがないと思っていたら、思いがけないところから“あなたのことでしょう”と言われました」とあり。一瞬どきっとしたけれど、続きを読んでホッ。その方は、わたしの古くからの友人で『通信』の読者であり、またKさんのことをよく知っている人だったのでKさんに声をかけたというわけ。それにしても、わたしあてにお便りを寄せてくださるのにも、またそれを抄録せさせてもらうのにも、それなりの配慮が必要というのはつらい。
 「老い」については充分反省しております。この年齢になると、身体と心理・意識がちぐはぐになるみたいです。要は、身体年齢を考慮しつつ、無制限一本勝負などといった危ないことはしないで、悠揚迫らざる態度を持することですな。アハハ。
 ところで、わたしにかぎらず人はみな代用がきかないんです。つまり「誰かにかわることもできず、誰かにかわってもらうわけにもいかない、かけがえのない一回かぎりの生を送る」という点ではみな同じ。ただ、各人それぞれの生き方(人生への態度)があり、わたしはわたしなりの態度を堅持してゆきたいとは考えております。それが人生の一回性、独創性ということなんでしょうね。

●《各地からの便り》のKさんの文章を読みつつ、約三十年前、大阪府立高校の教員時代、学校長以下の教職員が、生徒の差別発言がきっかけとなって糾弾を受け、解放同盟支部の学習会に参加した日々を思い出しました。また初心を忘れず、その思いを抱き続けている方がおられることにも感服しました。どのような場にあっても、その表現の仕方に個人差はあっても、人間性の原点となるべきものを持ち続けることの重要性を感じています。   (兵庫 K.Yさん)

 コメント.わたしはかつて「糾弾は人間を変えると言う。人間のなにを変えてきたのか。人と人との関係をどのように変えてきたのか」と問い、「糾弾によって双方それぞれの人間が変わり、関係が変わるとしたら、それは普遍的な人間の問題としての差別問題と向き合い、それを通して交感・共感・同感し合う者としての『つながり』を確かなものにし、問題解決のために互いに努力する状態の中にしかない」と書いたことがあります(「部落解放運動のなにが問題なのか−雑誌『創』の匿名座談会を読む−B」本誌95号,95.6.27.)。ところが、最近気になっているのは、差別事象の提起−確認・糾弾−行政・企業の責任追及という、おきまりの手法が前面に出てくる可能性が強まっていることです。もしそうなれば、事態はいよいよ錯綜するしかないでしょう。そうさせないためには、これまで糾弾闘争にかかわった人(糾弾した人、糾弾された人、そしてその場に立ち会った人)がみずからの体験を踏まえて糾弾について率直に語り合う必要があると思うのですが、どうでしょうか。

●今度、京都から郷里の岩手に帰ることになり、住所変更とわずかではありますが、カンパを送ります。改めて部落差別と自分との関わりがどういうことであったのかを考えたいと思っているのですが、粗っぽく言えば「差別者としての自分」という地点から部落差別を問題にしていたと思います。しかしそこからの発想にいつも違和感のようなものを感じてもいました。どうしても贖罪意識でとどまってしまうのです。また所詮おまえは傍観者ではないのかという問いが外からも内からも聞こえてくるのです。傍観者であるということが、何かとても悪いこと、罪意識として残るのでした。これは言ってはならないこと、思ってはならないこととして蓋をしてきたように思います。自分自身と一つになって問題と向き合っていなかったのですね。それが「傍観者」であったことではなかったのか。
 そういうことも一つ一つ自分の言葉、自分の考えで点検していけたらと思っています。なかなか自分自身を見ることはしんどいのですが、そこからもう一度始めていけたらなぁと思っております。
 ここから中尊寺の小高い山が見えます。/稲穂が静かに揺れています。
 これからも「通信」を続けてください。/お体にお気をつけて、また便りします。
  02.8.22.     (岩手 T.Tさん)

