同和はこわい考通信 No.140 1999.12.28. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
カムアウトを考える(2)
柚岡ゆおか 正禎まさよし
カムアウトが開くもの
 先に述べたように、私は住田さんの差別の「実態」、あるいは部落民の「実態」という考え方にヒントを得て、これこそ現在もこの差別・被差別を存続させている実在的基礎ではないかと考えた。だが振り返ってみれば、住田さんはこの「実態」の問題を、この間ずっとカムアウトの問題と結び付けて提起してきた。被差別部落民の「文化的いびつさ」は、「基本的には顕在化することによってしか解決できない」(95/10)との信念からであった(注)。

(注)またすでに灘本さんとの往復書簡(本誌91/9~92/5)においても、住田さんの批判は-簡単に言えば-部落の「否定的な実態」を知らず、引き受けようともしないままに、なぜカムアウトしたのか、すべきではなかった、というものだった。それに対し90年代後半の議論では、「実態」とカムアウトの関連はより直接的に追求されたのである。

 私も「実態」の問題を、カムアウトを追いながら考えてみることにする。住田さんの「実態」認識はそこでどう生きるだろうか。「関係」に入る前にあらかじめ獲得していた「実態」認識を押し付けるという、以前の実態主義の反省を踏まえながら、「名乗ることの意味」をもう少し先まで考えてみたい。
 住田さんは、原口さんとの論争の過程で、『こぺる』96/3号における藤田敬一さんの文章(合評会報告)を評価し、引用している。そこで藤田さんは、自分が以前より「部落民とは何か」という問いと「悪戦苦闘」してきたこと、そして、部落差別(意識)を媒介にして人と人との「関係」において結ばれる、“部落民”という幻像から解き放たれるためには、この幻像を「実体化」させ、この「幻像を成り立たせている関係そのものを変えるしかない」こと、「そのためには、各自が関係を変える主体としてむき合い、差別-被差別関係の止揚にむけた共同の営みのなかで、“部落民”との名指し・しるしづけ・意味づけを双方から無化することがもとめられる」と述べている。
 だが住田さんはこれを受けて-カムアウトの議論と重ねながら-「『幻像が実体化した』ものとして『“部落民”との名指し・しるしづけ・意味づけ』が存在しているのなら、いったんは“部落民”を〈引き受ける〉部落民が存在せねば、『差別・被差別関係の止揚もひいては双方による無化』も起こり得ないのではないか」(「差別は幻想か」、『こぺる』98/5、10頁)と述べている。藤田さんが、「関係」→幻像の実体化→「関係」の止揚、を説くのに対して、住田さんはカムアウトを、「幻像の実体化」から出発させていると言える(注)。

(注)藤田さんの見解は福岡水平塾双書①『「内」と「外」、「幻想」と「現実」をめぐって』98/9に収められた座談会での発言に最もよく現れている。

 住田さんのこの〈引き受ける〉は、カムアウトしようとする者はその出発点において“部落民”についての一定の「実態」認識を前提にしており、その限りで“部落民”という実在を認めてかからざるを得ない、という意味では私にも納得できるものである。そうすることでカムアウトしようとする者は、すでに自らを囚えている「関係」を〈引き受ける〉ことから出発している。次にはカムアウトを通じて、「関係」そのものを止揚するのである。
 だがカムアウトを通じて、最初に前提にされていた「実態」認識や、“部落民”という「名指し・しるしづけ・意味づけ」が、「関係の双方から」どのようにして「無化」されるのか、住田さんの説明は、以下に掲げる結論部分を見ても必ずしも明らかでない。

 私が「カムアウト」にこだわるのは、部落差別問題における〈幻像と実体とのずれ・歪み〉を双方の対話によって確認し、ただすためなのである。実像は〈実体の顕在化〉に基づく対話によってしか明らかにならないとも考えている。同時に、私たちにとって〈実体の顕在化〉は自らを客観的に捉える作業を求められることでもあるのだ。

