同和はこわい考通信 No.143 2000.4.15. 発行者・藤田敬一

《 各地からの便り 》

○ 突然、お手紙を差し上げるご無礼をお許しください。私は、昨年の4月から、『こぺる』を購読し始めました。毎号、たいへん刺激的な論文が掲載され、読むのを楽しみにしています。先般、『「同和はこわい考」の十年』を注文したところ、早速送っていただきありがとうございました。
 私の『同和はこわい考』との出会いは、もちろん10年ほど前になるのですが、たしか鳴門教育大学で「同和教育研修生」としての生活を1年間過ごした後のことだったと思います。それまで私は、中学校の社会科教師として、仮説実験授業(ご存じと思いますが、板倉聖宣氏が主導する、理科教育の授業です。社会科での仮説実験授業も行なわれています。一昨年、その板倉氏と住本健次氏の共著による『差別と迷信・被差別部落の歴史』仮説社が出版され、小・中学校の教師の間ではたいへん評判になりました)を実践しながら、仮説実験授業形式の部落史の授業ができないものかと模索していたのです。そのころは、部落史を扱った「授業書」(仮説実験授業で使われる、教科書と問題集を兼ね備えた資料集)はまだ開発されておらず、文字通り暗中模索の状態でした。鳴門教育大学の「同和教育研修生」を志願したのも、そのあたりを自分なりに考えてみようと思ったのが動機だったわけです。わずか1年ばかりの研修で、さしたる成果を挙げられるわけもなく、再び現場の忙しさに舞い戻って、その日その日をやっと消費するような生活を送っていたように思います。
 どんなことをきっかけにして、『同和はこわい考』を手にしたのかは、はっきり覚えていません。ただ、どこかの喫茶店で読み始め、夢中になってページをめくっていた記憶だけは鮮明です。読みながらの感想は〈ここまで書いて大丈夫なのか〉という多少の揶揄を伴った心配(事実、私自身その後『同和はこわい考』を学校へ持って行こうとはしませんでした。こんな本を読んでいるのを悟られたくないという意識が働いたのでしょう。まるで戦時中の禁書なみです)と、〈そうだ、そうだ〉といった納得のうえでの応援だったように思います。
 私は学校の教師です。行政の現場にいるわけではありませんし、ましてや解放運動家でもありません。糾弾に立ち合った経験もありません。ですから、師岡氏が『「同和はこわい考」の十年』の中で書かれているような運動団体との軋轢の中での切実たる「こわさ」や「たじろぎ」や「歯噛み」などは、実際のところはよく分かりません。私にはもちろん、被差別部落出身の友人はいます。心から尊敬できる教師もいます。私の接している部落の人たちの多くは、知的で素敵な人です。その人たちとの交流を続けながら、それでも、私の心のどこかに「同和はこわい」意識があることも隠すつもりはありません。おそらく、私の意識の内外のもろもろのものが、私の中に漠然たる「恐怖感」(実際のところは、そんな大げさなものではないのです。ちょっとした違和感と言ったほうがいいかも知れません)を幻想として作り上げているのでしょう。この幻想が作り上げている「私の中の恐怖感・違和感」の正体を、私は見定めていきたと思っています。それが、先生が主張されている「両側から越える」ことの、私自身の「一方の側」からの行為だと思うからです。
 ともあれ私は、先のような感想をいだきながら、『同和はこわい考』を読んだのです。最初は「両側から越える」という主張よりも、〈被差別部落にとって不利益なことは全て差別である〉、あるいは〈差別の痛さは差別された者でなければ分からない〉といった朝田理論への批判のほうに共感を覚えました。その後に出版された『「同和はこわい考」を読む』を読んでいるときも、関心はそちらにあったように思います。「両側から越える」ということの具体的な営みが、どうしても見えてこなかったのです。
 そのことよりも、私は柴谷篤弘氏の主張する「帰属意識論」が重要に思えてなりませんでした。〈「階級意識」にかわるものとしてだされた概念〉としての「帰属意識」、〈われわれの前にあるのは、加害者対被害者と、多数者対少数者の二つの対立軸という問題だろう〉(ともに管孝行編『反差別の思想的地平』所収の柴谷論文による)という主張に、私の関心は寄せられていたのです。その本の中で、柴谷氏は「むしろ少数者が、少数者のままで、自分のアイデンティティをつよくもって、社会をどんな少数者にとっても住みやすいものにかえていくための連帯……。そのためには各人が自分を加害者としての多数者と規定したうえで、なお残る自己の被害者意識を、自身に対する加害者としての実践でのりこえて、なんらかの意味で自身を少数者の一員として自覚できるように、自分をつくりかえていくこと」とも書かれています。私は私なりに、柴谷氏の主張を、