 コメント.「差別者としての自分」「贖罪意識」「罪意識」「傍観者」……。七十年代初頭以降、差別問題をめぐってある種の告発主義がはびこり、「わが内なる差別意識を自覚せよ」「自己を否定せよ」と叫ばれました。その結果はどうだったでしょう。出口なしの堂々めぐりに疲れはて、いつしか課題そのものから離れていった人も多い。みずからもとらわれていたこのような問題の立て方にどこかおかしいところがある、そう感じたわたしは、悩んだ末、「人間の問題にまっすぐに立ち向かうこと、それしかない」と思いいたったのです。そうすると肩の力が抜け、ずいぶん楽になりました。「人間の問題」に接近する道はいろいろあっていいし、また現にいろいろある。わたしにとって部落問題とは、それをとおして人間を考える一つの道です。そういうおだやかなスタンスがいまもとめられているのではないでしょうか。T.Tさん、ふるさとの空気を深く吸い込み、まわりの人びととつながりつつ、「人間の問題」をゆったり、のんびりお考えになりますように。

●先日、曽野綾子の『私日記1−運命は均される』を買ってきました。日本財団の会長をしておられる曽野さんの業務日誌的なことや、虫歯治療や家庭菜園など、個人的なことが書かれています。週刊誌の文章だから電車で読むのに手ごろです。この本の最後に、人権擁護推進審議会の委員として意見を述べるための原稿作成の話があり、その翌日(98.5.19)の項に、『こぺる』で話題になっている文章が出てくる。そして突然、『サンデー毎日』の連載が打ち切られるのです。これを読んで、僕はため息をつきました。「部落問題に触れたらおしまいだ」ということをまざまざと見せつける本です。もし『サンデー毎日』で曽野さんの連載を楽しみにしている人がいたら、突然の打ち切りに不審を持ったことでしょう。そしてこの本を読めば、原因は部落問題について意見を書いたからだと解るわけで、部落問題には口出しをすべきでないと再確認することでしょう。
 『通信』158 号のK.Hさんは、「同和問題という問題の存在の仕方は、特定の地区の特定の職業の人々ということに尽きるものではないのではないか。むしろ、少なくともわが国に生きる人々、曽野さんも含むすべての人々がかかわる差別、被差別の社会関係であって…」と書いておられます。「部落問題は日本社会の根底に関わる問題で、すべての人が避けて通れる問題ではない」ということは何十年前から聞いてきたし、僕も言ったことがあります。このように講演で大上段に言ってしまえば、あえて反論できない気がする。しかし一人で考えてみると、よく解らない。何十年考えても解らない。「部落問題は、わが国に生きるすべての人々が関わる問題である」というのは、言い過ぎではないでしょうか。ある人にとっては重大な問題で生き死にに関わる問題でも、他人には取るに足らない問題であることもある。
 ほとんどの人は部落問題に関わりなく生きている。部落出身の人、その子孫である人で、そんな生き方をしている人はたくさんいる。僕はそのような人びと(きわめて身近な人を含めて)の生き方を否定することは決してできない。僕はこう考えています。松井安彦さんの意見(「編集人への手紙−曽野綾子氏の意見について」、『こぺる』02/3)や、すみだいくこさんの主張(「部落問題についてなぜ書くのか−曽野綾子さんの怒りに応えて」、『こぺる』02/9)とずれがあるような気がしてなりません。また考え続けたいと思います。    (京都 石原 英雄さん)

