No.151 2001.8.22.

《 各地からの便り 》

●お礼が遅くなりましたが『通信』有難うございました。もう先生の『通信』はとうとう終わってしまったのかなぁと、とても残念に思い続けていました。Wさんとも「どうされたのかな?」と話していましたが、かといって「どうなさったのでしょうか?」と聞いてはいけないのではと、感じていました。『こぺる』の鴨水記で、「ここらで一人であることに立ち返って…」と書いておられましたし。「先生は、決心されたのだ」と。そのことは、私たちにとって「一人でできることを考えなさい!」という先生からのメッセージのようにも感じました。でも、私に何ができるのだろうと考え続けていますが、でも開店休業中の日々が多く、私にとってあらためて『通信』の占める割合の大きさを実感することになりました。そうだ!今までの『通信』を読み返してみよう。私なりの何かが見えるかもしれない、と思っていたところに先生からひさしぶりの『通信』が届きました。私の思いが通じたようでした。『通信』の中では、多くの人との出会いがあり、もっぱら読者の側でしかありませんでしたが、それでも何が大切かということを十分に考えさせられています。
 広島の福田典子さんの便りは、彼女の人柄が十分伝わって来るようでした。今まで、真剣に彼女に関わる人々に接してこられていたんだなぁと感じられ、やさしさゆえに傷つくことも多くて、そのしんどさを一つでも背負ってあげられたらと拝読しながら思いました。でも私にそれができるとするならば、私がこの場所から「一人でもやれること」を見つけることなんだと感じています。でも、「ほんとにあんた!やろうとしているのか?」と別の自分が問うています。
 《川向こうから》で最近よく登場する長田弘さんの詩に偶然出合いました。「人生という本を、人は胸に抱いている。一個の人間は一冊の本なのだ。記憶をなくした老人の表情も、本だ。」「世界は一冊の本」という詩でした。長田さんの名前だけは知っていましたが、このような詩を書かれる人なんだと、ほんの少しだけ長田さんを知りました。今年の京都に行けるといいなぁ〜と思っていますが、果たしてどうなるでしょうか。そして、先生の中で「無くてはならぬ存在」の片隅にでも存在していられるだろうか、と思って書きました。  (鳥取 Y.Tさん)

●150号受け取りました。ありがとうございます。150号まできました。正直なところを言いますと、いつ途切れるか不安もあるのです。『通信』が郵便受けに入っていて「よかった」と思いながらの150 号です。心から尊敬し、限りなく感謝しています。そして今号は、野町さんのすてきな文章です。やはり、柔軟さが大切ではないかと思います。前号のことを含め、このような柔らかさが150号続いている秘訣ではないかと、僭越ながら思っています。
 『部落の21家族−ライフヒストリーからみる生活の変化と課題』(部落解放・人権研究所編、01/5)を読みました。大阪府内の部落から抽出した21家族の二、三世代にわたる約80人ほどから聞き取りをし、分析を施したものです。生活史・生活誌がもともと好きなのでそこから読み始め、論文編の「部落の生活様式−その継承と変化−」「解放運動の意図せざる帰結と生活変革の課題」「部落におけるカルチュラルモデルの形成」「自分のムラに対して違和感を表現するとき」「部落差別と向き合う子育て」「部落のジェンダー」「青年のアイデンティティ形成−心理的な側面から−」という各表題に関心があって読み進みました。
 でも、内と外という二分割で人間と社会を割り切っていて、重苦しい論理になっています。ムラの良さと言うけれども、「良さ」とは何か。温かさ、優しさ、暮らし良さ。声をかけてくれるとか、例の、おかずを持ってくるとか、はては、みんな同じだから気兼ねがいらないこととされています。他に良さはないものかと思います。「内」にあるものは「良さ」だけではないだろうと僕は考えていますが、父親が酒を飲んで暴れることの子に与える苦しみは語られるが、濃密すぎる人間関係の故に起きる様々なしんどい事柄や、ねじ曲げられた人間性の苦しみは語られていません。「内」は良いと言うことですから、「外」は、差別に満ちているというステレオタイプになります。「外」の人とつきあう場合にはまず自分が部落民であることを告げる勇気が不可欠であるとなっています。その告げ方の原型は小中学校、高校での「部落民宣言」です。その時の相手の反応で「外」の人に対する話者の見方が決まる。この人たちは、いったいなにを考えているのだろう。「部落か否か」以外に思うべきことはないのかと思いました。
 しかし、同和施策にすっかり浸かって「このままがよい」と努力する意欲を失ってしまったこと、解放運動や解放教育にとっては不本意とされながらも、部落を出て広い世界を目指そうとする押さえられない意欲や、「部落を告げる必要はない」という人たちがいることなどに言及するに至るところがおもしろい。同和対策事業が終了することへの危機感を基調として論じられているが、解放教育・同和教育が意図しなかった若者が育っていることを述べているところもおもしろい。
 野町さんの文章に引用された長田弘さんの「花ばなをそこにおき、路地をぬけてゆく人びとへの挨拶を、暮らしのなかにおく」を読むと、心が洗われます。そういう人びと、それを観察する人、その文章を鑑賞する人がいる。そこでは部落の「内」と「外」が消え去ってしまいます。生まれ育ったところが懐かしく、居心地が良いと感じるのは、部落民だけではない。でも人はずっとそのままの状況に浸り続けるわけにはいかない。部落にとどまり、部落の改善、部落の地位向上を目指すことを部落に生まれた者の義務的生き方とする。部落を出る者を裏切り者ないし意志の弱い者として非難する。その偏狭さに僕は耐えられません。もし部落が良いところであるなら、そこに住んだ者の心の中に豊かな記憶を与えるでしょう。野町さんの 「精確には人の世の魅力なのだ」という言葉に込められた人生の大切な記憶を、部落がそこに住んだ者に与えることができるなら、部落を出る出ないは問題にならないはず。いただいた『通信』を読みながらこんなことを思っています。  (京都 石原英雄さん)

