同和はこわい考通信 No.122 1998.1.30. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
『同和はこわい考』の十年-なにが見えてきたか-①
藤田 敬一
『こわい考』が出版されて10年半。友人の寄稿も一段落したようなので、奈良の『部落解放連動・情報』No.14(97/9/20) に寄せた文章を下敷きにして、わたしの感想を書くことにします。

1.
 『こわい考』は、岐阜でつくっていたサークル・太平天国社発行の『天国つうしん』に、85年12月から87年4月まで「同和問題意識調査を読む」と題して断続的に連載したものがもとになっている。ちなみに「同和はこわい考」というのは、86年10月号からつけたタイトルで、本にするとき書名にしたのだが、この表題はごく自然に頭に浮かんだ。「同和はこわい」という意識、心理の分析を抜きにして、あれこれ理屈をならべたてても意味がない。めざす本丸はこれだという気持であった。それに、「考」が考証、考究、考察、論考の「考」であることは少し辞書を調べればわかってもらえるだろうと思っていた。ところが、この書名が一部の人に要らぬ誤解を与えた。わたしが「同和はこわい」と主張しているかのように受け取られたのである。ある県連に寄贈したら、「あれ、おまはんのセンスか」と詰問調の電話が書記長からかかってきた。彼との関係はいまも切れたままである。人には誤読の自由があり、誤解の権利があるというのは真理だとあらためて教えられたのだった。
 さて、『天国つうしん』の配付部数は170部、読み手はごくごく親しい友人・知人にかぎられていた。70年代以来、部落解放運動の再生・蘇生をもとめる運動の渦中に身を投じ、悪戦苦闘したあげく疲労困憊して岐阜に戻り、一から考え直そうとして覚書風に書き始めたものである。『天国つうしん』は規模といい、対象といい、ちょうどわたしの身の丈にあっていたから、力まずに考えをのべることができた。
 たしか86年の秋ごろだったと思う。友人が「ワープロでうち直してパンフレットにしようか」「本にしたらどうか」といってきてくれた。うれしかったけれど、不特定多数の人の目にふれるような形にする気はなく、婉曲に断った。部落解放運動の中で書いた文章のほとんどすべてがなんの反応も呼び起こさなかったことに、正直いってまいっていたからである。師岡佑行著『戦後部落解放論争史』第5巻(柘植書房、85年)が、部落解放中国研究会の機関誌『紅風』(79/9~79/11)にのせた「部落解放運動の現状に切り込む論争を-『解放新聞』紙上の師岡・大賀論文を読む」を取り上げてくれたのが唯一の例外で、わたしの文筆をふくむ活動は完全な一人相撲、空振り三振だった。もう金輪際、運動にかかわって顔が見えない人を相手に文章を書いたり、話したりするようなことはすまいと心にきめていたのである。
 ところが、86年12月14日、京都部落史研究所主催の「シンポジウム:地対協部会報告・意見具申の意味するもの」に参加したことで考えが変わった。所長の師岡さんがパネラーに加わり、事務局長の山本尚友さんが司会を担当するということで、開会挨拶の役がわたしにまわってきた。短い挨拶をしたあと、各パネラーの意見に耳を傾けたのだが、どなたの発言もみな地対協部会報告書と意見具申への批判に終始し、質疑応答もありきたりで、なかなか本題に入らない。こんな話を聞くためにわざわざ岐阜から出てきたのではないとイライラし、とうとう黙っておれなくなって、「地対協の意見が市民に受け入れられやすいことにもっと注目すべきだ」と会場から発言した。そしたら拍手が起こるではないか。わたしの意見を公表する意味が少しはあるかもしれないと思ったのはそのときである。
 さっそく岐阜に帰り、太平天国社の友人たちと自費出版の計画をたてた。自費といっても太平天国社に資金などあるはずがないし、友人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。そこで印刷業を営む戸田二郎さんに、こちらのふところ具合を打ち明けた。なんとか500部ぐらいは発行できそうだという。500部なら友人、知人が買ってくれるだろうということで出版に踏み切り、戸田さんに作業を始めてもらった。ところが途中でその話が阿吽社に伝わり、「あうん双書」の一冊に入れてもよいとの連絡があって、一転、阿吽社からの発行ということになった。
 誰しも自分の書いたものが本になることはうれしいものだ。しかし、わたしは喜んでばかりいたわけではない。これまでの経験によれば、「主観的にどうであれ、客観的には差別の拡大、助長につながる」、「利敵行為だ」との批判が起こることが充分予測できた。わたしには、それらの批判に答える責任がある。お前に、責任を果たす覚悟はあるのか。どんな形で責任をとるつもりなのか。想像するだけで気の重くなるようなやりとりに耐えられる気力が、お前にあるのか。そんなことを自問し、自答していた。「この冊子を読んでくださる方に」「あとがき」「太平天国社の紹介」を書き終えて阿吽社に原稿を渡し、『こわい考』が自分の手から離れた段階でも、これから起こるであろう波紋を考えて緊張する自分をもてあまし、酔うと感情が高ぶり、われながら始末に負えなかった。

