同和はこわい考通信 No.124 1998.3.23 発行者・藤田敬一

《 隋感・随想 》
『同和はこわい考』の十年-なにが見えてきたか-③
藤田 敬一
1.
 『こわい考』が波紋を呼んだ主な原因は、部落解放運動における対話のとぎれとその背後にひそむ差別・被差別の隔絶された関係を具体的に指摘したことにあったように思う。
 ある読者はこう述べている。

何かひっかかるのです。これが何なのか、いろいろ考えてみました。だいたい学者さんというのは、物事を客観的に冷静に見る眼を必要とされる商売です。
だから、何か、突き放したような書き方になるのは仕方がないとは思いますが、どうもしっくりしないのです。それがなぜなのかを、ずーっと考えてみて、次のような結論が出ました。
 それは、作者に、部落差別に対する“怒り”みたいなものを、あまり感じないということです。いったい、作者には「差別は許せない!」「部落を解放しなくちゃいけない!」という、必要とでもいうか、せっぱつまったものはあるのでしょうか。(略)ぼくの場合、自分が直接差別されて、その“怒り”をバネに、運動をはじめ、自分の子どもにだけは同じようなめにあわせたくない、もし、子どもが差別にあっても、その時、言い返せるだけの力をつけてやりたいという気持ちできょうまで続けてきました。この作者が、運動を始めた契機は何なのでしょうね。作者にとって、部落差別は、どうしてもなくさなければいけない必要のあるものなのでしょうか。(『通信』No.12,88/5)

この人は、「ぼくは、この本が気にいりました」と書き、「解放同盟中央の物乞い路線」「差別の切り売り」を批判しつつ、わたしの物言いが客観的にすぎる、冷静すぎる、何か突き放したような感じがする、部落差別に対する怒りが感じられないといい、わたしに部落解放運動にかかわる必然性があるのかと問う。
 彼が求めるのは、「差別は許せない!」「部落を解放しなくちゃいけない!」と、“部落差別への怒り”を自分たちと共有し、その“怒り”を、表情・しぐさ・言葉・行動で表現するような人間なのであろう。
 人は、苦しみ・悲しみ、憂さ・辛さ、怒り・嘆きを共有する人を求める。他者との交感・共感・同感を願わぬ人はいない。願うからこそ言葉を発し、文章を綴るのである。そのことを否定しているのではない。問題は、運動や組織が「怒りの共有にもとづく一体感」を必要とし、それによって「こちら」と「あちら」を区分けし、「こちら」の団結心と「あちら」に対する闘争心を高めようとすることなのだ。この「怒りの共有にもとづく一体感」が事柄のありようを見えなくさせ、人と人との関係をいびつなものにしてきたのではないか。
 わたし自身、部落差別の現実への怒りと「怒りの共有にもとづく一体感」なるものに舞い上がり、まわりの人びとが見えず、事柄のしくみが見えなかったのである。
そのあたりのことについて、『こわい考』ではこう書いた。

わたしも偉そうなことはいえない。つい最近まで「差別の結果」論にとらわれていたのだから。思えば、学生時代に朝田善之助さんから「反社会も社会性としてとらえること」と教わって目からうろこが落ちたような気持になったものだ。社会的秩序からの逸脱行為としての「反社会」も「差別の結果」論というプリズムを通すことによって、了解可能となるばかりでなく、その「暴力」すらも反体制、反権力、反秩序の位相にあるようにみえたのだった。(略)しかし、どこかに違和感があったことも事実である。被差別部落民、部落解放運動、部落解放同盟にすり寄っている感じが抜けなかった。それは、いまから考えると、わたしの「被差別像」がありきたりの啓蒙主義的なそれから一歩も出ていなかったからだ。その意味で、わたしは、まぎれもない随伴者であった。「主体なき同一化」を特徴とする随伴者であるかぎり自己との緊張も生まれようがなく、したがって差別・被差別関係の全体像をとらえることは不可能だった。
(『こわい考』67~68頁)

