同和はこわい考通信 No.144 2000.6.16. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
結婚をめぐる一女性の相談にのって
石原 英雄
 「同和地区出身の人と婚約し、関西で住む予定であるが、部落問題については全く知らないので、同和地区出身であることが関西ではどのように受け止められているか教えてほしい」というメールをもらって、正直とまどいました。部落問題が簡単にわかるものかという反発もありましたが、でも、部落問題を明朗に話し合うことが現在もっとも大切だ、という思いがあったので、相談に応じたわけです。参考文献を紹介するようなことは避けて、すべて自分の言葉で精一杯の返事をしたつもりです。
 1999年11月17日の彼女からの初めてのメールを含め都合7回のメール交換がありました。改めて読み返してみると、中途半端のまま終わっていることがわかるし、彼女の疑問に答えられているか、彼女の不安を軽減する助けになっているか、といえば、そうはなっていないと思えてなりません。しかし、僕としては最大限の誠意をもって答えたものであるし、これが部落問題をめぐる状況でもあると思うのです。 インターネットという手段がこのように使えるという、一つの実験として、彼女とのやりとりを点検してもらえたらありがたい。柴谷篤弘さんが『こぺる』66号で「複数の緊急相談窓口を」という提案をしておられました。彼女とメール交換をしながら柴谷さんの提案を思い出していました。
 そういうことですから、この経験をケーススタディーとして扱っていただきたいと考えています。ケースとしての現実性を残しながら、当事者のプライバシーを最大限尊重してくださるようお願いします。

○ 石原英雄 様
 こんにちは。A子と申します。ご紹介により、さっそくメールを送信させていただきました。おおまかなことはお聞きになっているかと思いますが、来年B市(近畿地方)の同和地区に住む男性と結婚することになりました。私はいままで同和問題に関してなんの知識もなく、彼からそのことを聞いた時も、「それがどうかしたの?」という程度の感想しか持ちませんでした。ところがその後、知り合いの方から思いがけず強い反対を受け、自分が無知であることに不安になり、今回協力をお願いした次第です。その方からは「C市(関東地方)で生まれ育ったあなたには想像することが出来ない差別意識というものが関西地区にはまだ存在するのだ」というようなことでした。もちろん、結婚生活というのは彼と私の問題であり、つきつめて言えば私達の意志がしっかりしたものであればいいのではないか、ということになるのですが、私がいままで生きてきた環境の中では部落問題というのは存在しなかったものです。故に、感覚がわからないのです。もうそんな問題はほとんどないのだ、という話も聞きますし、いや、口に出さないだけで根底にはそういった差別意識は残っているのだ、という話も聞きます。では実際にどうなのか、同和地区出身であるということを聞いて、関西の人はどのような反応をするのか、どう感じるのか、私はそれを知りたいのです。当然将来子供の就職や結婚に影響はあるのか、などということも、そちらに行く前に知っておきたいのです。
 私達二人の結婚の意志は固いものですし、この問題が障害になるということはありません、私がこれから身を置くことになる地域について知識を入れておきたいということなのです。彼ともこの問題について話はしていますし、いままでのことも聞いてはいますが、私自身にそちらに知り合いがいないため、彼にも相談した結果このような形をとることにしました。お忙しいとは思いますが、お時間のあいた時にでも、石原さんの意見を聞かせていただけたら本当にありがたく思います。いきなりこのような長いメールになってしまい申し訳ありません。これからどうかよろしくお願いいたします。
  1999年11月17日     A子