 住田さんのカムアウトにおいては、カムアウトする者は、部落(民)に対する自分の実態認識をすでにある程度まで正しく客観的なものと見なしており、そういう認識を「関係」の中で打ち明け、対話を深めることにより、「関係」を前進させようとしているのではないだろうか。ここで言われている部落民の「実像」を明らかにするための〈実体の顕在化〉とは、厳しい言い方をすれば、被差別の側にすでにあった「実態」認識を、「関係」の中に持ち出すことではないのか。
 たしかに例えば、すでに今日の部落民の「内面的弱さ」や「実態」を自覚した者が、「関係」の中で積極的にそれを話題にすることにより、そしてそういう自覚的な部落民もいることを伝えることにより、部落差別をなくす対話の糸口をつかむことはできる。それによりさらに「自らを客観的に捉える」こともできるだろう。カムアウトをそのための第一歩にすることは可能であり、そういう道も有効であることはたしかである。しかしそれはやはり一種の“啓蒙”の立場であろう。
 その場合には、カムアウトはそれ自体で何か特別な意味や価値があるものと見なされている。そしてそれが前提にしていた「実態」認識も、それ自体で正しく、少なくともある程度まで客観的なものと見なされている。「実態」は-“部落民”という「名指し・しるしづけ・意味づけ」とともに-「関係」の中で「双方から」問われ、そこで変わるべきもの、さらには批判され、「無化」されるべきものとしての位置付けを欠いているのである。

                    ☆

 だがカムアウトには、自分の意志や「主体性」の発揮ではどうにもならないという面がある。それはハンナ・アレントが、人びとの中で言論を伴って行う人間の「活動」について述べている特徴をもっともよく備えている。アレントの表現をほとんどそのまま借りて、カムアウトについて次のように言うことができる。

 カムアウト(活動)において人は、自分が“何者”whoであるかを日常の世界である「関係」の中で示し、そこに自分の姿全体を現す。そうすることで人は、自分が所有している自分の特質を説明するとか、処理するとかのやり方ではなく、自分が語る言葉と行う行為において、自分の“正体”whoのすべてが暗示されているという仕方で、自分をさらけ出す。そしてその場合、他人にはこれほどはっきり、まちがいなく現れる自分の“正体”が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということさえありうるのである。
     (ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、291~292頁)

 アレントにヒントを得ながら、他人との新しい関係・出会いを求める活動であるカムアウト-アレントは「活動」それ自体がこういうものであると言う-を整理すると、以下のようになる。
 第1に、カムアウトが前提にしている「実態」の認識は、自分が何者であるかという自己認識とないまぜになっており、客観的なものではない。そのためカムアウトされる内容、語られる内容は、両側の「関係」の中で自分をカムアウトするその仕方、“語り口”と不可分である。そういうものとしてのカムアウトが周りの人びとに受け止められるのである。たとえ住田さんのように、その「実態」を被差別側の自己責任において〈引き受ける〉としたからといって、その実態認識の客観性が保証されるわけではない。その認識には、たとえばアレントが、『イェルサレムのアイヒマン』で同じユダヤ人について述べたときのような辛辣な調子や、津田ヒトミさんが本誌92/6でふれているような、「部落民自身の内部で起こる」自己嫌悪感などが混じり込んでいるかもしれない。また後で取り上げるような、単なる自分の被差別意識にもとづく思い込みであるかもしれない。いずれにせよそれらは、「関係」の中での“語り口の問題”(加藤典洋『敗戦後論』講談社)なのである。
 第2に、カムアウトにはさらに、語る前に自分の中に前提としてあった部落民の「実態」認識を、いったん停止あるいは放棄して、全体としての自分を相手の前に投げ出してしまう、さらけ出してしまうという構造がある。その行為は自分の「実態」認識からストレートに導かれた意図的なものではなく、むしろその「実態」認識を相手の判断にまかせようとしたものである。つまり「部落民」やその「実態」についての自他の認識が何であれ、その実例として自分自身を「関係」の中に差し出すことによって、「部落民」やその「実態」のそういう引き受け方をするのではないだろうか。『破戒』の丑松のように追いつめられ、切羽つまってそうする場合もあれば、部落差別が解消に向かっている現在のように、余裕をもった多様な「関係」の中でこれを行う場合もあるが、両方に共通して言えるのはそういうことであろう。
 以上のことから、カムアウトというものをもう一度、次のようにまとめることができる。
 カムアウトとは、日常の「関係」の中で、自分を「部落民」と見なす視線を感じる者が、何らかの否定的な「実態」の下にある(と思われる)“部落民”の一員であることを自ら引き受けることであり、自分をその実例として差し出し、自分を語ることにより、その否定的な「実態」への再解釈を周りの人びとに求めることである。そこには、自分が想像している周りの人びとの部落民認識・「実態」認識に、自分の誤解があるかもしれず、それが「関係」の中で正されるかもしれないという予感(願い)がはらまれている。この全体がカムアウトである。
 この願い(希望)を共有できるところに『破戒』に対する私たちの感動もあるが、現在のカムアウトにおいては、この予感(希望)はより鮮明になっているし、またよりかなえられるようになった。丑松が最後にとった痛ましい行動は今も人の心を撃つが、現在の、最後のカムアウトにおいてこそ、差別から人間が解放されることの根源的なイメージが与えられている。被差別者としての自分、被差別側にいる自分にこだわってきた人が、カムアウトによってはじめて「関係」の中の新しい自分に気付く。そこで相手と共に、新しい本当の「関係」を見つけることにより、自分をも囚えていた「実態」の本当の姿を知る。知ること、「関係」が変わること、「実態」から解放されることが、ここでは一つになっている。
 このことを次項ではもうしこし具体的に考えてみたい。

