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《 隋感・随想 》
『同和はこわい考』の十年-なにが見えてきたか-③
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藤田 敬一
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1.
『こわい考』が波紋を呼んだ主な原因は、部落解放運動における対話のとぎれとその背後にひそむ差別・被差別の隔絶された関係を具体的に指摘したことにあったように思う。
ある読者はこう述べている。
この人は、「ぼくは、この本が気にいりました」と書き、「解放同盟中央の物乞い路線」「差別の切り売り」を批判しつつ、わたしの物言いが客観的にすぎる、冷静すぎる、何か突き放したような感じがする、部落差別に対する怒りが感じられないといい、わたしに部落解放運動にかかわる必然性があるのかと問う。 彼が求めるのは、「差別は許せない!」「部落を解放しなくちゃいけない!」と、“部落差別への怒り”を自分たちと共有し、その“怒り”を、表情・しぐさ・言葉・行動で表現するような人間なのであろう。 人は、苦しみ・悲しみ、憂さ・辛さ、怒り・嘆きを共有する人を求める。他者との交感・共感・同感を願わぬ人はいない。願うからこそ言葉を発し、文章を綴るのである。そのことを否定しているのではない。問題は、運動や組織が「怒りの共有にもとづく一体感」を必要とし、それによって「こちら」と「あちら」を区分けし、「こちら」の団結心と「あちら」に対する闘争心を高めようとすることなのだ。この「怒りの共有にもとづく一体感」が事柄のありようを見えなくさせ、人と人との関係をいびつなものにしてきたのではないか。 わたし自身、部落差別の現実への怒りと「怒りの共有にもとづく一体感」なるものに舞い上がり、まわりの人びとが見えず、事柄のしくみが見えなかったのである。 そのあたりのことについて、『こわい考』ではこう書いた。
「差別の結果」論による正当化は、わたしの論理でもあった。 「こちら」と「あちら」がある以上、どちらにもそれぞれの理屈と論理があり、わたしは一所懸命「こちら」、つまり部落民と部落解放運動と部落解放同盟に身と心をすり寄せていたように思う。70年代には糾弾や行政交渉に加わり、激しい言葉を相手に投げつけたこともあるし、研修会では「部落問題を自分自身の問題として受けとめてもらいたい」と語気を強めて語り、「無知は差別だ」といいつのったこともある。しかし、わたしの怒りと使命感は空まわりしただけでなく、気がつけば人びとの心を閉ざすことになっていた。 次第に「こちら」と「あちら」の二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがさないかぎり、差別問題の実相は見えてこないと考えるようになった。「二項対立的枠組み、図式から身と心を引きはがす」とは、「側」に身と心をすり寄せない精神、あるいはどちらの「側」にも出入り自由な精神、要するに呪縛から解き放たれた精神をもつことである。それがいかに困難であるかわかったうえで取り組もうとしたのではない。傲慢に聞こえるかもしれないが、そうするしかなかったのである。『こわい考』は、「部落差別への怒り」を語ることを課題としていないのだから、「怒りの共有にもとづく一体感」を他者に求め、それになじんできた人にとってしっくりこないのは当然だったろう。ましてわたしを知る活動家が、味方だと思い、横並びでいっしょに歩いていたつもりの人間が突然一歩前に出て振り向きざまに注文をつけたように感じ、戸惑ったとしても無理からぬところがある。 だが、同盟中央にとっては戸惑ったままですませるわけにはいかなかった。なぜなら、『こわい考』は部落解放運動の思想的な根拠を揺るがすものと受け取られたからである。
2.
ところで、先にあげた読者の感想には、どことなく「部落差別を受けたこともなければ、受ける可能性のない人間」に対する不信が感じられる。そうでなければ、作者(藤田)に部落解放運動にかかわる必然性、「せっぱつまったもの」があるのかと問うわけがない。しかし、さらにその底に、部落民である「ぼく」にはそれがあるという気概、「生きること、毎日の生活そのものが、差別とのたたかいである」(同上)という思いがある。このような「問いと気概と思い」が呈示されたとき、人はどう応えることができるだろうか。たいていの場合、沈黙するしかないのではないか。かくして、沈黙は対話のとぎれへとつながる。わたしは、いくどとなく「部落民でない者になにがわかるか、わかるはずがない」「足を踏んでいる者には、踏まれている者の痛さがわからない」といわれてきた。それは決してわたしだけの経験ではなかった。これに類する言葉が吐かれたり、あるいは「被差別」の体験・資格・立場が披瀝されることによって対話がとぎれてしまう事態が広く見られることは、多くの人が体験的に知っている。事柄は、部落問題にかぎらない。差別・被差別、抑圧・被抑圧、侵略・被侵略などなどにかかわる人と人との関係に共通する問題でもあるはずだ。 わたしは対話がとぎれる原因を「差別される」側にだけ求める考え方を退け、そのうえで、しかし「被差別」の体験・資格・立場を絶対化することによって批判の拒否、共感の喪失、自己正当化の傾向を生み、それが差別・被差別関係の固定化を惹き起こしていることに目を向けるべきだと指摘した。わたしのこのような意見は「被差別側に責任を転嫁するもの」として反発を招いたのだった。反発した人の中に、「差別する」側の人間に「差別される」側を批判する資格はないという発想がなくはなかったと思う。それを一番率直に表現したのが小森龍邦さんだったが、濃淡の違いはあれ、感情的に反発した人に同じような心理的葛藤があったことはいなめない。ある旧い友人は『こわい考』がきっかけになって、自らの中にひそんでいた「部落民でない者に、部落民の気持は通じるはずがない」という心理・意識を一気に表面化させ、反発するということも起こった。意識の底に抑圧されていたものが噴き出した結果にちがいない。 『こわい考』は、部落解放運動が暗黙の前提としてきた「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」という考え方でいいのかと問題提起した。そのために部落解放運動の根拠を揺るがすものとして批判されたわけだが、批判それ自体がかえって部落解放運動の依拠してきたのが、他ならぬのテーゼであることをはっきりさせたのだった。いまでは大きい声でこのテーゼを主張する人ははとんど見られなくなったとはいえ、根はまだ残っている。運動の基調として復活する可能性はなくなっていない。もし復活するなら、いよいよ部落解放運動は孤立化の道を歩むしかあるまい。 しかし『こわい考』の提起を受けて、新たな関係を模索しようとする人もいた。当時、部落解放同盟奈良県連書記長だった山下 力さんは、次のように述べている。
長い引用になってしまった。わたしの問題提起の核心部分が確実に山下さんに受けとめられていることを知ってほしかったからである。
3.