「差別の結果」論による正当化は、わたしの論理でもあった。
 「こちら」と「あちら」がある以上、どちらにもそれぞれの理屈と論理があり、わたしは一所懸命「こちら」、つまり部落民と部落解放運動と部落解放同盟に身と心をすり寄せていたように思う。70年代には糾弾や行政交渉に加わり、激しい言葉を相手に投げつけたこともあるし、研修会では「部落問題を自分自身の問題として受けとめてもらいたい」と語気を強めて語り、「無知は差別だ」といいつのったこともある。しかし、わたしの怒りと使命感は空まわりしただけでなく、気がつけば人びとの心を閉ざすことになっていた。
 次第に「こちら」と「あちら」の二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがさないかぎり、差別問題の実相は見えてこないと考えるようになった。「二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがす」とは、「側」に身と心をすり寄せない精神、あるいはどちらの「側」にも出入り自由な精神、要するに呪縛じゅばくから解き放たれた精神をもつことである。それがいかに困難であるかわかったうえで取り組もうとしたのではない。傲慢に聞こえるかもしれないが、そうするしかなかったのである。『こわい考』は、「部落差別への怒り」を語ることを課題としていないのだから、「怒りの共有にもとづく一体感」を他者に求め、それになじんできた人にとってしっくりこないのは当然だったろう。ましてわたしを知る活動家が、味方だと思い、横並びでいっしょに歩いていたつもりの人間が突然一歩前に出て振り向きざまに注文をつけたように感じ、戸惑ったとしても無理からぬところがある。
 だが、同盟中央にとっては戸惑ったままですませるわけにはいかなかった。なぜなら、『こわい考』は部落解放運動の思想的な根拠を揺るがすものと受け取られたからである。

2.
 ところで、先にあげた読者の感想には、どことなく「部落差別を受けたこともなければ、受ける可能性のない人間」に対する不信が感じられる。そうでなければ、作者(藤田)に部落解放運動にかかわる必然性、「せっぱつまったもの」があるのかと問うわけがない。しかし、さらにその底に、部落民である「ぼく」にはそれがあるという気概、「生きること、毎日の生活そのものが、差別とのたたかいである」(同上)という思いがある。このような「問いと気概と思い」が呈示されたとき、人はどう応えることができるだろうか。たいていの場合、沈黙するしかないのではないか。かくして、沈黙は対話のとぎれへとつながる。
 わたしは、いくどとなく「部落民でない者になにがわかるか、わかるはずがない」「足を踏んでいる者には、踏まれている者の痛さがわからない」といわれてきた。それは決してわたしだけの経験ではなかった。これに類する言葉が吐かれたり、あるいは「被差別」の体験・資格・立場が披瀝ひれきされることによって対話がとぎれてしまう事態が広く見られることは、多くの人が体験的に知っている。事柄は、部落問題にかぎらない。差別・被差別、抑圧・被抑圧、侵略・被侵略などなどにかかわる人と人との関係に共通する問題でもあるはずだ。
 わたしは対話がとぎれる原因を「差別される」側にだけ求める考え方を退け、そのうえで、しかし「被差別」の体験・資格・立場を絶対化することによって批判の拒否、共感の喪失、自己正当化の傾向を生み、それが差別・被差別関係の固定化を惹き起こしていることに目を向けるべきだと指摘した。わたしのこのような意見は「被差別側に責任を転嫁するもの」として反発を招いたのだった。反発した人の中に、「差別する」側の人間に「差別される」側を批判する資格はないという発想がなくはなかったと思う。それを一番率直に表現したのが小森龍邦さんだったが、濃淡の違いはあれ、感情的に反発した人に同じような心理的葛藤があったことはいなめない。ある旧い友人は『こわい考』がきっかけになって、自らの中にひそんでいた「部落民でない者に、部落民の気持は通じるはずがない」という心理・意識を一気に表面化させ、反発するということも起こった。意識の底に抑圧されていたものが噴き出した結果にちがいない。
 『こわい考』は、部落解放運動が暗黙の前提としてきた「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」という考え方でいいのかと問題提起した。そのために部落解放運動の根拠を揺るがすものとして批判されたわけだが、批判それ自体がかえって部落解放運動の依拠してきたのが、他ならぬのテーゼであることをはっきりさせたのだった。いまでは大きい声でこのテーゼを主張する人ははとんど見られなくなったとはいえ、根はまだ残っている。運動の基調として復活する可能性はなくなっていない。もし復活するなら、いよいよ部落解放運動は孤立化の道を歩むしかあるまい。
 しかし『こわい考』の提起を受けて、新たな関係を模索しようとする人もいた。当時、部落解放同盟奈良県連書記長だった山下 力さんは、次のように述べている。

