同和はこわい考通信 No.136 1999.8.19. 発行者・藤田敬一

《 第16回部落問題全国交流会の案内 》
 日 時:9月11日(土)午後2時~12日(日)正午
 場 所:大谷婦人会館(京都・東本願寺北側.TEL 075-371-6181)
 講 演:三橋 修さん(和光大学)
     「批判にこたえることのむずかしさ-差別とセクシュアリティ」
 分科会:部落問題の現在(話題提供 住田一郎さん) 障害者から見た部落問題
     (同 戸田二郎さん) 部落青年の現在(同 広岡浄進さん)

○三橋 修さんのこと
山本 尚友
 私が三橋 修さんにお会いしたというか、お姿をお見かけしたのは、これまでわずか三度しかない。はじめは、1969年(昭和44)に清水市生れの在日朝鮮人金嬉老が暴力団とのトラブルをきっかけに、寸又峡温泉の旅館にライフル・ダイナマイトをもって立て籠り、88時間におよぶ籠城の間に自分の生い立ちと日本社会の差別を告発した事件の報告会で、公判対策委員の一人として登壇された姿を見たものである。すでにビートルズも来日をはたし、左翼の青年達は一様に長髪をたくわえていた頃で、大柄な三橋さんの角刈り姿は迫力があり、自身も長髪であった私を妙に魅了したことを覚えている。
 二度目は、87年5月に『同和はこわい考-地対協を批判する-』が公刊されたことを受けて、私も編集者の一員であった『こぺる』(京都部落研究所発行)誌上で、「『同和はこわい考』を読む」という連載を企画したさい、三橋さんにも寄稿をお願いした時のことである。この連載は、横井清氏の「『心理』と『思想』の狭間から」(『こぺる』114号・87年6月)を筆頭に前後1年にわたる長期の企画となり、『同和はこわい考』に批判的な立場であった部落解放同盟書記長の小森龍邦氏も稿を寄せるなど異例の展開となった。三橋さんには結局寄稿を引き受けていただけなかったが、その理由をうかがうために京都の喫茶店でお会いしたのである。細かいことはもう覚えておらず、確かこの用事のみで来京されたものではなかったと思うが、原稿を断るためにわざわざ川崎市から足を運こばれるという真摯な姿勢に、恐縮するばかりであった。
 三度目にお会いしたのは、私が京都の千本部落に東洋大学の内田雄造さんの一行が来るというので赴いたとき、内田さんらがおられる部屋に入ると思いがけなく三橋さんも一緒で、部落問題を勉強したいという学生たちに同道され、自身も勉強に来たと語られたのが印象的であった。というわけで、私には三橋さんの人なりについて語れるだけの親交はなく、幸い三橋さんが政治学者の石田雄氏と対談した『日本の社会科学と差別理論』(明石書店、94年)の中で、自らについて語っておられるのでそれを紹介したい。
 三橋さんは1936年(昭和11)東京の生れ、「皇国少年になるには若すぎ」る8歳の時に敗戦を迎え、それまで「かなり同質だと思っていた日本の中に、いかにばらけていろんな人達がいるかというのをすごく感じ」たという。父君の転勤で行った和歌山で部落問題と出会い、同時に占領軍を観察するなかでアメリカに黒人問題があるのを感知して、「これで占領軍のキンタマを握ったと」思ったという。「うっすらと皇国少年」のようなものがある三橋さんは、「あんまりスマートなスポーツは好きじゃなくて、どっちかいうと武道系が好きで」、その「一方アメリカの問題」を考え続けたことから、社会学の道を選ぶことになる。大学で黒人問題の研究に携わる中で起こった、小松川高校定時制の生徒の李珍宇が女子高校生を殺した小松川事件には関心をもつが運動には携わらず、60年代半ばの日韓闘争では、日韓の軍事同盟反対という運動の言説にたいし、軍事同盟反対だけでは片のつかない問題が日韓の間には横たわると考えた。それから少しして起こったのが金嬉老事件で、「ぼくの中で言えば、李珍宇の弔い合戦」として取り組み、「裁判自体は非常に不思議な裁判で」「日本の裁判所は(金嬉老を)裁けない」という主張を裁判で展開した。三橋さんが自らについて語っている部分を要約すれば、ほぼこういうことになろう。自らについて語ることは、あまり好まれない方とお見受けした。
 金嬉老裁判の一審判決が出た6月から、翌年4月の高裁の第一回公判の間に書かれたのが、処女作の『差別論ノート』で73年に新泉社から出版された。この書は日本語で書かれた差別をテーマにした理論的著作のおそらく嚆矢に位置するものと思うが、序に「ぼくらなりの言葉で、ぼくらの側にある差別意識について語ろう」とあるように、差別の中でも意識に着目するという、現在から見ても先進的な試みであった。内容は全部で5つのノートから構成され、ノート1、2は柳田国男の「漂泊的宗教者」というタームを下敷きに、被差別部落や遊女や役者などが賤視されるメカニズムを解明したものである。三橋さんがここで参照した部落史研究は70年代当時のものであるため、その後の中世非人論の展開のなかで部落史の枠組に大きな変更が加えられた部分は、問題点を指摘せざるをえないが、「マレビトは、今日的な社会的地位の上下の座標軸におさまらない、まったく別の次元の存在だった」等々、新鮮な指摘に満ちていた。
 ノート3と4は、「近代デモクラシーの指し示す『職業に貴賤なし』というテーゼと、『職業の貴賤』によってつくられる意味論的世界が」、なぜ両立しうるのかという問題意識を軸に、この事が生起する「身体性の領域」について論じたものである。身体性の領域とは、反復される「日常性」が形づくる交換可能な身体のおりなす世界と定義されているが、ここで展開されている議論を要約することは私の手に余るものであるため、詳細は本文にあたっていただきたい。ノート5は、「差別の当時者性」と題して金嬉老事件にかかわった新聞記者、警察官、検察官、裁判官のそれぞれが、どのようにこの事件を意識化しまた無意識の領域に押しやったかを追及したものであった。
