同和はこわい考通信 No.121 1997.12.9. 発行者・藤田敬一

《 第14回部落問題全国交流会をめぐって 》③
刺激的な提起と論議の中で(「部落解放運動・情報」No.14,97/9/20から採録)

○はじめに
 第14回部落問題全国交流会に初めて参加した。「13年前、部落差別にかかわって、身のうち・そとに漂う冴えない雰囲気を見つめ、人間と差別について考えたいとの思いを持ち寄って始めた集まり。これまで『自分以外の何者をも代表しない。結論や方針を求めない。多数をめざさない』を唯一の了解事項として、自由闊達な議論をしてきました」と紹介されている。
 奈良の部落解放運動にかかわりつつ昨夏以降の「部落解放運動情報」の編集に携わってきた自分としてはこの了解事項にいささかとまどいと緊張気味であった。しかし会場に行ってみると、思いもよらぬ懐かしい顔や意外な友人の顔もあり、肩の力がスッと抜けた感じになった。今年の交流会は「部落・部落民・部落差別とは?」をテーマに4人のパネラーの議論・会場からの意見を出し合う企画で、司会役の畑中さんを中心にして論議が進められた。報告という形ではなく、参加して感じたこと・考えたことを中心にして書いてみたい。もとより全体論議を要約し整理してまとめ上げる力もない自分がこの特集を引き受けたのは、「参加者のみなさんから意見はないですか」との司会の畑中さんのふりに手を挙げられず、グズグズとかかえたものを自分なりに少しでも整理したいと考えたからである。

○〈いくつか論議になったところ〉と〈わかりずらさ〉について
 論議の柱は「帰属意識」「部落民としての自己意識」「部落差別のつかみかた」をめぐってその問題所在に迫るものとしてあったように思う。各パネラーのレジメ提起と論議は問題意識が深いし広いし、「わかりずらいなぁ」が率直な感じである。でも「このわかりずらさ」は「なんやろか」と考えてみると内容という側面だけでなく、どうもこの交流会の“きまり”に自分がついていけない点にあるように思えてきた。もう一点は部落解放運動を媒介に討論が構成されているわけではない、というところではないかと思う。それでも自分なりに共感や疑問を感じつつ、考えたことを、以下、書いていきたい。

○畑中さんの〈ひとくくり〉と〈ひとりひとり〉をめぐって
 「ここでの私の議論の根底には、アイデンティティ(自分が何者であるのか)とは、結局は《ひとりひとり》の営為としてしかありえないという、認識がある」との基本的なつかみ方のうえで、「集団への帰属意識が《ひとくくり》の人間意識として時には《ひとりひとり》の自己認識を阻害することを問題にしているのである」との主張は、自分の運動の経緯からしても痛く心に響く内容である。
 自分にとっては、このような領域は運動や組織の有り様をめぐる問題として考えてきた。《運動や闘いの中で人が変わる》と語りながらも《組織の中における関係の難しさ》を含んで“どうも違う”と感じ始めたのは、ずいぶん前になる。部落解放運動だけでなく「政治党派」にかかわってきた自分がぶつかりかかえてきた問題の糸口をなんとかして見いだしたいと、葛藤しつつ現在に至っている。躁鬱病をかかえ自死したA君、同世代のB君など、個々具体的に今も引きずっている重たい課題としてもある。運動のなかで多くの活動家の姿に出会ってきた。あたかも運動・活動や「政治の感覚」をスタイルとして「身につけてしまった」青年たち。いくつかの集会や闘争現場での解放同盟の若い活動家の発言や労組を代表しての発言にウンザリしてしまったことも多々あった。個々の活動家の問題だといって済まされるものではない。「人間の集団としての組織」と、その運動は個々の活動家の個性や感性の大切さを切り捨て、「組織としての同一性・共通性」を強調してきたように思う。活動家それぞれにとっての経験が思想化されず、“ノウハフ”だけ身につけてしまったようだ。《戦闘性・階級性〉が一面的に強調され、不断に運動の「観念化」を生み出したのも事実だ。ここらへんが畑中さんの提起を聞いて、大切な課題ではないかと思っている。

