No.157 2002.5.12.

《 各地からの便り 》

● 岐阜大学御退官、長い間、本当にご苦労さまでした。藤田さんの迫力に感じ入った学長が、交通対策で、藤田さんと並んで校門に立っていた風景も懐かしく思い出されます。農・工・医学部、そして教育学部も、応用科学・技術学に偏した特異な精神空間、全学の図書館委員会でなおさらにその特異な感覚・発想に出くわしましたが、そのキャンパスにあって、藤田さんの存在感は実に強烈でした。思想を紡いでいた希有の存在、こうゆうスタンスがありうること、したたかな存在証明の仕方に感嘆しておりました。S・K氏が、授業をすますと即刻大学をたち去り、雑俳(ざっぱい)の世界に浸っていた姿とともに、確かに本物がいるという強烈なインパクトをうけました。
 「『同和はこわい考』通信」、ひりひりと切実に、厳しくそしてまた柔軟に、人の思い・心の襞が語られていく通信、重い問いかけにたじろぎつつ、生身の言葉の行き交いに、わがことへの振り返りとしてありがたく読ませていただいています。 輝いている藤田さんへの愛知県豊田市の中学生からの便り、いいお便りですね。次々と感動的なすごいことがおこっているんですね。
 益々の自在感を以て藤田さんが出かけてゆくところ、率直に自分を語る深い出会いの連鎖がまた格段に広がっていくことと思います。
 沖縄から、高知から、50人を越える方々が各地から駆けつけ、藤田さんの退官を祝う会が京都で開かれた様子、感極まって藤田さんが涙した感動的な光景をKさんから聞きました。人の志、そして絆の高貴さに胸が熱くなりました。
 今後ともお手数をおかけしますが、「『同和はこわい考』通信」、よろしくお願いいたします。(略)  (宮城 K・Mさん)
 コメント.
 かつて同僚であった友人からの便りです。面はゆいけれど、わたしが岐阜大学に在職していたことのあかしとして、あえて載せさせてもらいます。
 この三十二年間は、大学や研究者の世界になじめず、居心地の悪さからなんとか逃れようともがきつづけた歳月でもあったような気がします。そのために学生、同僚教職員に迷惑をかけたことは数知れず。しかし、このような生き方しか、わたしにはできなかった。悔いはありません。そのおかげで多くの人びとと出会うことによって人間存在の根源にかかわる差別の問題と向きあって思索できたのですから。
 あっ、そうそう忘れかけましたが、わたしは泣きみそなんです。石原裕次郎だって歌のなかではよう泣いてまっせ。

● 通信No.156,p2、岐阜S・Yさんの「適当にやりすごすことで自分が傷つき、薄っぺらになることを防ぐために不可欠、ということなのかもしれません。」とても共感しました。実感があります。子どもが自信を持って、自分を表現するためにも不可欠です。うすっぺらい「人権派」(←わかった風な教員に多くて困ります)は、やたら喋りたがるということにも通じますね、自戒を込めて。  (鳥取 M・Kさん)
 コメント.
 「自己主張をおこない、異論を提起するためには、自らがある場所では肯定されているという感情がおそらく不可欠である。」(齋藤純一『公共性』15頁)この一節、『通信』読者のあいだで静かな波紋を広げているようです。すでにお気づきのように、ここには二つの場面が想定されています。ひとつは、「自己主張をおこない、異論を提起する」場面。もうひとつは、「自らがある場所では肯定されているという感情」の湧出源。基本が後者にあることはまちがいないにしても、「自己主張をおこない、異論を提起する」こともまた大事なことです。もちろんTPO をわきまえてのことですが。
 わたしはこの十五年間、自己主張をおこない、異論を提起しつづけてきました。それを支えてくれたのは、『通信』や『こぺる』、部落問題全国交流会での出会いとつながりで、筋の通らない誹謗に持ちこたえられたのも「自らが肯定されているという感情」ではなかったかなあ。ほんまに幸せな十五年でした。

