同和はこわい考通信 No.119 1997.10.5. 発行者・藤田敬一

《 『同和はこわい考』の十年 》⑥
〈無限責任〉と〈主体〉について
Y.S
1.
 『同和はこわい考』が出版された頃、自分が部落問題について考えていたことを思い出してみます。私は行政職員としてしばらく部落問題にかかわっていたのですが、いくつものことが自分の頭の中に未整理のままにたまっていました。
 第一に差別と差別論の現状。自分自身の意識のあり方から考えて、ある程度想像していたとは言え、現実は想像以上に重いものでした。この爛熟した高度消費社会に、デジタル化された効率優先社会に、情報が氾濫する均一社会に、にもかかわらず旧態依然とした結婚差別や就職差別が横行する信じがたい矛盾のばかばかしさと根の深さ。しかもそれが歴史的に累積された陰湿な掟のように、感覚的で条件反射的に行われるいやらしさ。切実な衝撃と悲しみ。一方で差別者対被差別者という呪詛じゅそされた運動が生み出すルサンチマン(恨み)の反復。
 こうした差別の現状にたいして、政治的に、社会的に、あるいは歴史的になど、様々な方向から原因が追求され、解決が模索されていました。長い間のたくさんの人たちの努力によって、部分的にせよ現状が改善されてきたことも事実でしょう。しかし、ある意味では差別論の構造そのものは一向に変化しておらず、本質的な追求は今後の課題として未だに残されたままのようにも見えます。
 この点に関して私が抱いている思想的なイメージは、〈部落〉内外を相互的に規定する、清浄感や忌避感、あるいはこわい感などの歴史的に形成された共同幻想性の根拠、もしくは差別用語問題に見られる言論表現の禁忌きんき意識を内外から解体することです。〈部落〉の内側あるいは外側という片側だけの問題ではなく、内外に普遍的な問題としてそれらをとらえること。それらの様々な共同幻想の正体を、共同幻想自体の問題として解体すること。政治的・社会的な追求も、こうした点を踏まえないかぎり、空虚な政治闘争理論や階級理論に解消されてしまうか、〈被差別部落(民)〉の固定化と〈非被差別部落(民)〉の固定化、及び前者による後者の追及に終始してしまうのではないでしょうか。問題はその根底にあり、またその向こ う側にあるような気がします。
 そして、共同幻想を内外から同時に解体させるこうした方法は、必然的に〈内外〉という概念自体の否定へと、あるいは〈部落〉概念という歴史的に形成された共同幻想性自体の解体へと向かうと思われます。そこでは〈部落〉というアイデンティティーや〈部落民〉という概念は、結果的には共同幻想としてそれ自体が解体されてしまわざるをえないのではないでしょうか。〈両側から超える〉というテーマは、本当に実現したときには〈両側〉自体が解消されていなければならないと思います。
 第二に行政施策の現状。行政が「差別はいけないことです」と力説したところで差別意識の核心には触れもしません。意識とお金の空回り。あまりにも当たり前の正論なのに、やればやるほど舌うちされるのはなぜか。なにかがおかしいと思われても、やり方の問題なのか、もっと本質的な問題なのか、行政職員にも何がおかしいのかがよく分からないのでしょう。あるいはそれ以前に、問題を未消化のままに、部落解放運動の流れもあって、あれこれ揺らぎつづけてきた〈同和行政〉の欠陥が住民に見抜かれているのでしょう。
 「行政責任」一つとっても、行政には一応公共的なことすべてに何がしかの責任はあるのですから、要は〈部落問題〉に固有の責任が何であり、行政の目標をどこに据えるのかを公的に議論する必要があったはずです。しかしそうしたことで生産的な議論がなされてきたということはほとんど聞いたことがありません。近世政治起源説をそのまま行政責任論に置き換えたかのような(政治がつくったものは政治施策において解消せよ)、あまりにアプリオリで偏った理論がことの本質をすり替えつづけてきたような気がします。ここでもまた、歴史的に形成された共同幻想的本質は忘れ去られてしまっていたのです。
 行政のできることは啓発講演会などではないと私は思っています。〈部落差別〉の問題を、建設、教育、福祉、産業、労働などの諸側面で、もっと個々具体的な状況に即して具体的な解決を目指すために、関係者同士の意志の疎通を大切にしながら地道に努力すべきなのであって、「物的」なものから「心理的」なものへということで「啓発」に力を入れることは、〈部落問題〉の解決を遠ざけるだけのような気がしてなりません。互いの意見交換がある程度できる職域の中ならまだしも、県民や市民を対象とした「啓発」は必ず〈一方向性〉を持つだけに、マイナスの側面の方が大きいように感じています。
 第三には自分自身の問題があります。個別具体的な様々な現場の中で、自分自身が差別について自覚的な思想(意見)を持てているかどうか。自分として何が差別で何が差別でないかをもっと明確にしなければならないと思うのです。
 おそらく人類の発生以来存在している差別意識(無論、時代的には様々な形態があります。しかし、〈聖性〉の発生と同様に、この問題は人間固有の疎外意識の一つとして、はるかな過去にまで辿たどることができる問題だと私は考えています。)は、感覚的で反射的に様々な幻想性の細胞に付着しています。あちらこちらに差別的な禁忌を作り上げるのも、それが、幻想性の細胞を防御しようとする半ば無意識的な反応にすぎないからでしょう。
 従って、その現場の状況や関係の問題を一切無視して、均一的に統制しようという〈用語統制〉のような禁忌意識も、痛みを気づかうという過剰なやさしさの影に隠された、差別意識の裏返しにすぎないのではないかと思います。そして、こうしたことを繰り返していては、個人が何を差別ととらえるかというもっとも重要な問題をあいまいにするだけではないかと思うのです。その意味で、私たち自身が、身の回りにある様々な禁忌意識からできるかぎり自由でいることが真っ先に目指されるペきではないでしょうか。それもできなくて、私たち自身の差別意識だけがなくなるはずはないように思うのです。
 うまくは説明できませんが、私自身にも次のような体験がありました。私はこの貧しい体験を自分ながら分析して、禁忌意識から自由になるためのかてにしたいと思っています。反省すべきことは当然反省しなければならないし、改めるべきことは改めなければならない。そしてもっと重要なことは閉鎖的になってしまわずに〈内外〉にたいして常に自由に考えられる解放感を自分自身の内部に持ちつづけることだと思います。
 その体験というのは酒席でのことです。〈被差別部落〉出身のAさんと話していて、話しが子供のことになりました。「子供さんの年はいくつ?」という感じでAさんが聞き、私は「よっつ」と答えました。よくある話しだと思いますが、その瞬間私の頭の中に吹いた冷たい風は何だったのでしょうか。私が「よっつ」といったことに差別意識が含まれていなかったことは断言できます。しかし、「しまった」と思ったことにはあるいは僅かに差別意識が含まれていたかもしれない。そして互いが一瞬妙な気持ちになったのに、気づかぬ振りをして別の話題に移った自分には複雑な感情があっただろうなと思います。
 というよりも、私はその時禁忌意識に犯されたのです。差別意識があること以上に、触れてはならない問題に触れそうになったという一瞬の驚きが自分の自由な精神を殺し、気持ちの余裕を失わせ、感情を閉じ込めさせたのです。この場合、私の差別意識があるかどうかということよりも、こうした禁忌意識のあり様こそが、差別論の問題の本質だと思います。

