同和はこわい考通信 No.137 1999.9.10. 発行者・藤田敬一

《 論稿 》
「理不尽」と部落問題-畑中敏之、藤田敬一氏の所論をめぐって
野町 均
(1)
 昨年の九月に京都で開催された第十五回部落問題全国交流会の閉会まぎわ、ある問題をめぐって畑中敏之、藤田敬一両氏が火花を散らすごとき光景があって、そこでの議論についてわたしも折りにふれあれこれと考えてきた。あのときのことについて自分なりに考えをまとめておかなくてはと思いながらはや一年ちかくが過ぎ、まもなく第十六回の交流会が開かれようとしている。強い印象を残した場面であってもやがて歳月とともに淡くなってそのうち筆をとる気力も失せてしまうかもしれない。そうならないためにおそまきながら本稿を書きはじめたしだいである。
 ことは藤田敬一氏の個人誌「『同和はこわい考』通信」128号(1998年9月11日)に紹介された朝日新聞大阪本社版の98年8月30日付けの記事に発しているからまずはその記事を以下に載せておく。但し実名は不要なのでイニシァルに直し、また一部表記を改めた。

覚醒剤使用容疑も-傷害容疑の京都市職員を再逮捕
 傷害容疑で下鴨署に逮捕された京都市環境局左京まち美化事務所職員のH容疑者(27)=左京区田中馬場町=が覚醒剤を使用していたとして、下鴨署は29日、同容疑者を覚醒剤取締法違反の容疑で再逮捕した。/調べでは、H容疑者は8月初旬から18日までの間に覚醒剤を使用した疑い。(略)同容疑者は、先月16日夜、左京区玄京町の市養正隣保館近くの路上に駐車しようとした際、別の車が止めてあったことに腹を立て、同館に「適切な処置をしろ」と要求。対応した主任(43)を殴り、顔や足などに約三週間のけがを負わせたとして、今月18日に傷害容疑で逮捕された。29日に処分保留で釈放されると同時に覚醒剤取締法違反容疑で再逮捕となった。
 京都市は28日付でH容疑者を一カ月の停職処分にした。処分は傷害事件に関するもので、覚醒剤事件に関しては改めて処分を検討するという。
 市人事部によると、覚醒剤取締法違反で逮捕された京都市職員は昨年度が三人、今年度は二人目。いずれも環境局(旧清掃局)の職員で、H容疑者を除く四人はすでに懲戒免職処分を受けている。
 また、同市は環境局北部クリーンセンター主任(50)に対しても、錦林隣保館長に暴行を加えたとして、同日付けで二○日間の停職処分にした。