● (略)これは以前から感じていたことですが、「人権」という考え方に私は疑問を持っています。もちろん基本的人権を問題にするのではないのですけれど、こと差別問題に関しては、人権論では捉えきれないのではないかと思います。というのも人権は独立した個人を想定します。したがって、独立していない、自立していない、社会に対して責任を持っていないと見なされた、女、子供、奴隷、または外国人には市民権が長らく制限されてきたというのが、ヨーロッパやアメリカの歴史です。現在ではその制限は大部分は撤廃されています。
 土岐善麿は、「まつりごと わが手にあると こぞり起つ 民のちからは つよくさやけし」と日本国憲法を歌いました。個人として最大限に尊重されるという人権は、人類の大切な財産です。しかし、それと同時に、共同体から独立した個々人が共同体を構成するという、いわば強い個人になれるのかという疑問も沸き起こってきます。人間の本質は、individualな人ではなく、先生も講義の中で使っておられましたが、人間じんかんであると思います。個でもなければ共同体でもない、人間じんかんという論理が必要ではないかと思います。(先生の意図と私の使い方とは違うかもしれません。)
 部落問題に関わる曖昧さ、部落民だと思われている人が部落民であり、部落だと思われているところが部落であるという曖昧さは、個から出発する人権論や、人間にんげんを共同体に還元する考え方からは解けないように思います。人間じんかんは単なる人間関係ではなく、個々人の今までの経験や思い込み、共同体の経験や文化が、しかもかなり恣意的に折り重なったものが、背景にある関係です。そういった背景を食い破ってできた人間関係そのものが、文化や歴史を問い返していくのでしょう。
 人権問題の中に部落問題があると先生はおっしゃいましたが、私はそもそも差別を人権問題として扱うことがおかしいのではないかということを言いたいのです。個でも共同体でもない、第三の視点が必要ではないかと思います。
 自分でも充分展開できないことを、藤田先生に八つ当たりするような格好になってきました。乱文お許しください。  (三重 O・Yさん)
 コメント.
 わたしに八つ当たりすることで思索が深まり、イメージがはっきりするのならおやすい御用、いつでもお相手仕ります。でもね、わたしは人に胸を貸すほどの人間ではなく、いっしょに考えることしかできません。その点はくれぐれもおまちがいなきよう。
 さて、Oさんは「『人権』という考え方に疑問をもっている」、なぜなら人権では差別問題は捉えられず、解けないからだとおっしゃる。それはそうでしょう、人権の思想と行動は歴史的に限定されたものだからです。人権思想が奴隷制と共存し、人種・民族差別、女性差別、障害者差別などとも共存してきた事実がそれを示している。アメリカ独立宣言の起草者として名高いジェファソンが大奴隷主だったことはよく知られていますしね(山本幹雄『大奴隷主・麻薬紳士 ジェファソン−アメリカ史の原風景』阿吽社、94/11)。
 つまり人権はあくまでも個人と国家・社会の関係、および個人と個人の関係の、歴史的に限定された政治的法制的構想であって、文化や社会を全面的に包摂するものではありえない。そのかぎりにおいてのみ、わたしは「部落問題を人権問題のなかに位置づけ直す」といっているのです。部落問題が人権問題を包摂するとか、部落問題が人権諸課題の上位に位置するとかいった逆立ちした議論はやめよう、部落問題を「人間の問題」として捉え直そうといっているにすぎません。
 そうはいっても課題は相変わらず残ります。「人間と差別」の問題は、その広がりと深さにおいて政治的法制的構想からはみ出す部分を不可避的にもつからです。しかし、だからといって差別を人権問題として扱うことを否定してはならないと思いますよ。もし否定するなら、その言説は一挙に現実から遊離するしかないでしょう。人権は打ち出の小槌でもなければ、夢まぼろしでもない。それは現存する「よりよき生きあい方への希求」に根ざすものなのです。それを無視するなら、いかに高等、高尚な教説も画餅にすぎない。それにしてもOさんのいう「背景を食い破ってできた人間関係」とはなんでしょうか。「個でも共同体でもない、第三の視点」というのもわかりにくい。もうすこし展開してくれませんか。

