同和はこわい考通信 No.120 1997.11.10. 発行者・藤田敬一

《 第14回部落問題全国交流会をめぐって 》②
〈アイデンティティ・カムアウト・両側から超える〉を問い返す
浴口えきぐち 勝也(福周)
 先日の交流会ではお世話になりました。あらためて参加して良かったと実感しているところです。初めて参加した昨年の論議と異なり、今回の論議はじっくりと深く考えることができました。やはり、『こぺる』に論稿を寄せるパネラーの人柄と思考にじかにふれることができたからだと思います。ときにはこうして思考を深める機会も必要ですね。帰福してからも再考することができ、その余韻を楽しんでいるところです。そこで、あらためて感想などをお伝えしようと思い、ペンをとりました。しばらくおつきあいください。
 まず、畑中さんのパネラーとしての発言は少々迫力を欠いていたように感じました。司会を兼ねての発言には制約があったとは思いますが、『「部落史」の終わり』や「身分・身元・アイデンティティ」で鋭く問われていたことがストレートには表現されていなかったと思います。少なくとも、ここしばらくの『こぺる』のおもしろさは畑中さんの問題提起にあったのではないでしょうか。とくに「アイデンティティ=帰属意識への疑問」として話された内容は、一般論としては共感できても、〈その後〉の考えが聞けず、少々物足りなく感じました。たしかに「集団への帰属意識が時に自己認識を阻害することを問題にしている」という主張は、私のように「部落民である自分」と思い込み、人生観、人間観、社会観を歪めた体験を持つ者にはインパクトがあります。しかし自己認識を問い返すことも疑うこともない人には届きにくいように感じるのです。この点は交流会の場で質問した「〈ひとくくり〉の中身は?何がどのように?」という疑問として残りました。畑中さんの言葉を借りれば、「〈ひとくくり〉のなかでどのように〈ひとりひとり〉を獲得するのか」という課題につながります。この課題に迫るためにも〈ひとくくり〉の中身の論議は避けて通れないと思うのです。とはいえ、懇親会の席で畑中さんからじかに「住田さんがいうカムアウトが必要なときがある」と聞いて親近感を感じ、妙に安心してしまった私ですが。
 そう、その住田さんも「祖先がエタであってなぜ悪い」というときの迫力に欠けていませんでしたか。力強くカムアウトを唱える住田さんの主張は聞いていてワクワクするし、論議の重要な柱を提供してきたと思います。ところが、今回の論議のなかで、「関係性のなかで解放されていなければカムアウトはむずかしいのかも?」との発言を聞いて、私は住田さんが主張されるカムアウトの場面や必要性はかなり限定されると感じました。住田さんは通信No.99で、ある銀行での出来事を紹介されるなかで、「このような場面でこそ避けるのではなく、部落問題についての自然な対話を維持してほしかった」と述べられていました。この思いには、カムアウトできる関係をつくっておくことが前提としてあったのでしょうか。この点は私が「カムアウトの中身は?」とこだわって質問したところです。また、「カムアウト後も部落民か?」と聞いたのは、〈両側から超えた〉といえる関係像やそのときの自己認識を問いたいとの思いからでした。私は、住田さんの主張を、どのような場面であれ必要なときはカムアウトすべきだと解釈していたのです。たとえば、銀行での出来事を想定すれば、行員である私が他の行員と表面的なつきあいしかしていなかったとしても、あるいは私が客の一人であったとしても、言いがかりをつけている状況がわかれば、周囲の人に知られることになっても“その人物”に対して、「自分も部落出身だが、どうして今のが差別になるのか?」といえることだと思ってきました。つまり、必要な場面でのカムアウトは対話のスタート地点になると思うのです。それに、もし対話が維持できなくても、被差別と思い込む者の“居直り”を糺し、部落への特定のイメージを払拭できる機会となると思います。そうしたカムアウトができる自分でありたいと思うからこそ私自身の格闘が続くのです。
 それから、住田さんの「問題にするのは明治以降でいい」「近代社会への迎合だとは思わない」という発言にもとまどいました。地域性はあれ、近代社会に限定したなかで〈内面的弱さ〉をもちだすと、結局は「努力すべきは部落民」という問題で終わってしまうのではないでしょうか。この点からも、“ひらき直り”や“脅し”と受けとられないカムアウトや対話の中身が問われると思います。そして、今の私の課題と重なるこの問いに私なりの答を見つけていきたいと考えています。