○住田さんや山城さんの提起をめぐって
 とりわけ「部落民としての自己意識と向き合う」をめぐって、まず自分に問うてみることから始めたいと考えた。《「部落民としての自己」という自己意識》なるものを成立させてきた自分における経緯をたどってみたい。
 ①1970年、郵便局での職場闘争と「党派」運動に明け暮れていた頃、当時職場のなかで「部落差別意識」は日常のことだった。もちろん問題にすらならないなかで、「部落民意識」はあまりふくらんでいなかったと思う。浪速区(今でいう線引きぎりぎりのところ)で生まれ、小六の時に住吉の部落のそばに引っ越し、中学をでて働きながら夜間高校に行っていたし、それに《運動したい》と早くから家を飛び出していたことにも一因があるかもしれない。
 72年末、兄の就職をめぐって(神戸大を卒業して、いくつかの会社の試験をうけ面接で落とされていた)家の中がぐちゃぐちゃになっていることを母親から聞く。飛んで帰ったが、全く力足りえなかった。はじめて「部落差別とはこんなことなのか」と思い知らされながら、支部に相談しに行き、解放運動にかかわり始める。期間は短かったけど、「部落とは。部落民とは」の自己意識が形成されていく過程でもあったと思う。同時に夜間高校でも活動を再開し始めた。自分にとっては、生徒の部落差別発言をめぐる「全学糾弾闘争」の位置が大きい。一週間ちかく続いた糾弾会で「部落だけが差別されているわけではない」という沖縄や在日のメンバーや「貧乏なのは部落だけ違う」「差別・貧乏の比べあいしてもしぁない」という多くの仲間との出会いを通して、「部落差別問題」だけではなく「差別と人」「社会」を考えていく原点みたいなものが形成された時期だと思う。また「おやじ・おかん」と部落差別の話をしながら、小さい頃の体験を追体験していく。「母親・父親」観みたいなものが転換していくのも、この過程だった。
 ②「部落に生まれ育ち、今もそこで生活している」わけではない自分にとって、「部落民です」といえる意識は「運動のなかで育まれた自己意識」だろうと思う。論議の俎上そじょうにもあがったけれど、山城さんの「『私は部落民』という自己意識は、私と部落差別との関係で語らなければならない」に対する、「これは差別の結果論である」「生まれながらにして、といった当事者性がつきまとうとは思えない」との畑中さんの主張、住田さんの「今何故、カムアウトなのか」といったところなど、もっと突っ込んだ討論ができればと思った。くわえて住田さんの「被差別大衆の内面的弱さ(貧困の文化)」「不可解としか映らない被差別民の振る舞い」という提起は、自分の感覚・感情に「そぐわないなぁ」と感じた。もちろん具体的な経験を否定しているわけではない。小森龍邦氏の独特の「疎外論」に見られる視点や、既成のブルジョワ社会学の視点でとらえられてしまわないか、危うさがあるように思うが。この点も討論を深めたいところである。

○原口さんの主張について
 「共同幻想論」を基にして現状の論議の枠を再構成しつつ課題は何か、といった提起になっており、文章はわかりづらいけれど議論はおもしろかった。自分の経験からいえば、ひとつに、「差別の問題は関係概念である」との理解から「身体論」「関係論(観)」といった領域の対象化として考えてきた。ふたつには、藤田さんが提起した「被差別の体験・資格・立場の絶対化と、これへの拝跪をめぐって」、「《ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない》でいいのか」について、「血債論」「自己否定論」の批判・対象化を通して考えてきたところがある。「血債」「自己否定」とは結局のところ、「自己の存在の否定性」を内に向かって問い続けるというものでしかなく、他者との現実の関係(対象的関係)を切断するものでしかない。また運動・組織にあっては「存在(出身階層・社会性)主義」の問題と重なって」現実の関係を取り結ぶことを困難にしてきたように思う。

