同和はこわい考通信 No.126 1998.6.4. 発行者・藤田敬一

《 採録 》

柴谷篤弘『比較サベツ論』(明石書店、1998/1)

 1985年にオーストラリアから日本に帰ってきて、私が比較的早く気がついたことのひとつに、ブラクサベツは「いわれない」ものである、という考え方があるのだ、ということであった。ここで「いわれない」という形容詞が、サベツ一般を指すのか、それともブラクサベツだけを限定するのかは、あいまいである。ひとつの考え方としては、①「いわれなきサベツ」という以上「いわれあるサベツ」という概念がなりたつはずだ、と暗々裡に理解できるわけだ。それとも反対に、②どんなサベツもすべて、いわれがないはずなので、サベツといったとたんにそれは常に「いわれがない」ことを含意しているのだが、念のためサベツ一般のもつこの属性をとくに強調する意味で、「いわれなき」という限定をブラクサベツにもつけるのかもしれない。(略)
 私は、現在、「いわれなきサベツ」という表現について、日本で戦後かなりながく受けいれられてきた考え方は右の①②のうち、どちらかといえば②のほうであったらしいと感じている。そうした考えかたには、しかし濃淡が当然あって、あらゆるサベツのうちでブラクに向けられたものだけは、どうしても許せない、という極端なものから、サベツはもちろんすべていわれないことだが、ブラクに対するものだけは、その水準を抜け出して、決してあってはならないことだ、という、やや温和なものまでの振り幅があったようである。『同和はこわい考』の刊行以来、サベツ問題に全身的・全国的にとりくんできた藤田敬一は、60年代のブラク内からの、次のような意味の発言を引用している。身体障碍者がサベツされるのは、通常のひととは、そとから見てもちがいがはっきりわかるのだから、たとえ悪いにせよ、なぜサベツされるのかがわかるけれども、ブラクの人は通常の日本人とはどこも・な んにも違わないのに、なぜサベツする必要があるのか、その理由がわからない、という意味が、その発言にはこめられていた。また藤田は最近つぎのようなことを明らかにしている。すなわちブラク解放運動で、「部落の系譜だけを追ってゆくと障害者の問題などは落ちてしまう。70年代前半でも、障害者差別のことをいうと怒られましたからね、運動の中で。一般差別と一緒にするなと。70年代中頃まで、運動家の意識の中に部落差別は障害者差別とは全然違うのだというのがあった」という。しかし私は、明らかにブラク以外の主体にたいする差別にも「いわれなき」という限定がつけられている例を、比較的最近新聞紙上で見たことがある。だから、一般にいわれる「いわれなきサベツ」というのは、まずブラクサベツについて、広く保持されていた概念であり、それが時代とともに、サべツ一般にもあてはめられるようになったのかもしれない。
 ここで私が感じた問題点は、もしサベツ一般が構造主義的な言説にもとづいて、「無根拠なもの」である、ということができるならば、「ブラクサベツ(だけ)が(とくに)いわれない」、という考え方には、不合理なところがあり、しかもそれは通常考えられているような倫理的あるいは社会道徳的なものではなく、もっとふかい理由によってそうなのかもしれない、という予感なのであった。(略)

コメント.
柴谷さんが紹介してくださっているわたしの文章や発言とは、「『いっしょ』と『ちがい』の狭間で」(『こわい考通信』No.83,94/6)および網野善彦・師岡佑行・藤田敬一「進歩史観から落ちこぼれたもの」(『こぺる』No.45,96/12)です。ところで最近、「いわれなき部落差別」という話は聞かなくなりましたね。それが、「差異と差別と平等」にかんする議論が深まってきたことの表われなら喜ばしいのですが、どうもそうではないようなのです。「共生の時代」「人権文化の創造」といった心地よいキャッチフレーズの陰に、相変わらず「部落差別だけは特別」という心情が潜んでいるように思えてなりません。運動団体が部落問題の解決 を第一にかかげるのは当然だとしても、「日本における人種問題の最たるものとしての部落差別」ととらえている人が結構おられます。ほんとにそうなのかどうか、きちんと議論したい。なお、本書で大賀正行さんを部落解放同盟委員長としているのは(89頁)顧問の、また部落解放全国交流会は(299頁)は部落問題全国交流会のまちがいです。どうでもいいことですが、気づいたので訂正しておきます。