 話は変わって、4人のパネラーのなかで原口さんが元気(?)だったように感じませんでしたか。あの熱弁は福岡水平塾でも聞けるのですが、やはり「全国」という交流会の雰囲気がかなりの気負いをもたらしたようです。とはいえ福岡水平塾でも原口さんの主張をストレートに理解できる人は乏しく(私もそうですが)一人一人が自由勝手に意見をぷっつけあっているので原口さんの苦労は計り知れませんが。今、私が原口さんに問いかけているのは「日本文化の源流として再生させたい部落の可能性とは?」というところです。折にふれて聞き、話していくのが楽しみです。
 一方、私は山城さんの主張がとらえきれず、その話に馴染めませんでした。「自分が部落民という意識をもったとき、差別がみえなくなる」というのは、限定した個人について話されたのでしょうか。また、その逆の言い方も可能なのでしょうか。少なくとも、私や私の友人の多くは自分の「出身」を通して社会や人間を見つめていなければ今ほど差別と人権について考えていなかったように思います。それから、生活実態や事象を取りあげる時に「部落と限定できるのか、部落だからと言えるのか」という指摘は、一般施策の対象となる共通点は認めながらも、逆に行政の課題ばかりを強調したり、表面的な変化に目を奪われてしまうのではと思いました。少なくとも、部落問題の特質や背景に言及する話の展開が必要だと思うのです。そのうえ「天意」をもちだされたり、「差別落書きなどは笑いとばせ」といわれると、ますます疑問はつのります。たしかに「差別に出会った時に自らを傷つけてしまう人間内部のシステムは問題だ」との指摘は、自己の帰属意識に必要以上にとらわれる者にはインパクトがあります。だからといって、そうした〈とらわれ〉を相対化することに重点を置かず、単に〈当事者性〉を否定するような立場で笑いとばしたところで、人間と差別について主体的に考える〈個〉は確立するのでしょうか。山城さんがいわれるように「愉快犯には笑いとばすのが効果的」な側面もあるかもしれませんが、その愉快に感じるところは問い返すべき課題であり、笑いとばしたり無視するだけで終われるものではないように思うのです。とはいえ、私の誤解から山城さんの主張をねじ曲げている可能性もあり、もし、「そんな落書きにへこたれんよ!」といわれているのであれば同感するところです。以上、パネラーへの勝手な感想・意見を書きつづってきましたが、もう少しおつきあいください。
 今回のパネラー相互の意見交換による提起は、『こぺる』誌上での論点を整理することができ大成功だったと思います。個別の具体的な場面でどう対処するか(できるか)も大事な課題であることは間違いないのですが、そうした基盤ともなる自己の思考を深く問い返せたことは意義深いものです。しかし、今後もこの方式で、とは思いません。パネラーの発言を中心にするとどうしても参加者の影がうすくなってしまいます。少なくとも交流会の場は〈両側から超える〉貴重なたしかな一歩となるはずですから、参加者それぞれの声を発する機会はもっと大切にされるべきものだと思います。そのためにも、参加者の主体的な参加が求められることはいうまでもありませんが。
 ところで、私が藤田さんから問われた「たじろがず、向きあって、ひきうけていく」ことを自分の姿に重ねて話すなかで、「〈両側から超える〉という提起に関して、気がついたら超えていたという話もある。極端なことをいえば、部落問題について何も話さないという超え方もあるのでしょうか?」と発言したことを覚えていますか。この場を借りて、この発言を補足させてください。
 私が知人や同僚と部落問題を語る時に、〈両側から超える〉という提起は重要なキーワードになっています。まさにそこは〈両側〉の意識のありようや〈超える〉という関係を検証する場になっています。そうした検証の場を通して、私は次の2点を強く意識し始めたのです。
 まず、部落問題について「自分の頭と言葉で考えて」と迫ると(具体的には「あなたはどう思う?」と聞くだけですが)、答に窮する人が多いのです。この点は、「在日」問題や「障害者」問題について語り合う時との違いだと感じています。本名で生きる「在日」の人に出会った(通名であることを知った)時や、見てそれとわかる「障害」者に出会った(「障害」者であることを知った)時と異なり「部落(民)」と生身の人間の姿を通して出会った人は意外にも少ないのです。これは、組織体の運動や同和行政が一定の認知を受け、「啓発」と呼ばれるものが大きな影響をもっているということでしょうか。それとも、カムアウトそのものが問われるように、〈部落とは何か、部落民とはだれのことか〉ということが今なお明確でないためにカムアウトしない人が増えてきたということでしょうか。