●『「同和はこわい考」通信』が今回で150号、『こぺる』が2001年7月号で100号と、区切りの良い号数を迎えましたが、藤田さんが磁場となって発信し続けているテーマをめぐる論議や、時代の雰囲気は、そう区切り良く流れておりません。ご自身が引き寄せたブラックホールのようなテーマに対するますますの“健闘”ぶりを、両誌で常に発信し続けてくださることを望んでやみません。
 私自身、これからもそれを手がかりに、“ちいさな人間”としての営みや思念を持続し続けてまいりたいと存じます。また、今回の『通信』を読み長田さんの講演を聴きたくなったこともあり、10年ぶりぐらいになる気がしますが、今度の交流会はぜひ参加したいと予定を立てております。  (京都 A.Kさん)

●『通信』No.148の福田さんのものは、両側から超えることの現実のむずかしさが、彼女自身の内に抱え込むもどかしさを的確に表現される中で明らかになり、そして心奥にストーンと落ちる素晴らしい文章で感動致しました。それから「奈良県部落解放同盟支部連合会−規約と運動基調」、胸の中にこみ上げてくるものがありました。すごいです。痛快の極みです。どうぞ、ある意味でこの非の打ち所のない、それこそ運動の歴史経過の中で積んでは崩しを繰り返してやっと立ち上げた理想を、各々同盟員の方が小脇に大切に抱え、且つ時々中身が消失していないかのぞきこみ乍ら、雄大な御心を持って新たな運動を起こされることを祈るのみです。  (京都 A.Tさん)

《 採録 》

小武正教 「わたしはどこに立っているのか?−糾弾により問われた僧侶の『立場』」
     (財団法人同和教育振興会発行『同和教育論究』No.18,97/3)
 第三章 「国民相互の理解」への批判
  第一節 『同和はこわい考』−両側から超える−を批判する