わたしは新聞紙上ではなく「『同和はこわい考』通信」ではじめてこの出来事を知った。はじめ読んだ際、同通信に載っているからただちに部落問題と関係ありと判断したわけではない。そこのところの経過を、つまりこの記事がどんなふうに部落問題と関係しているのかあるいはしていないのかについて考えたプロセスをまずは記しておきたい。
 記事のなかで部落問題と関連する用語は隣保館である。この隣保館の近くの公道の特定のスペースにいつも駐車している清掃局の職員がいて、彼はふだんからその場所をあたかも自分の駐車場であるとでもいうふうに占有しているとおぼしい。ところがある日ここに別の車が止めてあったので彼はいたく憤慨した。日ごろ自分とは関係ない場所に車があってもそれで「適切な処置」を要求はしないだろうから、他人の車があったのを見て腹を立てたのはそうとでも解釈するほかない。隣保館は同和地区内にあるはずだから、この容疑者となった職員は同和地区に住んでいるのかもしれない、それとも仕事の関係でいつも隣保館の近くに駐車しているのだろうか。いずれにしても彼は何かあれば「適切な処置をしろ」と要求できる立場にあると信じているようだ。
 同和地区の住民として、行政のいう「属地属人」という用語を使っていえば、混住が進んできているなかで、地区内に住んでいる、すなわち「属地」だから「属人」でもあるとは限らない。この職員を「属人」として判断してよいかどうか考えながらわたしはもうひとつ記事からは直接は窺えないが彼の職業との関連で京都市の清掃関係現業職員の採用問題を脳裏に浮かべていた。
 寺園敦史『だれも書かなかった「部落」』(かもがわ出版、97年)によると京都市は69年以降同和地区住民の市職員への採用を促進することを方針化し、技能・労務職(現業職)の選考採用を同和事業の一環として位置づけている。つまり通常の試験(競争試験)とは別に一定の職種については選考による採用をおこなっている。具体的には市が運動団体などに採用枠を示し、各団体から推薦があった応募者のみを採用していて、その結果82年を最後に現業職の一般公募を停止している状態にあり、運動団体の推薦が職員採用を決定するとしても過言ではないという。
 このことは96年3月の京都市議会「同和行政に関する決議」のなかでも「本市現業職員の選考採用については、一般公募に切り換えること」とあるように政治問題化していて、鈴木正穂京都市議は三十年にわたる選考採用という慣行についてはその基準と選考過程が不透明で、市民の厳しい批判の目が向けられており、同和地区の若者たちのあいだに学校を卒業すれば現業職の公務員になれるという考えが植え付けられ、結果的に職業選択の幅を狭めていると指摘している。(「同和行政と制度疲労」、『こぺる』96年9月号)
 善意に発する制度だったとしても職員採用の在り方が部落の若者の精神を蝕んでいる側面があるのは否定できないようだ。
 新聞記事にもどれば、記事は容疑者が現業職員だとはひとことも触れていないから、この記事を現業職員や選考採用と結びつけて読むのは予断と偏見に基づくおそれなしとしないかもしれない。逮捕された職員を「属地属人」に該当する清掃局の現業職員と判断してしまうのは差別的なまなざしでこの事件を見ているのかもしれない。それとも隣保館との関係や京都市の清掃局の職員採用の事情を考えるとこの記事は部落問題と関連させて読んだほうがいいのかなあとあれこれと考えをめぐらしたのであった。
 付言すると寺園氏の『「同和」中毒都市-だれも書かなかった「部落」2』(かもがわ出版、99年)によればこの清掃局職員は95年7月に現業職員として採用されている。くわえて同書にはこの職員はシンナー使用の前科があり、しかも元暴力団員であったとの記述があるがもちろんこの事実は当時は知らない。
 ただ、この新聞記事が部落問題とは関係ないとしても部落差別撤廃のために考えられた京都市方式の職員採用が背景となった不祥事がいろいろと生じているのは否定できない。それは寺園氏の『だれも書かなかった「部落」』や先に挙げた鈴木正穂氏の論文をつうじての判断であった。