 次に、私が感じているのは、個と個の関係においては〈両側〉という意識化が希薄になりつつあり、〈超える〉べき「障壁」が見出しにくくなってきているということです。もちろん、こちらがカムアウトして帰属意識を鮮明にしていけば、相手方の「部落(民)」認識に迫ることはできます。機会があって、私もそうした場面を幾度か経験したことがあります。ところが、一時的には寡黙であった相手方が、「そんなことで私たちの関係は変わらないよ」と言葉・態度・表情などで、その後のつきあいのなかで表明してくるのです。立場に固執してきた私の気負いや歪みを正してくれる人が周囲に増えているのです。言い方を変えれば、それぞれの帰属意識にしばられずに出会うなかで、〈両側〉を意識することが減り、〈超える〉という表現が個と個との関係においては適切でなくなってきているのです。私個人の限定的な人間関係でいえば、〈両側から超える〉という表現よりも〈共に部落問題を超える〉といった方が課題が明確になっていくのです。こうした私の思いが背景にあって交流会での先の発言となりましたが、今なお〈両側から超える〉の解釈を誤っているかもしれません。どうか率直なご意見をお聞かせ下さい。

正直言って腰が痛かったです
N・T(大阪)
 いつも、『同和はこわい考』通信を送って下さり、大変感謝しています。通信がくるたびに、封を開けるのが楽しみで、今日の号は何が載っているのか、目を皿にして読んでいます。時には夕食を食べながら、時には電車の中で…。
 さて、通信No.119と一緒に「交流会の感想をお寄せ下さい」とのメッセージが入っていましたので、文章ベタの私に書けるかどうか自信がないんですが、交流会の感想を書いてみます。
 今回の部落問題交流会はいつもより胸をワクワクして参加しました。『こぺる』に案内通知が載ったときに、すぐに休暇の段取りをつけ、ハガキで申し込みを書きました。〈万難を排して〉参加する意気込みでした。実は、「部落・部落民・部落差別とはなにか」は、私が部落解放運動に参加する唯一のきっかけだったからです。
 70年代初期、狭山闘争の華やかなりしころ、地元では「お前はハク。しかし、わしらは一生差別をうける」というのが、共闘を呼びかける殺し文句、脅し文句でした。よく使いましたヨ。ところが、ある人から「お前、そしたら部落民であることを証明してみぃ。おれがハクという証明もないんや」と返され、答に窮したことがありました。それ以来、たえず疑問と困惑にとらわれ、答の出ないこの命題につきあたるワケです。部落解放運動をしていたら答が見つかるだろうと運動に没頭しましたが、やればやるほど疑問と困惑が増すばかりでした。
 さて、交流会の感想について述べます。正直言って腰が痛かったです。4人のパネラーのようにテーブルがあったら少しは楽に聞けたと思います。それにしても4人のパネラーの方々、なかなか精力的で、「よ~勉強してはるなぁ」とつくづく感心させられました。ただただ、うんうんと納得し、うんうんとうなづくのみでした。とくに反論もなし。事前にいくつかの論文や文献にも目を通していたので、初めて交流会に参加したときよりは言葉の難解さはありませんでした。パネラーの問題提起にはいくつかの疑問がありますが、パネラーの方々の論文や文献を不十分にしか理解していないせいかもと考えて、目下読み直し中です。分かれば、また投稿させていただきます。
 パネラーの問題提起や参加者の発言を聞いていて、フッと「被差別体験」の話が欠けているのではと思って、私のあんな発言になったワケです。私としてはあまりこの手の話はしたくないというのが本音なんです。同盟支部の役員であったときも、そうでした。ただ、京都の石原さんが感想文のなかで、私の発言について「このような議論の上ではじめてでてきた」と指摘しているように、自然に話せたのではないかと思います。今思うに、こうした雰囲気を同盟支部の機関会議や役員会でやっていたらなぁと反省しています。差別と闘い、部落の完全解放を願う解放同盟で、なぜこの手の話ができないかは、追って寄稿したいと思いますので(今、第二弾をワープロにうちこんでいます)、今日はこの程度にしておきます。

コメント.