2.
 全文76頁、目次とうしろにつけた往復書簡などを加えてもわずか136頁、書棚に立てれば両側の本に隠れ、よほど注意しないと見落としてしまうくらいの小冊子である。ある人は「書店で見たが、薄っペらなパンフレットだから買わなかった」というし、ある新聞社は「パンフレットだから書評の対象にはしない」ときめたという。分厚くて硬い表紙の本のほうに目移りするのが人情というものである。『天国つうしん』に連載中は、かすれがちな手書きのファクス印刷だったためか目を通さなかった人が、本になってウワサを聞いて初めて読んだということもあった。ことほどさように世間というものは、内容より体裁に惹かれるのである。また、無名の者より有名な人に重きをおくのも世の習い。あれこれ考えてみると、『こわい考』が無視されてもおかしくはなかったし、無視されるかもしれないと悲観的になるときもあった。しかし『紅風』の編集をしていたころ、このテーマは遅かれ早かれいずれ共通の課題になると確信していた。もしそれが共通の課題にならないとしたら、部落解放運動に前途はないとさえ考えていたのである。
 87年5月16日、阿吽社で出来たての『こわい考』を手にした。58年6月、部落問題研究所で木村京太郎さんから「部落問題を勉強するには、本を読むことも大切やけど、ともかく未解放部落へおいき。そこで人びとの暮らしぶりを見て、人びとの思いと願いを聞かしてもらうことが肝心やよ」とのアドバイスを受け、木村さんの名刺の裏に書かれた紹介状をもって京都田中の朝田善之助さん宅を訪れたのは7月中旬だった。あれから29年がたとうとしている。この小さな本は、部落解放運動の中で学び、考えてきた事柄がつまっていると思うと感慨深く、お世話になったいろんな人の顔が浮かんだ。師岡笑子さんならどんな感想をいってくださるか、無性に聞きたかった。わたしは、運動の中でしんどくなると師岡さんの家によく出かけた。師岡夫妻はわたしの仲人でもあるが、笑子さんとは学生部落研いらいの知り合いで、持病の喘息で酒が駄目な佑行さんにかわって相手になり、わたしのとりとめない愚痴を聞いてくださった。『こわい考』は愚痴の産物だと書いたことがあるけれども、愚痴をいうことによって情況を対象化し、問題のありかがわかることもある。黙って愚痴を聞いてくれる友人こそほんとの友人だとつくづく思ったものである。しかし、その笑子さんはすでにいない。「三十年目の答案」を読んでほしかった朝田さんもいない。そのころまだお元気だった木村さんと病床にある米田富さんには感謝をこめて一冊お送りすることにした。その日、校正原稿をもとに書いてくださった横井清さんの書評「『心理』と『思想』の狭間から」(こぺる編集部編『「同和はこわい考」を読む』阿吽社、88年所収)の原稿を読ませてもらった。わたしの思いと考えをまっすぐ受けとめてくださっているのを知り、うれしかった。
 出版前に野坂昭如さんと土方鉄さんの推薦文を掲載したチラシを友人、知人に送っていたこともあり、各地からぞくぞくと電話などでの注文が届いた。京都部落史研究所の機関誌『こぺる』は、「『同和はこわい考』を読む」と題する連載を開始し、まっさきに紹介してくれた『京都新聞』は論説委員の吉田賢作さんとわたしとの対談を3回にわたってのせ、『朝日新聞』には編集委員の高木正幸さんの書いた記事が、『朝日ジャーナル』には千本健一郎さんによるインタビュー記事と「『同和はこわい考』論議の渦中から」の連載がのった。読者欄に住田一郎さんの投書を見つけ、それがきっかけになって知り合うということもあったし、発行から一年たって共同通信が『こわい考』とわたしを紹介する記事を配信し、それを読んだ島根県隠岐の読者から便りが届くということもあった。忘れられないのは、リラ亭のマスター木村勝次さんを初め、友人や読者が身近な人に勧めてくださったことである。『こわい考』はみんなでいっしょに広めたのだった。現在の発行部数は3万、まわし読み、複製をいれると読者の数がどれくらいになるか想像もつかない。いまも読者を広げている。どうしてこのような現象が起こったのだろうか。
 『こわい考』の中で、わたしはおよそこんなことを述べたのだった。