すでに部落解放運動は六五年余の歴史を重ねてきた。その道すがら、多くの部落民でない人びとの関わりがあった。革命を志す人たちがいた。労働運動や農民運動の活動家がいた。差別の現実に憤慨して参加してきた正義感に満ちあふれる人たちも少なくなかった。そして、教師や学者、研究者、学生などのインテリゲンチャもいたのである。とりわけ、六五年の同和対策審議会「答申」、六九年同和対策事業特別措置法の制定と七○年狭山闘争の開始によって大衆運動の高揚が導き出された頃には、まさにきら星のごとくに多才な人材が部落解放運動の周辺に見えかくれしていたものである。
 しかし、いま、その潮は静まりかえっている。これは一体どうしたことであるのか。確かに「足を踏んでいる者が踏まれている者の痛さをわかろうとしなかった」と結論づけて済ませられる人たちも少なくなかったのは事実であろう。しかしながら、すべての人が「そうであった」と私も思わない。思いたくないのである。私たちが追求してきた反差別共闘や部落解放国民運動が全く意味をもたなくなるからである。「なにがあったのか」という私のとまどいに藤田さんはズバリと切り込んできた。すなわち、部落解放運動に関わりをもってきた部落外の人々へのわが同盟の活動家の関わりに問題があったというのである。この問題提起を私は率直に受けとめたいと思う。
 部落民に限らず、被差別の立場にある人々には、各々固有の「感情のひだ」のようなものがある。(略)差別問題と関わるとき、常にこの固有の「感情の襞」は大切に凝視しつづけなければならない。なぜならば、過去から現在に至るまで被差別の立場にある者は、逆の立場の人々からこの懊悩おうのうを無視され、傷つけられてきたからである。だからこそ、「お前らに何がわかるか」と殻に閉じこもろうとしてきたのだ。正直に言えば、私もその気持を捨てきれずにきた。
 しかし、いま、藤田さんは私たち活動家にその殻に逃げこむなと告発してきたのだ。誠にしんどいことを言う人である。実際のところ共同闘争の現場は困難が山積している。不毛の土地に小さな石積みを繰り返していく苦悩がある。これまでのささやかな経験などは何の役にも立たない。疲れて逃げたくもなる。それでいて部落解放運動の活動家としての立場だけは守っておきたいと思う。こんなとき、私たちが逃げ込んできた殻は、実に「甘酸っぱい」香りがする心安らぐ場所であった。
 藤田さんに見つけられたので私はもう秘密の場所には隠れないことにする。今日の部落解放運動の状況は、そんな甘っちょろいかくれんぼが許されるほど悠長なものではない。あらゆる被差別の立場の者が互いに課題を突きつけ合い、また、差別・被差別関係総体の止揚にむけた「具体的で、緊張にみちた共同の闘い」を模索しなければと私も考える。少なくなったけれども私たちの周辺にはまだ、部落解放運動に真摯に関わりつづけている部落民でない仲間がいる。どんな厳しい批判を彼らがしようとも、「部落民でないお前に何がわかるか」などと決して言うまい。いわんや、「それは日共と同じ役割をする利敵行為だ」とか「融和主義だ」などのレッテル貼りなどで守れる立場や権威など、運動に百害あって一利なしだと考える。批判の拒否は、結局のところ自らが「裸の王   様」になる道しか残されていないと確信するからである。(「ここちよい殻から抜け出すとき」『こぺる』No.118,88/10、『同和はこわい考を読む』所収)