あるカムアウト
 私の手元に、住田さんが昨年(98年)2月に「被差別部落の生活と教育-今日の実態的差別とは何か」と題して三重県津市で講演した記録、パンフレットがある。これには講演後、アンケートに答えた出席者の感想文が収められており、それがいずれも実感のこもったものばかりで、すばらしいできばえになっている。現在の部落問題の核心にある問題をよく分かっている人が、たった一人でもきちんと話をすればどれだけ大きな役割を果たすことができるか、深い問題を提起できるか、またそれが今どれほど強く求められているか、このパンフレットを読む人には分かるはずである。
 それはさておき、私がそこで注目したのは次の箇所である。それは住田さんがある機会に、大分県宇佐の被差別部落を訪れたとき、一人の部落出身教師が話した体験を紹介しているところである。その人は、住田さんの、カムアウトすることではじめて会話が成り立つという意見に対して、それは私の実感でもあると、体験を語ってくれたという。

(略)そこで彼は(七年前の全同教大会で)多くの出身教師のがんばりに励まされて、やはり自分も名乗らねばと決意したそうです。それで学校に帰って、仲間の先生に自分は部落民なのだと名乗った。みんなは「知っていましたよ、そりゃ知っていて当然でしょう、あなたの名字は部落にしかないのですから、知っていました。でも当のあなたが名乗らないのに私たちがそりゃいえんでしょう」と答えたそうです。普通は本人が名乗らないのに周りがあなたは部落民でしょうとは言えないでしょう。その出身教師は自分はやっぱり殻に閉じこもって構えていたと語ってくれました。彼が名乗ることによってその学校での解放教育は進んだそうです。やはり名乗ることは自分にとっても必要だったし周りの人にもいい結果をもたらすことができたと話してくれました。
     (『平成9年度三重県生活保護担当職員同和問題研修会報告書』98/2/25)

