同和はこわい考通信 No.125 1998.4.30. 発行者・藤田敬一

《 『同和はこわい考』の十年 》⑦

強烈に頭を殴られて考えたこと
N.T
1.
 第二弾目を一刻も早く投稿しようとがんばって暮れに文章はできあがっていたのですが、どうも文章がイマイチ自分で納得がいかず、ズルズル日が経ってしまいました。出そうか出すまいか迷っている内に、通信No.122が目に入りました。〈『同和はこわい考』の十年-なにが見えてきたか-①〉のタイトルを見、これなら書けると確信し、再びワープロとむかいあいました。
 実は8年ほど前、2冊の本が目に入ってからの話なのです。その2冊とは『同和はこわい考』と『部落の過去・現在・そして…』の4人の座談会の部分です。『同和はこわい考』は「中国旅行で知り合った藤田のおっさん、何書いとんねん」ぐらいの冷やかし半分の気持でめくりました。「こ奴、耳の痛いこと書とんなぁ」と途中で投げ出し、続いて『部落の過去・現在・そして…』を買い、4人の座談会のところでは「同じ世代でこんな見方もあったんか」と思い、再度『同和はこわい考』を熟読しました。正直に言います。いずれも頭をバットで殴られたくらい、これは強烈でした。それ以降、自分のやっている「解放運動」なるものに、また、すべての取り組みに疑問を持ちはじめました。その疑問を、私がやってきた解放運動のひとこまひとこまを通してつづってみたい。そこから何が見えてくるか、自信はなけれど、思うところを書いてみます。

2.
 1)部落解放総合計画に取り組みました。しかし、部落差別は解消しない。それどころか、周辺地域住民からはねたまれ、「なぜ、部落だけがよくなるのだ」と言われ、「一緒に闘おう!」と言っても空振りでした。私自身は、部落解放運動とは環境改善運動なのかと疑念を抱くようになりました。その一方で建設業者からカンパをとる方法も覚えました。

 2)差別糾弾に取り組みました。マニュアル通り、「行政闘争への転化」。しかし一時の憂さ晴らし。自分の結婚時における被差別体験を糾弾の対象にできていないことからくるジレンマにかられました。

 3)行政闘争に取り組みました。部落と部落民の貧しさを強訴し、部落差別を最たるものとして大合唱し、「同和問題の解決は国の責務」という同対審答申を盾にした物取りだけが上手になりました。そして事前協議で、行政幹部と仲良くなり、口利きで大衆の「信頼」をうるにつれ、いつのまにか「こんなハズでは」と思うほど態度が横柄になり、自分を見失う。また、どこまでが部落かと、同和地区の線引きを行政と一緒に熱心に地図とにらめっこしたものです。おかげで部落の土地はほとんど国や自治体のものになりました。

 4)差別落書きへの取り組みもしました。犯人捜しのための見張り計画を立ててもいっこうにらちがあかず、結局行政責任に転嫁しました。部落大衆の怒りも、そう熱くは感じませんでした。ある時、地区内の差別落書きを発見し、いろんな機関で調べた結果、落書き者がムラの子で、落胆したこともありました。こういう話はめったに表には出ません。

 5)啓発パンフの作成や歴史の掘り起こしに取り組みました。例の「三つの命題」や「近世政治起源説」をベースにつくるのですが、今ひとつインパクトに欠け、何か物足りない感じがしてならなかったことを覚えています。地下じげの歴史の掘り起こしで気づくのは、部落固定論(昔からずーっとここに〈かわた〉はあったのかどうか調べた結果、大正時代に移動していた)の誤りや部落貧困説の誤りにも気づきました。ついでに、過去帳なるもので自分の祖先を探したのですが、三代前が精いっぱいで、前回の部落問題全国交流会で「七代」と聞き、「なかなかヤルなぁ」と感心したものです。時期が前後して申し訳ない。

