No.152 2001.10.5.

《 各地からの便り 》

● 藤田さん、長らくご無沙汰しています。『同和はこわい考通信』、毎号キッチリ読ましていただいています。読んだ後はパソコンにインプットしています。お陰でだいぶん賢くなりました。相変わらず藤田さんは忙しく活躍なさっているようですね。但し健康に気を付けて下さい。いつまでも若いと思いなさるな。家族の皆さんもお元気ですか。
 小生の近況報告。現在、身体障害者手帳を受給しています。障害名は、1.腎臓機能障害、2.直腸機能障害、3.小腸機能障害で、障害等級は一種の二級です。
 何回も危篤状態になりましたが、この世に帰ってきました。私は死なないことになっているのだなあ…と自負しています。東京のホテルニュージャパンの大火災の時も一晩違いで助かりました。今度もあの世を視察してまいりました。広大な広場に花が咲き乱れていました。その中で右側に両親と弟がにっこりと笑っていました。左側にはよく一緒に飲んだことのある叔父が黙ってうつむいて飲んでいました。その時、私を誘ってくれていたら飛んでいったでしょう。それで一巻の終わり。誘ってくれなかったから、この世に戻れました。
 危篤状態の時、たくさんの方々が見舞いに来ていただいたけれど、面会謝絶で帰ってもらったとのことで、大変迷惑を掛けたと思います。意識が戻った時には、祭りの提灯のように点滴がいっぱい並んでいましたし、部屋には医療機器が三台ほど置いてありました。幸いにして一命を取り留めたので、このように御礼も言える状態になりました。現在は週3 回の人工透析を受けています。これだけはさぼるわけにはまいりませんので、キッチリと実行しています。お陰でだいぶん元気になりました。
 大阪方面へ来られたときに一度お会いしたいと思いますので、お忙しいとは思いますが、立ち寄ってくださいますよう御願いします。くれぐれもね。
 追記・サイボシを送らしてもらいました。ささやかですが、お酒の肴にして下さい。お酒の調達は自前で。
 親愛なる藤田敬一様へ
                          T・Mより
 コメント.
 サイボシ(馬肉の天然燻製品)が届いたことはもちろんうれしかったけれど、大病を患っておられたTさんが元気を取り戻し、パソコンを使ってこのようにお便りをくださったことがなによりもうれしい。お酒は自前で調達しサイボシをおいしくいただきながらTさんのご健勝をはるかに祈った次第。
 学生時代にお会いしてから四十二年、親交がつづいてこれたのはひとえにTさんのやさしさのおかげです。『こわい考』が出て二、三か月後に開かれた査問委員会もどきのある集まりで「『こわい考』は差別を拡大助長するものだ」、「部落民でない者に何がわかるかなどと運動のなかで主張されたことはない」といった批判を受けていたとき、Tさんはみずからの経験を語りつつ、藤田の意見は貴重だ、聞くべきところがあると静かに話されたことが忘れられない。ほんとにありがたかった。しかし、それはいまにして思えば、わたしへの応援というよりも、みずからがかかわってきた運動、組織のありようを振り返ろうとするTさんの姿勢の現われだったんですね。『こわい考』後もつきあいがつづけられたのにはわけがあったのです。

