同和はこわい考通信 No.149 2001.6.29. 発行者・藤田敬一

《 採録 》
○ 住田 一郎(部落解放同盟大阪府連住吉支部執行委員)   「部落差別-自己責任担い対等な対話を」(『朝日』名古屋01/6/2「私の視点」)

 来年3月をもって、国による特別措置法下での同和対策事業は5年の経過措置を含め終結を迎える。1969年以後、三十数年におよぶ同和対策事業の実施は伝統的な差別意識と劣悪な生活・住環境の大幅な改善をもたらした。部落差別の現実は大きく変化・改善されてきた。それ故、部落解放同盟も、92年に特別措置法の5年延長が決定された翌年、再延長は要求しないと言明した。それには被差別部落住民の対象事業からの自立・自己実現をうながすことも含まれていた。
 ところが、今年度の解放同盟全国大会基調方針は、この間の同和対策事業によって何が解決され、何が残された課題なのかを十分に明らかにしていない。到達点の確認がないのである。自立・自己実現の指摘は見られるが、具体的な提起とはなっていない。高校進学率の停滞等も「部落差別の結果」として行政側の責任とするパターンは変わらず、そのうえで新たな同和行政の確立を求めている。たしかに私も部落問題を解決する条件整備の前進を認めるが、それで問題が完全に解決したとは考えていない。しかし、従来通りの同和行政が今後も必要だとも思えない。むしろ、これまでの同和対策事業、つまり被害者に対する加害者責任としての事業の在り様では被差別部落住民の自立・自己実現を達成することも困難である。行政施策は部落問題の解決を促す条件整備でしかないからである。問題は改善された条件を土台に被差別部落住民と他の人々との自由な交わり、コミュニケ-ションの深まりが遅々として進んでいないことである。
 一つは、特別な同和対策事業が、結果的に、被差別部落住民と他の人々との間に溝をつくりだしたからである。二つは、人々との対話の前提に、無意識にしろ自己責任を回避する「部落差別の結果」論を置いてきたからである。この論によるかぎり、被差別部落側の自己責任は常に免責される。自由で対等な交わりが成り立たなかったゆえんである。69年の法制定時に、被差別部落住民が担うべき自己責任を提起するには被差別状況はあまりに厳しかった。しかし、三十数年間の対策事業を経過した今日、私たちが部落問題の解決に積極的にかかわり、自己責任を担う範囲は広がっている。にもかかわらず、従来通り行政責任・学校責任のみを一方的に追及することは許されることではない。むしろ、行政・教育担当者と私たちの間で、これまでになされなかったことではなく、事業によって改善され到達した成果を確認し、新たな課題も共同の営みとして進める姿勢が求められている。
 さらに、被差別部落住民と他の人々との対話、交わりを阻む要因の一つに私たちの〈顔〉が明らかでないことがある。それを克服するために、私は被差別部落民によるカムアウト〈部落民を名乗ること〉をここ数年言いつづけてきた。むろん、これまでにもカムアウトが相手を黙らせる手段として使われたり、差別に立ちむかう教育実践として小中学校現場でやむなくなされてきた事実を私も知っている。これらとは違い、私の提起は身近な友人へのカムアウトからの出発であり、無反応も含め様々な反応を許容する。なぜならカムアウトは私たち自身の自立宣言でもあるからだ。少なくとも、カムアウトされた友人に波紋は残る。同時に、その場で対等な対話が生まれる可能性も広がっているに違いないのである。  新しい第一歩はここから踏みだされねばならない。

コメント.
 みずからが属する組織、団体の方針と異なった考えを広く世間に表明すると、かならずといってよいほど「内部で意見をいうべきだ」「機関で討論すべきだ」と反発、批判する人がいるものです。もしそのような反発、批判に少しでも心が傾くなら、あなたは組織、団体なるものが不可避的に宿す病におかされていると自己診断してよろしい。手続き論という形式主義にもとづく異論・異見の忌避・抑圧・排除がまかり通るとき、組織、団体の活力は確実に衰退する。住田さんの文章を読んでまっさきに考えたのはこのことでした。