 たとえば婦女暴行容疑などで京都市清掃局職員二人が逮捕されたのを伝える毎日新聞(95年3月18日)には「同市では、阪神大震災の被災者から金をだまし取ろうとして職員が逮捕されるなど一カ月に三件の不祥事が明るみに出た」とあるし、翌96年1月29日の京都新聞夕刊によれば伏見区で起きた短銃発砲事件で暴力団員とともに市の清掃局職員も二人が逮捕されている。
 畑中、藤田両氏のあいだで議論になったのはこの種の不祥事を部落問題と関連させて見るのかそれとも個人の行為として見るのかということであった。
 口火を切ったのは畑中氏で、交流会の分科会での討議を報告するなかで氏は同和地区に在住する清掃局員が覚醒剤容疑で逮捕されたからといって部落問題と関連づけたりしていると「やっぱり部落民は………」といったふうに、個人の行為を部落民という一括りで見てしまう考えに陥ってしまうと語り、清掃局員の部落か部落外かといった「所属」を問うのではなく一個の人間の行為として考えるべきだと主張した。
 これはわたしにサルトルの『ユダヤ人』にあるエピソードを思い出させる。
 ある若い女が毛皮屋に預けておいた毛皮に焼きこがしをこしらえられた際、女は、なんとその店の人はみんなユダヤ人だった、と口にする。サルトルはこれに対し、どうしてこの女は、当の毛皮屋を憎まないで、ユダヤ人全体を憎みたがるのだろう、なぜ、そのユダヤ人を憎まないで、ユダヤ人全体を憎みたがるのだろうと問い、それは、彼女が、自分のうちに、反ユダヤ主義の傾向を、それ以前から具えていたからだと結論づける。『「部落民」とは何か』(阿吽社、98年)のなかの畑中氏の言葉を借りると、これこそ「外からの一括りでの決めつけ」にほかならない。
 この清掃局員の行動を個人の問題としてではなく、部落問題と関連させたりするのは、毛皮に焼けこがしをこしらえたひとりのユダヤ人の問題をユダヤ人全体に及ぼしたのとおなじで、そこには部落差別の傾向が含まれていると畑中氏は考えたのである。  これに対し藤田氏は、なぜこうした手合いが出てきたのかを問うたときに、そこに部落問題が介在しているのは当然であり、端的にいえば部落解放運動の在り方が問われている、と強い口調で反論した。
 はじめにも述べたように会の終了まぎわだったためそれ以上の議論がなかったのは残念だったとしても、それぞれの意見を聞いたあとでわたしがまず思ったのは、清掃局員と隣保館職員のふたりの対峙した状況についてだった。
 清掃局の職員と隣保館の主任が向かい合ったときの光景は想像するしかないと断ったうえでいえば、おそらくこの職員が主任を殴ったとき、ふたりは対等な個人として対峙したのではなく、またおなじ京都市の職員として関係したのでもなく、両者は同和地区住民と同和関係行政職員として向き合っている。そうしてふたりのあいだには、一方的に「要求する人」と全面的に「要求を受ける人」として、また「被差別者」と「差別者」として関係しているという共同幻想があったのではないかと考えられる。
 六十年代における公民権運動のなかでの黒人活動家と白人リベラル派との関係を回想してシェルビー・スティールは、黒人は怒りを表明し、白人は罪悪感を感じた、白人が反省の意を示し罰に甘んじようとすると黒人は演説をぶち、白人を怒りのはけ口としたと述べている。(『黒い憂鬱』李隆訳、五月書房、94年)
 黒人の怒りと路上駐車をしようとすると別の車が停めてあったので腹を立てたといった怒りを同一視しては失礼に当たるけれど、しかし黒人と白人の関係性に通ずる質のものがここにはある。
 殴り、殴られたそのとき、ふたりは暴力が介在する一種の権力関係にあったのではないか。自分は被差別者であり、差別者であるおまえは自分が満足のいくようなサービス活動をしなければならず、さもないと殴られても仕方がない、そうして殴られた側にこの種の論理を受け入れる心情、すなわち自分は差別者である、あるいは差別者として行政責任を課せられているといった道徳的負い目もあった、というのがこの場合の権力関係である。
 先に引いた新聞記事を見て、こんなふうだから部落民は………といった思考をしてしまうのは差別の陥穽にはまってしまっているのは否定しない。そうした可能性を承知しながらもなお、ふたりの向かい合った場面を想像するときこの事件と部落問題を結ぶ契機は存在しているとわたしは判断する。

