同和はこわい考通信 No.138 1999.10.20. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
カムアウトを考える(1)
柚岡ゆおか 正禎まさよし
最近、気が付いたこと
 『こわい考通信』や『こぺる』誌上で、この何年間、有益で濃密な議論がくりひろげられてきた。住田一郎さんの「部落を名乗る意味-畑中敏之著『「部落史」の終わり』を読んで」(『通信』95/10 )あたりからはじまって、住田さんと畑中さんの間でなされた「部落の歴史をどう引き受けるか」の問題、また住田さんと原口孝博さんの間でなされた「部落民は実体か幻想か」などの論議である。いずれも私にとって貴重なものであり、おかげで少しずつこれまでの自分の考え方(『こぺる』96/10)の問題点が分かってきた。
 その問題点というのは、住田さんがこの間一貫して追求してきた、部落差別の今日的な「実態」(部落民の「内面的弱さ」や「文化的いびつさ」)というものの理解にかかわっている。私は今でも住田さんが、従来の物質的に低位な生活実態という意味での「部落差別の実態」という概念を継承し、部落住民が今も囚われている文化的な「低位性」や「内面的弱さ」を、「今日の実態的差別」として発見したことを高く評価している。もし住田さんが述べるような「差別の実態」が今日でも広く見られるとすれば、その「実態」は部落解放運動のこれまでの在り方とあいまって、部落や部落民のマイナスイメージをつくってきたであろうし、また部落差別を残存させる何らかの要因になってきたことはまちがいないであろう。差別は、常に被差別側の何らかの実態的なもの(実在的差異)と結び付いているのであって、差別・被差別の両側が対抗関係(対立と合意の関係)を通じてその「実態」を改めようとしても、それは形を変えて生き延びる。
 この「実態」という概念を私は、差別・被差別の継続する非対称的な「関係」が、被差別側に“しるし”として痕跡を残しているものと理解する。両側の「関係」がそこに実在化・身体化して現れているのである。この「実態」が、両側のあるべき「関係」を通じて、現実に、過程的に、そして最終的に克服されないかぎり、部落民の解放もありえない。
 だがこの間の議論を見聞きしていて-畑中さんや、とくに原口さんから多くを学んで-私が反省したことは、私の「実態」理解が多分に“実態主義的”だったのではないかということである。それはある程度まで住田さんにも共通していることだとは思う。しかし住田さんが個別の経験をとおして見い出した部落の実態を、私が、部落民が今日まで囚われている差別の「悪循環」の「基礎的要因」であると「普遍化」したこと(『通信』91/12)に何か落とし穴はなかったか。そこに“忠実な裏切り”はなかったかという気がしてならないのである。
 もちろん私も「部落の実態」(新旧の)と見えるものが差別の口実や“しるし”でしかないこと、差別・被差別の相互関係の中でこの「実態」もあるとしていた。もとはと言えば、「部落差別を今日まで存続させてきたものは何か」という問題意識(『こぺる』88/12)からこの「実態」に行き着いたはずだった。ところが、同対審答申の「実態的差別」と「心理的差別」の「悪循環」に代わる新しい悪循環を指摘し、その新しい循環の一方の極に-以前の悪循環をも支えてきたものとして-部落差別の真の「実態」を想定したとたん、それはあたかも、個別の差別・被差別関係の外部にあって、この「関係」全体を規定し存続させている根拠、差別を引き起こす第一の原因であるかのように思えてしまうのである。