N・Tさん、やっと便りをくだいさいましたね。「乱筆・乱文、誤字・脱字」を気にしておられるようですが、そんなもんはどうだっていいんです。第二弾のテーマ、わたしも大いに関心をもっています。お便り待っています。

《 各地からの便り 》

 私は、今年4月、3年間在席した同和対策室から移動しました。この3年間の主たる課題は、30数年間に及ぷ同和対策事業の見直しでした。私なりに、本を読み、話を聞き、現地を見(もちろん可視的なものに限られますが)、考えました。その結果、概括的にいえば、「金」や「もの」での問題解決に向けたこれ以上の前進は難しいというのが、現時点での私の感想です。それは同時に行政、同和対策事業の役割が基本的に終わったということでもありません。例えば、中心課題といわれる教育や職業の問題にしても、かつての、家計や学習条件或いは直接的な「就職差別」のような、教育や職業から排除される、本人にとって外在的な状況はありません。むしろ本人を含めて家族、地域住民の意識や生活スタイルなど、広い意味での生活「文化」に起因する問題が現在の中心的な課題のように思います。それとても、問題を抱えている人は地区内の多数派ではありません。教育・職業の問題で見る限り、少数点在地区ではほとんど問題はありません。大規模地区ではまだ問題があります。大規模地区には一定の規模があるが故に、「地域の閉鎖性」「生活文化の後進性」が現時点でも存在し得ているのではないでしょうか。
 いずれにしても今後の課題の中心が、人が人を排除する「実態的差別」が解消してきている(異論があるかもしれませんが)中で、人と人との関係のありよう、その社会的システムにあると思います。そうだとすれば、その分野は行政が不得手の分野であり、権力的側面をもつ行政が謙抑的であらねばならないところです。これをいうと、運動関係者には、行政の責任放棄だという人が多いので困ります。とりわけ、行政内部の私がいうと反発が強いようです。運動の中での行政不信の重さが感じられます。彼らの主張は、補助金や許認可など行政のあらゆる権限を「差別解消」のために社会の隅々にまで行使せよということのようです。この主張は、差別解消の一義的責任が行故にあるという考えにその淵減があるのですが、私の「権力観」「民主主義観」からみて認めることのできないものです。(中略)
 この間の「事業の見直し」の中では、政治、行政、運動それぞれの内部及び相互の駆け引きが前面にでて、問題解決のためのまじめな視点は隅に追いやられたままでした。真剣に議論したくともそれに応えてくれる人は、運動でも仕事でも極めて限られた人たちでした。そんなものだろうと思うとともに残念でもあります。それでも行政や運動の中にごく一握りではありますが、議論のできる人(意見の一致、不一致に関わりなく)がいることは救いでもありました。しかし、その人たちが主流になることは当面望むペくもありません。(下略)     (T・Sさん)

《 採録 》
師岡佑行「部落問題研究」
 (鹿野政直・鶴見俊輔・中山茂編『民間学事典-事項篇』三省堂、97/6、所収)
 (前略)部落問題の研究が本格化したのは戦後である。48年、部落解放全国委員会の協力のもとに部落問題研究所が設立され、51年、奈良本辰也を所長に社団法人の民間学術研究機関として発足、歴史研究をはじめ、各地の実態調査を実施し、啓発活動につとめた。戦後における部落問題研究は同研究所を中心としてすすめられたといえる。/部落解放の戦術と不可分な、部落を身分、職業、地域の三位一体としてとらえる井上清の理論、従来の歴史観をくつがえして、地方、部落、女性を民衆の生活の基本におき、部落史の究明なしに民衆史はありえないとの林屋辰三郎の主張などがあらわれた。同時に民主化の風潮のなかで部落の近世政治起源説が主流を占め、それ以外はタブー視される状況もみられた。そのなかで横井清が中世における卑賤観に焦点をあて、ケガレ意識についての解明を試みたのは注目される。小説では部落を重要な主題にすえた野間宏の『青年の環』、住井すゑの『橋のない川』が発表されはじめた。