● 早速『「同和はこわい考」の十年』をお送りくださりありがとうがざいました。奈良ではしつこいくらい問いかけをしてしまったと反省しております。私にとって、しつこいくらい問いかけをしてみたい方だったのです。
 私は大学時代、ほんの少し狭山にかかわっておりました。大学の集会でマイクを握って狭山現地調査参加を呼びかけたりしました。集会には赤・白・青・銀・黒のヘルメット学生、ノーヘルの学生が他大学からも参加していました。私はヘルメットはかぶっていませんでした。「部落問題解放研究会」という変わった名のサークルを作っていました。闘争課題がなくなった各セクトが狭山にあつまってきた時代でした。私は部落民とされている人たちとの交流もなく、ファッション感覚でかかわっていました。大学三年頃から各セクトのゲバが激しくなったため、サークルからも大学からも遠ざかり、マージャンや酒、アルバイトに精を出す生活となりました。一応卒論は「部落問題とマッチ工業」というテーマで、資料の文章をつなぎあわせてまとめ、提出しました。指導教授はI先生でした。
 教員となって十五年目、縁があってT大学のH教授のところへ一年間通うことになり、H先生の紹介で、ある県の研究所で学ぶことができました。民主教育から同和教育へ、そしてその後どのようになっているのかを調査してみようと思いましたが、むずかしかったです。帰り際、運動体のリーダーから「あなたは出身ですか?」と聞かれ、「いや違います。」と答えたところ、「わざわざ遠いところからありがとうございました。……私たちの気持はわからないでしょうね。」と言われました。
 「私たちの気持はわからないでしょうね」ということばが、その後ずっとひっかかっておりました。差別問題へのかかわりは、いろいろな人と出会い学んだ視点で自分の成育史をしっかりみつめなおすことから始まるということなのかな、と思いました。そして自らの被差別体験を検証することなしに、この差別社会の現実、そこに組み込まれて差別されている自分に気付かず、他人の差別問題にかかわることがいかに皮相的であるかと考えるようになりました。
 家に戻り、私の十五歳までの小さな村の生活を振り返りました。精神障害者の母、きちがいの子と見られていた自分。自分が見ようとしていなかった被差別体験が見えてきました。(略)Oさんや屠場の人たちと出会うことにより、精神障害者の母をいちばん差別していたのは自分であったと気付きました。「母がこの世からいなくなればいい」と何回か思ったことがありました。母は私の願いをうけとめて死んでいったのかとも思いました。差別、被差別、どちらの側へも立つ人間、人と出会い、出会って学んだことを伝え合っていける豊かな関係、を大切にしていきたいと思っています。今後とも宜しくおねがいします。秋の夜長に一献。八海山を召しあがっていただければ幸いです。           (神奈川 N・Mさん)

 コメント.
 9月1,2の両日、奈良県斑鳩町で開かれた奈良県部落解放研究集会第一日目の夜、懇親会の場で横からしきりに質問する人がいる。それがNさんでした。めんどくさかったわけではないけれど、わたしの考えが次第に煮つまっていった経緯を詳しく語るにはいかにも環境が悪い。なぜって目の前の酒と肴がわたしを呼んでいたからです。そこで「ともかく『「同和はこわい考」の十年』を送りますから、名刺をちょうだい」と話を打ち切り、翌日岐阜へ帰ってすぐ『十年』をお送りしたら、このお便りと「八海山」が届いたというわけ。