実態主義的な考え方について
 もしかして、すこし分かりにくい理屈を述べているように聞こえるかもしれない。しかし、このようなパラドックスは、すでに私たちがこれまで十分、経験してきたものである。50年代や60年代、確かに差別と貧困の悪循環は存在するように見えた。存在したと言ってもよい。だが個別的な差別・被差別関係から目をそらさず、そこで貧困や「実態的格差」が部落差別の助長に一役買っていることを確認することと、他方、社会的・経済的な“構造”に、部落の低位な実態が組み込まれ、そのために部落差別が再生産されているとすることとは全く別のことである。ところが前者の確認から後者の認識へ、切り換えは簡単になされてきた。この転倒はマルクス主義により「実態」の認識が強固に打ち固められ、基礎づけられることにより完成してしまったのである。水平社の最初期の数年間を除けば、マルクス主義の呪縛からこの社会運動が解放されたのは、あるいはそのことに気付いたのは、冷戦も終わった90年代になってからのことだった。
 その結果、戦後の部落解放運動はどこに行き着いたか。行政闘争主導時代と言われるものの本当の問題は何だったか。差別・被差別の両側が接している現実の「関係」の外部に、この「関係」を規定している「差別の実態」なるものをあらかじめ想定してしまったために(実態主義)、両側の「関係」を個別の具体的な現実に即して探るという当たり前の視点をなくしてしまったのである。行政施策が必要とされる地域的・個別的な個々の「関係」において、生活実態の低位性がどのように差別を助長しているか、そこでどういう改善が求められているかなどを、両側の相互の批判・努力・合意により解決していくという視点をなくしてしまったのである。
 そのときもし「部落差別の実態」や「「差別と貧困の悪循環」などの一般論を生かすことができたとすれば、それは上の個別の「関係」を具体的に探るための“仮説”としてであり、その妥当する範囲や時期を限定されるべく、常に個別の「関係」に差し戻されることによってであった。たとえその“仮説”が運動家や研究者によりどれほど緻密に理論化されていたとしても、それが生まれた本来の地盤である両側の日常の「関係」に差し戻され、ゼロから考え直さねばならなかったはずである。 また実態認識からストレートに導かれ、「実態」の改善を自己目的にしてきた行政闘争も、いずれ“両側”の市民・国民により、その有効性を-様々なレベルでの公共空間において-審査されるべき“実験”と見なされるべきだった。それは被差別側だけの、〈解放が目的、事業は手段〉というような弱々しい自制や、「行政依存がまちがいだった」というような一面的な総括ですむ問題ではなかったのである。
 つまり、「実態」の改善を両側の自由な「関係」の中で進めるためには、部落側が掲げる実態認識(=部落民認識)を検討したり、他の見解を対置して対抗できる非部落側(あるいはその代表)の存在が必要だった。ところが『同和はこわい考』が解き明かしたように、まさにそういう相手を部落側は反差別の名において黙らせてきたのであり、非部落側は黙ってしまったのである。糾弾や抗議は、部落差別というものが両側の直接的な「関係」における意識関係としてある以上、避けられないものではあるが-とくに古い時代における意図的な差別に対しては-そのほとんどは、部落側の実態認識(自己認識)を押し付け、認めさせるものでしかなかった。差別の理由(口実)にされた「実態」に対する再解釈・再認識を、両側の自由な「関係」の中で求めるというようにはならなかったのである。
 ここからは公共性をめぐる部落・非部落の対等な関係は望むべくもなく、部落外の人びとや行政は、ひたすら部落の実態の改善に道義的責任を負う存在でしかなかった。運動側は行政からモノを取るほどよく、そういうことが運動がどれだけ進んだかの基準になった。こういう「関係」においては、部落を名のる、カムアウトするということも、すでに「関係」に入る前に獲得していた自らの実態認識(=自己認識)を、どうやって相手側に認めさせ、広めるかが問題のすべてになってしまったのである。(続く)

《 各地からの便り 》

 藤田さん。廊下で、部落問題全国交流会の感想を求められ、とっさに応えられず、「帰って頭を冷やしてから手紙で…」と返事した者です。(略)この交流会に参加したのは、今回大阪から参加したHさんが企画した電子メールのネットワークで住田さん夫妻と知り合ったことがきっかけでした。一年前の春です。(略)
 交流会は、何より楽しかった。この楽しさは、参加者一人ひとりの力量と司会者に負うところが多かった。しかもこれには必然性があります。
 先に紹介したHさんから『同和はこわい考』を進呈されたのは十年ほど前でしょうか。当時も、そして今も行われている同和運動を再考する契機になった同書は、存在論的な運動から実存的運動に、自覚的に変化するきっかけを与えました。懇親会で、奈良の山下さんや矢田の方が述懐しておられましたが、多分、行政を突き上げ、徹底した糾弾を行う快感の、その向こうに本当に部落の解放があるのかという懐疑に応えた、そういう人びとの場が交流会ではないか。「囚われた意識」から自由になった、或いは自由になろうとしている人たちの場の熱気が感じられ、またそれが快かったです。(略)
 さて、今回参加した動機は冒頭でも述べたように、住田さんの「カム・アウト」と原口さんの「共同幻想」がどのように出会うのかという点にありました。8月に住田さん宅で「共同幻想論」を予習した折に、ぼくなりのいくつかの疑問を持っていました。思いつくままに列挙すると、次のようなものです。