まず少数者は少数者のままで、少数者の生き方(人権)をつらぬくことで、多数者中心の社会を変えていく。他方、多数者は多数者の自覚の上で、自らの加害者となって少数者への帰属意識を持つ。そうすることが、多数者の陥りやすい特権意識を防ぐことにもなる。さらにまた少数者は、自らの生き方が人権から特権へといつなんどき変質するかも知れないという自覚に立たなければならない。「自らへの加害者となって少数者への帰属意識を持つ」ということは、別の言い方をすれば、「自分の中にある劣等意識を晒しだす」ということになるだろう。「自分の中にある劣等意識」が「少数者への帰属意識」へと通底していく。

と理解して、その上で自分のまわりの人たちには、

差別する側に位置する「自分」を見つめ、自らの差別性を抉りだし、それを言葉にすることで顕在化させる。「同和問題」を自分の問題として捉えるとは、すなわち「自らの差別者性(差別者側にいる)を自覚する」ことと同義である。

といったことをしきりに喋っていたように思います。気負いだけが目立ち、中身の熟れていない物言いだと、今では恥ずかしくなりますが、少なくともこちらのほうが、「両側から越える」という漠然とした言い方より具体性があると思っていたのです。ここで言う「自らの差別性」というのが、たとえば先に書いた「漠然とした恐怖感・違和感」でもあるわけです。
 昨年、『こぺる』を購読し始めたのを機会に先生の編集された『部落史を読む』、『「部落民」とは何か』、『被差別の陰の貌』を続けざまに読みました。そして今回、ご送付いただいた『「同和はこわい考」の十年』を読ませていただきました。 この本の最後に載せられている先生の文章「わたしのなかの“被差別部落民”像をたどり、人と人の関係を考える」を読み、やっと了解できたように思います。そこには、

かくて、言うも愚かな悪戦苦闘があり、疲労困憊したあげく、自らの“被差別部落民”像を対象化・相対化することを通してはじめて、幻想としての“被差別部落民”像の呪縛から逃れられる、そう思いいたったのです。
 とはいうものの、ことは、わたし一人の問題にとどまらない。重要なのは、いまもって幻想としての像、イメージが人びとをとらえ、縛っているという事実であり、部落解放運動が共同の営みにならないという現実なのです。被差別部落民と自認する人も、被差別部落外出身者として自己規定する人も、人と人とのこのねじれた関係を変えるために、『被差別部落民とはなにか』を自らに問うことが求められている。それは避けて通れない課題です。」(145頁)

と書かれています。
 『「同和はこわい考」の十年』を、ここまで読んできて、先生の言われる「両側から越える」ということがやっと分かったような気がします。嬉しくなったものですから、失礼とは思いながら、筆をとった(ワープロに向かった)しだいです。もちろん、先生が主張されることの十分の一、いや百分の一も理解できていないのは分かり切ったことなのですが、すべてのことの根底に「被差別部落民とはなにか」ということが、据えられなければならないということは、肝に銘じたいと思っています。今後、『こぺる』誌上で、「幻想か実体か」という論争も含めて、「被差別部落民とはなにか」ということが追求されていくことと存じます。心から期待したいと思います。現時点での私の考えは、原口孝博氏の論に一番近いように思います。
(下略)          (徳島 F.Oさん)