○ 師岡 佑行「弔辞」

 奈良本辰也先生。先生は八十七歳の生涯を終えられ、浄土に向けて旅立たれました。先生から頂いた学恩は限りなく大きく、つねづね下された御厚情は言葉に尽くせるものではありません。かねてから覚悟はいたしておりましたものの、先生が亡くなられたとの知らせに愕然とし、言葉を失っております。
 先生の盛名をしたって立命館大学に編入しましたのが一九五三年、すでに半世紀近い年月が流れております。戦後、明治維新をテーマに精力的に研究を進め、「郷士=中農層」論をひっさげて、学界に登場された先生は当時、四十歳代のはじめ。長身、眉目秀麗の颯爽とした少壮教授であられました。その頃、出版された岩波新書の『吉田松陰』は文字通り、洛陽の紙価を高からしめましたが、米ソの対立のもと、アメリカの占領下にあって独立をもとめる機運に呼応するものとして歓迎されたのでありました。両陣営に片寄らない全面講和をもとめて末川博立命館大学総長ら知識人は平和問題談話会を結成しましたが、先生は談話会の実際のプロモーターであり、オピニオンリーダーのひとりとして活躍なさいました。
 ゼミナールでは、明治維新ではなく、戦後を対象とされました。敗戦後、十年を満たない時期に、戦後を取り上げられたのは他には見られないところでした。新聞や官庁資料をどのように読み取るか。年表をつくって歴史としての流れをつかむこと。史料批判とはなにか、など、わたしたちは歴史学の学び方をこのゼミで学んだのでした。学生の報告にたいして、概念の使い方の基本があいまいだったりすると容赦なくとがめられ、思わず泣き伏した女子学生がいたことを、いまもあざやかに思い出します。ある日、講義のとき、先生は蕪村の句「鳥羽殿とばどの五六騎ごろくきいそぐ野分哉のわきかな」を示され、どう思うかと感想をもとめられました。保元か、平治の合戦か、いずれにせよ緊迫した情景をよく伝えるこの一句に匹敵する叙述が大切なのだ。「考証のプロセスは、全部書かずともよい。結論を端的にまず述べよ。その結論が、他者によってたしかめ直されていく過程で、考証の手硬さが明るみに出てゆく」。中世史家の横井清さんが書きとどめられていますが、ここに奈良本史学の真髄が込められています。もちろん、こわいばかりの先生ではありません。学生の研究旅行にはかならずすすんで参加されました。お酒を愛し、斗酒をも辞せずと痛飲されて、はては民謡、それに歌謡曲をつぎつぎと歌われました。覚え立ての歌も歌詞はいたって正確なのですが、一本調子で、よく「奈良本節」がはじまったと冷やかし、唱和したものでした。
 歴史家としての大きなお仕事は、編纂の中心となられた『日本歴史大辞典』全二十巻(河出書房新社刊行)であり、毎日出版文化賞特別賞を授与されています。また、『社会科学大事典』全二十巻(鹿島出版会)の編纂に当たられました。一九六六年、先生が主宰され、はじめて部落問題の組織的研究をすすめた部落問題研究所は朝日賞を受賞しました。いずれも多くの学者、研究者によって執筆され、共同の作業によって成就するものであり、人望と信頼がなければその中心に立てるものではなく、ひとえに先生のお人柄によるものでした。しかし先生の歴史家としての真骨頂は『吉田松陰』をはじめとする評伝にありました。このほか、高杉晋作、前原一誠、西郷隆盛、二宮尊徳など、枚挙にいとまがないほど、歴史上の人物の評伝をのこされています。そればかりでなく、淡路島で知り合われたグンチャンと呼んでいた砂河郡次、漂泊の生涯を送られた伯父に当たる方たち、庶民についてもさわやかな評伝をのこされています。数多い評伝。ここに先生の歴史観の核心がうかがえます。歴史とはなによりも人がつくり出すものであり、この世に生を受けた人間が、数々の見事なものを創り出してきた。そこから学んで、人間の可能性を追究し、できるだけそれを生かしていくことをもとめられたのでした。