2.
 前段が長くなりましたが、こうしたことを考えているさなかに『同和はこわい考』と出会い、また、『同和はこわい考』と出会ったために、こうしたことを考えることにもなりました。
 私は『同和はこわい考』を読んで、〈無限責任と主体〉という問題にもっとも強く関心を持ちました。藤田さんの問題意識とは少しずれるかもしれませんが、私にとってこの問題は、「知識人と運動」ということにも、「同伴者の思想」ということにも深く関係する古くて新しい問題であるように感じられました。そしてそのことは、自分自身の〈部落問題〉に対する姿勢はどうあるべきか、という問いを通じて、部落解放運動全体のあり方にもかかわってくるように思えました。
 藤田さんの意見をもとに、私が勝手に拡大解釈しながら自分の問題意識に引きつけて考えてみると、例えばそこには次のような問題が含まれているように思います。

「部落民」でないものは、〈被差別者〉に対して連帯責任を負っていると感じる場合がある。私の印象では、それは〈差別者〉としての〈原罪意識〉に近いものです。(「わたしの友人が、事情もわからないままに、わたしを守るペく手をだした。とたんにS君はこういった。『おれは部落民や……』。わたしの友人は全身から力が抜けたようになり、S君の前に土下座し、両手をついて謝っていた。」『同和はこわい考』P24)
〈差別〉や〈部落〉という共同幻想を全面的に受け入れ、あいまいな共同幻想に埋没した結果、〈部落問題〉は個人が個々の具体的な立場で考える問題を超越して、〈無限〉な自己解体性を持った問題として虚像化される。個人の主体的な意識よりもそうした共同幻想が優先され、ともかく運動に同伴することを余儀なくされる。(「ところが彼らのいうには『われわれはあくまでも解放同盟のお手伝いをすることができるだけで、解放同盟に狭山を闘えというような類のパンフレットにかかわることはできない』とのことだった。」同書P43)