 6)70年代後半のころ、部落内民主化闘争に取り組みました。「同和事業支部」を憂慮する青年が支部を奪権する。これはおもしろかったです。同和住宅の入居をめぐって、幹部に金を渡して入居する支部員や金を受けとった幹部の追及など、ムラ内がまっぷたつに割れ、親せき中、兄弟と喧嘩や言い合いで、陰鬱な日々でしたが、支部の奪権で徐々にウサは晴れていきました。しかし奪権後、住民は「親せきを住宅に入れてくれ」「息子や娘を公務員に」「住宅の補修を」と、金切り声の要求ばかりで、部落の解放についてはいっこうに関心がなかった。あまつさえ「住宅家賃の滞納・不正入居・空家賃(実際には住んでなくて家賃だけを払う)」、「同和生業資金の滞納」、「支部費の滞納や使い込み」、「一部の住宅管理人による家賃使い込み」、「一部幹部の建設業者のピンハネ」など、部落解放運動とかけ離れた難題が待ち受けていました。「前の幹部も汚いけど、大衆も汚いやんけ」と思うものの、口には出せず、「イヤイヤ、そうじゃない。ここで短気を起こさず、『大衆を主人公にした解放運動』に思いをはせ、ガマンして」と、ひとつずつ難題の解決口を探しました。そんなことをしているうちに、当時の支部機関の重要な課題であった、「部落・部落民・部落差別とは何か」を討議して部落の完全解放にどう近づくのかという議論は縁遠くなっていったのです。

 7)「仕事よこせ」に取り組みました。民間企業への就職より公務員に人気がありました。しかし公務員になるまでは一生懸命で、「動員」なるものにも積極的に参加して文字どおり「点数」を稼ぐ。「点数」が仕事保障の選考基準のひとつだからです。ところが、いったん仕事に就くと、運動から遠のく。今、部落内の世帯構成は公務員が三分の一を占める勢いです。そして解放同盟の「動員」は第一に公務員、続いて老人となっています。だれが言ったのか知らないが、「エタ役人村」の再来と言ってよいでしょうね。一方、生真面目に運動しようと公務員に入り(もちろん優先採用)、支部へ出向する者もいます。仕事はほどほどに、支部の活動に専念し、今日の支部活動を支えていると言っても過言ではありません。また、完ぺきに出向する者もいます。組合用語で言う「ヤミセン」(闇専従)ですね。したがって、純粋に支部の会計で専従を雇う方法は過去の遺物となりかけています。この間ずっと叫ばれている「自力自闘」は聞こえは大変よいのですが、支部運営は公務員の「ヤミ出向」が支えで、相手の土俵で相撲をとっているのが現実です。そして、やっている解放運動は上からの「動員」を忠実にさばき、上からの指示を待ち、旧態依然とした運動にしがみついています。どうも、それが解放運動だと思い込んでいるフシなきにしもあらずで、「部落・部落民・部落差別とは何か」とか、「部落の完全解放とは何か」を討議するヒマはないのです。

 8)教育に取り組みました。青少年会館やプール・グランドの建設、小中学校の建て替えや食堂の建設等、教育施設の完備は進み、建物だけは立派になった。しかし、教育内容となると、大衆は他人まかせ、教師を追及するのみで、自分の子育ては手抜きが多かったです。幹部の中には、他人に「TVゲームはあかん。添加物はあたえるな」と教育の場で公言しながら、自分の子どもには甘い。とりあえず、教師への責任転嫁は上手でした。教師も何十年と居座り、同盟幹部の言うことには耳を傾け、へつらう者も少なくない。私に言わせれば、幹部も大衆も教育では「他人にきびしく、自分に甘い」という一言につきます。

 9)「同和問題」の講演に講師として出かけたり、フィールドワークで同和地区内や諸施設をよく案内していました。企業では一回二時間の講義で、なんと5万円也。こたえられませんでした。しゃべる内容は、地域の悲惨な差別の実態(格差の強調や落書きの例)と近世政治起源説、それに行政が出したパンフの抜粋程度でした。聞く方も上手で、うなずく人が多かった。もちろん、質問なんかありゃしない。いやぁ実にあっちこっちに行きましたよ。