 コメント.曽野さんははじめ人権擁護推進審議会の委員でしたが、たしか途中で委員を辞めたのではなかったかな。審議会での発言や『サンデー毎日』の連載中止の件があって嫌気がさしたのかもしれません。曽野さんは「あとがき」で、「この日記の最後の章の、五月十九日の部分が(略)載せられなくて当然と思う人と、こんな程度のものが載らないのかと思われる人と、どちらも自由に考えていただきたい」と書いている。『こぺる』や『通信』という小さなメディアでそれについて議論しているなどどいうことは、曽野さんはもちろんご存知ありますまい。議論というものは東京の論壇だけでなされるものではないのである。そう考えると、なんだか愉快になってきます。
 ずっと以前、『こわい考』を読んだある人が、部落出身者の自分にとって「生きること、毎日の生活そのものが、差別とのたたかいである」という感想を寄せてくれたことがあります。それについて、「かつて啓蒙主義的な被差別像にとらわれていたころのわたしなら、こんな言葉を聞くとそれだけで降参していたが、次第にほんとにそうだろうかと疑いを抱くようになる。過剰な思い入れにもとづく誇張された自画像としか考えられなくなったのである。そんな暮らしをつづけていたら、しんどくなってつぶれるにきまっている。愉しいこともうれしいこともあっての暮らし、生活であるはずだ。それに他者の苦しみ・悲しみ、憂さ・辛さ、怒り・嘆きにときとして心を寄せ、共感・同感することはあっても、それらと無関係に日々の生活が過ごせるという人間の現実・限界から『部落民』だけがまぬがれているわけではないのである。暮らし、生活の一面を切り取って大写しにしたり、心理の揺れを拡大するとき、虚構が入り込む」と書いた(『こわい考の十年』38頁)。
 これは、「部落民として規定される特定・特別の生き方」というものがあるのかどうかという問題につながります。山下力さんは、先日斑鳩町で開かれた奈良の研究集会(9/7)で、「わたしは、部落民として(生きるというような道を−藤田補)歩きたくなくなった。人権派の人間として部落内外の人びととともに歩きたい」と発言なさったけれど、これは含蓄のある言葉ではないでしょうか。部落問題に限定されない生き方を選択したい、選択してほしいという山下さんの願いがひしひしと伝わり、ジーンときました。