黒川みどり「戦後民主主義と部落問題」(『社会科学討究』No.127,98/3)

 (略)事業の進展、そして高度経済成長の影響は少なからず部落にも及び、部落の様相はそれ以前と大きく変化し、部落問題のありようも変容していった。その点については改めて詳細な検討が行われなければならないが、ここでは考え得る問題を提起して本稿のまとめとしたい。
 まず第一に、すでに答申の段階でも指摘されている「同和地区」という「地区的」把握のみでは問題をとらえきれないという実態は、スラム化、混住、転住の進行によりいっそう進んでいる。加えて住環境改善の進展は、「部落民」という自己認識を希薄化させることにさらなる拍車をかけ、被差別の主体の側が従来のような枠組みではとらえられなくなっていることが挙げられる。そしてそれは、解放運動のあり方自体にも変化を及ぼすものであった。
 第二には、運動が多くの成果を獲得したが、それは反面権力への包摂の契機を孕むものであり、地域改善対策協議会「意見具申」(1986年12月11日)が出されたのを契機に、その点に運動の立場から警鐘を鳴らしたのが藤田敬一『同和はこわい考』(1987年、あうん双書)とそれをめぐる議論であったといえよう。鹿野政直が部落という集団を「マイノリティ・グループの中のマジョリティ」と評したのも[注『鳥島は入っているか-歴史意識の現在と歴史学』岩波書店、1988年]、そうした段階の部落の置かれた位置を象徴するものといえよう。藤田の提起は、部落解放運動の現状を内在的に批判することによりその自浄を希求したものであり、具体的には、「こわい」に象徴される差別意識を打破するためには「部落民」としての「資格・立場の絶対化」を乗り越える差別・被差別の関係のありようを追及し「共同の営み」を創出しようとしたものであった。そのための作業として、差別・被差別双方の意識の自己切開と「対話」が必要であり、そのためには、そこからの逃げ場となっていた既成の理論や政治起源説を見直していかねばならぬとする。実はそうした兆しは、すでに野間宏・安岡章太郎編『差別 その根源を問う』(上下)(朝日新聞社、1977年)等に見られ[注 野間宏は鼎談のなかで、部落解放について『その答の出し方が、非常にたくさんあると思うんだけど、わりあいに単調にこれだと決めてしまってるところがあるのではないかというところへ、ようやくき始めている』と述べている。前掲『差別 その根源を問う』下、44頁]、それらは既成の枠組みにとらわれることなく、文化・心理等実に多方面からのアプローチによる自由な議論が展開されていた。
 第三に少なくとも近年、運動の再生のための新しい理論的枠組みの構築が緊要であるとの認識は多くの人々に共有されており、その際のキイ概念としてしばしば用いられるのが「差別と共生」である。近年「国民国家」論研究が盛行しているが、とりわけ社会学を中心に「差別と共生」をキイ概念としたマイノリティ研究が行われており、そのなかで部落問題も新たに脚光を浴びている。そこでは、現在の状況のなかに「部落民アイデンティティ」崩壊の危機を見て取り、その再生をめざしつつ「部落民」であることによる「差異」の承認を行いうる文化的多元主義の方向が提唱されている。
 少なくとも近代における現実の解放運動の歩みは、「差異」の承認ではなく圧倒的に、たとえば帝国臣民としての、国民としての、同じ労働者階級の一人としての、近代史民社会の一員としての、「平等」を求めるものであった。「同化」志向はマイノリティであるがゆえにしばしば強く現れるが、それに加えて第一には、経済的貧困ゆえの不潔・病気・異種といった認識を払拭するために、まずは部落外との格差を埋めることが必須だったからであり(注 拙稿「『異化』と『同化』の視角-近代社会における部落差別問題-」、岡村遼司・今野敏彦編『人権問題とは何か』明石書店、1997年参照)、第二に、とりわけ被差別部落という集団の場合、他者から注がれる視線によって「つくられたもの」という側面が大きく、「いわれなき差別」という表現に象徴されるように、差異牲を打ち出すことがそもそもむずかしいという側面をもっていることにもよる。
 むろん「同化」の一階梯としての諸権利の獲得が、同時に包摂の契機を孕んでいることにより、さまざまな弊害も生んできたことは今日明らかな事実である。しかしながら、前述のような意味での精神構造としての天皇制や「家」意識といった日本社会の「特殊性」がいまだ払拭しえていない状況にあって、文化的多元主義を対置することによって、戦後の部落解放論のよりどころとなってきた近代社会の普遍的価値を否定し去ってしまうことは性急にすぎると思われるが、それらの機能と部落問題の関わりについては高度経済成長以後の時期の考察を通して明らかにすることが今後の課題として残されている。