 評伝だけでなく、『京都の庭』など庭園、寺院建築、骨董、酒、紀行文など、広いジャンルにわたって文章を書きとどめられているのも、人間への深い愛情と関心からであり、数々のエッセイによって読者を引きつけ、多くのファンが生まれました。学者だけでなく、むしろ芸術家や作家、文学者など、当代を代表する方々との交友が多かった所以もこのところから来たと申せましょう。
 しかし、そればかりではありません。だからこそ、邪悪なことは徹底して憎まれました。理不尽を見逃すことができず、反骨の精神を燃え上がらせました。ダンディにして侠気の人でした。歴史的にながく日本の底辺に置かれ、賤視を受け、差別されてきた部落にたいする強い関心がそのひとつです。はじめて部落についての本格的な研究をすすめた部落問題研究所の所長として、部落問題や部落の歴史を研究する最前線に立たれました。しかし、返ってきた答えは総スカンに等しいものでした。先生の見方に反発するものが多く、部落問題研究所に内部亀裂が生じました。研究所は部落問題研究の業績によって、朝日賞を受賞しましたが、その直後に先生は、部落解放運動の内紛にかかわって所長を辞職されたのでありました。
 一九六九年、先生は立命館大学教授を辞められました。数に頼って少数意見を受け入れない独善的な運営に耐えられなかったのです。全共闘学生による「わだつみ像」破壊にも支持表明されました。平和と民主主義が、内容を伴わず、形式に流れていることにたいする抗議でありました。
 あの時以後、三十数年。大学はマンモス化し、当時、批判の対象であった産学協同はいまや大学経営の核心に据えられています。人心の荒廃は目をおおうばかりの二十世紀を越えた現在、すべては根底から見直すことを迫られていますが、このとき先生が選ばれた思想と行動をあらためて顧みることは欠かせません。
 大学を辞められた先生は小さな研究所をつくりますが、間もなく自宅に研究室を設けられ、左方郁子さん、高野澄さんらの助力を得て、著述をはじめ、各地で講演、され、テレビに出演されるなど、八面六臂はちめんろっぴのお仕事をつづけられたのでした。
 一九九○年からは雑誌『フロント』に、「日本の滝紀行」が連載されはじめます。七十八歳の高齢でした。そして一九九七年、あらためて『日本の滝紀行』上下二冊の大冊として世に問われました。神に近づかれた先生は、滝という自然に眼を向けられました。読んでいてつくづくと思い知らされるのは、日本各地百八に及ぶ滝それぞれに込めた人間の心であり、人間にとってとらえられた歴史のなかの滝であるということです。滝それぞれの見事な美しさだけでなく、文人、墨客がうたい、んだ和歌、俳句、漢詩、あるいは民謡の数々が散りばめられ、絢爛たる姿を示されました。しかも、先生の博識がけっして目立つのではなく、滝のなかにとけ込み、滝の音となって響いてまいりました。脚を痛めていられた先生はおひとりでは急坂の多い滝まで行くことはできません。かならず、奥様が同行されて介添えなさいました。ベレー帽をかぶられ、ステッキをついた、お痩せになったが背筋を伸ばした長身の先生と、ひたと付き添われた奥様の姿が浮かんでまいります。奥様の愛情あふるるご協力なしにはけっして生まれることのできなかった著書であります。九十歳に近い最晩年、このようにして大著を世に送られたことは、ただただ感嘆の極みでございます。
 先生の一生は、小事に拘泥せず、陰謀を廻らさず、闊達自在な自由人としての生涯でありました。ファンも多かったが、敵視する人もけっして少なくありませんでした。多くの著作、各地での講演、テレビへの出演などからくるやっかみによるものです。位階なく、勲章なく、名誉教授の称号もなく、博士号さえない。野にあってひとり歴史家として屹立されていた先生。俗に似て、俗にあらず、まさしく反俗の人でありました。
 先生。奈良本辰也先生。いまや、自由を手にされました。どうか、天空いっぱいお好きなように天翔けてください。
 二〇〇一年三月二五日