 さて、Nさんのお便りには重要な論点が含まれています。一つは部落問題とのかかわりです。学生時代、狭山闘争に加わったものの、その後何らかの事情で狭山とも部落問題とも直接的にはかかわらなくなったという人は多い。そしてそのことでいまもって忸怩たる思いを抱いている人がいる。Nさんもその一人とお見受けしました。しかし、ある社会運動に長期間かかわることがそんなに立派なんでしょうか。たしかに一つの課題に長くかかわることによって、それまで見えなかったものが見えたり、気づかなかったことに気づいたりすることはあるし、そのなかで思索を深めることもありえます。けれどもそれは、当人と課題との緊張関係の持続の結果であって、長くかかわれば必ずそうなるとはかぎらない。長ければいいというのなら専従活動家はどうなんだ、といいたくなる。闘争課題をひょいひょいと渡り歩く人はいたし、いまもいる。でもね、そのような生き方を倫理的に断罪したって仕方がない。みんながみんなネルソン・マンデラにはなれないのだし、一つの闘争課題に固執、執着することによって得られるものもあれば、失うものだってある。事柄は、大げさにいえば「獄中十八年」、「転向」の評価ともつながるわけで、大事なのは持続することによってつちかわれる思索の力ではないでしょうか。
 二つ目は、「(出身者でないあなたには、出身者である)私たちの気持はわからないでしょうね」という発言についてです。その人はなぜNさんに出身者であるかどうかたずねたんでしょうか。出身者ではないことをたしかめた上でなぜそんな発言をしたんでしょうか。ここが肝心なところです。おそらく彼は「わざわざ遠いところから」同和教育の研究に出かけてきたNさんに謝意を表しつつ無意識のうちに心理的優位に立とうとしたのではないか。わたしにはそうとしか考えられない。
 以前もいまも運動体の公式文書である綱領や基調方針には書かれていないことを理由に「部落民でない者に何がわかるかなどと運動のなかで主張されたこともなければ、聞いたこともない」ととぼけたことをいう人がいる。Nさんの話は十年ほど前のことだというが、それはいまもってこの文句を「切り札」として使う人がいることの証明でもある。
 岐阜での話。ある人がある小さな集まりで、一人の女性に向かって「あなたは部落民ではないからわからないでしょうが」と発言した。とたんにその女性はきっとなって「わたしは部落民です。結婚してここに来て三十年、わたしは部落民です!」といい返した。そしたら、くだんの人物はなんと「あなたは部落民だからわかるでしょうが」と前言をいともたやすくひるがえしたのです。一部始終を横で見ていたわたしは思わず、「部落民ではないからわからない。部落民だからわかる。そんな簡単に『わかる』『わからない』という断定が変わるんですか。いったい部落民とは何ですか」と叫んでいました。すると、彼はしばらく考えて「部落民とは、部落差別に怒りを感じる人だ」と答えた。そこでわたしは「それなら、部落差別に怒りを感じるわたしはどうなんですか」と重ねてたずねたのです。もちろん彼から返答はなかった。ことほどさように「部落民だからわかる」「部落民ではないからわからない」という断定はこの三十年、あまりにも安易になされてきた。「部落民とは何か」、「わかるとはどういうことか」、この二つの問いについてきちんと考えたうえでの発言ではないのです。
 「部落民」の定義をめぐってあれこれ議論するのも、共同幻想論を持ち出して人を煙に巻くのもいいけれど、わたしにとって最大の関心事は、「わたしは(あなたは)部落民である」「わたしは(あなたは)部落民ではない」という存在規定を持ち出し、それを「わかる」「わからない」の断定基準にすることによって人と人との対話がとぎれ、関係がゆがんだものになっているという現実なのです。Nさんならずとも、「(出身者でないあなたには、出身者である)私たちの気持はわからないでしょうね」という発言に出会ったら、みずからの被差別体験を検証しなければという思考経路をたどるとしても無理からぬところがある。
 しかし、いったい「被差別」という共通体験を媒介にしなければ「人間と差別」の問題に接近できないんでしょうか。わたしは、そうは考えない。もしそんなことを認めたら、わたしがこれまでやってきたことはまったく無駄だということになってしまう。わたしは少なくともこの十数年、「部落民でない者に、部落民の気持はわからない」といった類の物言いには、間髪を容れず必ず不同意を表明してきました。そのことによって関係がまずくなっても仕方がない。実際、まずくなった人も何人かいた。でも遠慮気味で他人行儀の友人関係なんて気持が悪い。そう思いませんか。