 『差別論ノート』が発表された当時の読後感ではさほど感じなかったが、今回この紹介を書くにあたって86年に刊行された増補版を読み直してみると、意外なほど当時ようくやく本格的に紹介されだしていた構造主義の方法が使われている。そして、この事情は『差別論ノート』の補遺版ともいいうる『シンポシウム 差別の精神史序説』(三省堂・77年)には、より明瞭に現れていた。『差別の精神史序説』は、井上ひさし、野本菊雄、広末 保、別役 実、松田修、山口昌男、由良君美、横井清という錚々たる面々が参加したシンポジウムで、ここで三橋さんは司会を勤めるとともに、参加者の選定からテープ起こしの添削そして詳細な注の作成と、編集の中心となっている。司会役の三橋さんそのものの発言は決して多くはないが、参加者の発言の多くが『差別論ノート』の補注の役割を期せずして果たしており、参加者の多くが構造主義的方法をとるということから、差別の問題に関する構造主義的分析の集大成の観を呈していた。
 この後、三橋さんは、82年に『翔べない身体』(三省堂)を発表、ノートで展開した「身体性の領域」論をさらに発展したものと思うが、申し訳ないことに私自身は未見である。三橋さん自身の要約によれば、「やっぱりある人間はあぐらをかかないと調子がでないとか、坐ると頭が冴えるとかという恰好で実際は生きているわけで……階層の違いみたいなものもそういう立居振る舞いで非常に強く出てくる」(『日本の社会科学と差別理論』P67)という内容であるらしい。三橋さんはどうも十年毎に思い出したように仕事をする人のようで、その次の著作『〈コンチクショウ〉考-江戸の心性史-』(日本エディタースクール出版部)は92年に出されている。これは実に不思議な本で、内容を簡単に説明すると、江戸時代に入って女性を男性の従属物とする観念が強まるなかで、性的イメージを多分に滲ませた喩えとして女性を「畜生」と呼ぶようになったこと。通常は近代に入って発見されたと考えられている、「子供期」という観念は、それ以前は武士に限られていた男が男を愛する衆道が、江戸時代に大衆化するなかで、衆道の対象としての子どもを意識化する過程で発見されていったこと。そして、このような過程を通して、18世紀の日本に発生した〈女・子供〉という観念は、欧米の〈女・子供〉観念と発生事情は異なりながら相似的なものであったために、近代化に際して欧米の観念を容易に受容できたというものである。
 しかし、このような要約はほとんど意味をなさず、この本の魅力は例えば近松門左衛門が作品のなかで用いた「畜生」という比喩について、「むしろ『畜生』でないものを、ある時は夫や親が、あるいは自分自身が『畜生』と規定することによって『畜生』と『非畜生』の間に張られた緊張した意味空間こそ、彼の作品の主題であった」と語る、三橋さんの自在な語り口そのものである。三橋さんは、本の最初と最後でかろうじて主題をつなげる努力をしているものの、本論においては興味のおもむくままに寄り道を繰り返し、結果として本書は三橋さんの江戸時代論の観を呈している。
 おそらく『〈コンチクショウ〉考』ではあまりに遊びすぎたという反省があったのであろう、今年の2月に出された『明治のセクシュアリティ-差別の心性史-』では、前書で発見された〈女・子供〉の生きる場である「家庭」が、明治期にいかに意識化されていったかを論理的に緊密に論証している。この家庭の問題は『差別論ノート』の「初版あとがき」で、論じ残したこととして後日を期した二つのテーマ、すなわち「国家間の交通の一形態としての侵略」と「人間が成育していくときには必ず登場する制度の一つとしての家庭」の、後者の回答でもあった。
 三橋さんは、まず森鴎外の『ウィタ・セクスアリス』を題材に、明治期の社会が下層の女性や男性にセクシュアリティを張りつけたことを指摘し、明治期の廃娼運動が吉原の遊女と夜鷹を一緒にして売春婦という新しいカテゴリーを生み出すとともに、彼女らが携わる職業を「醜業」と見なすなかで、セクシュアリティを問い直す視点を喪失したと語る。次に明治期の社会が貧民の集住地を貧民窟として発見していく過程を追及して、そこにセクシュアルな存在としての下層民と、それが発する臭気の強調が大きな意味をもち、同時期に自覚化されつつあった「家庭」の対極の存在として売春婦や貧民窟が位置づけられたことを述べた後、明治期に価値化された家庭観念は家庭からセクシュアリティをあたう限り遠ざけることで成立したと結論づけている。
 超特急で三橋さんの著作を紹介してきたが、これが中味をほとんど伝えていないまとめであることは、断るまでもないことであろう。私の能力不足が原因の一部であるが、それとともに三橋さんの著述が、論理の展開からもたらされる結論の合理性にはあまり力点がおかれず、対象をああでもある、こうでもあると丹念に考察する思考過程そのものに重点がおかれる体のものであることも、原因のひとつと弁解しておきたい。私が三橋さんの著述から受けるもっとも強い印象は、考察対象に対する比類稀なほどの慎重な取り扱いであり、それに伴う思考の幅の広さ、そして論理的にはほぼ完璧に突き詰めながらも結論を留保する大胆さである。
 最後に今年の交流会の話題のひとつとなるはずの「人権」に関する三橋さんの発言を紹介して、この稿を終えたい。「(人権を護るというような)社会の約束事で差別問題はなくなるかと言うと、どうも怪しい。約束事を支えているもう少し抽象的な様々な観念の集まりが、丁度水面のような働きをして、日常的な差別的関係を生み出すように思われる。………制度に乗ることの出来る「人権」ではなく「尊厳」とか「ディグニティ」などという言い方を私が多発したのも、制度に乗る一つ手前の観念で考えないと、差別にすりぬけられることを恐れたからである。」(『日本の社会科学と差別理論』「対論を終えて」より)