(1)
86年の地対協「部会報告書」「意見具申」、87年の地対室「啓発推進指針」は、いわゆる自然解消論・部落責任論・部落更生論をとなえ、部落解放運動の存在根拠を否定している。しかし運動側の批判は地対協の主張が市民に受け入れられやすいことを見落としている。
(2)
運動は好むと好まざるとにかかわらず、「同和問題はこわい・うるさい・面倒で避けた方がよい問題」「またか」「うんざり」といった市民の根強い意識を直視すべきである。
(3)
この間の運動、事業、教育・啓発の前進にもかかわらず、なぜ差別事象が頻発するのかという問いに、これまで部落問題解決のために取り組んできた者は真摯に答える責任と義務がある。ところが、いっこうに議論が起こらない。それは部落解放運動が「差別・被差別」の共同の営みになっておらず、対話がとぎれ、関係がゆがみ、ねじれているからではないのか。
(4)
「差別・被差別両側の隔絶された関係」を生み出しているのは、一方では「差別する側」と自己規定する人々の「被差別側の体験・資格・立場」への拝跪があり、他方では、「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益は一切差別である」との差別判断の資格と基準をめぐるテーゼがある。
(5)
この隔絶された関係を変えるには、「差別・被差別の両側から超えて、差別・被差別関係総体を止揚する共同の営み」としての部落解放運動を創出する以外にはないのではないか。

わたしのこうした意見は、運動、事業、教育・啓発の場で苦悩してきた人びとの問題意識と響き合ったのであろう、各地で読書会が開かれたり、わたしあての便りが届くようになる。矢も楯もたまらなくなって87年6月、反響を伝え、誤読を正し、誤解を解き、書く人・読む人の境目を超えて問題のありかと解決の道をともに考えるべく、この『通信』を発行し始めた。いだいたお便りを独り占めする気になれなかったし、なによりも責任を果たしたかったのである。書いたら終わり、出したら終わりという文筆・出版の世界の常識など眼中になかった。長谷川初己さんが『紅風』の原稿を簡易タイプライターでうっているのを横で眺めながら、いつかは個人通信を出したいなあと夢見たことも関係しているかもしれない。わたし自身、この『通信』のおかげで『こわい考』以後も思索を続け、深めることができたと思う。