 こうした問題点に限れば、ここで取りあげた思考のメカニズムは天皇制にも共通します。「おれは部落民や……」と名乗られて土下座することは、振りかざされた水戸黄門の印篭に土下座する時代劇のスタイルや、神聖天皇を戴いた軍国主義権力が貫徹したかつての社会にあまりにも似すぎた自己解体の有様ではないでしょうか。また、パンフレットの一件にしたところで、思考停止で天皇制国家の戦時方針に雪崩を打つように同伴した戦前・戦中の知識人のあり方、そして戦後はまた同じように雪崩を打って民主主義に同伴した知識人の姿をほうふつとさせます。要は、〈部落〉内外の共同幻想を客観的に把握することなく、〈部落〉内外の大衆的な思想原理(例えば本音としてあるもの)を自分の思想の中に繰り込む努力を怠り、たかだか政治理論や運動理論などの共同幻想を自己の主体的な思考に優先・同調させた結果がこれではないでしょうか。
 私はもともと運動の内部で思考したことはありません。従って、運動がどうあるべきかという点については特に意見があるわけではないのです。ただ、〈部落〉の「外部」にあって、〈部落問題〉になんらかの関心を持つ一人として、〈無限責任と主体〉の問題は私たちが陥りやすい危険性をよく示している問題として、きちんと考えなければならないと思っています。そして、差別用語問題に見られるような禁忌意識の強化を通じて、この〈無限責任と主体〉の問題が、再び〈部落〉内外を貫く重要な問題として浮上してくるのではないか……という危倶を抱いている限りで、部落解放運動全体の動向には関心を持っています。
 それとこれとは違うといわれそうですが、具体的な個々の場面での判断から逃避する結果になりがちな各種差別用語の規制は、天皇制に顕著に見られる特異な用語禁忌、敬語強制と質を同じくするように思えてなりません。前者は差別をなくすために、後者は天皇制の権威を維持するためにという名目の違いはあるにせよ、問題の本質から目をそらさせる危険においては共通しています。そしてこうした一律な言論統制の裏側には、ある種の共同幻想が前提とされています。それはこうした言論統制によって〈部落〉の内側と外側(皇室の内側と外側)を明確に区別しようとするものです。もっと極端にいえば敵と味方を区別するためといえるでしょう。
 また、一律な差別用語の規制は、個々具体的な差別問題解決への対応方法と、社会総体を対象とした差別問題解決への対応方法とを混同した結果でもあります。個別的に差別意識が問題にされなければならないことが、あたかも全社会に共通するかのように勘違いされています。その上、ことばが「上部構造」である以上、社会的実態が変化しなければ、ことばだけを言い換えても何の意味もないことは明確であるにもかかわらず、言い換えることで問題が回避されると二重に勘違いされています。むしろ問題なのは、言い換えれば差別的でなくなるという、差別認識の錯覚の方ではないでしょうか。
 こうした動向と錯覚の行き着く先はやはり〈無限責任と主体〉の問題ではないか、と思うのは考えすぎでしょうか。〈部落〉の内側と外側という考え方自体を解体させるという課題を背負うことなく、両者を固定させて、用語統制によってより一律に差別の定義を強化させること。これは〈無限責任〉を要求することと異なるのでしょうか。
 私が〈部落解放〉のイメージを頭に描くときに、真っ先に着手されるべきだと思うのは、言論統制を撤廃し、用語禁忌をできるだけ速やかに解消することです。それによって差別発言が増えても、それは潜在化していたものが顕在化しただけのことで本質的は歓迎すべきことでしょう。もちろんこうした総体的な方向性と、個々具体的な日常的に発生する問題(例えば差別問題)の対処とは(混同することなく)区別されなけれななりません。何が差別か、なぜ差別かという議論を深めながら、差別問題には今以上にキメ細かく対応することが必要でしょう。しかし社会的な方向性でいえば、あらゆる禁忌意識をできるだけ解消することの中にしか、部落解放の可能性は見えてこないのです。そしてそれは、〈無限責任〉のあり方を徹底して批判することでもあるのです。
 『こぺる』8月号の北口さんの文章や昨年以来何回か拝見した原口さんの文章を読んで、自分の出る(書く)幕はないなと、つくづく痛感しました。(ただし「共同幻想」という吉本隆明の概念については議論の余地があると思います)。従って、今回のこの文章には、切実で確かな自己体験を持った『こぺる』や『同和はこわい考』通信の論者の思想と、そうした体験を持たない自分の〈部落問題〉に対する思想とがどこかでかかわれるのかどうか、正直なところ疑念を持っています。空疎で無意味だと判断されることを怖れています。
 しかし、これは私なりに藤田さんの指摘された〈無限責任〉の問題を展開させ、同時に〈両側から超える(私の言い方では両側を超える)〉という思想に結びつけてみようとしたものでもあります。不足している点は今後補いながら、将来どこかで思想が接触できることと思います。