○テーマ「部落問題の現在」について考えていること
住田 一郎
 第1分科会は、この間、福岡の原口孝博さんたちとの間で交わされてきた対話を主題とすることになっている。原口さんたちは部落問題の根幹に関わる認識の枠組みとしての「共同幻想」論を精力的に提起し続けてきた。この提起に真摯に応えるべきだとの思いが事務局には強く、今回分科会であらためて議論する場を設けることとしたのであるが、この主題は、私の能力を上回り、日に日にプレッシャーがつのるばかりだ。
 『同和はこわい考通信』で三回にわたって展開された原口さんの「共同幻想」論を含む十数篇の論稿を三日間ほぼ部屋に缶詰状態で入念に読み通してみたが、やはり私はひるんでしまう。原口さんの「共同幻想」論の全容がほぼ明らかになってきたと漠然とは捉えることができるのだが、正直、私にはいまだにその論旨(共同幻想)が理解できないでいるといったほうがいいだろう。
 部落・部落民は実態であるとして「カムアウト」を提起する私に対し、原口さんは、部落・部落民は実体ではなく共同幻想(偽りの実体)にすぎないのに住田は部落民を実体として引き受けようと提起しているとして厳しい反論を繰り返す。実体としての部落・部落民など存在しない、実体とされるものは日本列島の太古から存在し(未開的賤視観念をコアとする)、数千年にも及ぶ各時代の変転をかいくぐりながら歴史通底的に今日まで存在し続けてきた〈部落・部落民という憑きもの〉が貼り付いた共同幻想にすぎないとされる。しかも、幻想は単なる観念ではない。具体的なものや人に張り付くことによって〈偽りの実体〉を作り出すものであり、私たちはその〈偽りの実体〉に目を奪われるのではなく、それを作り出す観念装置としての仕組み=共同幻想にこそ目を向けるべきだと主張する。ここまでくると私は思考停止になってしまう。さらに、実態を具体的に明らかにできない〈ものの怪や狐憑き〉になぞらえて部落・部落民を実体ではなく、共同幻想だとする立論に接すると私の戸惑いは増幅するばかりである。原口さんの提起する太古の〈未開的賤視観念〉が今日の「部落・部落民」を「偽りの実体」として成り立たせる共同幻想のコアであるとして、ではいったいなぜ我々「部落・部落民」とされる特定の人間・地域(ほかのどこでもなく、福岡の堅粕や馬出、大阪の住吉)に張り付いたのかを明らかにすることが課題として残っているのではとの疑問も起こる。
 あれこれ考えながら、これらのことについて分科会で真っ正面から論議を深めるべきなのか、深めることができるのかと、ふと不安にかられる。もちろん、この課題を避けては通れないだろう。しかし、全国交流会の最大公約数的合意事項は、久しく閉ざされてきた部落・非部落双方による対話をいかに成り立たせるか、成り立たせていない原因・要因はいったいどこにあるのかを、参加者一人一人が自分以外の何者をも代表せず具体的な事象を語りあうなかで明らかにしつつ乗り越える術を模索することではなかっただろうか。もしこの点が確認できるのなら、原口さんたちには自らの立場(共同幻想)を踏まえた、今日における部落解放の具体的な展開・展望をどのように考えておられるのか語ってほしいし、「共同幻想」に人びとが囚われることで、部落問題認識や部落解放運動にとってどのようなマイナス(影響)が具体的に生じているのかに絞り込んだ提起をお願いできないかと手前勝手に考えている。と同時に、私は今日ただいまの部落差別問題の解決にとって原口さんの提起する「共同幻想」の打破が不可欠であるのかどうか、それ以外の方向は考えられないのか、についても提起したい。
 私にとって部落差別問題の解決とは具体的に手触りで確認できるものの積み上げだと考えている。部落の解放というイメージも、限りなくそれに近づこうと願う人びとの営みとその先に見えてくる共有・共感しあえる場の実現によってもたらされるものだと思う。藤田さんが提起した「両側から超える」との具体的な行動提起も被差別部落内外に根深く存在する〈対話のとぎれ〉こそが部落差別問題解決にとって今日最も大きな桎梏であるとの認識に基づいているに違いない。当然、この認識の裏には〈対話のとぎれ〉を克服するために努力しあう部落民・非部落民の間にはすでに部落差別問題は払拭されている(少なくともその方向にある)との理解が横たわっていることも事実である。原口さんが提起する「共同幻想」を下敷きにしなければ個々人における部落差別問題からの相互の解き放ちもないというわけではなかろう。
 さらに私たちが議論しなければならない課題は、近代日本における部落差別問題のありよう=著しい変遷・変化についてであり、同時に地域社会に根ざした被差別共同体としての「部落・部落民」をどのように捉えるかである。これらの被差別共同体を含めた変化をどのように理解するか。この間の人びとの努力によって確実に部落差別問題は解決しつつあると見るか、それとも努力は認めるとしても依然として部落差別の本質は変わることなく生き続けていると捉えるのか。この評価によって今後の進路も大きく異なることが予想されるのである。
 〈寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか〉(渡辺一夫)との問いを、私はあらためて対話のエッセンスとして肝に銘じたい。分科会での問題提起の要旨になっているかどうか心許ないが、いまはお許しを請うしかない。