○さいごに
 師岡さんが「同和はこわい考」通信のNo.118で、「経験の思想化」ということを書かれていた。その中で「藤田さんはいわば状況から論じていくやり方をとらなかった」「『同和はこわい考』を読み始めたとき、あらためて、ああ、藤田さんは、ともすれば一過性で終わってしまう日ごろの経験を思想化しているナ、と痛いほど感じさせられた」と、さまぎまなエピソードを交え紹介している。「経験の思想化」という言葉が「こわい考」通信をひらいて飛び込んできたとき、なんとも嬉しかった。この言葉に出会ったのは、94年10月15日発行の「労働情報」という雑誌の花崎皐平さんの小論だった。長くなるが引用したい。「女性・ジェンダー、南北(植民地)問題、環境・生活の問題。これらは70年代からはじまった新しい社会運動といわれるものが固有に開いた領域ですが、その経験をより社会的な波及力を持つような形で思想化できないできた」「戦前から日本マルクス主義、左翼運動の作られ方は……新しい経験や新しい芽が出てきたときも既成概念で、それらを位置づけるだけで、概念の枠組みそのものは常に経験をしばるという特徴を持ち続けてきたと思います。結局、我々の経験と関連づける論議というより、解釈する議論だった。」この小論との出会いはちょうど自分が運動-組織総括にいきづまり、悩んでいた時期でもあって、「これや」と共感した内容であった。
 今回の部落問題全国交流会は刺激的な提起と論議の場であった。「自分以外の何者をも代表しない。結論や方針を求めない。多数をめざさない」といった“きまり”にとまどいつつではあるが、そんな自分ともつき合いつつ、討論が少しでも広がっていけばいいと思っている。(N)

《 採録 》
「両側から越える」小考(『自治研なら』No.64,97/10)
吉田 智弥
 川口氏を委員長とする部落解放同盟奈良県連は、最近の運動の基調に「両側からママえる」という路線をうちだしている。/この言葉は、もともとは詩人である金時鐘(キム・シジョン)さんの「呼びかけ」に由来している。が、それが部落解放運動の場で人口に膾炙かいしゃされるようになったのは、藤田敬一さんの『同和はこわい考』以来のことである。いまでは藤田さんの創作であると受け止めている人も少なくない。/その藤田さんは、ここ数年、山下氏を委員長とする奈良県連の研究集会でメイン分科会のコーディネーターを勤めている。また山下氏も、これまで何度か、藤田氏が主宰する雑誌『こぺる』に執筆しており、両者はともに、今日の状況への認識や運動観において共有する部分が多いことを公言している。/つまり、山下氏の側の県連もまた「両側から越える」という発想に敵対しているわけではない、ということになる。/では、「両側から越える」とはどういう意味なのか?
 金さんの場合には、いうまでもなく、他の多くの在日の人たちの場合と同じく、苦渋をもって語られてきた「北であれ南であれわが祖国」という思いにその土台を持っているだろう。と同時に、「両側」はまた、「在日」日本人と在日〈朝鮮人〉のあいだの「歴史的なすれちがい」をはさんでのそれであれば、双方の自己改革を通じて、求められてきた再会を準備すべきだということになる。
 ここで「双方の」というのは、金さんの側からは、もっぱら「差別される側」におかれてきた在日朝鮮人自身の、日本民衆にたいする構え方の転換を課題にすべきだ、という問題意識が踏まえられている。/藤田さんの場合はどうか。『同和はこわい考』の1冊全部がその説明に当てられているのだが、ひとことでいえば「部落」の人たちの側も、「部落」外の人たちの側も、それぞれに自己の「立場」や「資格」や思いを絶対化するのをやめよう、という訴えが中心になっている。
 自分をあるがままに対象化することは誰にしろ容易ではない。一般的にいっても、自己の存在が組み込まれている構造の全体像が見えにくいことと、それは関係している。その構造が相互の関係のコンテキスト(文脈)を規定しているわけだから、単に自分に正直であるというだけでは、どんな自己免責も、どのような反差別の立場も担保してくれないのである。/その意味では、誰にしろ試行錯誤は不可避である。退廃を救うのは、現実を率直に見ることと、相互批判をふくむ自由な意見交換だけではないか、という実践例を、1冊の本を著すことで藤田さんは私たちの前に示したのであった。
 では奈良県連(川口委員長)の場合はどうか。昨年発行された「ヒューマンブックスなら」シリーズの〈1〉は「両側から越える」と題されているが、ここに書かれていることは、内容的には先二者の問題意識や主張とあきらかにつながっている。
 この本は「差別事件報告集」という体裁をとっており、差別事象をひとつひとつ紹介し分析することが主要な編集意図であるにもかかわらず、従来の同種のものと180度異なる主張が展開されている。そこでは単に〈差別者〉を撃つことだけに主眼がおかれているわけではない。〈被差別者〉のあり方をも見直す姿勢が貫かれている。具体的な差別的関係において「いつ、いかなるときも部落の側に正当性があるということではない」とまで言い切っているのである。/もし、こうした言説をためにする立場から読むならば、「差別する側」にも三分の理があるのだという解釈さえ成り立つだろう。少なくとも、そうした受けとめ方をされる危険性と隣り合わせにある。「そんなことをしているから、部落は差別されるんやないか」と。
 ところが、そこへつながる危うさをギリギリまで意識しながら、なお「部落」の人たちの側の自己改革をいま追求しなければ、部落解放の主体は永遠に形成されないままになるのではないか、というのが、この本の執筆者の危機意識である(と私は忖度そんたくする)。/かつて部落解放同盟の中央本部は、藤田さんの提起を、部落責任論であり、融和主義であり、政府-地対協への免罪論であるとして批判した。藤田さんの本が、予めそのような批判があることを立論の前提にしていなかったならば、批判は正当であった。
 「ヒューマンブックスなら」の場合も、立場性は逆であるにもかかわらず、同じことがいえる。だがそれは、私のような「部外者」には想像できないほど厳しい方法といわねばならない。というのは、組織的な責任を背負って「部落」の人たちと向き合う立場にありながら、場合によってはその人たちの神経を逆撫でし、苦言を呈するという立場を選んでいるからである。/あるがままにいって、「部落」の人たちの多くは、そうすることが自分の《トク》になるから、解放同盟という任意の団体とその活動を支持してきたのであった。また、解放同盟の側も、自らへの支持を取り付けるために、「部落」の人たちにむけて、差別を受ける関係をこのまま認めればいかに《ソン》するかということを各種のアジテーションのなかに含ませてきた。/それだけが解放運動であるといえば明らかに誹謗中傷になってしまうが、そうした側面を随伴させてきたことは大衆運動のひとつのリアリズムであった。
 とすれば、「両側から越える」という提起は、そうした組織活動の方法論を根底から検証することにつながるだろう。そればかりか、戦後-解放運動史の絶体にたいして画期的な決済を迫るものにならざるをえない。/「両側から越える」ためには、自らの足場を固めねばならず、その足場を固めるためには、自分たちがどこに位置しているのかを明瞭にさせねばならない。/「部落史の見直し」が同時に提起されている理由もそこにある。「見直し」とは、一方では総括という意味であり、他方では、新しい活路の可能性を求めるための営為である。
 部落解放同盟奈良県連(川口委員長)は、「両側から越える」という路線を打ち出したことによって、そうした《部落》の全体像を発見しようとする壮大な旅への出発を自らに課したのであった。(下略)