○ A子 様
 こんにちは。紹介された石原英雄です。京都市伏見区に住んでいます。よろしく。 ついでに、こういう場合に付け加える自己紹介は、結婚してはや19年、子どもが3人、上が高校2年、次が中学3年、末っ子は小学6年。住宅ローンとこれから数年のうちの膨大な学費を思うと、しわが増え、白髪も出てこようというもの。こんな所帯じみた話を、これから結婚しようという夢多き人に伝えるの相済まぬこと。
 さて、11月17日付メール受け取りました。部落民とされる者とそうでない者との結婚は、政府の調査でもずいぶん多いのですが、あなたのように詳しい人に聞いてみようという人もいることに感心しました。社会問題があるとすれば調べようという積極的な態度に賛成します。
 部落差別問題は、日常生活をする上では、全く問題にならないと思います。人に対する社会的な評価(見る目)の基準は、学歴や職歴、業績、今の職業、そして様々な分野での社会的地位であるのが現実です。被差別部落出身者であるということで、人の評価が決まったり、社会生活の障害になることは全くありません。これは僕の実感です。あなたがB市の同和地区以外のどこかに住まれるとすれば、そうなると思います。同和地区内に住まれるとすれば、若干様相が異なるでしょうが、大差はないと確信しています。
 では、どこで問題になるのでしょうか。人が、自分自身とは何ものかと考えたとき、自分の容貌とか、能力、特技などを思い、さらには家族や親戚を思い、そして、自分はどこから来たのかと問うでしょう。自分の家系や祖先というものを問題にしたとき、多くの人は祖父母や曽祖父母ぐらいしかわからないのです。家系を大事にしている家柄の人はもっと先まで記載されたものがあるかもしれません。でも、さして重要なことだとはされないでしょう。ところが部落民とされる者は、その祖先がはっきりと特徴づけされているのです。歴史的に身分制度が厳しかった時代に、最も低い身分に置かれた者であるとされます。家系図のあるなしに関わらずそのようになります。そうなると、自分自身をその歴史上の身分と結びつけて、人は悩んでしまいます。
 また世の中には、他人を差別したい人がいます。様々な社会的場面で、特定の人を差別し、現実的にも心の中だけでも優位に立ちたい人がいます。そのときに、上記の祖先のことが有効な根拠になります。社会的に目立たないし、法律、政治、行政で押さえられているけれども、社会の深いところにあるのではないかと思います。
 これが部落差別です。おわかりになると思いますが、祖先で自分自身や他人を特徴づけることは不当なことです。また、部落民といわれる者の祖先が歴史的に低い身分であったが、部落民でないとされる者の祖先はそうではなかった、といったことを調べるのは困難です。明治維新の時点で最も低い身分であった者の子孫は現在3千万人程、中世の賤民の子孫はほとんどの日本人になるという説もあります。祖先が何ものであるかを問題にすることはこのように無意味なことです。このように、誰が部落民であり、誰が部落民でないということの根拠そのものは、存在しないのです。またそのような部落差別ですから、その有り様は、B市や京都と、日本の他の地方ではそう変わりはないものだと思います。
 このように不当で、根拠のないことではありますが、人の心に貼り付いて離れないものだと、僕は現在のところ考えています。それを克服するために、身分制度の歴史や、中世からそれ以前にまで遡った差別の歴史が、学問的に研究されていますし、それがなぜ今の世の中で社会問題になりうるのかと社会学的にも研究されています。そしてそれらの成果を普及させ、差別を許さないための社会運動がある。これらのことは確かなことです。
 まあ今日のところはこれくらいに。具体的でないのでわかりにくいかなとも思いますが、我慢して読んで頂いてありがとうございます。
 どこで住もうと、一度きりしかない人生、あなた一人しかいないあなた自身を大切にしてください。愛する人についても同じです。またお便りください。
  1999年11月21日          石原英雄

○ 石原英雄 様
 丁寧なご返事ありがとうございました。同じ人間同士で差別があるというのは、本当に不思議なことです。部落差別に関する感覚というのは、答えが得られないものだと思います。人の心というのはそういう部分があるのではないでしょうか。ただ、そういった差別意識のない私にはなかなか理解しがたいことです。結局私の両親にはまだ彼が同和地区出身であることは言っていません。式や結納の日取りなどを決めるのに必死で、そこまで頭がまわらなかったというのが本当のところですが…。
 先日、両親と一緒に近所のレストランで食事をしたのですが、そこの経営者がなんと彼の実家と目と鼻の先の出身で、私達は一瞬凍り付いてしまいました。その場で詳しい地区名までは言わないでごまかしたのですが、彼は「お父さん、あの経営者からなんか聞き出したりしないかなあ」と心配していました。他人の口から悪いように耳に入るのは避けたいと思っているのですが、自分達で言い出す勇気というかタイミングがなかなかはかれません。結婚後はB市内の同和地区の外に住むことになると思いますが、不安はあります。例えば、職場の人や、そちらで知り合いになった人に、「ご主人の実家は?」と聞かれて答えた場合、顔色が変わる人が出てくる、といったことがあるのでしょうか?ばかばかしいとは思いつつ、やはりこういったことが気になります。彼との結婚に迷いはないし、生涯を共にしたいと思える人と出会えた幸運をしみじみ感じている毎日ですが、ほんの少し影がさすのはこういうことへの不安です。また石原さんのご意見を聞かせてください。
 そうそう、式の日は決まりました。まだまだ実感が湧きませんが、とても幸せです。
          A子(99.11.29.)