1.「共同幻想」という多義的な語をどのように限定していくか。
2.原口「共同幻想論」は説明的、解釈的で、実践的方向性が見えない。
3.「共同幻想論」を理解できない人のフィールドにどのように立つか。
4.「部落=共同幻想論」の「有根拠性」を部落差別の原初的構造に求める必要はあるのか…。むしろ共同幻想の構成にこそ「根拠」があるのでは…。

ただ、あの時点では、ぼくはかなり思弁的に捉えており、おそらく「共同幻想」という語で原口さんが表現しようとした真意は理解していなかったのだろうと思います。結論からいうと、住田さんの「カム・アウト」も原口さんの「共同幻想」も、体験に裏打ちされた「乗り越える」行為の結果としては同じ到達点にあると思います。かつて『こぺる』で、「『共同幻想論』に出会ったとき、き物が落ちた」と語った女性の体験は彼女固有のものとして貴重だが…、と思ったのでしたが、どうしてその折には、原口さんの思いを見落としたのでしょうか。
 部落に生まれ育ったものには予め越えなければならないハードルが用意されています…。本当は誰でも越えなければならないハードルはある、ただそれが見えないだけだとも思います(これについては後述)。二日目、原口さんが「私の『共同幻想論』と住田さんの『カム・アウト』がそんなに違うわけではない」とおっしゃったけれど、それは多分お二人に共通する内的必然性を確認されたからではないかと推測しています。ただ、住田さんが、どのようにハードルを越えるかという実践的な視点で「カム・アウト」を表現したのに対して、原口さんは、越えてしまったハードルを振り返り、「そんなもん本当にあったかいな(もちろん博多弁で…)」と反省的(内省的)に「共同幻想」と説明したことでややこしくなった…と、これも推測。
 講演者の三橋さんが「ぼくはいくつかの理由で『共同幻想』という言葉は使わない」とおっしゃってましたが、そのことも、これから原口さんに考えてもらいたい課題だと思いましたし、原口さんご自身も、廊下での立ち話でしたが、「借り物の言葉でなくて、自分の言葉で語らねば…」とおっしゃってました。
 例えば哲学史なんかは、いかにして共同幻想から自由になるかという歴史みたいなもので、哲学者の数だけ「共同幻想」に該当する言葉があります。一緒に参加したHさんは「そうすると、在日の差別も女性差別も同じやないか。国家かて『共同幻想』やないか」とぼやいていましたが、まさにその通り。
 今回は論議の対象になりませんでしたが、部落固有の「共同幻想」として原口さんが持ち出したのが「有根拠性」でした。しかし、差別の歴史的根拠を推定するだけの固有性なら、あらゆる差別にも有根拠性を見いだせます。にもかかわらず、ぼくたちは、あらゆる差別(ぼくたちがまだ十分に意識化していないものも含めて)が幻想であることを知っています。そしてぼくのように、多分被差別部落の出身者ではなく、有職の、肢体自由な、日本人としてひっくるめられるマジョリティの男、というのはたいていの場合、差別する側に身を置いています。そうして、そのことは、予め乗り越えるべきハードルを持たない自由人として出発していることを意味しているのか?
 もちろん否であります。「差別する-される」という構造に予め立脚している以上、ぼくたちは初めから自由ではない、それに気づいているかいないかは別にして…。ぼくの場合も連れ合いと出会うことで、それまでリベラルであると半ば信じていた自分自身が如何にジェンダーに囚われてきたかを認識させられた経験を持ちます。そうして、「差別する-される」という関係がどれほどぼくたちの行動様式を規制してきたかも痛感しています。しかもそれらは文化と分かち難く結びついてもいる。
 けれども…。
 原口さんのいう「共同幻想」はその都度学習して再構築されていくものです。つまり、それは静的ではなく、常に変化していくものでもあります。或いは、実は次のように表現したいのですが、常に変化させていかなければならないものでもあるということです。
 先に言ったように、住田さんの「カム・アウト」も原口さんの「共同幻想論」も、それぞれの経験の中で見いだした到達点だと思います。ですから両者は運動としての普遍性を持っていない。住田さんが「別にカム・アウトを強いるものではない」、原口さんの「ポケットに入れる」、「もちろん部落民として名乗ることもあり得る」という揺らぎはその現れでもありましょう。しかし、ハードルが見えるものであれ見えにくいものであれ、それを乗り越えていくという行為はいつでも主体的な、対象化しにくい体験に基づいてもいます。
 かつて、住田さんは「カム・アウト」を、挨拶代わりの名刺交換みたいなものだと語っていらっしゃった。そうしてその名刺には「私は部落民である」と書かれているともおっしゃった。しかし本当にそうか?今回の交流会の議論を通して、改めてそういう疑問を明確にしました。本当は、彼の名刺には「私は住田一郎である」とだけ書かれているのではないだろうか?ひょっとしたら「何をアホな…」と住田さんに一蹴されそうですが、お会いするたびに「住田一郎」という名刺は受け取るけれども、「私は部落民である」という文字はぼくには見えない。そりゃそうや、なにせ「共同幻想」なんやから…と、それを博多弁で語る原口さんの口調が聞こえてきそうです。  (千葉 T.Aさん)