● 『こわい考通信』155 号拝見しました。自分のものまで載せていただき、それだけで自分の問が共有されたかのようなありがたい気がしました。それにしても自分で考えるすてきな中学生でした、巻頭の手紙は。
 正直、原口氏のことばは厳しくて、私のような関心のあり方など、解放運動にとっては何の役にも立たないどころか、有害でさえあると言われているような気がしないでもなかったので、先生(私にはこのことばが書きやすい)のことば、「なぜという問はまず自分に」は身にこたえました。「自分に問え」という指導ではなく、「自分に問うものだ」という先生御自身の確認のことばが、私を励まして、今も大きな力になっています。
 先日、職場の同和教育推進委員会の席上、少しそのあり方に疑問を呈したところ、教頭先生から「自分はどういう立場でやろうとしているのか」と問いつめられました。三重県の教育委員会が、法切れを前にして同和教育から人権教育へと勝手に変わっていく中で、各職場の同和教育だけが前のままのはずがないと思ったので発言したら、「熱心な」上司の先の問を浴びた次第です。部落問題を扱わなければ同和教育ではないかのような主張で現場を指導していた元締めが、何の反省もなく時代は人権教育だと方針を変更していく中にあって、これまで何のことにつけても唯々諾々と従ってきたあなた方が維持できるのか、という意味での厭味のこもった、ひねくれた言いまわしだったためでしょうか、当然理解されるはずもなく、十数年来、私が馴れてきた“優等生”発言で叱責されたというわけです。
 けれども、多くの人の見ている前でそう言われてみて気づいたこともいくつかありました。ひとつは、場の空気の抑圧が一度に押し寄せてくる感覚を味わったということ。もうひとつは、「正義」を握り締めていると思っている人の自信のある態度について納得できるものがあった、ということでしょうか。当の教頭にとって、同和教育をどうするかはあまりにも自明なのでしょう。一方、私はわからなかったり、悩んだりしている。私には「正義」がないから、いつも手さぐりするしかない。それにひきかえ、わかりきっていると思っている人がいる。これで対話していくのは骨の折れることだと思うけれど、やめてはいけないのでしょうね。幸い、その折一緒にいたベテランの方が「こういうことは手弁当で始めたんだよ」という言い方で励ましてくれました。
 簡単にお礼を申し述べるつもりが、わかりにくい長い話になりました。すみません。昨年の交流会では、山下さんのお話と奈良のあり様に刺激を受け、原口さんの小冊子からは、中村哲という医師(ペシャワール会)の人間観が伺えて勉強になったことも申し添えます。   (三重 K・Mさん)
 コメント.
 「同和教育をすすめねばならぬ」といわれれば、「はい、そうですか」と答え、「これからは人権教育なんだ!」といわれれば、「はい、そうですね」と応じる極楽トンボはどこにでもいるものです。そんな人がすすめる人権教育がいかなる代物なのか想像がつくけれど、だからといって人権教育は不要だということにはならない。ここは性根をすえて議論したいところです。

《 採録 》

● 岡田豊 「驚き」

(略)「驚き」について、以前から気になっていたことがあります。それはハイデガーが『哲学とは何か』の中で引用しているプラトンとアリストテレスの言葉です。「なぜなら、その驚きの感情こそが、本当に哲学者のパトスなのだから。つまり、哲学の初まりはこの感情よりほかにないのである」プラトン『テアイテトス』。「けだし驚きによってこそ、人間は、今日もそうであるが、あの最初の場合のように哲学しはじめたのである」アリストテレス『形而上学』。/「驚き」という言葉、ギリシャ語ではタウマゼインというのですが、このプラトンやアリストテレスの言葉は私には非常に新鮮に聞こえました。「存在」という驚くべきことに驚く、これがギリシャの哲学の真髄であり、プラトンやアリストテレスもその伝統を受け継いでいるのであるが、しかしそこに理性的な存在理解を持ち込み、学問として体系づけてしまった。そうして生き生きとした存在そのものを見失ってしまった。このようなハイデガーの言説にすっかりはまってしまったことがあります。
 『「部落民」とは何か』という本も、おなじ「驚き」が流れています。この本は決して「部落民」を再定義しようとか、本質を論じようとかそういうところに主題があるのではないと思います。自明とされて今まで問題にさえもならなかった事柄に眼差しを向け、そこに思いも寄らなかった新たな観点を見出す。そして「部落民」とは何かと定義できないから、何とか定義しようというのではなく、曖昧だから曖昧さを何とか払拭し、分析して明確にしようとするのでもなく定義できないことに曖昧なことに「驚き」、意味を発見する。
 差別・被差別の固定化した関係の中で私たちは、驚くべきことに驚くという豊かな想像力を失ってしまったのかもしれません。(『三重・同炎の会通信』02/3)
 コメント.
 「いまの教育には驚きがない。驚きがないのはなによりもまず教員が驚いていないからだ」というのがわたしの口癖ですが、教員だけでなく、人は大人になればなるほど驚きの感情が弱まっていくようです。とくに一段高いところから道を説く人はちょっとやそっとのことでは驚かない。世のなかのことはみなわかっとるというわけでしょう。それはともかく岡田文は『「部落民」とは何か』(阿吽社、98/9)についての簡にして要を得た批評として読ませていただきました。