 なんとももの悲しい、そしてどこかほろ苦い味のする話である。その先生が、その地方では明らかに部落と判る名字をもちながら、長い間、沈黙を守ってきたのはなぜなのか、またそのときまで部落についてどう思っていたのかなど、詳しいことは何も述べられていない。しかしこれは私たちには何かしらよく解る、いかにもそうであったろうと実によく解る話である。それは住田さんが、仲間の先生との会話のポイントをうまく伝えているからだけではない。それはこの話が、今日の“両側”相互の意識のズレや、被差別意識として最後の最後に残った「実態」や、そこからの解放としての部落解放など、部落差別の解消に向かう現在の、肝心な点をすべて含んでいるからではないだろうか。
 カムアウトする前、その先生は「やっぱり殻に閉じこもって構えていた」。部落や部落民について自分が抱いているイメージに囚われていた。そのためそのカムアウトの仕方には、周りの人たちから見て何か重すぎるものがあったのだろう。その先生はその何かを、周りの人たちからなだめられ(批判され)、またなぐさめられたのだと私は思う。そしてそういう仲間の先生たちの、自分を見る眼を見てはじめて-つまりそういう先生たちと自分との「関係」を見直してはじめて-本当の問題は、自分が“部落民”として何らかの「実態」の下にあるというようなところにあるのではなく、自分で「殻に閉じこもって構えていた」ことにあったのだ、ということに気付いたのである。そのとき、その先生がはじめもっていた“部落民”一般についての認識がどう変わったか、それは分からない。だがこうしてその先生は、被差別意識という、未だ多くの“部落民”を囚えている本当に最後の「実態」から解放された。カムアウトそれ自体がすでに解放だったのである。この話が、前項で述べたいくつもの論点の実例になっていることはもはや説明を要しないであろう。
 「最後の実態」という言葉について少し整理しておきたい。これも以前、住田さんから聞いたことだが、多くの“部落民”は未だに自分の出身を他人に知られることに、「おののき」にも似た恐れの感情をもっているという。このことは93年度の総務庁の実態調査でも、差別意識の解消に比して被差別意識だけが取り残されている現実として確認できるが、この話を以前、『こぺる』合評会で聞いたとき、私はその「おののき」・被差別意識とは、これまで部落民の「内面的弱さ」・「文化的いびつさ」の中心、核にあったものではないかと思った。核にあって、それらを形成してきたものではないかと思った。この被差別意識あるいは被差別感覚が、住田さんがこれまで指摘してきた今日の部落民の最後の「実態」の中でも、いちばん最後まで残るものだろう。その意味でそれは、本当に最後の「実態」なのである。
                                        (続く)

《 採録 》
杉岡康次郎「書評以降……藤田さんのことなど」
 (兵庫部落解放研究所『ひょうご部落解放』No.89、99/9)

 (略)部落解放同盟の現状についての私自身の認識は、藤田氏からそう遠い距離にあるとは思っていない。/藤田氏は「『どうして活動家には、まわりが見えないのか』と、憮然たる思い」をお持ちなのだそうだが、彼が出会った「活動家」とは何処のだれのことなんだろう。誠実な、神戸や兵庫の私たちの仲間は、誰よりも深く広く周りを見ているし、様々な問題の克服について、苦悩しつつも、己になし得ることは全て最大限の努力を払って活動していると私は考えている。
 氏と決定的に違うことは、同盟が抱えている困難や、克服されなければならない弱点・欠点などが、「立場の絶対化」や「関係の固定化」に起因するとは思っていないということである。
 言われるようなことが実際の運動の局面であったし、現にあることも承知しているが、それは同盟の運動の論理の必然などではない。/例えば、私も支部長をしているが、「腐敗」や「利権屋への転落」などは、この国の仕組みそのものの中に「つくりつけ」になっていて、同盟に限らず、あらゆる組織にとって、常に自身に対して厳しくあらねばこわいことになるということを経験としてよく知っている。
 まぁ、世の中と途絶したところでいるような「知識人」に分かろうはずもないが、市民運動にしろ、労働運動にしろ、何か、この国の「変革」を目指してという具体的な場面にたっている指導的な人々にとっては、至極当たり前な認識であろう。
 実際のところ、部落解放運動の本質的な危機は、この国総体の危機的状況に起因している。あるいはもっと言えば、現代世界の歴史的な「危機」に起因していると思っていて、何よりもそれを明らかにする作業こそが求められているのだし、そのこと抜きには、同盟が抱えている問題の本質的な解決など、ありようもないことなのだと思っている。(略)
 ところで、藤田氏についてであるが、私はもう少し高く評価していたのだが、考えを改めなければならないかも知れない。五月号で、私は「いずれにしても、部落問題について言及する人々の多くは、この国の歴史の総体の中に問題を位置づけて考えていくという姿勢が弱い」と言ったのだ。「議論している」その枠組みが狭すぎること、あるいは、その狭さの故に答を得ようもないことを私は指摘している。
 氏は一体、この国の現実の何ほどを知っているのであろうか。(略)
 「両側から超える」というのは、詩人の金時鐘さんの言葉だと聞いている。
 詩人や小説家は、その作品によって「闘う」のだろう。/思想家が、そういう人の言葉を借用してよいはずはない。中身がなければなんでもないのだ。「両側から超える」そのプログラムが提示できなければ、ただのお題目と言われても仕方あるまい。(略)