コメント.
 交流会が楽しかったとのこと。それはよろしゅうござんした。楽しくなければ、集まる意味がありませんよね。ところで、『こわい考』が「存在論的な運動から実存的運動に、自覚的に変化するきっかけを与え」たというご指摘の意味が読み取れません。もう少し展開してくださいませんか。

《 採録 》
杉之原寿一著『部落解放の「虚構理論」批判』(部落問題研究所、99/9)
九 観念的・主観的な「部落差別=共同幻想」論
  1  「差別-被差別関係の止揚」としての部落解放論

 (略)藤田氏の主張は、次に指摘するように、きわめて観念的なレベルでの主観的な空理空論であるばかりでなく、少なからぬ点で解同の部落排外主義路線と誤りを共有している。
 第一に、「差別する側に立つ者」と「差別される側に立つ者」とを二項対立的にとらえる解同の部落排外主義路線を批判し、差別者と被差別者の立場を固定化・絶対化してはならない強調しているが、しかし「両側から超える」(「差別・被差別関係の止揚」)という主張も、たとえ「共同幻想」にもとづく「幻像」であり、実体としては存在しないものであるとしても、差別者と被差別者の存在を前提としている点では、部落排外主義的思考と変わりはない。
 第二に、部落解放とは、「部落差別(意識)から解き放たれた人と人との関係」の累積のなかに、あるいは「部落民」「部落民外」という「呪縛から解き放たれた関係」の創出のなかに求められると言われているが、これでは同義反復(トートロギー)でしかなく、部落解放について何一つ明らかにされたことにはならない。
 第三に、「お互いの差異を認めつつ」と言われているが、「部落民」と「部落民外」との「差異」とは何なのか。それだけではない。民族差別、性差別、部落差別、障害者差別などがそれぞれの差別の属性を無視し、一括して「差別・被差別」関係として抽象化してとらえられており、既述の解同の見解における「部落=疑似民族」論に通じる認識がある。
 第四に、部落差別がもっぱら「個人と個人との関係」としてとらえられている。確かに、部落差別にかぎらず一般に差別は、人間の行為として、人間と人間との関係として現われることが多いので、あたかも責任は差別し差別される国民大衆のなかにあるように見えるが、しかし差別問題を階級支配とのかかわりから切り離して、個人間の関係としてのみとらえるかぎり、差別のしくみを明らかにすることはできない。
 第五に、「差別-被差別関係総体の止揚」あるいは「差別-被差別関係総体を変える」とも言われているが、部落解放のためには、あらゆる「差別-被差別関係の止揚」が必要だという議論であるとすれば、それは既述の解同の「部落解放=人権確立社会」論と同様に、部落解放を永遠の彼方に押しやるものであり、部落解放への展望の放棄である。(170頁-171頁)