コメント.
黒川論文の主題を探ると、「部落解放とはなにか」という問いに行き着くように思われます。部落解放運動は「近代社会の普遍的価値」、つまり自由・平等・友愛、とくに平等の実現を求めてきました。それこそが「部落差別からの解放」を約束するものだと信じられていたのです。「人間はみんないっしょなのだから、差別はいけない」という人間平等観は根強く、昨年総務庁が制作した啓発映画「若い波紋」の主人公たちの合い言葉にもなっている。しかし、「なにがいっしょなのか」と問われると、簡単には答えられないのではないでしょうか。政治思想としての人間平等観は、西洋近代の歴史の中で生まれた抽象的な人間観であって、それ自体多くの問題を内包している上に、この国に受容されてからまだ百年あまり、言葉としては流通していても暮らしのなかの意識にまではたどりついていないのです。それに「ちがって人間」、「文化に優劣、上下はない」とする考え方もあり、人間平等観はいま試練の時代を迎えているように見えますが、どうでしょうか。

《 各地からの便り 》

○ いつも『同和はこわい考通信』をお送りくださり、大変有り難うございます。いつも興味深く拝読させていただいています。とくに最新号の、藤田先生ご自身のこの間の回顧を記した一文を読みますと、部落解放運動・解放理論の再構築へ向けた苦闘の跡が、よく理解できるような気がいたしました。
 藤田先生の一文を拝見させていただきますと、3,4年ほど前に、政治学者・後房雄氏(名古屋大学、イタリア政治史)の『政権交代のある民主主義』(窓社)という本を共感を持って読んだことを思い出しました。後氏はその本で、イタリア共産党の左翼民主党への転換過程を紹介しながら、日本の革新勢力の「政治文化」の転換の必要性を力説されていました。「オリーブの木」の総選挙における勝利とブロディ政権発足など、それ以後のイタリアの政治の動きに対するマスコミを通じた論評でも同様な姿勢を一貫させておられます。
 藤田先生の『こわい考』は、期せずして、東西冷戦終結以前から、部落解放運動の「政治文化」の転換を求めるものだったように思いますし、新たな時代を先取りするものだったと考えられます。現在に至る運動の状態は、・既存の部落解放運動が奉じている「政治文化」が各方面で綻びが目立つようになりながらも、いかに強固なものなのかを裏付ける結果になっているように思います。これは、未だに、革新勢力の間に、冷戦時代の発想がほとんど改変されないままに残存していることと軌を一にしているように思われるのです(ただ、自己改革が出来ないのは、革新勢力に限らず、保守の側、特に自民党に連なる「保守本流」が主導する統治のあり方も同様のことが言えるのでしょうが)。
 特に『こわい考』批判の急先鋒でいらっしゃる小森龍邦さんが、中央政治の世界の発言においても、最も強固に、55年体制下で培われた革新勢力のあり方を固守しようとしておられるのも、それを裏書きするものもあるでしょう。それにしても、『同和はこわい考一派』と言うネーミングには今さらながら苦笑させられてしまいますが、多分小生のような人間も、「こわい考一派」の構成員と言うことになるのでしょう。単に他者をあれこれ言うだけでなく、過去自らが考えてきたことを省みる良い機会を小森さんは与えてくれていると思っていまして、ちょっと逆説的な言い方かもしれませんが、彼にも感謝したい気持ちです。 (東京 K.Hさん)