○ A子 様
 12月になりました。メールを頂きながら、まるで郵便の手紙のような返事のテンポになってすみません。仕事や家事などにとらわれ、なぜか忙しく、夢のように時が過ぎていきます。そして、慢性的な睡眠不足です。日曜日に散髪に行きました。散髪が始まってから、ずっと眠り続けて整髪料を付けてもらうときやっと目が覚めました。僕にとってよく眠れる散髪屋が良い散髪屋さん、という状況です。
 メールを読んでやや驚きました。部落差別を受けた経験がなくても、受けるかも知れないという不安はリアルに抱けるものなんですね。意外に感じましたが、考えてみると、それは部落差別にとって本質的なことかもしれません。
 部落差別の根拠はない。すなわち、ある人を部落民とする根拠はないのですが、差別される者とされているので、差別される可能性はあることになります。まわりの人たちも、その思いで見れば、双方とも不安をリアルに抱くことができるのでしょう。
 生活には様々な不安なことがあるから、また、人には様々な欠点と思っていることがあるから、それらを合わせればいくらでもこの不安は増幅できます。この不安を克服するためには、以上のことに自覚的になればいいのではないでしょうか。
 ご両親が、彼が部落出身だと知って、あなたの将来に不安を抱かれたとしたら、あなたと同じ不安ではないかと思います。部落差別に根拠がないということをしっかりと話し合ってほしいと思います。また、伝聞で聞いた部落民とされる人たち、もしかすると部落民とされる人たちにどこかで出会ったことがあるかもしれませんが、そういう人たちと彼とを重ねて見るべきだという根拠も全くないのです。なぜなら、彼が部落民とされる根拠がないから、ひとくくりにすることそのものができないはずですから。彼はこの世に一人だけしかいない彼なのですから、彼のありのままの良いところ悪いところを見て頂きたいものです。
 まあ、会ったこともないあなたや彼のことは、僕の保障の限りではないのですが…。部落差別なんかで人の評価は決められないことだけは確かです。部落民であるかないか、よりももっと重要な問題はいくらでもあります。この文章を書いている最中、中学3年の息子が来て、中学校の先生との三者懇談会の日程を調整しました。どの高校への進学を目指すか、そちらの方が重要です。現実の目標を持って精一杯の努力をすることと、幻想でしかない祖先を問題にする退嬰的な姿は人間として比べようもないと思います。自分の例を持ってきてすみませんが、差別という社会現象に対処する契機はこういうところにあるのではないかと思っています。
 いろいろ書きました。あなたの人生の転換期、様々に人生や社会のことを考えるでしょう。このメールを小さな材料にでもして頂ければ幸いです。そう思って、またお便りを楽しみにしています。
  1999年12月8日          石原英雄

○ あけましておめでとうございます。おめでたい年があけまして、さらにおめでとうございます。いかがおすごしでしょうか。Y2K問題は第1部を無事通過したようです。僕は単1電池35個、単5電池20個ほど、灯油114リットル、カセットガスコンロ3台、ボンベ18本、ろうそく、キャンプ用カンテラ、バーナー、非常食7日分、水大量を備えていました。すべて、僕の趣味である釣りと山行に使えるので無駄ではありません。
 ところで、部落差別についての関心は薄らいだのでしょうか。僕はそれはそれで良いと考えています。日常は、忘れておれるものです。でも、そういう社会問題があるということを心に留めておいてください。そして、何かの拍子に差別に出合うことがあったら、整理して、はっきりと、素直に、心静かに、優しく、自分の考えを言えばよいと考えます。
 また気が向いたらメールをください。
A子様          石原英雄(2000.1.3.)

○ こんにちは、A子です。返信が遅くなって申し訳ありませんでした。お元気でしたか。2000年問題、私も彼と一緒に水やカセットコンロを買い込んだのに何もなくてちょっとがっかり(笑い)。
 肝心の話(うちの両親に言うか言わないか)はちっとも進みません。最近、私の母に関西出身の友達が出来て、私の話題になるらしいのです。で、彼はB市民なのですが、B市のどこに住んでるの?と聞かれたときは、さすがに答えにつまりました。恥ずかしい話ですが、私の両親がどういう反応を示すか想像がつかないのです。やっぱり彼のこと良く思って欲しいし…。現時点では良い印象を持ってると思うのですが。住むところは多分京都市内です。但し、同和地区から離れます。
 初めて彼の口から聞いた時のわけのわからない不安というのは、かなり薄くなったように思います。でもやはり心のどこかにひかかっているというか、何かの拍子にふと怖いというのか不安になるというのか…。怖いのは、両親の反応でしょうね。
 インフルエンザが流行っているようですが、どうか気をつけてください。また相談に乗っていただきたいことがでてくると思いますが、よろしくお願いします。それでは、また。  A子(2000.2.7.)