コメント.
 わたしは『こわい考』で、「部落問題の真の解決と人間解放を求める人びとの『共感と連帯』に支えられた共同の営みとしての部落解放運動」の創出と、「率直に苦言を呈しあう関係」の創造を求めて、「両側から超える」ことの必要性を訴えました。しかし、この十三年間、「両側」が遭遇する場面に立ち会うたびに、それがいかに困難な作業であるか痛感しています。わたしの意見がまとはずれだったのか。そうではありますまい。壁が思いのほか厚かったということではないでしょうか。現に、「共同の営み」を模索する人びとの輪が徐々に拡がっているからです。いまの段階で、絶望を語るのは不遜ですよね。
 ところで、わたしは「両側から超える」を、体験・資格・立場を対象化し、差別・被差別関係を相対化する、という意味で使いました。そして『十年』では、もう少し敷衍して

次第に「こちら」と「あちら」の二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがさないかぎり、差別問題の実相は見えてこないと考えるようになった。「二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがす」とは、「側」に身と心をすり寄せない精神、あるいはどちらの「側」にも出入り自由な精神、要するに呪縛から解き放たれた精神をもつことである。(31頁)

と書きました。このような精神は、わたしならわたしの、日々の人との出会いとつながりのまっただなかでのみ具現するものでしょ。わたしと相手との「いま、ここ」の関係が、待ったなしに問われている。「両側から超える」が、緊張感のない、たんなるスローガン、合い言葉になるとき、わたしの言う精神はすでに死んでいます。そんな言葉としての「両側から超える」は、わたしとまったく関係がありません。F.Oさんならわかっていただけるものと存じます。
 なお、柴谷さんのご意見(『反差別論-無根拠性の逆説』明石書店、89)については、『通信』No.30(89/12)~No.32(90/2)に批評を書いたことがありますので、お読みいただければ幸甚。


○ 『こぺる』4月号(No.85)「ひろば」を読んで、すごくなつかしかったです。私は数年前に労音で高橋竹山の演奏を聞いて、「あの」語りにはめられた一人です。ひょうひょうとした東北なまりの語りの中に、寒い冬、寒い秋、門付けをしてきた竹山という人の人生…。言葉で私が表現できることではありませんが、とても貧しく、生きるために必死で歩いてこられた人生の重さ、重さというより重厚さ、という方が合っているような気がしますが、平たくいえば「こいつ、ただもんじゃねぇ!!」という感動がありました。そのときの話で私が覚えているのは、「今は先生と言われて、高いところでありがたかられているが、昔でいえばホイトだ」というところが強烈に残っています。あの言葉を聞いたとき、(たとえば、この言葉は差別語ですから使わないようにしましょう的な)まやかしの人権ヨウゴ派になるまいと思いました。盲、ホイト、乞食などと言おうもんなら注意をかましてくる奴らと今年も戦っていかねばなりません。(略)
 話は戻りますが、『こぺる』No.85を読んでいて①私は知的障害[をもつ人][のある人](書きながら、ちょっとひかかってしまったのは何故でしょう?)をのぞいて、字の読み書きができない大人に出会っていない、②私は部落差別をする気持ちが基本的に理解できないんじゃないか、という二つのことを感じました。そうしたら、何か私には部落差別が何も分かっていないんじゃないかというところまで迷ったりします。(ああ、文章が変です。)50歳の友人は最近、子どものときに受けた教師からの差別を語ってくれたり、結婚までのいろいろなことを話してくれたけれど、昔の戦争のことを聞いているようなかんじで、深いところで聞けなかった。そして、「部落の人」という人に対しても、特別な気持ちが持てません。よくも悪くも。
 今まで、あまり意識してなかったんですが、これはどう評価すべきことなんでしょうか。もしかしたら、でも、小さいときから同和教育を受けて育った私たちの世代から下の人には、実はあるかもしれないことではないでしょうか。目の前に「厳しい差別の現実」を見たことがないし、何で「部落」ということで差別するのか理解できないということは。藤田さんに便りをするときは、たいてい迷っているときなので、意味不明のことを書き連ねて申しわけありません。  (鳥取 M.Kさん)

コメント.
 「部落の人」に対して特別な気持がもてない、部落差別をする理由がわからないというM.Kさんの感想は、そのまままるごと大切になさったほうがいい。おそらくM.Kさんは、これまでに教育や啓発によって、「かく考えるべし」という話をたっぷり聞いてこられたはずで、それと自分の感想との間にズレが生じているのではないでしょうか。無理にそのズレを抑え込み、「私には部落差別が何も分かっていないんじゃないか」と自らを責める必要はないのとちがいますか。わたし自身、ズレを問いつめることから、『こわい考』への道が開かれてゆきました。せめてズレをズレとして、しばらく措いておく余裕がほしい。