コメント.
『こわい考』のもとになった原稿を書いていたころの世界のこと、日本のことを思い出そうとしても思い出せないのです。だから『こわい考』が「東西冷戦終結以前から、部落解放運動の『政治文化』の転換を求めるもの」で、「新たな時代を先取りするものだった」と評してくださっても、実感としてはよくわからない。ただ、わたしのささやかな経験からする思索が、時代の風潮と微妙に呼応していたことは確かだとは思いますけれど。

○ 現在まで「こわい考通信」や「こぺる」などを読ませていただいていて、わたしが疑問に思っていることに、「部落民のアイデンティティー=部落民とは何か」があります。住田一郎さんや原口孝博さんの論文などは、このことを強く意識されていることがわかります。「部落民のアイデンティティー」にこだわりをもつ意味とはなんでしょうか。自己の存在感の表出ではないでしょうか。また同時に、国民融合的考えを全面的に批判されておられるようですが、部落民が部落民でなくなることがそんなにダメなことなのでしょうか。
 わたしは次のように考えます。部落問題について目に見える実態的な差別・格差がほとんど感じられなくなっている社会の状態を前提とします。そこで、たとえばAさんが被差別部落(以下、部落)出身者であって、Aさん本人もそう思っていたとする。しかし、私がAさんの出身を知ったとしても、私がAさんに部落出身者であることに対しての差別感情を抱かないとしたら、もはやAさんは私にとって部落出身者ではない……というふうに私は考えます。Aさんが「私はまぎれもなく部落出身者だ」と言うとすれば、それは自由ですが、部落出身者でありつづけようとする思う人ばかりではないはずですし、少なくとも私にとって部落民という「ワク」はこの場合存在しないのです。これは、「少数者としての部落民」を認めないというのではなく、少数者として成り立ちにくいと考えるからなのです。
 たとえば、Aさんが女性であり、私がAさんに女性であることに対しての差別感情を抱かなくてもAさんはあくまでも女性である。それと同じくAさんが韓国人や障害者であったとしても、Aさんが韓国籍であれば一応韓国人をみなすべきだし、体に目に見える障害があれば障害者と認めることはある程度納得がいく。「黒人」の定義など「部落民」の定義と同じく何もないのであるが、褐色の人を見れば「黒人」と感じてしまうのは自然感情であろう。しかしながら「部落民」に関しては、目に見える特徴もなく、特有の言語・文化も存在するとはいえない。まして本人もそれを意識していないならば、その人をあえて部落民として認めることはできない、というより部落民として認めない方が部落問題は早く解決すると考えています(ただし部落を名乗るのはあくまでも自由です。その人を否定しません。)
 この私の考えは、「部落民は民族・種族ではない。」「部落民を決めるのに血縁が決定的なものであるにもかかわらず、その血縁の客観的根拠が極めて曖昧である。つまり、部落民というものは差別する側がそう決めた、ということ以外の何物でもない。」という、畑中敏之・上杉聡さんたちの議論に基づいています。
 藤田先生はいつか「何が部落問題の解決なのかについて、共通認識がなされていない」とおっしゃっていました。確かに、「部落問題が解決した状態とはどういう状態なのか」という議論が深まっていない、というより全くなされていません。私個人としては、大きく二つの方向が考えられると思います。
 その一つは、①現在のいわゆる同和地区と地区外との生活上の違い(実態的な差異)が双方からなくなると共に、心理的にも「部落民」と呼ばれ特定されることのない(無意味となる)社会の状態(=部落民と非部落民を区別しない)。もう一つは、②「部落民」という存在を一個のアイデンティティーを保持した少数者として認め、実態的な差異は差異として尊重し合い、たとえある人が部落民として存在しても差別されることのない社会の状態(=部落民の違いを認めて区別する)。
 要するに、われわれは部落問題を解決するために、①部落民をなくす方向へいくのか、それとも②部落民を残す方向へいくのか、「なくす」のか「残す」のか…、それを公の場に提出され議論されなければならない時期に来ているように思います。部落問題解決の展望に対する共通認識が曖昧である現在においての教育啓発は、どうしても万人向けのスローガン(当たり前、正しすぎてどうしようもない)に落ちつきやすいのではないでしょうか。「差別はいけない。人権を守ろう。」「自分自身の生き方を見つめなおせ。」などと差別を批判するということは、自由・平等を実現する見通しや具体的施策が同時になされなければなりません。
 もちろん現在の私の考えは、部落民をなくす方向で施策を進めることです。しかし、これは部落問題をないがしろにすることでは決してありません。部落問題を解決するために手段として敢えてその他の人種間題にかかわるといった考えと類似します。私は、おおまかな同和問題の理解・認識を最低条件とした上で、前述した原口孝博さんの通信にもあるように、日本独特の村落共同体意識、家父長制と戸籍制度、資本制と日本的経営体質、神道国家意識と穢れ意識、その長い過程で育まれてきた迷信的な伝統・文化・習俗慣習など、さまざまな差別・偏見を醸成する土壌=自由と平等の実現を阻害するものの解明と、それらの制度・体制・体質の変革に向けて努力する一人でありたいと考えています。    (岐阜 T.Oさん)