「被差別正義」が罷りとおり、開かれた議論がなされず、対話がとぎれるかぎり、部落解放運動はいつまでたっても共同の営みにならず、「差別される」側が主人で、「差別する」側は客人という構図は変わらない。わたしは自らを客人と位置づけ、それらしく振る舞うことでよしとするわけにはいかなかった。なぜ客人として遇されることでよしとしなかったのか。それは、主人・客人の関係は接待の場面ならいざ知らず、人間の問題としての部落差別をともに考えようとする場には似つかわしくないからだ。なにより、それではあまりにも他人行儀、よそよそしすぎる。では、どうしたらよいか。わたしがたどりついたのは、体験・資格・立場の相対化と差別・被差別関係の対象化であった。 『こわい考』に、こんなことを書いている。
体験・資格・立場の相対化とは、簡単にいえば自分だけが、自分たちだけがこの世の中で一番不幸だと考えないことである。ところが、伝統的な部落第一主義・部落排外主義的な考えが根強かったところへ特別枠の行政措置が重なったのだから、部落問題と部落民が特別化され、それが特権化を生む危険性があることへの警戒心が緩むのはやむをえなかったのかもしれない。特別化と特権化を防ぐには、体験・資格・立場を常に相対化する必要があったのだが、特別措置要求の合唱の中で、そんな声はかき消されるほかなかった。 当然のことながら、そこでは紋切り型(ステレオタイプ)の部落民像が横行せざるをえない。先に引用した読者の感想のように、「部落民にとって、生きること、毎日の生活そのものが、差別とのたたかいである」と口に出していう人がいた。かつて啓蒙主義的な被差別像にとらわれていたころのわたしなら、こんな言葉を聞くとそれだけで降参していたが、次第にほんとにそうだろうかと疑いを抱くようになる。過剰な思い入れにもとづく誇張された自画像としか考えられなくなったからである。そんな暮らしをつづけていたら、しんどくなってつぶれるにきまっている。愉しいこともうれしいこともあっての暮らし、生活であるはずだ。それに他者の苦しみ・悲しみ、憂さ・辛さ、怒り・嘆きにときとして心を寄せ、共感・同感することはあっても、それらと無関係に日々の生活が過ごせるという人間の現実、限界から「部落民」だけがまぬがれているわけではないのである。暮らし、生活の一面を切り取って大写しにしたり、心の揺れを拡大するとき、虚構が入り込む。 ここまで来ると、「部落民とはなにか」という問題まであと一歩である。 「部落民」をどう定義しても収まり切らないものがある。つまり、あいまいになってしまうのだ。
これが一応の結論だった。「あいまいさ」を逆手にとり、「あいまい」であるからこそ「個々の解き放たれた関係」がつくれるという考え方である。昔なら融和主義として批判されかねないものだが、わたしは「側」・集団・共同体間の関係を一気、一挙に「解き放つ」ことなどとても無理だと思う。それが可能だと信じたときに間違いが起こった。「個々の解き放たれた関係」を基礎に、その輪を広げていけば、道が開けてくるのではないか。そんなことを考えるようになった。 いつぞやあるところで「一人でできることは高がしれているが、一人だからこそできることがある」といったら、「一人でできることとは、なんですか」とたずねた人がいる。そこで、「一人でなにができるか考えるのが、一人でできることの始 まり、第一歩ではないですか」と応えた。詭弁を弄して逃げたわけではない。この二十年、わたし自身、一人で、自分の言葉で考え、表現するようにしてきた。そうすると各地に数は少ないが同じように一人で、自分の言葉で考え、表現する人がいることがわかってくる。正統かつ正当とされる常識的な考え方に納得できない、そんな人びととの出会いとつながりが、いまのわたしにはなによりもありがたい。 野町 均さんは、『こわい考』は部落問題についての言論の場を民主主義の精神で裏打ちしようとしたところに最大の意義があるのではないかという(『通信』No.116,97/7/4)。民主主義を多数決原理ぐらいにしか理解していない人は多いが、差別・被差別の隔絶された関係を変えるには「異論表明を歓迎する寛容の精神」としての民主主義が不可欠であると、わたしも考える。『こわい考』がかかる精神の広がりに「なにほどかの力」を果たしたとすれば、やはりうれしい。 『こわい考』が出た当初反発を示した人とも、いまでは親しい間柄になっているというケースもある。十年の歳月は、見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるようになるために必要な時間なのかもしれない。つまり、人は変わりうるものであって、焦るなということであろう。心したいと思う。(完) |
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《 川向こうから 》
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