○ 私の勤務先でも同和教育研究協議会への風当たりは強く、会員数も教職員100名規模にかかわらず管理職を含めて12名という現状です。多くの教職員は同和教育は終わったと思っているようです。これまでは特別な教育であり、今後は何もしない、というのが本音かなと思います。要は、ややこしい人権教育はせずに、適当によい教師を表面上演じて、自分は人権については何でも知っている、自分は絶対正しいという自信たっぷりの姿勢で、学校という狭い世界で自己中心的に生活しているようにしか、私には見えてこないのは、私の心がゆがんでいるからでしょうか。
 自分たちがこれまで関わってきた同和教育のどこが正しくて、どこが誤りだったのか、そんなことも考えないで、感情だけで拒否反応を示しているのは、悪い面を改善できなかった証拠なのでしょう。本来、学校における同和教育については、運動とか政治的対立に関係なく、何が大切かをしっかりと教えることが、重要であるにもかかわらず、中途半端なことしか教えてこなかったことが今日の状況につながっているものと思います。(略)
 “21世紀に部落差別をもちこさない”ために同和教育はやめましょう、と全教系の組合の先生方はよく言います。20世紀中に部落差別を受けた者、また関わった者の心の傷はその人が生きている限り21世紀にももちこされるはずです。その心の傷をいやすには、周囲に、核心について気にせず話のできる人がいることが大切です。教員の多くはよく「外部団体の圧力がすごいので、部落の話はできにくい」と言います。一方で私のように、部落差別について語りにくいと感じる状況を組合という組織で作り上げていることも事実ではないでしょうか。だからこそ立場の違いですぐに感情的にカッとくるのではなく、部落差別をなくしたいというそのことのみで、おおらかな気持ちで批判的な言動にも耳を傾け、話し合えるような状況を作り出していくことが、両側からこえることのもつながっていくのではないでしょうか。  (滋賀 Y.Tさん)

コメント.
 Y.Tさんのご指摘どおり、これまでの取り組みの総括を抜きにした同和教育ヤンペ論ではお話になりません。一方、同和教育や同和対策事業があたかも部落差別存続の元凶のように描くレトリックを見抜けないというのも、ちょっと情けない気がしますけどね。

《 再録 》
「なぜ?どうして?」という問いを大事に
(『部落解放同盟奈良県連上但馬かみたじま支部結成三十周年記念集』99/11)
藤田 敬一
 支部創立30周年にあたり、お祝いのメッセージを送ります。
 上但馬支部が創立された1969年は、わたしにとっても忘れがたい年です。その年、同和対策事業特別措置法が施行され、部落解放運動は大きく飛躍する時代を迎えつつあり、また世界各地で既存・既成の権力、体制、思想、理論に対する異議申し立てが広範に展開され、日本でも部落解放運動がその重要な一環としての位置を占めるよう期待が高まっていた時期です。
 大学闘争を経験するうちに、あらためて部落解放運動のなかでみずからの思想、生き方を問い直す必要があると考えたわたしは、数年ぶりに京都田中の朝田善之助さんの家と、大阪の矢田支部を訪れました。ですから上但馬支部創立30周年の今年は、わたしにとって部落解放運動との再会30周年でもあるのです。三十年一世代といいますから、人間ならさしずめ壮年期を過ぎ、完熟の時季を迎えていいころです。ところが、わたしは相変わらず人間ができていなくて、まわりの人びとを辟易へきえきさせている。
 では、みなさんの運動はどうでしょうか。社会運動は、人間の一生とはもちろんことなり、いつまでも青年期の情熱と活力が求められますが、奈良県連からは青年期の活気に似た雰囲気を感じます。いま奈良県連は発想の転換をめざして活発な議論を巻き起こそうとしている。そうした姿勢の底には、これまでなじんできた感じ方、考え方、事象のとらえ方への問い、つまり、これまでのやり方でほんとうに部落差別問題解決への道を確実に歩んでいるといえるかという問いがある。わたしがそばで見ていて感じるのは、奈良県連の人びと、たとえば研究集会などでお会いする人びとのなかに、この問いをそう簡単には手放さないぞと心に決めている人が少なくないということです。これが、奈良県連の若さの秘訣のように思われてなりません。
 問いを大事にせず、過程(プロセス)を吹っ飛ばし、だれかがどこかで隠し持っている答えをまちがいなく、すばやく見つけることが大事だと考えたとき、そこに大きな落とし穴が待ち受けていることは、いまやはっきりしています。ことは教育だけの問題ではありません。あらゆる分野で、問い軽視、答え重視の影響が現れてきている。部落解放運動も例外ではないと思います。そうした情況のなかで、奈良県連がみずからの運動と組織の存在根拠をかけた問いを内部から発していることに、わたしは深い感銘を受けています。上但馬支部がその奈良県連の先頭に立って、古い自己から脱皮して、新しい自己を創造されるよう心から期待しています。
 わたしはまだ60歳、ふけ込む年ではありません。上但馬のみなさんとともに、これまでの30年をふまえて部落差別問題の解決をめざして努力するつもりでおります。よろしくおつきあいくださいますように。