《松井安彦:「返信『こわい考』第7 信(02.3.24.)−通信155号を読んで−」》

 この号(02.3.1.)は、様々な内容をもった短い便りと、それに臨機応変に応じる藤田さんのコメントが折り重ねられて、にぎやかな通信になっている。野町さんが、『こぺる』3 月号の拙文に目を留めてくれているのも、僕の言葉に対して「存在の確認」をしてもらったようで、うれしかった。(略)
〈ひとくくりということ〉
 僕が差別ということに出会ったのは、学生時代、地元の国立市の公民館に出かけるようになってからだった。今から思うと、そこには「主婦」の学習実践で有名な伊藤雅子さんがいたり、いろいろな先進的な取り組みがあったようだ。『障害をこえてともに自立する会』という青年たちの自主的なグループがあって、フロアの一部に喫茶店を出していて、そこでは「障害者」も「健常者」もなく、働いたり、たむろしていた。僕がそこで驚いたのは、それまで、「障害者」として、「ひまわり」や「AB」(僕の通っていた小中学校の特殊学級の名前だった)と呼ぶことで、なんの疑問もなくひとくくりに片づけていた彼らに、一人一人の名前と、生活と、家族があることだった。そんな当たり前のことを押し隠して、彼らを生きにくくさせている差別という仕掛けがこの社会にあること、そのカラクリは「障害者」というくくり方にあること、に気づいたのだ。たぶん、人が心底納得するような理屈に出会う機会は、一生で何度もあることではないだろう。差別についてのこの考えは、僕には染みついて離れないものだ。
 差別とは、ひとくくりであり、一人一人の顔を塗りつぶすことである。
 しかし、少し考えてみると、人は、生活の様々な場面で、職業や役割や立場に応じて、他者をひとくくりに扱い、自分もまたそんなひとくくりに甘んじている。だから、肝心なのは、様々なひとくくりにどこかで疑いを残しておくこと、そして密かに一人一人向き合う用意をしておくことだと、僕は考えた。
〈敵と味方の論理〉
 九州に転居してから、同和問題に熱心にかかわっている人とも接するようになった。そこで意外だったのは、彼らが、ひとくくりやレッテル貼りを平然と行っていることだった。少し気をつけてみると、彼らに、ひとくくりやレッテル貼りを行わせているのは、敵と味方の論理であることがわかった。差別に加わる敵方に対して、「差別者」を始めとする様々なひとくくりを行って味方と峻別することは「差別とたたかう」ために必要なことなのだ。しかし、差別もまた、何らかの理由や必要に基づいて、敵と味方を区分けするひとくくりだったはずである。差別に反対するというなら、ひとくくりされる側の痛みについて想像力を欠いてはならないだろう。今でも僕は、ひとくくりやレッテル貼りからどれだけ距離を置こうとしているかを、その人が差別から何を学んでいるかを計る、個人的な基準にしている。
 通信155 号の、M.Mさんの私信にも、「一般市民や議員・行政関係者の一変した傲慢な姿勢」という表現がある。藤田さんは、それを招いてしまった今までの運動のやり方に注意を促している。そのとおりだと思う。ただし僕は、M.Mさんの言葉にある、ひどく乱暴なひとくくりの調子が気になる。僕はたまたま「行政関係者」として、今年一年、同和対策事業の見直しにかかわった。仕事上の苦労にすぎないけれども、何晩も徹夜を強いられるような苦しい一年だった。おかげで「同和事業の終結」や「逆風」という簡単な言葉の裏側にも、様々な人たちの考えや右往左往があることがわかった気がする。まして、様々な人たちの考えや振る舞いを、「一般市民」というふうにくくることはできない。M.Mさんの「不安と恐怖」は、M.Mさん自身の、敵と味方をくくり出す論理によって増幅されているのではないだろうか。そして、不当なひとくくりに対して反発する気持ちをもつ人たちを、部落問題の入口でとまどわせているのは、その中で敵と味方の論理の基づくひとくくりが大手を振っている事実ではないかと思う。
〈正義と悪の論理〉
 通信のなかで、「なぜ部落問題に関心があるのか」という問いが話題になっている。非部落とされる側は、部落問題とかかわる理由を説明する責任を負い、そのかかわり方について点検を受けることになる。しかし、僕はこのことについても、不思議に思ってきた。日常生活の中で、自分が、自分や自分たち(自分の家族や仲間、グループ)のために努力するというのは、ごく当たり前の姿である。もし、誰かが、自分たちの利害と無関係に、他者のために何かをするとしたら、その振る舞いの方に心を惹かれるというのが、自然な感情だろう。ところが、部落解放運動の中では、この関係が奇妙に逆転していたのではないだろうか。当事者たちの、自分たちのための振る舞いが賞賛され、当事者でない者たちの行為は、それが当事者のものでない、という理由によって一段と価値の低いものとみなされる。
 他者のための振る舞いは、時間や労力の配分にも制限があるし、気持ちのうえでも当事者の思いとズレがあるのは当然のことだろう。しかし、この当然のことを認めずに、価値観の逆転を引き起こしているのは、差別・被差別という敵・味方に対して、それぞれ悪と正義を割り振る、強固な論理の存在であると思う。
 被差別の側に正義があり、差別の側に悪がある。この単純なものさしでは、被差別の立場が正義の源泉であり、そこから距離を置くこと自体が悪いということになる。被差別の立場にない者は、まずそのこと自体の弁明が迫られ、被差別の側へと距離をつめていくことが絶えず求められることになる。
 通信155 号の後書きには、林力さんの「差別の中にある人との痛覚の共有への肉薄ともいえる作業」をおこなってきたという言葉が紹介されている。しかし、このような自負は、他者へのバランスを欠いた価値判断を招いてしまう。藤田さんは、林さんが、土地ころがしをめぐる新聞社の報道姿勢を「差別の拡大助長」論や「心構え」論で断罪する一方で、運動の負の部分とまともに立ち向かう気概がないことを批判している。ところで最近の通信に掲載された私信にも、同様な考え方を見つけることができる。通信147 号のF.Oさんは、「自らの中の部落差別意識をさらけだし、その差別意識に何らかの形で決着をつけ、そのことで部落の人たちと連帯できる」と書いている。また、通信152 号のN.Mさんは、「自らの被差別体験を検証することなしに、この差別社会の現実、そこに組み込まれている自分に気づかず、他人の差別問題にかかわることがいかに皮相的であるか」と書く。彼らは、何らかの被差別体験を語ることで、自分を被差別の側に結びつける。そして、内なる差別意識を自ら批判することで、、いっそう被差別の側に近づこうとするのだ。
 彼らの誠実を疑うわけではない。しかし、この誠実さは、あくまで被差別の立場に対する誠実さであるような気がする。彼らの自己批判は直ちに、被差別対差別という善悪のものさしで、自分より差別側に位置すると見なす人たちへの批判へと振り向けられるのだろう。そして、被差別の側のあり方を、対等な立場で問題にしていく視点をそこにみることはできない。
〈利権をめぐって〉
 通信には、高知県の解放運動がらみの不正融資事件について、野町さんが書いた新聞記事についての反響も載せられている。同和対策事業をめぐる不正の問題については、事実を明らかにして、様々な角度から考える必要があると思う。野町さんも書いていたように、いまさらもう遅いということではないはずである。(略)僕は、たまたま同和行政を仕事とするようになって、同和教育にかかわる人たちと話しするようになったのだが、そこで一対一の対話がなりたちにくく、部落問題への違和感や批判を受けつけない姿勢に、何か厚い「壁」のようなものを感じてきた。
 ごく最近になって、彼らこそが、同和問題についての特権に守られており、その利権を享受しているのではないか、ということに気づいた。もちろん、それは経済的な利益ではなく、いわば精神的な利益である。この特権は、被差別の立場に限らず、ひろく部落解放運動に加わる人たちによって使われるものだ。先ほどのものさしの比喩でいえば、自分より被差別の側から遠い(差別の側に近い)人たちを、批判や啓蒙の対象としてひとくくりに扱い、精神的優位を得るという「利権」である。
 糾弾会や行政交渉という場所だけでなく、同和教育や人権講演会という場や、日常の会話の中でも、一方的に人びとの考え方をひとくくりに束ね、彼らから自由な言葉を奪うような特権が行使されている。そこで奪われ、独占されているのは金銭ではなく、言葉だろう。差別の痛みや、差別への怒りを共有すること。差別を自分の問題として考えるということ。そして、差別の現実から学ぶということ。僕は、部落問題の中で頻繁に語られるこれらの言葉の持つ力に、なんとも重苦しいものを感じてきた。しかし、使う側にとっては、十分な手応えと成果を約束する言葉なのだろう。部落問題の中には、正義と悪の論理をてこにして、多くの人たちの考え方や気持ちをひとくくりに束ねてしまうような理屈が、巧妙に仕掛けられているといえるかもしれない。(以下略)