(2)
 京都市清掃局の職員の起こした暴力事件をどう捉えるかの問題とともにわたしが藤田、畑中両氏のやりとりに感じるのは両氏と部落解放運動との関係の在り方あるいは距離感の問題で、単純なはなしとしては事件と部落問題を結びつける立場にたてば、この種の出来事の再発防止の方策を部落解放運動としても一考しなくてはならないだろうし運動の自浄努力も欠かせないのに対して事件と部落問題とは関係ないとの立場からはそうした部落解放運動の課題などあるはずもないのである。
 もっともわたしが感じた両氏の部落解放運動との関係の在り方、距離感はこの点を含みながらもう少し複雑な様相を帯びている。
 藤田氏は八十年代初頭の時点での自身の精神風景を

 わたしは随伴者にすぎぬ自分に疲れはて“このままいけば、部落外出身者にとって、部落解放運動、もしくは部落解放同盟とのかかわりの問題は、おそらく、なんの成果もあげることなく、「挫折と不信」の中にうもれてしまいかねないように思われる”と音をあげはじめていた。(『同和はこわい考』69頁、阿吽社、87年)

と語ったうえで、そうしたとき前川む一氏の痛切な文章に接したことは「事件」だったと回想している。
 その前川氏の書簡には、運動会の物売り禁止を職員会で決定したある学校で、運動会当日校庭内に一台のタコ焼きの車が進入して商売をはじめ、学校当局がそれをとがめると、その学校の用務員で解放同盟員のMさんが飛び出してきて「俺の弟じゃ。俺の学校で、俺が許可して、俺の弟が商売して何が悪い!」と開き直った事例が紹介されており、さらに「泣く子と地頭と、部落解放同盟には、なん人も勝てないというのだろうか。思いあがったこの人を抱えもつ、わが部落解放同盟はエリを正さなければならない」とあった。
 こうした出来事に遭遇したとき、それまでの藤田氏だったら、なんとも落着かない気分がつきまとうままにMさんの振る舞いは「差別の結果だ」と人にもいい、自分にもいい聞かせていた。しかしこの書簡に接したときMさんのような振る舞いにかかわる「人と人との関係、意識のありよう」を見すえ、「対話がとぎれるしくみ」に風穴をあけ、「両側から超える」ために、なにができるか、考えはじめたという。しかもMさんの件のみならず同和対策事業をめぐる不祥事、金融機関の関係する刑事事件まで、その背後には「差別かどうか判断できるのは部落民だけ」「部落民にとって不利益は差別だ」といったテーゼが陰に陽にちらついており、「主体なき同一化」の反省は必然的にこれらのテーゼについての検討を内包していた。
 それでは畑中氏の場合はどうか。
 『「部落史」の終わり』(かもがわ出版、95年)を前にしていえば、この著書は、藤田氏の場合と異なり、自身の体験をまじえながら議論を展開するという記述にはなっていないから氏の主張の背景にあるだろう部落問題体験がどのようなものであるのかがわからないところがいささかもどかしいのだが、まずは氏の主張から見ていってみよう。
畑中氏は「理不尽」な行為は誰が行っても「理不尽」なのであって、許すとか許さないという問題ではないという。また、「部落民」の存在を実体化し、「理不尽」は差別の結果だからと割引きしたり正当化しようとする議論じたいがあやまっていると説く。  部落問題は民族問題でもなく階級問題でもなく「身分的差別にかかわる近代日本の構造的社会問題であるという部落問題の基本認識に立脚することが必要」であり「この認識を妨げてきたのは、部落問題を実質的に疑似民族問題にしてしまう考え方」「戦後の゛今゛も戦前と同様の「部落民」なる身分的存在が生きているかのように捉える」捉え方であると批判する畑中氏の立場からいえば清掃局の職員の振る舞いが「部落民」の行為であるはずはなく、それをあたかも「部落民」の行為であるかのようにことあげすることじたいが部落問題を「疑似民族問題にしてしま」っているのである。これこそ「部落民」なる身分的存在が生きているかのように捉えることにほかならない。
 この種の議論の実例として氏は、五木寛之氏の「盲打ちは天下の許し」という説教節「山椒太夫」の話を援用しての議論や浅田彰氏の「これまで徹底的に差別されてきた人たちには、少々行き過ぎの点があっても、差別する側を攻撃する権利がある」といった発言を挙げる。かつての藤田氏のようになんらかの「行き過ぎ」を「差別の結果だ」と人にもいい、自分にもいい聞かせる態度もこのなかに含まれているだろう。
 こうした結論にいたるまでに畑中氏に藤田氏のような体験があったかどうかは不明である。もしも過去においても「行き過ぎ」「理不尽」=差別の結果とする考え方を畑中氏がまったく受け容れてこなかったと仮定すれば、氏は藤田氏が差別の結果論に「主体なき同一化」をおこない、そのことに疑問を抱き、緊張を覚え、抗い、そこから脱け出した地点にはじめから立っていたといえよう。それは畑中氏の近代性、合理性を示している。だが部落解放運動の喧伝する差別の結果論をめぐる藤田氏の軌跡は「理不尽」を前にして、あるべき部落解放運動を追求してきた過程でもある。それとの対比でいえば畑中氏の場合は近代的、合理的思考からする判断であって、あるべき部落解放運動といった視点は稀薄である。このような相違が清掃局員の不祥事をめぐる議論のちがいの根本にあるように思われてならない。
 もとより畑中氏にしても清掃局職員の行為と部落問題を関連づけないとしながら、部落解放運動はこの種の事件を部落問題にしてしまう考え方、つまり部落排外主義を克服しなければならないとの視点はある。ただ畑中氏の議論には個人の思考や決断を重視するという意味での個人主義的色彩の強いところに特色がある。たしかに部落解放運動の在り方について部落排外主義を肯定するか否定するかといった選択肢の問題はあるのだが、いずれを選択するかの基軸となるのは個の自立の問題なのである。

 「親や祖先は選べない、生まれる場所は選べない」、確かに選べないが、しかし「親や祖先」・「生まれる場所」に縛られない生き方も選択できるのではないか。これは「部落民」というレッテルを“隠す”ということではなく、積極的に“拒否”する生き方である。そういう生き方を選択した人に、「部落民」であるという自己認識はもはや不要である。(『「部落史」の終わり』93頁)