 (略)1986年に「地対協部会報告」が出された時、論としては「部会報告」を批判するポーズをとりながら、結果的にはその本を出すことで部落解放運動潰しを狙う政府への味方として機能した、『同和はこわい考』(1986年6 月刊)という一冊の本がある。その論点は、部落解放の達成のためには、「差別者側の変革」を言うだけではなく、「被差別者の自己内省」があって初めて達成できるというものである。一言で言えば、「両側から超える」ということに収まるといえようか。その主張そのものは決して目あたらしいものではないが、部落解放運動を支援する側からこの論が提出されたことが反響をよんだ。
 部落解放同盟中央本部は、さっそく『解放新聞』(1987.12.21全国版)で以下の三点にわたって批判の文章を掲載している。(略)
 『同和はこわい考』に対してだされた、解放同盟中央本部の見解は、今の時点でみても、出された「時」の問題、そして「解放理論の本質」の問題、その両方からみて間違っていないと思う。「ケンカしている最中なのだ。どうやって差別攻撃を跳ね返すか。このことしか頭にはない。具体的に、勝つために行動することで、精一杯」という江島修作氏の言葉(注 『同和はこわい考を読む』こぺる編集部編、阿吽社、259 頁)に指摘されるごとく、『同和はこわい考』なる指摘が国と闘っている真っ最中に出されるということは、あまりにも部落解放の運動の現状に対する無理解である。/問題は、いま政府が「国民相互の理解」という形で部落解放運動潰しを打ち出した、その道案内役を結果的に『こわい考』が果たしてしまったということである。もちろん『こわい考』そのものにそれほど影響力があったというわけでは無論ない。日本全体の総保守化の流れが、解放運動をここまで追い詰めているわけだが、皮肉にも『こわい考』はその先取りをした結果になっている。
再び政府の側から部落解放運動への総攻撃が掛かっている現在だからこそ、いま全面に打ち出してきた「国民相互の理解」というまやかしを打ち破るためにも、その先駆けとなった「両側から超える」論をキッチリ批判しておく必要がある。

 ◇「両側から超える」論

 藤田氏は『こわい考』の中で見田宗介氏(東大教授、社会学者)の「関係の客観性」という文章を引用し(略)次のように批判する。

 (見田さんは)「そこには『民族』とか『国籍』というものの過剰な意味の重みのようなものから自由に、ひとりの生活する人間として、のびのびと普通に生きたい、という在日の若い世代の、ねがいと主張がこめられている」と指摘しつつ、にもかかわらず「日本人であるわたし」に、在日韓国人・朝鮮人にそれをいう資格はないという。ほんとにそうだろうか。「一人の生活する人間として、のびのびと普通に生きたい」との“ねがい”を共有するなら、それこそ在日韓国人・朝鮮人とともに「資格」をこえて語りあうことができるのではないか。しかし見田さんは関係、資格を固定化することによって、逆に関係、資格総体を批判する視座を放棄している。/関係、資格の固定化、あるいは体験、立場、資格の固定化は、当然のことながらそれらの絶対化を生む。たとえば「部落民でない者になにがわかるか、わかるはずがない」との一面的な主張がそれである。いささか誇張されたこの断定に身をすり寄せたとたんに「部落民」としての体験、立場、資格は「両側」から絶対化されてしまう。

 この批判の中に藤田氏の基本的な考えがよく出ている。いっけん妥当に見えそうなこの論調には、前提となっているテーゼが隠されている。それは部落解放運動について「資格」という概念を基準にして論じていることだ。部落差別において「差別」と「被差別」という「立場」が存在することはいうまでもない。しかしそれを「被差別者は批判の資格があるが、差別者には批判の資格がない」というような形で「資格」としての運動の上で位置づけてきた歴史はない。繰り返すがあるのはあくまで「差別・被差別」という立場である。そして、解放運動の中においては「差別」の立場にある者が、常に一方的に糾弾され、告発を受けるという場ばかりではけっしてない。差別者の立場にありながら、被差別者の解放のために、被差別者の姿勢を叱り正すという事は生活レベルにおいては実践されていることである。そこではなぜ、「部落民でないお前になにがわかるか」となって関係が切れてしまわないか?それはその間にある信頼関係に外ならない。言葉を変えれば同じ地平に立っているということである。それは、批判する事の出来る「資格」というようなものではないのである。だから、藤田氏が言うように「資格」をいうのがおかしいとして、差別・被差別の「立場」まで蹴っ飛ばしては、藤田氏のいう被差別者と差別者の「共感」の世界も、「自立と連帯」の関係も生まれてくるはずはない。
 藤田氏自身の差別・被差別の「連帯」の世界を作ることに失敗した個人的体験と、自分は常に解放運動の「随伴者」でしかなかったという結果(注 『同和はこわい考』40〜42頁。藤田氏自身の体験が一応押さえた筆致で書かれてある。しかし、なぜ彼の体験が部落解放の全体の問題になるのかは論理展開されていない)を一般化して、それは「被差別者が自分の立場、資格の絶対化による自己免責、自己正当化が悪いのである」との論を展開している。こう考えれば氏の個人的「怨念」こそ 「両側から超える」論の出発点であり、「部落責任論」への道すじをつけるということは必然であったといえよう。
 藤田氏は、86年「地対協部会報告」のねらいでもある「糾弾否定」について、 『こわい考』の中で全くふれていない。『こわい考』を出された藤田氏の意図がどのへんにあったかは別としても、一応「地対協部会報告批判」をサブタイトルにした『こわい考』であれば、当然部落解放における「糾弾」のもつ意味について語られるべきであった。なぜか?これは藤田氏の『こわい考』の論理から私が推論するしかないのだが、「糾弾」という水平社以来の運動方法は、「両側から超える論」からはみ出してしまったのだとしか思われない。ここでも、『こわい考』が十年のちの政府の96年「地対協部会報告」を先取りした形になっているといえよう。