○「部落青年の現在」に向けて
広岡 淨進
 大阪大学部落解放研究会発行の部落問題・人権問題情報誌『みちくさ』6号(96年5月)に、部落民であることを名乗るまでのいきさつを書いてから3年が経ちました。解放研での活動では、『みちくさ』のホームページ、なかでも「みちくさ伝言板」が一部の注目を集め、拙文も転載し(「個人としての対話を求めて」。原載は『部落解放』98年7月号)、それが縁で講演に呼ばれるなんてこともありました(大阪市同和教育研究協議会夏期研究会、98年8月)。
 さてホームページを開設したその年、つまり96年9月に、早速「みちくさ伝言板」に差別落書き的な文章が書き込まれました。その一連の経過の中で(詳しくは前掲拙文を参照願います)、解放研活動をしんどく感じるようになっていた後輩たちをなじるような気持と、インターネットでのみつながっていた「全国に散在する吾が特殊部落民」と一体感を共有した時期がありました。それは同時に後輩たちにとっては疎外感を強めさせる効果があったようです。
 今になって省みますと、僕自身が「名乗る」ことで一時抱え込んでしまっていた「部落民意識」みたいなものがあって、それが活動の「しんどさ」を招いていたのではないかと思います。「主体」の側が、「名乗ること」、「部落民である」ことに意味を過剰に求めてしまう結果、互いに引きずり込まれる関係性の「磁場」のようなものが、解放研のなかにあったのかもしれません。
 そのとき鄭瑛恵という社会学者が書いた文章(「アイデンティティを越えて」、岩波講座現代社会学『差別と共生の社会学』96年)を先輩に勧められて読みました。今手許にないので正確な引用はできませんが、たしか「マイノリティはマジョリティに向かって語るべきではない。消費されるだけだ。マイノリティはマイノリティに向かってこそ語るべきだ。埋もれさせられたマイノリティ内部の差異を掘り起こすために」というくだりがあったはずです。鄭瑛恵が指摘している「代表性を付与させられてしまう」という情況に、僕も彼らも充分に自覚的ではなかったという気がします。
 この何年かの間に出会ってきたさまざまの「部落」青年(それに「在日」青年も)とのかかわりなど、もうちょっといろいろ書くべきことがあるように思いますし、ジェネレーションギャップの整理なんかも期待されているのかなとも思いますが、それらは当日レジュメへの課題とします。