この箇所につづけて氏は「「部落民」という「区分け」そのものを積極的に拒否することを出発点にする運動」が必要だと述べる。
 それでは「区分け」を拒否する「そういう生き方を選択した人」にとっての運動とは「区分け」を拒否する人の量的拡大を図ることになるのだろうか。でも個人として「区分け」を拒否すればもうそれで済みだと考える人にとっては部落解放運動は必要ないとしても不思議はない。余談になるがじつは畑中氏の議論には部落排外主義をどう考えるかといった議論のほかに部落解放運動は「区分け」を拒否した個人の輩出を促す機能をもつ場合においてのみ有意義ではないかといった問いかけがあるような気がしてならない。
 たしかに清掃局の職員や学校の用務員のMさんの行為を、「部落民」の行為であると「外からの一括りでの決めつけ」をしてはならぬし、差別の結果だからとして許容したり擁護したりする必要もない。そうした意味では「区分け」は拒否してよい。しかし社会問題として彼らの行為を検討すれば、ここには部落問題が提起する「貧困の文化」や「被害者としての権力」といった問題が見てとれるのではないか。自分は「部落民」である、自分は「部落民」でないといった「区分け」を個人として拒否してもなお社会問題としての部落問題は残る。

(3)
 部落問題解決に個の自立は不可欠であるとして、その実現のために畑中氏は以下のように提言する。

 生き方の問題として、まず、帰属するあらゆる“集団”を相対化できるかどうかという点にかかっている。「部落」、民族・国家は言うに及ばず、その他様々な“集団”での自己認定の絶対化を拒否することである。(中略)“集団”に属すること自体は拒否できないにしても、そこから自由であることは可能である。そのことの追求になる。(『「部落史」の終わり』130頁)

他方、藤田氏の場合、部落解放運動に「随伴」してきた反省から「集団」の相対化では済ませられない感情があり、畑中氏のいう相対化を含みながら、さらに自己と「集団」の在り方を問わなければならなかったと察せられる。
 かつての畑中氏にとって、部落排外主義に立脚する部落解放運動かそれを否定する国民融合論かの選択の問題が藤田氏にあってはいずれを是とするかの選択ではなく、部落排外主義の内在的な批判に向かわなければならなかった。それほどまでに藤田氏は差別の結果論とかかわり合っていたともいえよう。
 ひとりの人間がその「随伴」する部落解放運動の理論を借りながら部落問題と関連するさまざまな不祥事、「理不尽」なることを「差別の結果」であると納得しようとする自分とそれはおかしいのではないかと感じる自分に引き裂かれていたのである。そうした状態の克服が「集団」の相対化では済ませられるはずもない。「随伴」した自分自身の倫理を問い、寄り添い「随伴」した相手の部落解放運動の倫理を問う以外に道はなかった。
 こうして畑中氏は清掃局の職員をめぐる問題の力点を個人の行為という視点をあいまいにする「自己認定の絶対化」や「区分け」の拒否に置いた。それに対し藤田氏の力点は「理不尽」な行為を生んできた要因のひとつとしての部落解放運動の倫理を問うことにあった。ここのところにもふたりの思考の相違が見てとれるだろう。
 念のためにいうと、藤田氏と畑中氏とを比較してどちらをよしとするものではない。はじめに記したようにこの稿を書いているのは両氏の発想や思考のちがい、部落解放運動との距離感といったものを検討したうえで、「理不尽」なる出来事をわたし自身どのように考えているのかを整理したかったがためである。
 これまで述べてきたように、京都市清掃局の職員の暴行事件の捉え方についてのわたしの考えは藤田氏に近い結論となってはいるものの、その発想や解放運動との距離感などについては畑中氏と同質のものを多分に感じている。そこのところの事情について蛇足を承知でここで少し触れておきたい。
 わたしには、藤田氏のように差別の結果論についてあれこれと悩み、考えた経験はまったくではないにしてもあまりとらわれてこなかったとはいえる。自助努力を重く見る発想が強くあり、自分にとって都合の悪いことを他のなにかのせいにして自己満足したり正当化したりする思考などおかしいと考えてきたし、また自分自身そうした態度に陥ることのないよう戒めてきたつもりだ。
 もとより部落差別を含むさまざまな社会的不利益の問題を無視するつもりはないし、事態の打開に向けての努力はしなければならないのはたしかである。ただ、人間の生き方としてあえて例示すれば、非行と低学力を差別のせいにするのではなく、「非行と低学力は部落差別に負けた姿」と捉えての努力をわたしは貴重だと考える。 また、わたしには部落解放運動と倫理を統合させなければならないと考える発想はないわけではないが、藤田氏の強烈さには及ばない、というか比較すればずいぶんと稀薄でしかない。だからだろう藤田氏の部落解放運動への思いの強烈さにはいささかの堅苦しさを覚えないでもない。
 政治や社会運動と倫理の統合をいうとき、わたしが思い浮かべるのは故磯田光一氏の言葉で、氏は吉田松陰や渡辺華山、中江兆民らの精神像を偲びながら次のように語った。