  第二節 差別・被差別の関係の中で、まず差別者自らの「立場」を問う

 (略)『同和はこわい考』への反響をまとめた『同和はこわい考を読む』の中で師岡氏は藤田氏に賛同しながら、「両側から超える−共感」という項目を設けて幾人かの意見を紹介しているので要点を拾ってみる(前掲244 〜246 頁)。
 両側から超えるための「共感」の内容として津田氏は「こころをいためる」ことをあげ、土方氏は差別の側によりつよく「想像力」を求めている。また牧氏は「差別構造を克服しうるのは、疎外を克服したいと思う主体を確立すること」だという。また中山氏は「誰も人は人の世の冷たさと共に、人の世の温かさの体験をもっている。これまでの運動は、『人間の温かさ』『人間の純粋さ』を見ようとする視点にかけるところがあったのではないか。」このように述べて、「両側から超える」ための被差別側がかかえる問題があるとするのである。
 しかしここに主張される「共感」の内容としての「想像力」や「こころをいためる」ということが、「同情融和」に陥らずにいかにしてなりたつかということについては明確には示されていない。/そこに欠落しているのは、「差別・被差別の立場」という視点である。この「差別・被差別」の存在という差別の現実から足を離した途端に、差別者と被差別者の掛け橋は単なる観念に落ち入っていく。特に差別する側にある者が自分の置かれた社会的立場を問うことを抜きにして、解放に向けた「想像力」や「こころをいためる」ということが生まれてくるだろうか。もし生まれるというなら、自分を第三者・部外者の立場においた評論家的感想でしかありようがない。それこそ、同情融和の最たるものである。
 従って、「差別する者がいるから差別は生まれてくる」という明白な真理からすれば、差別解放のためには、まず差別する立場にある者が、自分自身を差別している社会的立場を認識すべきだということは当然となる。しかし、差別のいたみは被差別者の上にあるのであって、先に差別者が差別の不当性き気付くということはほとんどない。人間の存在は関係存在(縁起的存在)に外ならないから、先に差別の不当性に気付いた被差別者の訴え・糾弾によって、差別者自身の差別的意識とその立場が認識されるということになるのが実際である。/この差別が作られる順序と、差別の不当性に気付いていく順序が逆になっているということから考えてみても、「両側から超える」ということを主張することは、差別する側の傲慢な思いのあらわれだということがわかる。
 ではいかにして、被差別者と差別者の「共感」は成立しうるか。まず差別する側に立つ者が、差別の指摘・告発・糾弾により、自分の差別性とその立場の認識を深めていくことからはじまるといえよう。自分の差別性への驚きと恥じらいの中から、被差別の立場に思いを寄せることも、その「いたみ」を想像することもはじまる。そして差別する側にある者が、社会に構造として位置付けられている差別の実際を変えていく取り組みがはじまっていくわけである。それこそ差別者の人間としての主体の確立への歩みであり、同時に差別社会変革への営みへのはじまりである。その限りにおいてこの営みは同情融和主義ではないといえよう。そして差別する側の自己を問うこの営みは、差別者自身の(差別)社会における、生きる「場」を変えていく。一言で言うなら、「差別・抑圧・搾取を作り続ける立場」に立って生きてきた自分自身が、「差別・抑圧・搾取を受ける立場」に立って生きるという場の転換である。確かに言葉では「生きる場の転換」と一言だが、現実には時間を要する場合が多い。なぜなら、「差別・抑圧・搾取」を受けている人たちと共に闘うという営みの中から、自分の生きる場が明らかになると同時に、差別の構造の中で胡座(あぐら)をかいて生きてきていた自分自身の場を撃ち続けるという痛みをともなうからである。それはそれまで社会の中で享受していた自らの既得権を放棄するだけでなく、既得権を生み出している構造そのものの差別性を抉り出す作業である(注 僧侶がすでに獲得している既得権を放棄できない、それが運動を阻んでいる最大の要因であることはいうまでもない。例えば、僧侶研修会のアンケート調査の中で、教団の習俗・慣習・制度の中で問題とするものはという項目では、「類衆制度」と「院号法名」を多数のひとがあげた。知的には理解されても、実行には移せないというところが圧倒的多数というところ。自己の立場を問う具体的営みは、その既得権を問い、放棄していく営みを抜いてはありえない。口だけの共感・理解では何も変わらない。なぜなら立っている場に私たちの意識は束縛されてしまっているのだから、立場がかわらないかぎり容易に元にもどってしまう)。差別構造の中で今までどおり既得権を貪りたいと思う人間にとって、差別社会変革を願うということは、どう言葉穏やかにいってみても排除すべき存在となってしまう。しかし、差別者の生きる場の変換を通じた、自己変革の痛みこそが、「差別される痛み」に唯一響きあい、「共感」しうるものであろう。(略)