 10)選挙闘争に取り組みました。あの有名な上田選挙に張り付き、どんどん大衆を集票活動に送り込み、毎晩数値との闘いでした。それで何を得たのか、私にはわかりません。

 11)支部事務所の一日は、上部機関の会議や三役・書記局会議などがないかぎり、結構ヒマをもてあましていました。特に役職を持っている者は、よけいそうです。だから個人的に買い物に行ったり、行政や上部機関から電話があると「ちょっと外へ出てきます」ということも多い。ヒマをもてあましているのだから、少し勉強ぐらいしたらどうかと、そばから見ていて思うのだが、スポーツ新聞やマンガに目を通して時間を過ごすのです。週末ともなれば、支部事務所は競馬の予想で話が盛り上がり、飽きればゴルフで話はつきない。でも、部落解放理論の話はめったにないのです。この手の話は若手を中心に機関会議終了後、近くの飲み屋で「部落民とは」とか、「現在の解放運動の位置」とかを酒のアテ代わりに話すことがあるくらいです。だから酒を飲まない者は「蚊帳の外」になる。
 今、こうしてワープロのキーを打ちながら思い出したのは、土曜日や日曜日の集会とかデモの「動員」ともなれば、耳にラジオのイヤホンをつけて参加する幹部がいたことです。一瞬、公安と間違われます。でも大丈夫、黄色いゼッケンを着けているのですぐわかります。しかし支部の中には「なにっ、あの人!」と注意を促す人もいましたが、十分に答えられませんでした。自然環境保全を運動方針に盛り込みながらゴルフにいそしむ人。反天皇をかかげながら「天皇賞」に賭ける人。活動家の意識が変わりつつあることを実感しました。活動家たちが普段の会話で「あそこのパチンコ屋はどうのこうの」と言い合い、ゴルフ談義と競馬の予想に花を咲かせているので注意すると、「かたいなぁ」と言われたりする。批判はご法度のムードがあります。ついでに言えば、本を読む人も少なくなりました。マンガ週刊誌やスポーツ新聞には目を皿のようにして仕事中でも没頭しているが、「解放新聞」とか、解放運動関係の文献を手にしている人は、残念ながら少ないようです。こうした風潮が「部落差別とは何か。部落民とは何か。部落の完全解放の道筋は?」といった基本的な問題が話せる雰囲気を消滅させているのではないかと危惧するのです。支部事務所で運動関係で議論になるのは、次はだれが中央の役員になるのか程度であって、「綱領改正」の時も、話題にはならなかったんです。若いころは夜を徹して、「お前はハク、おれは部落民」などと真剣に話したものですが、今は……。

 12)活動家のスタイルが昔と今では大いに変化しました。運動に入った初期のころは、まだノーネクタイに、よれよれのスーツと大きな肩さげカバン、そして胸には同盟のバッチ。そうした活動家のカバンの中身を見せてもらったことがありますが、ビッシリ小さな字で書きつづった手帳や何冊かの本が入っていました。今の活動家の中には、ブランドのネクタイにポーチ、腕には決まってロレックスの金色時計、中にはキンキラの腕輪、なんだか趣味がヤッチャンに似ている人もいる。ポーチの中はゴルフ会員権や札束がもっこり盛り上がったサイフが入っている。すべての人がそうだと言うのではありませんが、そういう方が交渉でブチあげるのです。部落解放の父、松本治一郎はノーネクタイにノンスモーカーであって、それを真似せよとは言いませんが、これでいいのかと心配になります。

 13)解放会館の仕事と支部事務所での仕事のこと。解放会館職員というのは、やはり行政マンですね。その時の地域の力関係で、力の強い方にくっつきます。ひとつの運動の力学なのでしょう。私たちがまだ青年で支部を牛耳っていない時はエラク冷たいものでしたが、体制が変わると手のひらを返すように「あれしよか。これしよか」と擦り寄ってくるんです。中には、シンの入った職員もいますが、管理職を手に転勤してきた方はもうミエミエですわ。2月から3月にかけてのころともなれば、この管理職は幹部に擦り寄り、本庁のエライさんに上へあがれるように頼んだりするヤツもいます。頼むヤツも頼むヤツですが、頼まれたヤツの中には、しまいに金をせびる者もいる。こんなヤツがいくら転勤して行っても、「部落解放運動は素晴らしい」「同和問題を真剣に解決しなければならない」というぐあいに広まりっこないと思います。真剣に考えてくれる職員もいますが、地区に配属されて幻滅する職員も少なくないのです。
 さて、解放会館の仕事と言っても、ほとんどは市同和事業促進協議会○○地区協議会の事務局、あるいは支部事務局の仕事です。前者のことは紙面の都合で割愛し、後者について詳しく述べます。まず、過2回来る「解放新聞」(全国版・地方版・支部版)や同和教育推進協議会の機関誌などをひとくくりにして支部班長に届けてくれます。同盟階層別組織(女性部・公務員・教育・保育などなど)の事務局的役割も果たしてくれる。地域行事なども職員がやってくれる。盆踊りのデコレーションの飾りつけからその撤去、寄付金の受付と名前の張り出し、そして集計。葬式のさいは香典の受付と集計など。まだまだあります。支部大会で役員選挙がある時は、開票なども全職員がかりでやってくれます。なんともはや便利重宝と言うべきか。支部の奪権前は、職員に「そういうことをするな」「部落大衆の自主性を大切に!」と言っていたのに、支部のイニシアチブを握るや、職員の便利さ、ありがたさが身にしみるのでした。自らの手でと徐々に改善し、運動方針や会費の徴収などは我々の手に取り戻してきました。80年代半ば、上部機関からよく「行政も権力の一部分だから、警戒心を高めるように」とのお説教をありがたく頂戴はしますが、この便利さには勝てなかったのです。「自力自闘」なんてもう遠い時代のことのようで、今ではカッコよすぎます。