 ひとつの思想への忠誠が、人間の生死を賭けた選択の軌跡としてあらわれ、予期せぬ事態にたちいたっても理想の焔だけは消すことなく、敗者の立場に身を置くことがあろうと、出処進退の筋目だけは通すという生き方を可能にしたもの(中略)これを文化と呼ばないで何と呼ぶことができるであろうか。
  (『左翼がサヨクになるとき』47頁、集英社、86年)

「人間の生死を賭けた選択」ではなく利潤、利益の追求をなによりも重んじる気風の蔓延はとうにこのようなストイシズムに支えられた「文化」を生む基盤を崩してしまっている。このようななかにあっても部落解放という理想をかかげた運動団体が「理不尽」なおこないに目をつむらず、みずからの問題として考えてほしいとは願う。しかしながら、運動はそんなことよりも政治面での「敗者」になることを避け、京都市の職員採用のごとき利益の追求にせわしくなるのもまた否定できない。現代のシニシズムに毒されているとの批判を承知のうえでいえば、節操や禁欲といった言葉が皮肉やパロディの響きをもって聞こえかねないいま、ひとり部落解放運動のみに運動と倫理の統合を求めても気の毒なような気がしたりもする。
 お堅いことは抜きにして、とりあえず手に入るものは手に入れればよいではないかという風潮のなかではひとつの暴力事件という「理不尽」にあえてこだわった畑中、藤田両氏の議論は愚直にさえ映るかもしれない。だがそれゆえにこそ瞬時ではあったがふたりのやりとりは貴重であり、わたしを刺激するのである。(99年8月)

《 川向こうから 》
●交流会を目前に気ぜわしくキーをたたいています。さて野町さんが取り上げた新聞記事の話は、ありふれた理不尽のひとつです。あのとき畑中さんの分科会報告をさえぎるように発言したのは、「それでは、部落解放運動が部落解放運動でなくなってしまう」という思いからでした。くだんの人物の言動に、これまでの差別-被差別関係のありよう、運動(団体)や行政のありかたが反映していることは否定すべくもない。「ひとりの人間の振る舞いで全体を判断してはいけない」ことは百も承知のうえでの発言でした。部落解放運動にかかわって、おかしいことはおかしいと言うべきときに言わなければいけないと思うのです。では誰が言うべきか。気づいた者が言えばいい。資格や立場を超えて言いあえる関係がつくられるとき、運動は共同の営みになる。これがわたしの発言の真意です。

●最近読んだ本から───☆中坊公平『罪なくして罰せず』朝日新聞社、99/8。
 「目的に至るためには手段こそが大事である」、手段をおろそかにしてなにが理想か、なにが思想かというわけだ。それにひきかえ手段に翻弄され、迷路に踏み込んで途方にくれているのが部落解放運動の現状ではないか☆長田 弘『一人称で語る権利』平凡社、98/7。「ただ一つの正解をもとめるというしかたで経験をかんがえるということは、結局、体験しないものにはわかるものかということと、体験しないことは関係ないよ、という二分法をこしらえあげてしまう結果になるのではないか。(略)経験というものは、体験者が非体験者へつらなる道をさぐること、非体験者が体験者への想像力を獲得してゆくことの交差によって、はじめて経験とよべるものになってゆく」(「ヒロシマと広島のあいだ」)。体験者と非体験者、体験と経験。その視座は確実に人間の問題にすえられている。

●「自分以外の何者をも代表しない」という交流会の了解事項では、「個、個、個と、個人重視」で、「主体性の確立」をしきりに唱えた1940年代後半に逆戻りするのではと書き送ってきた人がいる。しかし、この了解事項はそんなご大層なものであるわけがない。資格・立場を振りかざして人の発言を押さえないよう自己抑制を求めて言い出したまでのこと。交流会は年一回の集まりで、組織でもなければ運動体でもない。だから交流会に違和感があるのだと言われたって応答のしようがない。残念だけれど、それぞれの道を歩むしかないということでしょう。

●本『通信』の連絡先は〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一、郵便振替〈00830-2-117436 藤田敬一〉です。(複製歓迎)