3.
 『こわい考』は、予想していたとおり部落解放運動のこれまでの発想になじんできた人びとの戸惑いと反発を惹き起こした。実際、ある組織からは「異端審問」のような場に呼ばれたことがある。「『こわい考』は運動を妨害している」、「二つのテーゼ批判は運動の根拠を崩壊させるものだ」と批判する人。「部落民でないものになにがわかるかなどという話は聞いたことがない。ここで挙げられている例はほとんどが個人的な古い体験で、運動の現状を正しく反映していない」と非難する人。「安もんの週刊誌みたいな題名でつろうというところが気にくわん」と吐き捨てるようにいう人。30年来親しくしてきた人にわかってもらえないのがつらくて胃が痛んだが、「ぼくも、そういって人を黙らせたことがある」と述懐した方、「素直な意見やね」と声をかけてくださる方がいて、はっとしたことを覚えている。
 しかし87年6月の部落解放同盟第44回全国大会で名指しの批判を受け、12月21日付『解放新聞』に、まるまる1ページをさいた『こわい考』批判の基本的見解が発表されるにいたる。「権力と対決しているとき-これが味方の論理か」との副題がついていた。お前は敵か、それとも味方かと問い、味方でなければ敵であるかのようにきめつけるこの基本的見解は、始まったばかりの開かれた論議に水を差そうとするものだった。見解が発表されるやいなや、わたしを避ける人が出てきたり、ある自治体からは講演を断る電話が入る。なんとも情けない話にムッとしたが、もはや同盟中央の見解でいったん始まった議論がしぼむことはなかった。議論がしたい、議論しようという空気が徐々に広がっていったからである。話を聞いてやろうという同盟支部もあり、孤立しているという感じはしなかった。
 同盟中央はわたしを「いびつな発想と差別思想の持ち主」と論難した。だが、どんなラベル、レッテルをわたしにはったところで部落解放運動をとりまく情況にいささかの影響も及ばさないことに同盟中央は気づくべきだと考えていた。「いうことはわかった。これ以上発言せず黙っているように」とのサインが届いたことがある。いわれて黙るくらいなら初めから発言などしない。発言したかぎり、発言に責任を負い、その中で少しでも部落解放にいたる道を明らかにしたいとねがったのである。そしてこの10年、同盟中央の基本的見解にもかかわらず、論議はとぎれることなく続いてきた。それはなぜだろうか。
 「持続は力」という人がいるが、わたしにはこの言葉の意味がよくわからない。「力」とは何か。影響力という意味だろうか。そうではなかろう。それは「持続することによってつちかわれる思索の力」を指しているのではあるまいか。自分の言葉で思索し続けることで、それまで見えなかったものが見えるようになることがある。執拗に「人間と差別」について思索を続ける人びとがいたからこそ論議が継続できたのだと思う。『こわい考』はその素材になった。
 もちろん、人は忘れっぽくできている。熱は必ず冷め、風で舞い上がった葉は、いずれ地上に落ちる。いつまでも『こわい考』にかかずらわるわけにいかない。みんなそれぞれの問題を抱えているのである。いつぞやも書いたように、人は自ら信じる道を歩むしかないのであって、その道が交差するとき、出会いが生まれ、出会って挨拶を交わし別れゆくこともあれば、しばし同行することもある。『こわい考』を介してたくさんの人と出会い、そして別れた。寂しいけれどもそれでいいのだと思う。人はいつかは別れるのだから。
 特異なのは、『こわい考』になみなみならぬ関心を寄せ、批判の文章を書き続けてくださった小森龍邦さんである。「もう相手にしなさんな」と忠告する人がいたが、わたしはしつこいほど小森さんの意見を紹介するとともに、反論した。小森さんだからではない。出版にあたって、批判する人が誰であろうとも、きちんと向き合おう、それがわたしにできる責任の取り方であると思い定めていたからである。小森さんとわたしとのあいだで言葉の真の意味での対話が成り立たなかったのは残念だが、それは仕方がないとあきらめるほかない。

4.
 わたしは、若いころから学生運動、日中友好運動、部落解放運動などにおいていろんな組織に属したことがある。その経験から、運動にかかわる組織に属するのは二度とご免こうむるときめている。ところが、小森さんは最近“同和はこわい考派”なるものがあるかのようにいいふらしている。先日、同じようなことを、古くからの友人からもいわれてびっくりした。ここではっきりいっておきたいのだが、そんなものは存在しない。84年8月、太平天国社創立10周年を機に岐阜で開いた「交流会」が終わったあと、参加してくれた友人たちに送った礼状がある。そこには『こわい考』の原形的な考えがあるので引いてみる。

私どもとしては、今日の部落解放運動をとりまく情況が、各自のアイデンティティーを問うているのではないかと考えています。この十年、狭山闘争などを通して、多くの人が部落解放運動に加わりました。しかし「興冷め」現象も起こっているようにみえます。それだけに、これまでの部落解放運動のありかたと、私たちのかかわりかたに問題はなかったのかどうか、ふりかえってみることも無駄ではないはずです。差別-被差別関係の固定化と、組織・運動の物神崇拝から私たち自身、まだ自由ではないようですし、ステレオタイプ化した被差別部落(民)像も根強く、使いなれた言葉をあやつっていないとはいえません。そうしたなかで部落解放の課題そのものを見失かねない情況も一方にあります。
その意味で、なにはともあれ部落解放運動にこだわりつづけてきた友人が一堂に会したことは有意義でした。二日間の議論は多岐にわたりましたけれども、「両側から超えて対話をつなぐ」ことをめぐってすすめられたといえます。これはいささかオーバーな表現をすれば画期的だったのではないでしょうか。