コメント.
 これは、奈良本辰也さんの葬儀のさいに読まれた弔辞です。『こぺる』の文章と重複するところもありますが、師岡さんの気持が率直に表出しているので掲載させていただきました。

《 再録 》
藤田 敬一「同和問題の解決と人権感覚」
(岐阜県人権同和対策課・岐阜県人権啓発センター『人権だより』No.5,01/5)

 日本社会に同和問題という「生まれ、生い立ち」を口実にした偏見、差別がいまもなお存在することを、私がはじめて知ったのは昭和三十三(一九五八)年のことでした。それから四十三年、同和問題をとりまく環境は大きく変わりました。なにより関心が高まり、取り組みが前進しました。その結果、同和地区の暮らしに改善が見られ、人びとの理解と認識が進んだことは間違いありません。あたかも今年は、いわゆる「解放令」が出されてからちょど百三十年目にあたり、また来年は全国水平社創立八十周年を迎えます。先人たちの努力がようやく実を結びつつあるかに見えます。しかし楽観は禁物です。さまざまな生活実態調査や意識調査によれば、同和地区とそこに住む人びと、およびかつて住んだことのある人びととその子孫を、偏見にもとづいて避けたり仲間外れにする差別は完全にはなくなってはいないのです。結婚、就職という利害がからむとき、偏見が顔をのぞかせます。長期的に見れば解決に向かっていることは確かですが、短期的には課題は残されていると言ってよいでしょう。以下、私が大切だと考えていることをいくつかあげてみます。
 第一に、これまで多くの人びとの努力と協力によってにかたちづくられてきた同和問題解決のための条件を活用しつつ、人権問題のなかに同和問題をきちんと位置づけることです。つまり人権問題と同和問題を対立的に考えたりしないということです。人権は、例えて言うと「容器」であり、同和問題はその容器に入っている「中身」の一つとして考えるのです。中身に重い軽いの差をつけたり、優先順位を争うのではなく、中身どうしの「呼応しあう関係」、「重なりあい、響きあう関係」が求められています。そこではじめて人権感覚がはぐくまれるのではないでしょうか。人権感覚がはぐくまれないところに同和問題解決への確かな道のりなど見いだすことは不可能です。第二に、人権問題とはとどのつまり「人間をどう見るか」に帰着するということです。人はみな、人種・民族・国籍・性差・生まれ(生い立ち)・障害の有無・身体的特徴・病歴など「自由な意志で選んだわけでなく、個人の努力では変えられない」事柄をもってこの世に投げ出された存在です。そのような事柄を口実にして人を偏見で見たり、差別したりすることの愚かしさに気づけるかどうか、それが問われているのです。学歴・学校歴・職種・職業・肩書きで人を見上げたり、見下げたりする社会意識がこのような愚かしい人間観を培養する土壌であることにもこの際注意しておきたいものです。
 第三に、「それは人間として愚かな言動ですよ」と、穏やかに、丁寧に、そしてじっくりと相手に語りかけることのできる人びとの輪が地域に生まれることです。家族や友人、職場の同僚などの偏見に満ちた発言や行為にたいして、このように語りかける人が百人に一人、いや千人に一人いてくださるだけで、この生きづらい世の中がどれほど明るくなるか想像もできないくらいです。同和問題解決のための取り組みはこうした人びとの輪をつくりだしてきたはずで、その輪をこれからもっと大きい、広いものにしたい。第四に、人権問題は、私たち一人ひとりに生き方(人生への態度)の選択を求めているということです。もちろん、生き方はさまざまであっていいわけで、だれかに強制されたり、命令されたりするものではありません。ここに人権問題のむずかしさがあります。しかし法律や制度によっていかに人権が保障されようと、そのような法律や制度が血の通ったものになるかどうかは、ひとえに国民の不断(普段)の努力にかかっている。そしてその努力を継続させるのは個々人の「生き方」の選択に依存している。
 私は以上のような人権感覚の深まりと広がりのなかで同和問題解決の道のりを探りたいと考えているのですが、みなさんはどう思われますか。