3.
 最後に、前にあげた2冊の本が、私の部落解放運動観、つまり人生観に大きな転機をもたらしたことはまぎれもない事実です。とくに、役職を持っていた私にとって、役職を笠に着ていばりちらし、ごう慢に振る舞っていた自分を反省するよう迫るものでした。
 ここまで書いてきて読み返してみると、運動の愚痴ばっかりで、告発めいた文章になってしまいました。反省します。狭山や基本法のこともあるんですが、文章が浮かびません。また気がむいたら投稿します。ともかく、「部落・部落民・部落差別」や「被差別体験」について部落解放運動の中で真面目に議論できないのは「いっぱいやることがあるから」というのが活動家の「いいわけ」でしょうが、その結果、基本論議なるものが完ぺきに忘れさられているというのが私の考えです。
 藤田先生。『同和はこわい考』との出会いによって、自分を見つめ直せたと確信をもって言えます。役職を持っていたころは、自分が自分でない感じで、笑顔は失せ、いつもカリカリしていたように思います。絶えず緊張ばかりしていて、そのくせ横柄な態度がいくつもあったように思うのです。「大衆のために」と言いながら、それが実は自分を見失わせ、家庭にも大きな影響をあたえたやに思います。今は、自分が何者であり、自分ができる解放運動とは何かを模索しています。

《 採録 》
「人と人との関係を人間らしいものに」
奈良『部落解放運動情報』No.21,98/4/20.
 「『同和はこわい考』通信」で三回にわけて藤田敬一さんの「『同和はこわい考』の十年-なにが見えてきたか」が連載された。今回の「研究誌から」はこれにしよう!」と決め、さて担当はSさんになった。二、三日して、Sさんいわく「藤田先生の書いた文章を俺はまだどうのこうのコメントできん」。彼の名誉のために言い添えとくと、通信を両面コピーしてホッチキスして本にして何回も読んだのではある。Nさんは「俺、書こか。そやけど藤田さんの十年の総括に対して自分の十年をふりかえって書かなあかん。締切には間に合わん」と言う。てなことで私となった。こんなプレッシャー(?)にめげず筆を進めていこうと思う。
 藤田さんの文章は読みやすい。加えてその人柄を知ってたらもっと読みやすくなる。「おちゃめ」さと知性&教養が織り交ざった文章は、「人間」「差別」とか難しいテーマに知らず知らず緊張していく気分をほぐしてくれる。「どこがおちゃめやねん」とお叱りの声も聞こえそう。だけど、私には「『こわい考』が自分の手から離れた段階でも、これから起こるであろう波紋を考えて緊張する自分をもてあまし、酔うと感情が高ぶり、われながら始末におえなかった」という箇所なんぞは、酔ってぐいぐい言ってしまい翌朝しきりに反省している藤田さんの姿がついつい目に浮かんでしまう。まえおきはこのへんで。
 「こわい考」の著者・藤田さんは、十年を振り返って「何がみえてきた」のだろうか。その①には、出版するきっかけ、「こわい考」へのバッシングと共感という両極端の反響、それに揺れながらもその正体を見定めていこうとする姿が読み取れる。「70年代以来、部落解放運動の再生・蘇生をもとめる運動の渦中に身を投じ、悪戦苦闘したあげく疲労困憊して岐阜に戻り、一から考え直そうとして覚書風に書き始めたものである」。「持続は力」とは、「持続することによってつちかわれる思索の力」ではないか、ともある。なるはど、「こわい考」通信の継続と十三年続いてきた交流会の経験から湧き上がってくる珠玉の言葉だ。「自分の言葉で思索し続けることで、それまで見えなかったものが見えるようになることがある。執拗に『人間と差別』について思索し続ける人びとがいたからこそ論議が継続できたのだと思う。『こわい考』はその素材になった」。思索し続けることはすごいことだ。
 その②では「こわい考」に底流するテーマに沿って書かれてある。「『こわい考』には大きくいって二つのテーマがあったように思う。一つは部落問題解決のための取り組みに関するものであり、もう一つは差別・被差別に関するものである。前者は運動・政治にかかわり、後者は心理・思想にかかわる」。「わたしは、部落差別に苦悩している人がおり、部落問題の解決を求めて苦闘している人がいて、部落差別(意識)を媒介にした関係に縛られている人がいるこの《現実》から出発したい。差別の問題は人間存在の根源にかかわるがゆえに、運動・政治の問題は避けられず、心理・思想の問題、もっといえば文学・哲学の問題としてのみ扱うわけにはいかない」として「あくまでも《現実》と格闘する人びととつながりながら『人間と差別』について考えたいのである」と結ぶ。ここがいい。心理、意識・感情をおきざりにして政治や運動を語り、語られてきた一人として心に突き刺さるし、そうだなと納 得する。私は女性差別という視点から運動・組織を見直してきて、同じような地点にきた。部落差別問題を通してこう見えてきた藤田さんに「ええひとやなあ」と思ってしまう。(十才以上も違う大先輩に対し生意気と聞こえてしまうかもしれないけれど……)
 その③では、「差別・被差別の隔絶された関係」をひともきながら「部落民とは何か」へとアプローチしている。部落民という存在規定の「あいまいさ」を根拠に「わたしは『側』・集団・共同体の関係を一気、一挙に『解き放つ』ことなどとても無理だと思う。それが可能だと信じたときに間違いが起こった。『個々の解き放たれた関係』を基礎に、その輪を広げていけば、道が開けてくるのではないか」とも提起する。
 20世紀に生まれたどの社会運動・組織の在り方でもない「人と人との関係」に基づく運動と組織の誕生を予感するが、答は現実の中から見つけたい。(F)