 コメント.松井さんは、こうして『通信』の感想を「返信『こわい考』」にまとめてときおり送ってくださいます。ありがたいことです。

《 川向こうから 》

●退職から半年、ようやく暮らしのペースがつかめてきました。椎間板ヘルニアの発症というアクシデントはあったけれど、「読書渡世の小市民」生活はまずまずのスタートを切ったように思います。読書と講演と接骨院通いを軸に、水泳と山小舎暮らしを組み合わせて、結構楽しくやっております。十月からは愛知県豊田市の小学校四校(五・六年生対象)と中学校六校で話をさせてもらうことになっていまして、いまからわくわくしています。
●最近読んだ本から   V・E・フランクル『意味への意志』(春秋社、02/7)。
 「人間は、たとえ集団から制約や影響を受けたとしても、何らかの自由の余地をつねに有しているのです。もちろん人間はそれらのものから影響を受けますが、その影響のままになるというのではありません。人間はつねにそれとは別のものになりうるのです。そして、たとえその人がそんなことは不可能だと信じたり主張したりしたとしても、あるいはその人がもはや自由をもっていないように見える場合であっても、彼は自分の自由を−まさに自由意志によって−みずから放棄しているのです。」(82頁)自由意志と自己責任、「からの自由」ではなくて、「への自由」の強調。「存在は意識を規定する」、あるいは存在被拘束性といった議論になれた発想が揺さぶられる。
●8 月10日から9 月24日まで、愛知、京都、茨城、岐阜、岩手、島根、大阪の10人の方から計37,200円の切手、ふみカード、カンパをいただきました。多謝。支出は郵送費(158号)39,670円でした。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向(<E-mail<k-fujita@h6.dion.ne.jp,郵便振替<00830-2-117436 藤田敬一>)です。

尋ね人−8 月5 日付岐阜中央郵便局の消印がついた封書で切手シートを5 セット お送りくださった方、ご連絡ください。お名前が書いてありませんでした。