長い引用になってしまった。わたしの問題提起の核心部分が確実に山下さんに受けとめられていることを知ってほしかったからである。

3.
 「被差別正義」が罷りとおり、開かれた議論がなされず、対話がとぎれるかぎり、部落解放運動はいつまでたっても共同の営みにならず、「差別される」側が主人で、「差別する」側は客人という構図は変わらない。わたしは自らを客人と位置づけ、それらしく振る舞うことでよしとするわけにはいかなかった。なぜ客人として遇されることでよしとしなかったのか。それは、主人・客人の関係は接待の場面ならいざ知らず、人間の問題としての部落差別をともに考えようとする場には似つかわしくないからだ。なにより、それではあまりにも他人行儀、よそよそしすぎる。
 では、どうしたらよいか。わたしがたどりついたのは、体験・資格・立場の相対化と差別・被差別関係の対象化であった。
 『こわい考』に、こんなことを書いている。

自己の成育史や生活体験を絶対化してしまうと、他の人にも程度と質の違いはあれ、それなりの苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さがあることへの配慮がなくなり、「やさしさ」を失う。他者への共感がないところで人間解放への希求を語っても説得力はない。(68頁)

体験・資格・立場の相対化とは、簡単にいえば自分だけが、自分たちだけがこの世の中で一番不幸だと考えないことである。ところが、伝統的な部落第一主義・部落排外主義的な考えが根強かったところへ特別枠の行政措置が重なったのだから、部落問題と部落民が特別化され、それが特権化を生む危険性があることへの警戒心が緩むのはやむをえなかったのかもしれない。特別化と特権化を防ぐには、体験・資格・立場を常に相対化する必要があったのだが、特別措置要求の合唱の中で、そんな声はかき消されるほかなかった。
 当然のことながら、そこでは紋切り型(ステレオタイプ)の部落民像が横行せざるをえない。先に引用した読者の感想のように、「部落民にとって、生きること、毎日の生活そのものが、差別とのたたかいである」と口に出していう人がいた。かつて啓蒙主義的な被差別像にとらわれていたころのわたしなら、こんな言葉を聞くとそれだけで降参していたが、次第にほんとにそうだろうかと疑いを抱くようになる。過剰な思い入れにもとづく誇張された自画像としか考えられなくなったからである。そんな暮らしをつづけていたら、しんどくなってつぶれるにきまっている。愉しいこともうれしいこともあっての暮らし、生活であるはずだ。それに他者の苦しみ・悲しみ、憂さ・辛さ、怒り・嘆きにときとして心を寄せ、共感・同感することはあっても、それらと無関係に日々の生活が過ごせるという人間の現実、限界から「部落民」だけがまぬがれているわけではないのである。暮らし、生活の一面を切り取って大写しにしたり、心の揺れを拡大するとき、虚構が入り込む。
 ここまで来ると、「部落民とはなにか」という問題まであと一歩である。
 「部落民」をどう定義しても収まり切らないものがある。つまり、あいまいになってしまうのだ。

被差別部落民を一義的に概念規定しようとすることが無理なのです。なぜなら被差別部落民は法制的な存在ではなく、社会的な存在だからです。社会的な存在とは、この列島上に展開されてきた歴史に深く根ざしつつ、今日ただいまの暮らしのなかに生きる、部落差別を媒介にした人と人との関係においてイメージ化される存在だということです。/つまり被差別部落民を、なにか実体として存在するかのように概念規定するのでなくて、たとえばサルトル風に「被差別部落民とは、他の人びとが、被差別部落民と考えている人間である」(略)
ぐらいにしておくほうが、固定的な幻想としての“被差別部落民”像から自由になり、立場・資格の相対化へとつながりやすいと思う。(略)
 そこで、わたしが考えるに、誰か他者を被差別部落民として見たり、遇したりする人、誰か他者から被差別部落民として見られたり、遇されたりする人それぞれが自らの“被差別部落民”像をたどり、部落差別を媒介にした人と人との関係をみつめ、おのれの生き方を選びとるしかないのではありませんか。そのときひょっとしたら立場・資格が対象化、相対化され、これまでのねじれた関係にもとづく出会いではなく、もう少しましな個人と個人との出会いが生まれるかもしれません。(略)とりあえずは「両側から超える」の「側」をとっぱらい、しかし現に生きている「側」にこだわり、部落差別の現状をみすえ、共同の営みをまさぐる、そんな人と人とのつながりを求めて、わたしなりに思索をつづけることにします。(「わたしのなかの“被差別部落民”像をたどり、人と人との関係を考える-住田・灘本往復書簡を読む②」、『通信』No.54、92/2/24.一部語句補正)