《 川向こうから 》
☆京都河原町三条下る二筋目を東にちょっと入った北側に、その店はありました。店内はスツールが7脚あるだけの小さな店です。バーの名はカリン亭、マスターは長谷昭さん。先代のリラ亭マスター木村勝次さんが亡くなったあとを引き継いで10年、事情があってこの4月9日をもって店は閉じられました。リラ亭とカリン亭をあわせると42年間通ったことになります。「酒縁は無縁が前提」と木村さんの追悼文集に書いたけれど、酒場が縁で友人もできました。無縁ではなかったんですな。京都へゆくと必ずカリン亭に寄って水割りを飲み、新井英一さんのCDを聞きながら長谷さんやご常連と話をし、最終の電車で帰るというのがこの間のならわしでしたから、さてこれからどうするか、途方に暮れております。

☆リラ亭いらいの年長の友人、ゲン(安井源)さんが、ある夜カリン亭であまりにも気持よさそうにハーモニカを吹いているので、借りて吹かせてもらったことがありました。ゲンさんはそれを覚えていたんでしょう、先日、トンボの複音ハーモニカを贈ってくださいました。いやはや、なんともかとも。目下、猛練習中。そのうち山小舎でコンサートを開こかなと考えております。アハハハ。

☆某日、全横浜屠場労働組合に招かれてはじめて横浜へ出かけました。7年前、奈良県連の研究集会で知り合い、毎年奈良で旧交を暖めてきた仲であり、昨年秋には、組合・食肉市場・食肉公社・横浜市の総勢三十余名の研修団を岐阜市栄町に迎えたということもあって今回の横浜ゆきとなったわけです。前日に着き、翌朝9時すぎから屠畜解体作業と競り、仲卸業者の仕事場を見せてもらいました。屠場見学はほぼ20年ぶりですが、場内は機械化が一段と進んでいたけれど、働く人びとの機敏なナイフさばきはそれこそ職人技と言うべきで、その維持に努力している組合の姿が印象に残りました。そしてちょこんとうなづいたり、笑みを浮かべるなどしてサインを送ってくれる人がいたのがうれしかった。ああ心が開かれているというのはいいなあ、としみじみ思った次第。帰ってから鎌田慧『ドキュメント屠場』(岩波新書、98)を読みましたが、鎌田さんが「屠畜解体という仕事の誇り、プライド」を連発するのがどうにも鼻についてしまって。

☆中学生に話をする材料を探していたら、中学一年のときの「通知表」が出てきて、そこに「自信にみち自説をまげない。他と少々摩擦があっても独立心が強く困らない」との先生のコメントを見つけて笑ってしまった。わたしとウマがあわなかった先生は、冷静に観察し皮肉をこめてお書きになったんでしょうが、性格というのはなかなか直らんもんですなあ。

☆本『通信』の連絡先は〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一 郵便振替〈00830-2-117436 藤田敬一〉です。(複製歓迎)