○ 久しぶりにメールを頂きました。最近は冬らしくなってきたので冬眠しておられるのか、ホカホカですべてを忘れてしまわれたのかなと思っていました。
 ご両親に説明することで迷っておられる様子ですね。結婚という幸せの絶頂にあるときに、部落差別のことで悩んでいるあなたを、少々不憫に感じています。今回、これまでのメールを僕の嫁さんに見せました。嫁さんは、最初の僕のメールの部落差別問題についての説明が難解で誤解を与えるとの意見です。
 僕の伝えたかったのは、現在の社会生活において部落問題は何の支障ももたらさないということです。また、差別があるとしても、目の前の個々の差別の対象である人をどう詳しく見ても差別する根拠がないということです。でも、根拠がないといわれれば、かえって不安を持つかも知れません。差別の対象である側、そうでない側双方に同じようにこの不安はあるようです。それが部落問題の現在の姿ではないかと、僕は思っています。あなたのメールにもそれが現れていました。だからそれを理性で克服してください。根拠のないことで選択を誤ったり、ひけめを持ったりすることは、もっと大事なことを失うものだということは、まわりの人にもわかってもらえると僕は思います。
 僕の嫁さんからのメッセージは、ご両親に伝えていないことを後ろめたく思っておられるようですが、伝える伝えないは、彼とよく相談して決めればよい。どちらでもよい、という意見です。
 今回は、わが妻が介入したので、やや時間がたってしまいました。でも、僕としては、嫁さんとだいぶ討論でき、日頃は無視していても、結構僕の考えをわかってくれているのだなあと伺えて、僕としては悪くない気分です。まあこんなもんですわ。またお便りください。
A子様          石原英雄(2000.2.7.)

感想
───部落差別意識によって、一瞬に人の評価が変わってしまう。婚約者二人の間の暖かい思いを、近親の人たちと一緒に育ててきて、その関係が結婚式に至ろうとする最後の一瞬で冷え切ったものに豹変してしまう。彼女は、部落差別がそのような結果をもたらすのではないかと想像し、そして、なんとか結婚できたとしても、そのあとの暮らしの中で出身をめぐるあれやこれやの難題が持ち上がるのではないかとの不安を抱いておられる。彼女のメールには揺れ動く心情が素直に表現されていて胸がつかれます。僕は、二人で生きる決意をし、大切な両親に対しては辛抱強く説得するよう促そうとしましたが、うまくできたか自信はありません。
 インターネットを通してのやりとりで、当然のことながら彼女とその婚約者とは面識はないのですが、でも、僕はこの会ったこともないお二人を助けたいという思いでいっぱいです。

《 川向こうから 》
●二か月のご無沙汰でした。一時的にすみかを移すということがあって落ち着かず、発行できませんでした。体調はいいんです。体重も54キロ前後を維持してますし、酒もうまいし。ご放念ください。なお、連絡先はこれまでどおりです。

●5月3,4日、春の山小舎交流会を開いたところ、東京、埼玉から島根まで、出版関係の新しい友人も加わり、なんと総勢30名、賑やかな集まりになりました。一緒に料理を作る。盃を交わす。焚き火を囲んで談笑する。手を打って歌う。いやあ、楽しかったなあ。なにより義理や無理がなく損得勘定がないから、心がおのずと開かれる。こうした出会いが成り立ったことに感謝するのみ。

●石原さんの文章から何を感受するか。A子さんの意志は固い。固いけれども一抹の不安がよぎる。出身地が婚約者の実家近くの人に出会い、二人は「一瞬凍り付いてしまった」という。A子さんのこのような不安に向き合うことが運動・教育・行政の原点だったはずです。それがいつのまにかモノやカネ、法律の話になってしまって。石原さんの試みについて感想をお寄せください。

●今年の部落問題全国交流会は9月9、10日、京都・東本願寺北側、大谷婦人会館で開きます。講演は竹田青嗣さんです。詳しい内容は次号で。

●メールアドレスのお知らせ-こぺる刊行会〈koperu@par.odn.ne.jp〉、阿吽社〈aunsha@par.odn.ne.jp〉、藤田敬一〈jk-fujita@ma3.justnet.ne.jp〉

●最近読んだ本から───☆吉本隆明『背景の記憶』99/11 、平凡社ライブラリー。 「誕生したとき、すでにある時代の、ある環境のなかにあった、という任意性は、内省的な意識からは、どうすることもできないし、また意味づけることができないものである。わたしの考えでは、さまざまなニュアンスをもった「存在」論の根拠は、つづめてみれば、かれ自身にどんな意志もないにもかかわらず、そこに「在った」という初原性に発している。この初原性に意味を与えようとすれば、「類」と「個」としての人間という概念をあみださざるをえない。(略)「存在」論が、現在、ある時代的な意味をもって主張されるのは、生まれたり死んだりする「個」そのものが、現代では、あまりに自己自身からも、「自然」からもみじめに遠ざけられているからである。このような時代では、人間の任意な「存在」そのものが愛惜され、いたわられ、意味づけられなければならないという欲求は、拒むことができないようにみえる。」(15,16頁)やはりここが肝心なのだ。鍵は、任意な「存在」である「わたし」を意味づけるとはどういうことか、である。

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