《 川向こうから 》
☆3月末をもって大学での役職の任期が終わり、のほほんと季節を楽しんでいます。本を読んだり、原稿を書いたり、友人たちと一杯やったり。できるだけ大学へは近寄らぬようにしてますので、わたしあての連絡は自宅におねがいします。早朝の電話(8時前)かファックスが一番確実です。よろしく。
☆部落解放同盟高知県連の前書記長、西村 渉さんが亡くなられました。享年62歳。はじめて会ったのは70年3月、東京一橋の共立講堂で開かれた第25回全国大会でした。あのときわたしは「狭山差別裁判糾弾闘争に連帯する会」を名乗り、「石川さんを守る会」発行のパンフレット二種を無断複製して会場に出かけたんですが、紹介されていっペんにその人柄に惚れました。愛称は「ワタさん」。同盟の幹部で愛称で呼ばれる人はいまでは少なくなりましたが、ワタさんはその最後の一人でした。4年前、突然研究室に電話をかけてきて、「どうだね、藤田君。大丈夫かね」と、おどけたようにいう。「なんで」と聞くと、声の調子をあらため「いや、あの本のことで孤立して苦しんでるんやないかと思って」といいながら、やっぱり電話のむこうで笑ってる。それがワタさん流の激励であることはすぐわかる。「大丈夫やよ」と答えると、「あの本を何冊か送ってくれ。学習会のテキストにするから。また高知へ来いよ」といって電話は切れた。一昨年、高知に出かけたとき県連事務所で久しぶりに会いました。闘病中で、すっかり風貌は変わっていたけれど、運動の現状にたいする批判の舌鋒は鋭かった。それが会った最後でした。「読んでくれ」と渡されたワタさんの『よき日の為に』という冊子には部落解放にかける熱い思いがこめられていて、あたかも運動への遺言のようです。それにしても初己はつみさんといい、ワタさんといい、早くきすぎる。
☆N.Tさんの文章は多少自嘲・自虐ぎみですが、体験的部落解放運動論として貴重です。奈良のFさんの文章は運動の第一線からの反響として採録させてもらいました。Sさんの感想、Nさんの「十年」、ぜひ読みたいな。
☆本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)