一回かぎりのつもりで開いた集まりが13年も続くとは思ってもいなかったし、続けなければならないとも考えなかった。次も開きたいと思い、開こうという人がいただけのことなのだ。「自分以外の何者をも代表しない」「結論や方針を求めない」「多数をめざさない」を唯一の了解事項として一年に一度だけ集う会が組織であるはずがない。こぺる刊行会にしたところで1口5千円の基金を寄せた人でつくったもので、会員にはなんの特典もないかわりに義務もない。『通信』にいたっては、この10年のうち数回、人に手伝ってもらったことはあるが、あとはすべてわたし一人で発行してきた。わたしと友人たちとの関係が組織に類するように見えることがあるかもしれないが、それはあくまでも外形であって、友人関係以外の何ものでもない。「個々人の自由な思索と意志にもとづく自主的な結合だ」といくら標榜しようと、組織というものはどこかで個人を縛る。そんなものはもうイヤなのだ。「ねばならぬ。べきである」と己れにも人にも強制したくない。自らの内なる声にだけ従って生きたい。「何ごとも義理と無理はあかん」「他人のふんどしで相撲をとらない」「天下国家から論じない」「わたしから出発する」「一人でできることは高がしれているけれど、一人だからこそできることがある」。これが、『こわい考』と『通信』をとおして、わたしが会得したものである。(未完)

《 川向こうから 》
☆暖冬とはいっても、岐阜の冬は寒い。伊吹山・能郷白山から東へと連なる奥美濃の山々は雪をいただいて輝いています。眺めている段にはいいのだけれど、近づくのはこわい。4W・スノータイヤはなんのためやと笑われそうですが、こわいもんはこわい。そんなわけでじっと家にこもり、「ああ、早よ春がこんかなあ」と鬱々として暮らしています。

☆87年6月21日、京都三条小橋の「がんこ寿司」で出版記念会が開かれました。岐阜から参加してくれた友人たちと、天国社のテーマソング「青い山脈」を歌ったところ、「古い上着よ、さようなら」の歌詞がとくにええといわれ、うれしかったことが思い出されます。そういえば、あのとき出席者の中に「古い上着」を脱ごうとせず終始憮然としていた人がいましたなあ。彼はいまなにを考えているのやろと、ふと思うことがある。元赤軍のメンバーがピョンヤン(平壌)で発行していた『日本を考える』誌や、いわゆる新左翼党派の論評もあったけれど、彼らの言葉がぜんぜんわたしの中に入ってこないんです。使い慣れた言葉にしがみつくとき、人は生き生きした発想ができなくなるのでしょう。わたしを転向者、エセ社会学者とよんだ人もあった。そんなレベルの批判・非難をされたって、痛くもかゆくもない。こういう面々には「どうぞご勝手に」としかいいようがない。それがわかった10年でもあります。

☆網野善彦さんの『日本社会の歴史』(岩波新書、3冊)が完結しました。随所に「日本史の常識」に対する批判が展開されており、「人間と差別」についても言及されていて、実に興味深い。部落差別の歴史にかかわる近世政治起源説への批判は短いものだが、一読の価値がある。「通史の体をなしていない」、「内容と書名が一致しない」との批判が出されることを予想しつつ、そこには「国家と社会との関係に関わる本質的な問題がからんでいる」ときちんと指摘する網野さんの「あとがき」に感銘を受けました。

☆岐阜市在住の詩人吉田欣一さんの詩と評論『わが年輪』が出ました(2000円。小川町企画、東京都文京区本郷3-38-10、さかえビル3F、TEL O3-3818-6671)。吉田さんは82歳。心臓を患いながら意気ますます盛んで、こちらの怠惰が恥ずかしくなります。ぜひ本屋さんに注文して購入してくださいますように。なお、本書には昨年7月、山小舎にみえたときに、わたしが撮った吉田さんの写真がのっています。「撮影 藤田敬一」とのキャプションつき。気分がよろしい。

☆本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX058-293-2222、E-mail:k-fujita@cc.gifu-u.ac.jp)です。(複製歓迎)