コメント.
吉田さんの文章は、川口正志さん(部落解放同盟奈良県連委員長)へのインタビューの末尾に付けられたもので、正確には「インタビュアー独自、又は『両側から越える』小考」と題されている。このインタビューがおもしろい。以下は「『両側から越える』活動の具体的展開」についてのくだり。

[川口]まず私どもが足腰を強めないと。「両側から越える」ために。常に被害者意識でね、物事に対応するんじゃないと。被害者が足腰を強くすることによって、我々の上におおいかぶさってる人達であったとしても、その人達に足腰がないから私たちの上に乗っかっているだけやから、私達が支えて上げよう、かかえ直してあげようと。「おい、よけろ、よけろ」と言うんじゃなしに抱えて上げようという運動を出そう。抱えてもろてるあんたも甘えるんじゃなしに自分の足腰を作んなさいよ、という意味の我々側の提起です。
 「両側から越える」というのは、「差別よせよせ」と今まで外にばっかり言うて来たけども、おれらもそういう意味で越えなきゃならんのやと。つまり、いま提起をしている「両側から越える」というのは、むしろ内側への叫びだということですよ。/だから、いま世間では各方面で改革がどうこう言われている。そういう中で制度の見直しも言われている。その辺は一体的なものやと。共産党のキャンペーンはそういう改革に悪乗りした形で、同和対策踏みつぶしを狙ったりしているが、そうじゃない、おれたちは改革するんだと、我々の言う改革というのは、「両側から越える」と言うことだけども、のっかってる入のおかげで強くなりましたと、あんたをいてあげましょう、抱擁してあげましょうという運動なんだと、こういう認識なんですな。だから「両側から越える」というのは、差別の側に注文をつけるという意味だけじゃないと。