コメント.
 杉岡さんは『ひょうご部落解放』No.87,99/5で、わたしを批判するとともに、「唯物論弁証法という正しい立場から積極的な発言をしていきたい」と書いておられましたが(本誌No.134,99/6に採録)、こんどの文章を読むかぎり、とても期待できそうにありませんな。お国自慢とうっぷんばらしの八つあたりでは議論にならない。フーコーなどの「入門書を二、三冊は読んで貰いたい」というお言葉は、そっくりそのまま杉岡さんにお返しいたします。

《 川向こうから 》
●139号に大ミスあり。発行月を10月としてしまったのです。ああ、なんでこうなったのか、ようわからん。すみませんが11月と修正してください。ところで、ここ数号、封筒に切手が貼られていることにお気づきですか。いやね、これまでほとんど別納郵便でやってきたんですが、第一に、あれだと土日に近くの郵便局で出せないし、第二に、宛名がワープロラベル、差出人住所氏名がゴム印、そのうえに別納のハンコではまったくもって味気ないことおびただしい。それに気づいて切手に変えました。切手の図柄と色彩で私信の雰囲気が多少は出てますでしょ。

●先日、京都市内で講演したとき、手を挙げて「わたしは藤田さんらが学生のころにやっていた錦林きんりんの子供会の中学生でした」と名乗る女性が現われました。39年ぶりの再会です。うれしかったなあ。この人はずっと前に錦林を出て、運動団体にも属してこなかったので、これまでお会いする機会がなかったようです。控室での思い出話によれば、わたしから島崎藤村の本を借りたけれど、結婚や転居などがあって紛失したとのこと。たぶん『破戒』を貸したんでしょうね。「あのころ藤田さんはいつも手ぬぐいをぶらさげてはった」といわれて大笑い。彼女には、ちかぢか『こわい考』と『十年』を送るつもりです、「返却無用」と書いて。

●最近読んだ本から───☆安岡章太郎『わたしの20世紀』朝日新聞社、99/11。
 映画好きの著者が少年時代から出会った映画とその周辺のことどもを語って、それが体験的昭和史になっているていの本。それは『私の濹東綺譚ぼくとうきだん』新潮社(99/6)、『歴史への感情旅行』新潮文庫(99/10)とも共通するスタイルである。「『歴史』という言葉は一般に『昔噺』という風におきかえられるものかと思う。『明治維新昔噺』とか、『自由民権むかし噺』とか言った方が、いかにも古老の話を直接きいているような心持がして、歴史に温度が感じられる。いわばそれは『歴史』の現場に居合わせたという気を起こさせてくれるものだ。(略)無論、古老の話というものも、あんまりアテにならないことが多いかもしれない。文字による資料というものも、一般庶民の間にも一応文字の読み書きが普及してからのことで、それまでは口承伝承ということが、民衆史の根幹であったわけだろう。(略)こういう口承伝承から何とか想像し得るだけのものにも、歴史はあるだろう。そこには厳密な意味での歴史は欠けるかもしれない。しかし先祖代々、骨肉の間に浸み込んでいるもう一つの“歴史”があるはずだ」(『歴史への感情旅行』まえがき)。そういえば、各篇ともどことなく古老の昔話じみたところがあり、それがなんともいえない魅力となっている。

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