● 全横浜屠場労組 「第23回定期大会議案書」(01/11)

 [2] 屠場差別との闘い
  (1)共に生き生きと生きるために!
これまで私達は目の前の『生き生きできない現実』に対して必死になって闘ってきましたが、そこには他者との関係を見失っていた自分達や、自らも変わらねばならない事に気づけないままの自分達がいたのではないでしょうか。/私達が、「低賃金や労災補償もままならない劣悪な労働実態を改善しよう!」と闘ってきた事も、また、「豚殺しは畳の上では死ねねぇ」とか、「ここはお前らのような奴が来る所ではない」等と言われ続けた差別と闘ってきた事も、「そのままでは生き生きできない現実を何とかしたい」との思いからでした。/しかし、そこでの私達は、「人を傷つけることなく、自分を傷つけることなく、互いに生き生きと生きる」ことが原点になっていなかったが故に、様々な誤りを繰り返してきたものと思います。
 それは、差別事件を引き起こした人々をあたかも敵かのように思い込み、糾弾の場で打ち負かして謝罪させることばかりを考え、「生き生きと生きるために互いの関係を変えていく」という事とは程遠い現実を強いてきたり、「自分達は差別しない」と思い込み、他の被差別者の「このままでは生き生きと生きれない」との発信を前にしても、自らの差別的な素地を見つめ直せない自分達がいたのではないでしょうか。/また、人々の『差別的屠場観』を糾(ただ)すと言いながらも、殺す事へのこだわりの問題として整理しきれずに、自らも殺すことへのこだわりに縛りつけられ、自分達の仕事に『うしろめたさ』を感じ、『屠殺人』とか、『屠殺場』との言葉にすら傷つく自分達であったり、逆に、「俺達は殺しているのではなく、牛や豚を食肉として、皮革製品として、医療品や医薬品として、セッケン等の日用品として活かしているのだから、誇ることはあっても、自分達を卑下することはないのだ」と主張することで、畜犬センターの仲間達を傷つけていた自分達がいたのではないでしょうか。/こうした一つ一つの過ちを、私達は多くの人々との出会いや仲間との論議の中で整理し、『葛藤』を繰り返しながら糾してきました。
 現在、私達は、「他の動物を殺して利用する事や危害を及ぼす動物を殺して排除する事は、全ての動物がそうであるように『自然の営み』であり、こだわることはない。ペットを飼う事も、盲導犬を活用する事も、太鼓や三味線を作って利用する事も、殺して食べる事も、危害を及ぼす動物を排除する事も人間が『生きるための自然の営み』であり、動物をかわいがる人も動物を殺す人もどちらも受け入れられるべきだ」として、自らの『殺すことへのこだわり』から自分達を解き放つことで、自らを卑下したり、仕事に『うしろめたさ』を感じる事もなくなってきました。ことさら「自分達の仕事は素晴らしい」といった肩肘張った『誇り』もいらなくなりました。
 そもそも私達への差別は、家族や地域社会、教育現場、マスコミ等を通し、「動物を殺す事はひどいことでかわいがる事が良いこと」との価値観を植えつけられた人々が、私達屠場労働者や私達の働く屠場への偏見(マイナスイメージ=差別観)をふくらませることで引き起こされています。/まさに、この価値観こそが私達、屠場労働者、畜犬センターの職員、そして猫捕りや三味線作りの職人達への差別へ結びついていく「いつ人を傷つけてもおかしくない素地」なのではないでしょうか。そうであるならば、この価値観こそ誤ったものであり、この価値観から変えていかねばならないはずです。/こうした整理の上に、私達は、人々との関係をこれまでの敵視するものから、「あんたらも我々と同じで『いつ人を傷つけてもおかしくない差別的な素地』−『殺すことへのこだわり』や『屠場へのマイナスのイメージ』を持っているのだから、そんな自分達こそを互いに変えていこう」と、少しずつではありますが、『より良き関係』を求めて歩めるようになってきました。(略)
 私達は、「人と人との出会いを通して互いが変わることで、互いに生き生きと生きる関係を築いていける」という確信をもって、差別との闘いに起ち上がっていきましょう!互いを解き放つために、更に『良き出会い』へ踏み込んでいきましょう!
 コメント.
 奈良県連(山下力理事長)の研究集会で知り合った全横浜屠場労組の議案書の一部です。葛藤にみちた経験と思索にもとづく文章からうける深い感銘を、みなさんにおすそわけします。「ことさら「自分達の仕事は素晴らしい」といった肩肘張った『誇り』もいらなくなりました」というのがいい。なにかといえば「誇り」を持ちだす人に読ませたい。