コメント.
かなり以前にいただいたお便りなのに、掲載の機会がなく、申しわけありませんでした。さて、部落問題解決の方向についてあまりにも議論がなさすぎることは、ご指摘のとおりです。しかし、どこから手をつけるか、それがなかなかむずかしい。頭のなかで「部落民なんて存在しない」と思えば存在しないことになるならいいのですが、そうならないところに問題がある。そこらへんを丁寧に考えたいのです。T.Oさん、またお便りをください。いっしょに議論しましょう。

《 川向こうから 》
○某日、ある中学校の『同和教育部だより』を読んでびっくりしました。そこには「藤田敬一氏は元岐阜大学の教員」と紹介されているではありませんか。ついで四日市の山城さんから「藤田さんが岐阜大学を辞めたというウワサか流れているけど、ほんまですか。おかしいとは思ったけれど、藤田さんなら『もう辞めた』とやりかねんから確認したくて」との電話あり。どうも前号本欄に「3月末をもって役職の任期が終り、のほほんと季節を楽しんでいます」と書いたのが原因らしい。わたしは評議員を任期満了で辞めただけで教員はつづけており、週二日講義し、月二回定例の会議に出席するなど最低限の義務だけは果たしております。ここ数年、大学改革にかかわったり、交通対策委員長や評議員をやったのが異例でして、もとの怠け者に戻っただけです。おまちがいなきよう。
○本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)

第15回部落問題交流会のご案内

日 時:98年9月12日(土)午後2時~13日(日)正午
場 所:京都・西本願寺門徒会館
テーマ:発想の転換を求めて-講演:山下 力さん 報告:矢田支部(交渉中)
分散会:住田一郎・畑中敏之・原口孝博・山城弘敬のみなさんに分散会を担当し話題を提供してもらう予定です。
申込先:阿吽社(〒602-0017 京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木下町73-9
       TEL O75-414-8951、FAX 075-414-8952)
締切り:8月28日(金)