《 川向こうから 》
●残暑御見舞い申し上げます。天気がもうひとつすっきりしませんね。カッと太陽が照りつける夏空になかなかならん。加えて阪神の低迷。そのせいかどうか、血液検査で高脂血症のおそれはなくなったものの、今度は白血球の数が多いといわれ、なんと二回も血を採られる始末。結果は大したことはなかったんですが、それでもいっとき神妙な気分にはなりましたよ。わたし、結構気が弱いんです。

●今号は交流会の案内特集です。会場がこれまでの西本願寺門徒会館から東本願寺大谷婦人会館に移ります。先日、東の会場の下見をしたところ、いいんですなこれが。西と同じように広い畳の部屋もあって。夜の懇親会が楽しみです。

●4月いらいの『こぺる』新規購読者が80人を越えました。昨年は一年間で60人ほどでしたから、そのすごさがわかります。友情に感謝するだけではすまない。どう誌面でお応えするかが課題だと思ってます。がんばらなくっちゃ。

●最近読んだ本から───☆長田 弘『本という不思議』みすず書房(99/2)・『私の好きな孤独』潮出版社(99/6)。読書という一人だけの孤独な営みが人間にとってどれほど大切かあらためて教えられた感じです☆鹿野政直『近代日本思想史案内』岩波文庫(99/5)。敗戦直後までの思想の流れがつかめて有益。もちろん流れがわかるだけではしょうがない。この本を手引きに誰を読むかが肝心ではないかな。わたしが読みたくなったのは誰かって?それは内緒にしておきます。

●本『通信』の連絡先は〒501-1161岐阜市西改田字川向 藤田敬一(郵便振替〈00830-2-117436 藤田敬一〉)です。(複製歓迎)