《 随感・随想 》

ある点検糾弾会の光景
藤田 敬一
 この四月末、未知のK.Kさんからお便りと一緒にパンフレット「富山組とやまそ主催公開講座(00/7/21)講演抄録原稿の教区報『ともしび』への掲載拒否に対する私見」が送られてきた。それではじめて前号に採録した小武正敏「わたしはどこに立っているのか?−糾弾により問われた『僧侶』の立場」の存在を知ったわけである。
 Kさんのパンフレットは、小武さんの『こわい考』評価に対する批判とあわせて、部落解放同盟と本願寺派教団との関係を厳しく問い質していて、糾弾する側と糾弾される側の「いびつな関係」を活写している。以下に抄録する。

 〔時は1996年1月25日、会場は本願寺富山別院。緊張と「どんなんかな」という一種の期待感が交錯する気持ちで待っていると、解放同盟中央本部書記次長・谷元氏(当時)を先頭に総勢14・5人が来た。谷元氏が話をリードする。勿論主導権は彼らが握っている。当時の教務所長が質問に答えるのだが、良く言えばとぼけた返答、正直にいえばトンチンカンな答えを繰り返すので、話がかみ合わない。「しめた、このままなんとか終わりそうだ」と思った矢先、一人の坊守が発言した。「信心さえあれば、全て解決されるんではないでしょうか」と。振り上げた拳のやり場に困ってイライラしていた谷元書記次長が早速噛みつく。後は立て板に水。驚くことに、彼女はめげない。いい加減にしとけばいいのにという我々の思いと裏腹に、彼女は発言を繰り返す。しかしながら、歴戦の強者の谷元氏にかなう訳がない。彼はある程度彼女の言動を弄ぶようにしながら、自らの主張を滔々と述べ、最後に、「他人の痛みが分からないのなら、真の宗教者とはいえない。親鸞聖人のみ教えに生きる者として、恥ずかしくないのか」と決めつけると、彼女は鳴き声で、「すみません」と謝ったのである。終了後、肩をそびやかし意気揚々と退場する彼ら。今思い出しても、何か胸にうずくものがある。どうして彼女を助けてあげられなかったのだろう。確かに彼女をスケープゴートにすることで、糾弾会は無事に済んだ。しかし…。
 解放同盟の人達に言いたい。差別は今なお厳しく、あなた方が大変な思いで暮らしておられることは分かる。糾弾はかつては唯一の闘争手段であり、成果も上げてきた。今尚、あなた方を守り、差別者を指弾するための強力な武器である。我々にしても、不当な目にあったとき、断固として相手に非を認めさせる行動に出ることは、自らの尊厳の守るために必要不可欠な行為である。だが、“過去の悲惨さに居直ることにより相手の言論を封殺し、それによって自らを絶対安全な場に置き、そこから声高に恫喝するやり方は決して容認できない”。
 当教区だけであると思われては心外なので、他教区の点検糾弾会も紹介する。
 某教区での点検糾弾会の席上、参加者の一人が、「この県内、少数点在型の地区の状況があり、どうしても孤立的状況になり、連帯して声を出すことができない環境がある」と、前の発言者の補足説明をしている途中で、解放同盟側からストップが掛かった。どうして「声を出すことが出来ない環境」を放置しているのか、と激しく指弾され、つるし上げられた。彼は次のように続けるつもりだった。「それを踏まえて声を出していこうということにしたい」と。終了後、彼と親しいその地域の解放同盟員が、「あなたに泥を被ってもらった」と四回も詫びの言葉をかけ、頭を下げたとのことである。/点検糾弾会の主旨は何か。歯に衣着せず言わせてもらうなら、我々僧侶に対する解放同盟の示威行動である。“わしらも門徒だ、わしらのためにお前らキチンと運動せなあかんぜ”と。彼は、部落解放運動に加わり基幹運動にも積極的に取り組んでいる、真摯で思慮深い人なのに、何故そのような仕打ちを受けなければならないのか。多くの人が敬愛する彼は、理不尽な目にあわされても、以前と同じように運動に携わっている。とても真似は出来ない。
 シナリオ通りの一幕の芝居、もしくはセレモニー(儀式)というべきか。全国津々裏々を巡った興業は成功裏に終了した。「総括書」という詫び状まで手に入れて。
 お断りしておくが、解放同盟そのものをやり玉に挙げるつもりで、裏話を暴露したわけではない。点検糾弾会の不当性と、糾弾する者が正しいとは限らないことを言いたいだけだ。(略)/先に点検糾弾会を部落解放同盟の示威行動だとしたが、認識が甘かった。あの場は我々僧侶に変質した「信心」を認めさせる所であった。一坊守の、「信心さえあれば、全て解決されるんではないでしょうか」との質問が否定され、彼女が「すみません」と謝ったことが、正しくその象徴である。個人の領域では、全ての問題が、「信心」という自己の内面で昇華され、解決できるという彼女の言い分は、決して間違いではない。だが自己完結する個人の信心では、差別が社会問題である以上、外に向けての行動を伴わない限り、力になりえない。だから、そのような考えは間違いだという、解放同盟の指摘も、運動団体の言い分としては理解できない訳ではない。問題は、彼らの言うことが完全な詭弁でありながら、誰もそれを指摘できないことである。(略)
 点検糾弾会において屈服したことは、我々僧侶に二重の苦痛を与えることになった。一つは、部落解放運動に取り組まない僧侶は、「信心」がない者であるという根拠が出来たことである。彼らの主張に唯々諾々としたことは、“信心を得た念仏者”が社会運動(具体的には部落解放運動)をするのではなく、“信心すること”に、もはや部落解放運動が内包されていることを結果的に認めたことになった。何故なら、彼らが言う「信心」とは、「信心の社会性」に他ならないからである。このことを認めた以上、我々は身も心も解放同盟に完全に支配されたと言えよう。これが二つ目の苦痛である。(略)力関係では、もはや彼らの方が上であることは間違いない。加えて、「信心」という個人の内面に関することまで決定権を握られたら、最早どうしようもない。これでは二重支配構造である。
 我々はあの場において、なんら反論することなく彼らの主張を認めたことを、懺悔すべきである。勝てる道理はないにしろ、彼らに富山の坊主は一筋縄ではいかないと、最低思わせるくらいの徹底した論戦を挑むべきであった。そうしたなら彼らにしても、今までのような尊大な態度で我々に接することはないであろう。(略)
 何故、我々にとって最も大切な「信心」の内実を、“真実信心”から“信心の社会性”に貶めてまで、部落解放運動に取り組ませようと画策するのか。差別を憎む人間の一人として、一人の念仏者として教団が運動に協力することには諸手を挙げて賛成し、自らも協力者の一員に加わりたいと念願するが、如来から賜る「信心」を理念とするのではなく、解放同盟が標榜する「信心」のもとでの運動にくみする気持ちは、サラサラない。(下略)〕