コメント.
 杉之原さんはどうしてもわたしの意見を部落解放同盟の見解と一緒くたにして部落排外主義でくくりたいらしい。困ったことを言うお人です。杉之原さんは、「実体としての部落・部落民」はかつては存在したが、いまではすでになくなっている、もしくは完全になくなりつつあるのだから、部落・部落民といった言葉・概念を用いて議論すること自体が間違いだと言いたいのでしょう。しかし、いま、ここに部落差別意識を媒介にした「とらわれの関係」が存在している現実から離れて、あれこれ論ずるつもりは、わたしにはない。「ある」に執着する実体論からも、「ない」に執着する幻想論からも自由でありたいだけです。

《 川向こうから 》
●某日、山小舎にいたら、お隣の古田さんご夫婦に、川向こうの山へゆかないかと誘われた。眺めるだけでも急なのでちょっと気後れしたけれど、鍾乳洞があると聞いて同行することにした。山小舎から少し下ったところで川を渡り、まっすぐに登る。もちろん道などない。およそ40分、大きな岩場をまわったところに鍾乳洞はあった。まずは古田さん持参の缶ビールで乾杯し、40メートルもあるという洞穴を途中まで見物して下山。2時間ほどの山行きでしたが、息切れもせず、なかなかやるやないかと思っていたら、翌日から脚が痛くなってまいりました。水泳をしていても使っていない筋肉は確実に弱っているんですな。

●かつて、「藤田さんは、どちらかと言えば左の人だから」と、講師として招くことに難色を示した校長がいた。先日も、ある市で講師名簿のなかにわたしの名前を見つけて、「この講師は偏っている。もっと中立の講師を呼べ」と抗議した人びとがいたという。「左だ」とか「偏っている」とか言われてもどうってことはないが、こんなレッテル貼りがはばをきかすようになれば、世の中は確実にもっとおかしな具合になってゆくと思う。それが彼らにはわからないのです。

●最近読んだ本から───★小林善彦・樋口陽一編『人権は「普遍」なのか-世界人権宣言の50年とこれから』岩波ブックレットNo.480,99/5。「1789年(のフランス人権)宣言が明確にした人権は、つまるところ、自分のことは自分で決め、そのことについて自分が責任を引き受けるという人間像を前提にしてきたはずです。(略)自己決定というのはひとつの決め方です。つまりいれものです。問題はそういう容器にどういう中身を入れるか。ひとことでいえば、人間の尊厳ということでしょう。それをだれも周りから決めてはくれない。自分自身で決めなくちゃいけないということが、人権という思想のいちばん際どい中身だったはずです」という樋口さんの意見は、同じようなことを考えていたので共感を覚えた★長田弘さんのエッセーや詩集を読み続けている。『世界は一冊の本』晶文社、94/5。「あたりまえの言葉で/大概のことは言いあらわせるはずですよ。/日常生活の言葉で/思想が語れないと思いますか?/それだけの言葉でまにあわない/深遠なものが何かあるのですか?」。心が開かれてゆく感じがする。詩に引かれている「ある国民がみずからの法に注ぎ、/みずからの法を貫くための支えとする/愛情の力は、その法を得るために/費やされた努力と労苦のおおきさに比例する」というトマス・ジェファーソン(1743-1826。アメリカ独立宣言の起草者)の言葉が照らし出すものは何か、とくと考えてみたい。

●本『通信』の連絡先は〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一(郵便振替〈00830-2-117436 藤田敬一〉です。(複製歓迎)