[吉田]むしろ目は内側に向いていると。

[川口]そう、そうなんですわ。差別というのはこれはさっき言ったように差別と貧乏ね。これは二元的に捉えとったけども、もっと突きつめりゃ差別というのは観念からの出発や。お互いの発想から人がさげすまれたり、人が苦しめられたりする。そして、そこでへたばったものと抵抗するものとの関係で、歴史というのはずっと今日まで続いてきたわけだから。そういう意味で、モノじゃないぞと、モノの捉え方だぞと言う意味でこれをやってるわけですね。だから自らにムチを打つという意味だと、運動体側からいうとね。(下略)

インタビューだから言葉が飛ぶことを勘定に入れても、わたしには川口さんのおっしゃる意味がほとんど理解できない。「我々の上に覆いかぶさっている人達」「私達の上に乗っかっている」人たちとは、「部落外の人」「差別する側の人」を指しているようだけれど、その人たちを「支えてあげる」「かかえ直してあげる」「抱いてあげる」「抱擁してあげる」とは、いったい具体的にどうすることなのかイメージできない。ましてこれがどうして「内側への叫び」なのか、さっぱりわからない。インタビューからは、川口さんの運動をめぐる危機意識を感じとることはむずかしい。川口さんたちが「両側から越える」を唱える真のネライはなんなのか、いずれ時が明らかにしてくれるだろう。

《 川向こうから 》
●冬は星座が美しい。先日、山小舎で誘われるままに星空を眺めたら病みつきになりまして。さっそく星座早見盤とガイドブックを買い込んで楽しんでいます。お笑いめさるな。こうして、気を一点に集中させないよう按配しながら暮らしているのです。ムキになりがちなわたしには、こういうやり方が向いてるみたい。
●さて、今号は奈良からの採録特集になりました。Nさんは本文にもあるように、『部落解放運動・情報』の編集委員ですし、吉田智弥さんは奈良県地方自治研究センター事務局に勤めておられます。さらに付け加えるなら『こぺる』1月号には、山下力さんの論稿「解放へと導く力を育むために-奈良におけるアンケート調査から」が掲載されます。「差別的言動に直面したとき、あなたならどうするか」をたずねたアンケートにたいする回答を紹介、分析したものです。わたしの見るところ、奈良はいま福岡とともに部落解放運動の重要な思想的発信地になっている。それに引きかえ京都はどうか。考えるだけで熱が出るのでやめときます。
●ところで、Nさんは交流会の了解事項(自分以外の何者をも代表しない。結論や方針を求めない。多数をめざさない)にとまどったとおっしゃる。そらそうでしょう。三つのうちどれをとっても、これまでの運動・組織の常識に反するからです。しかし、これまでの常識そのものを疑ってかかることからしか発想の転換は始まらないのではないでしょうか。Nさんには、「とまどい」の底、奥にあるものを凝視してほしい。そうすると、たとえば「自分以外の何者をも代表しない」には、「部落民とはなにか。部落外出身者とはなにか」という問いが隠されていることが見えてくるはずです。「わたしは○○○です」との名のりがときに人との関係を疎遠にすることもある。結論や方針を他者に性急に求めれば自分の言葉で思索することを忘れ、多数をめざせば人を組織すべくあの手この手を使ってしまうことにもなる。ここからは「とらわれの関係」しか生まれない。そんな場に立ち会うのはでるだけご免こうむりたいのです。「組織に属さず、現場に責任を持たない評論家のたわごと」といわれようと、この道をすすみます。
●某日、ある高校で生徒たちに話をしたら静かに聞いてくれました。一方、某日、ある小学校で両親学級に参加した親たちに話す機会があったのですが、私語がやまないのです。授業参観の母親のマナーの悪さはウワサに聞いてはいたものの、聞きしにまさる状況で、もちろんプッツンしましたよ。いかに人間のできたわたしでもプッツンせずにはおれないくらいでしたからね。アハハ…。
●本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX 058-293-2222、E-mail:k-fujita@cc.gifu-u.ac.jp)です。(複製歓迎)