 コメント.小武さんは浄土真宗本願寺派備後教区の僧侶、40歳代前半の方のようです。『こわい考』は政府による部落解放運動つぶしの道案内役を果たし、部落責任論の先取りをしたとのことですが、それは誤読・誤解にもとづく過大評価です。

《 川向こうから 》

●『通信』を通して鳥取のY.Tさんなどのような、わたし自身のなかで、わたし自身にとって「無くてはならぬ存在」(長田弘)としての友人が各地にたくさんできました。そういう人びとからのお便りは、どんなに短いものであろうとありがたく、うれしい。「一人に戻る」といっても「生きあう」関係に変化はないはず。かくして元気なあいだはやっぱり『通信』は出そうと心に決めた次第。
●奈良県部落解放同盟支部連合会(NPOなら人権情報センター)のホームページ が開設されました(http://www.imj.ne.jp/info-nara/)。運動基調・規約全文などのほか、わたしの「期待と直言−友人として」も載っています。ご覧あれ。
●最近読んだ本から−−−古い友人である中村大蔵(兵庫県尼崎市・特別養護老人ホーム園田苑園長)から「不作為責任の指弾をわが身に受けよ」(『労働者住民医療』2001.6.25)が送られてきた。「(ハンセン病にかかわる)今回の国賠訴訟、そして画期的な熊本判決、大方の予想に反した政府控訴断念に際して、あらためて私たちのなすべきことは評論や判決称賛に終わるだけではなく、わが身を置く医療の現場、福祉の現場で日々くり返されている非日常の意識的な打破であろう。不作為責任を指弾されているのはなにも国会だけではない」とある。中村がいう「非日常」とは、世間一般の人びとがごくあたりまえのこととして疑わない遇し・遇され方とは異質の暮らしのありようを指すものと思われる。それを中村はハンセン病療養所と特養施設に見い出し、その克服をみずからの課題にしようとしている。「重なりあい、響きあう」感性とはこういうことなのだ。「ハンセン病療養所と特養を比較しながらの療養所訪問ではあるが、つくづく特養等福祉施設の原施設はハンセン病療養所にありと思うようになった。そして、療養所の原形は刑務所にありと確信するようになった。収容なる言葉もわが国の近代以来、犯罪者を取り締まるために作られた言葉だと想像する。」この話もいい。
●7月26日から8月21日まで、京都、愛知、兵庫、岐阜、滋賀の延べ12人の方から計66,950円の切手、カンパをいただきました。ありがとうございます。支出は郵送費(150号)など計44,190円でした。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(E-Mail<k-fujita@ h6.dion.ne.jp>、郵便振替<00830-2-117436 藤田敬一>)です。(複製歓迎)