 解放運動内の対立が激化した68年には大阪部落解放研究所(のちに部落解放研究所)が設立されて部落問題研究所と拮抗し、84年には自民党との関係の深い地域改善対策研究所が設立された。このように複数の研究機関がもうけられたが、いずれも背後にことなった政治路線をもつことになった。また同和対策事業特別措置法の施行による部落改善事業の進行に比例して、70年代以降各地に部落問題についての研究所が設置されるにいたった。このような研究所の盛行のなかで研究はひろがりをもった。しかし、資料の紹介、あるいは実証的研究が多くなるとともに、いずれかの政治路線を祖述する形をとる傾向が強まり、在野性を失うにいたった。76年には和歌山の部落に根ざした中上健次の小説『岬』が芥川賞を受賞している。
 87年に藤田敬一は『同和はこわい考』を刊行した。藤田は部落問題との主体的関わりを追求し、組織をこえて自分自身の問題としてそれぞれ差別、被差別の両側から部落問題をとらえ、乗りこえることの重要さを指摘し、同伴者意識を批判した。そのなかで部落とはなにか、部落民とはなにか、部落の完全解放とはなにかがあらためて問われることとなった。また、全国水平社の戦争責任を追及する金静美の研究はこれまでみられない視角をもつものとして注目される。

《 案内-『こぺる』合評会 》京都府部落解放センター2階 午後2時
11月29日(土) 柴谷篤弘さん:10月号「『破戒』の読み方」)
12月20日(土) 浴口えきぐち勝也さん:「〈アイデンティティ・カムアウト・両側から超える〉を問い返して」

《 川向こうから 》
○120号、正真正銘の10年です。励まし、支えてくださった人びとに感謝。そして、大病を患うことなく10年を過ごさせてくれた、あの「生命いのちの源」にも感謝。
○某日、山小舎で、岐阜の常連(大野・片岡・田中・戸田・船坂)とわたしに、関西のメンバー(嵐・石原・熊谷・次田・松田・松本・吉田)を加えた総勢13人で、ミニ交流会を開催。身体が少し不自由な嵐君が遠いところをようきてくれました。二日間三食、戸田コック長が腕をふるった料理をたっぷり味わい、散歩途中、晴天続きでずいぶん細身になった円原川にアマゴの姿を見つけて歓声をあげたりなんかしてほんまに楽しかった。まあこうして、わたしは交流の原点を確かめているんです。交流の原点とはなにか。それは「人恋し」である。そやないですか。
○某日、富山の全国公民館研究集会へ。「同和・人権教育」分科会で、北陸の参加者から「特殊部落」発言があり、「北陸の方々の中には被差別部落・未解放部落・同和地区といった呼称をご存知ない人が多いにちがいない。しかし、その点を踏まえつつも、もう少し言葉に敏感・丁寧であってもいいのではないでしょうか」と申し上げておきました。こんなとき「名づけ」と「意味づけ」を一直線につなげてしまうと話がこんがらがってくる。参加者たちがそのあたりのことを冷静に受け止めておられるようすがうかがえて、なかなかよかった。
○読者からの便りに「徳島で開かれた八千人規模の部落解放全国研究集会に参加しました。開会二時間後には三分の一が抜けて行きました。百余名が十時間以上も議論を続けた会合の熱気が思い出され…」とあり。多数を求め、義理と無理を承知で人を寄せ集めるとどんな無残な情況を呈するかということです。それにしても、潮が引いたように空席の目立つ会場を眺めて、主催者はなにも感じないのでしょうか。わたしなら絶対、胃痙攣をおこしてますな。
○本『通信』の連絡先は、〒501-1161 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX 058-293-2222、E-mail:k-fujita@cc.gifu-u.ac.jp)です。(複製歓迎)