 もちろん、これはあくまでもKさんからみた光景であって、そこにはなにがしかの偏りと戯画化は避けられない。しかし、それを割り引いても、この〈いびつで不幸な関係〉を地でゆくような光景に胸ふさがる思いがするのは、わたし自身のかつての誤りともかかわっているからだ。糾弾についてようやく議論がはじまりかけている(野町均「差別をめぐる議論の風景」、『こぺる』No.101,01/8)。奈良県連はすでに「糾弾闘争の二局化」方針を打ち出している。「糾弾の思想」それ自体の根源的な再検討が、待ったなしに迫られているのである。

《 川向こうから 》

●奈良県連の研究集会と部落問題全国交流会が終わると、なぜかほっとしてしまう。どちらも人の顔がみえる規模の集まりで、心安く話せる雰囲気なんですが、でもどこかで気が張ってるんでしょうね、緊張の糸がゆるむのがわかるんです。九月は大学も夏休み。休息をとるにはもってこいの機会でした。おかげで山小舎にせっせと通うことができていうことなし。三年前に移したサルスベリに花が咲いたといっては喜び、イノシシが掘った庭の穴にびっくりしたり。まあこうして、わたしは元気にやっとりますのでご放念ください。
●「とても難解な論文に戸惑うことがありますが、癒しを戴いたり、良心にふれる時間を楽しませて戴いて居ります。」(島根 Aさん)。「六百通の切手をはるのはしんどいやろうなあと思いつつ…」(奈良 Tさん)。短いコメントにこめられているお気持は、ありがたくちゃんと受けとめております。謝謝。
●某日、ある町の高齢者大学に呼ばれて出かけたところ、開会冒頭、「青い山脈」の合唱があって驚きました。いろんなところに寄せてもらってきたけれど、合唱ではじまるのは見たことがない。しかもその歌が「青い山脈」というのがなんともよろしい。「古い上着よさようなら」「雨に濡れてる焼けあとの」と歌っているみなさんは、ちょうどわたしよりひとまわり上の方々で、戦中・戦後の混乱期を生き抜いてきた人びとばかり。お顔を眺めながらちょっとしんみりしました。
●最近読んだ本から   石川九楊『書字ノススメ』(新潮文庫、2000/11)。「人間は、誰に代わってもらうわけにもいかず、代わってもらっては意味のない生を一度限りに生きる。『ファシズム』や『スターリニズム』下の時代であっても、人間は人間としての生をまっとうしなければならぬ。ナチのブーヘンヴァルト収容所の中のユダヤ人は、『それでも人生にイエスと言おう』と歌った。(略)どのような時代、体制、境遇下でも、逆説をくぐりぬけて、人生の最後に、人間と世界とを『イエス』と肯定する言葉を残すことが、人間としての必要条件であろう。はたして現在人は、日常的に周囲に伝達した自らの姿と、全人生をふりかえり、人間と世界に対して『イエス』と肯定できるだろうか」(137-138頁)。『夜と霧』の著者V・E・フランクルに『それでも人生にイエスと言う』と題する本があり(春秋社、93/12)、石川に誘われて再読する気になった。
●8月23日から10月3日まで、京都、大阪、埼玉、徳島、岐阜、滋賀、奈良、島根、三重の延べ15人の方から計69,680円の切手、カンパをいただきました。多謝。支出は郵送費(151号)など計43,630円でした。本『通信』の連絡先は〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-Mail<k-fujita@h6.dion.ne.jp>,郵便振替<00830-2-117436藤田敬一>)です。(複製歓迎)