これが一応の結論だった。「あいまいさ」を逆手にとり、「あいまい」であるからこそ「個々の解き放たれた関係」がつくれるという考え方である。昔なら融和主義として批判されかねないものだが、わたしは「側」・集団・共同体間の関係を一気、一挙に「解き放つ」ことなどとても無理だと思う。それが可能だと信じたときに間違いが起こった。「個々の解き放たれた関係」を基礎に、その輪を広げていけば、道が開けてくるのではないか。そんなことを考えるようになった。
 いつぞやあるところで「一人でできることは高がしれているが、一人だからこそできることがある」といったら、「一人でできることとは、なんですか」とたずねた人がいる。そこで、「一人でなにができるか考えるのが、一人でできることの始  まり、第一歩ではないですか」と応えた。詭弁きべんろうして逃げたわけではない。この二十年、わたし自身、一人で、自分の言葉で考え、表現するようにしてきた。そうすると各地に数は少ないが同じように一人で、自分の言葉で考え、表現する人がいることがわかってくる。正統かつ正当とされる常識的な考え方に納得できない、そんな人びととの出会いとつながりが、いまのわたしにはなによりもありがたい。
 野町 均さんは、『こわい考』は部落問題についての言論の場を民主主義の精神で裏打ちしようとしたところに最大の意義があるのではないかという(『通信』No.116,97/7/4)。民主主義を多数決原理ぐらいにしか理解していない人は多いが、差別・被差別の隔絶された関係を変えるには「異論表明を歓迎する寛容の精神」としての民主主義が不可欠であると、わたしも考える。『こわい考』がかかる精神の広がりに「なにほどかの力」を果たしたとすれば、やはりうれしい。
 『こわい考』が出た当初反発を示した人とも、いまでは親しい間柄になっているというケースもある。十年の歳月は、見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるようになるために必要な時間なのかもしれない。つまり、人は変わりうるものであって、焦るなということであろう。心したいと思う。(完)

《 川向こうから 》
「『こわい考』の十年」は今号でオシマイ。「運動と随伴的知識人」、「組織と個人」についても論じたかったけれど、今回はこれくらいにしておきます。いつの日にかまた「『こわい考』の○○年」を書くこともあるでしょうから。
某日、福岡県に出かけ、真宗大谷派京都組みやこそや福岡水平塾の友人たちとじっくり話をしてきました。通信手段がすすんで顔を合わさなくてもいいようなもんですが、それが大きな間違いなのです。風土をからだ全体で感じながら、顔を合わせて議論することに意味がある。幕末期、吉田松陰や橋本左内なんかよく旅をして各地を訪れています。あれって、情報収集だけではなくて、書簡のやりとりに飽き足らず、直接意見交換することで自分の考えをまとめ、つくりあげるためのものだったのではないですかね。わたしもこれから松陰や左内のまねをして、できるだけ旅をしようっと。それにしても、行橋ゆくはしでよばれたフグはうまかったなあ。
某日、NHKのETV特集「弁護士・中坊なかぽう公平」の再放送を見たので、『野戦の指揮官・中坊公平』(日本放送出版協会、97/11)を読んでみました。森永砒素ミルク事件・豊田商事事件・豊島てしま産廃裁判にかかわり、そしていま住宅金融債権管理機構(住管機構)の社長でもある中坊さんの思想が興味深かった。「現代のヒーロー」と持ち上げるだけではすまない人物のようです。彼の発想の根幹には、「世間は冷たい」という認識があり、この冷たい世間を相手に、歴史の批判に耐えられる運動をつくることが最大の課題とされる。テレビでは、たしか「大義や志はカネに代えられない」と語っていたように思います。弁護士・牧師・医師は人の不幸を職業のタネにしているだけに問題が多いとか、ともかく現場に行くことが肝心だとか、いろいろ考えさせられる話もあって有益でした。
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