《 川向こうから 》

●正月早々の豪雪で山小舎のあたりは積雪が2 メ−トル近かったとか。三月下旬に出かけたところ、倒れた杉の無残な姿が随所にみられ、ティ−ピ−(テント)の幕ははずしておいたので無事だったものの、骨組みの柱が三本、先端部分で折れていました。四月下旬、友人たちを迎えるべく、チェンソ−で倒木を切り、運ぶなどの山仕事をやった。ここまではよかったんです。さあ、そのあとが大変。二十七日の夜から左腕に激痛が走り、おかげでお酒もほどほどにして早寝してしまう始末。いやあ、まいった、まいった。餅つきまでして祝ってくれた友人たちには申しわけなくて。いまも左指の先がしびれているけれど、大事にいたらずホッ。年寄りのなんとかですなあ。今後は気をつけます。
●某日、一泊二日で兵庫県尼崎市の特別養護老人ホ−ム「園田苑」(苑長は友人の中村大蔵さん)にでかけました。ボランティアサ−クル「クラブ園」の総会で話をさせてもらうためです。特養ははじめての訪問でちょっと緊張したけれど、入居者のみなさんの昼食風景を眺めているうちに、なんだか懐かしい気分になり、こころがほどけていったみたい。講演には入居者の方も何人か聞きにきてくださったのはありがたかった。講演後、尼崎在住の高田嘉敬さんといっしょに苑内を見学させてもらったんですが、異臭がしない。おむつの交換が頻繁にされ、換気に配慮がなされているだけでなく、窓も玄関もあけっぱなしなんです。道をへだてて藻川もかわが流れ、岸辺には鯉のぼりが泳いでる。朝食後、玄関前に出て、風に吹かれ、朝日を浴びながら道ゆく人をながめる入居者がいる。これが中村さんのいう「医療の現場、福祉の現場で日々くり返されている非日常の意識的打破」ということなんだと納得。町のど真ん中にある「園田苑」は人びとのごく普通のくらしにかこまれているだけでなく、入居者の森末市さん(84)と缶ビ−ルで乾杯したことからもわかるように、ここではアルコ−ルは禁止されてないんです。よくみると、キッチンのカウンタ−の手の届くところにウイスキ−の大瓶がならんでいるではありませんか。もうそれだけでうれしくなってしまう。帰る段になって中村さんがJR尼崎駅まで送ってくださるという。声をかけられた森さんが後部座席にぴょんと座る。お二人のなんともいえない息のあったやりとり、間あいに感心。戦闘帽をかぶった森さんの姿はとうぶん忘れられそうにない。
●4月17日から5月4日まで、三重、兵庫、大阪、岐阜の延べ6人の方から計17,060円の切手、カンパ、図書券をいただきました。ありがとうございます。支出は郵送費(156号)42,400円。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-Mail<k-fujita@h6.dion.ne. jp>郵便振替<00830-2-117436 藤田敬一>)です。(複製歓迎)