《 長田弘さんを読む-① 》
子どもの本の魅惑
白木 裕子(岐阜)
 子どもの本が好きで、読む本の九割以上が子どもの本という私に、長田弘さんの詩集と出会うきっかけをつくってくれたのは、『同和はこわい考』通信(No.116 、97/7。野町均さん「『こわい考』と民主主義の精神」)でした。そこに紹介されていた詩集『深呼吸の必要』(晶文社、84/3)の中の時計屋さんの話にひかれたのです。“おとなになることの意味”がテーマになっている詩なんだという印象を受けました。もともとそういうことに興味があった私は、すぐにその詩集を読みたいと思ったのです。一読後、これは本好きの仲間にも教えようと得意になっていましたら、多くの人が長田弘さんの詩集をすでに知っていて、逆に「くいしんぼうのあなたにはこれを」と貸してもらったのが『食卓一期一会』(晶文社、87/9)という楽しい、おいしい詩集です。
 ちょうどその頃、愛知県稲沢市で、子どもの本にかかわる人たちが主催した長田弘さんの講演会があり、お話を聞く機会にめぐまれました。演題は「子どもの本の魅惑」。詩人の講演ということで、どんな話になるんだろうかと、期待半分、不安半分で出かけました。演題から考えると子どもの本がどんなにおもしろいかとか、長田さんが好きな子どもの本は、といった内容になるのかなあと想像していました。 ところが、そんな話ではなかった。しかも講義のような理路整然とした話の展開。私の抱いていた“詩人”のイメージとはずいぶんちがう人だわと思いつつ聞いていたのですが、余計なことを考えていると話においていかれそうで、急いで神経を集中しました。そして次の瞬間、耳にとび込んできたのは「フィロソフィー」という言葉、「子どもの本にかかわる人たちがいま一番しなければならないことは、『子どもの本』という概念、フィロソフィーをもつことです」という話。ことの本質にずばりと切り込んでいくその姿勢は、やはり詩人のものだと感じました。
 そして本題の「子どもの本の魅惑」。「子どもの本の魅惑の本質は“考える”ということにある。“考える”というのは、もっとも深く感じるということ。子どもの本というのは、人間になろうとしているものにとってもっとも根源的なものを手わたすことのできるものです」。本というものを、その中身からだけでなく、物としてもとらえ、さわったり、かじったり(?!)、ながめたりすることによる楽しみもあるのだといった話も含めて、もりだくさんの内容で、一時間半がとても短く感じた講演でした。

《 第18回部落問題全国交流会-9/8-9-京都・大谷ホ-ル(東本願寺北側) 》

  講  演;長田弘さん(詩人)「人間について」
  全体討論:テーマ「部落のいまと〈解放〉のイメージ」
  話題提供:山下力さん(奈良県部落解放同盟支部連合会理事長)
  パネラー:住田一郎・山田晏弘やすひろ・山本尚友 司会:藤田敬一
  申し込み:阿吽社(TEL 075-414-8951、FAX 075-414-8952)へ8月31日まで。

《 川向こうから 》

●前号本欄について友人から「千メートルの山を里山とはいわない」と指摘され、辞書を引いたらやっぱりそう。ああ恥ずかし。ところである日、今島の古田さんと雑談していたら、「猿も猪も悪いことするけれど、一番悪いことをするのは人間やな」とおっしゃったので大笑い。留守中に庭先のいろんなものを持っていく人がいるらしい。ゴミだけ落としてゆくバーベキュー族や釣人にも地元は困ったはります。どうやら「おとなの社会力」もなくなってきているみたいですね。

●前号掲載の奈良県連「運動基調と新規約」について、「じつにさわやかで感動的。新世紀ですね」との感想が届きました。住田さんの意見も奈良県連の選択も大海に投じられたひとつぶの小石にすぎないかもしれない。しかし、それらが「両側から超えた共同の営み」としての部落解放運動の創出を希求するものであることは確かでしょう。14年前には漠然としか想定できなかった「共同の営み」が具体性をおびつつあるわけで、このところ気分がちょっとハイになってます。

●『こぺる』が先日復刊第100号(01/7)を迎えました。これまで支えてくださったみなさんに感謝。ただ3月末で購読期限切れとなり7月号の郵送を停止した方のうち本『通信』を送っている人が15名おられる。これは「義理と無理のつきあいはここまで!」とのサインなんかなあ。そんなことをあれこれ考えていると、心中いささかおだやかならざるものあり。早急に購読継続の手続きをたのみます。

●5月29日から6月23日まで、岐阜・三重・大阪・京都・兵庫・滋賀の延べ8人の方から計25,270円の切手、カンパをいただきました。ありがとうございます。支出は郵送料(148号) など計42,353円でした。本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向187-4 藤田敬一(自宅TEL&FAX 058-239-5348、E-Mail、郵便振替<00830-2-117436 藤田敬一>)です。(複製歓迎)