《 第14回部落問題全国交流会をめぐって 》①
これまでとは格段に違った今年の交流会
石原 英雄(京都)
 部落問題全国交流会たいへんお疲れさまでした。楽しみにしていたこの日でした。終わってからも、『こぺる』をめくって、表紙の裏の交流会の案内を眺めては、楽しかったなあと胸の揺さぶられる思いをしています。
 今回は、事務局の一員として総合司会を担当させていただいて感謝しています。 事務局には、交流会の出席者が少なくなってきている、マンネリに堕してきているのではないか、このまま続けていいものかという空気がありました。ここで、講演の講師を捜すことよりも畑中さんら4人を軸にして討論しよう、分散会なしでいこうという計画は大胆でした。僕は昨年から原口さんの考えを聞いてきたので、「部落民とは」ということで原口さんを中心にした分散会を提案するつもりで事務局会議に出席しました。だから、今回のぶっ通し討論の計画とテーマ設定には大賛成でした。『同和はこわい考』通信99号からの流れ、『こぺる』の論調の流れから見て、ここで「部落・部落民・部落差別」についてひとくぎりをつけることは必然であったと思います。
 結果は大成功でした。誤解を恐れずに言いますと、「部落問題全国交流会」は曲がり角にきていましたが、今回、見事に曲がりきったと思います。10時間座り続けた畑中さん、住田さん、原口さん、山城さんの論議は一瞬も息を抜くことができないはど緊迫したものでした。それを会場の100人を越える人たちが支えていました。交流会は部落問題の現状と課題にしっかりと向きあっていたと思います。
 幸いなことに総合司会をさせていただきました。終わりの挨拶をするとき、参加者の皆さんの穏やかなまなざしが、ひとつの仕事を全うした後の爽やかさを感じさせてくれて、僕はこれらのことを確信しました。
 整理すべきことはいくつもありますが、印象に残っていることのひとつはNさんの発言でした。Nさんは部落外の人と結婚した。しかし、その家族から未だに認められていない。顔も見てくれないという。まことに苦しい部落差別そのものです。部落差別において根本的な問題ですが、Nさんがこれまで公の場で話せなかったのは、おそらく差別糾弾や今までの運動の考え方では解決をめざして対処することができなかったからだと思います(差別が現存するという「語り」の素材に供され、その怒りは行政闘争などに振り向けられて、問題点がそれてしまうからでしょう)。しかし、Nさんが部落差別を仲立ちとする人と人との関係、つまり自分と、差別意識を持つ部落外の人(本当はもっとも親密であるべき人)とをともに同じように客観的に見ることができるところに立っていることが伺えました。差別の加害・被害という立場の絶対化、贖罪意識を仲立ちにした関係、部落の内に引きこもる意識などを正面にすえての議論、そして、原口さんの言う「共同幻想としての部落差別」。このような論議の上ではじめて出てきたNさんの個人体験にまつわる発言だったと思います。今ようやく、部落差別をめぐる人と人との関係を変えることができるかもしれない入口に来たということではないでしょうか。これは、交流会の議論の深まりを示しています。
 これまでとは格段に違う交流会でした。論点をひとつひとつ整理していくことが今後の課題ですが、乏しい能力で悪戦苦闘するより、まずは感想をお伝えします。

《 案内 》
『こぺる』合評会
 10月25日(土)午後2時
 京都府部落解放センター2階第2会議室
 話題提供者・原田琢也さん「『同和校』の〈現実〉は?」(7月号)

《 川向こうから 》
☆第14回部落問題全国交流会が終り、ほっとしています。参加者は東京から九州まで130人。いつまでたっても人数は増えません。しかしまあ、いまどき「部落・部落民・部落差別」をテーマにして10時間近く議論する集まりに身銭を切って出かける人が130人もいることのほうが奇特と言うペきでしょうな。ところで、今回は、住田一郎さんの提案で急遽、参加者に感想を書いてもらうことにしました。石原さんを初めとして、寄せられた感想から何篇かを選んで紹介します。なお、議論の模様は『こぺる』に掲載する予定です。
☆某日、愛知県津島の知人と久し振りに会い、運動について話していると、『こわい考』なんて知らないとのこと。そこで一冊献呈したら、お返しにもらったのが木村義信商店製造の雪駄一足。これが工芸品といっていいほど立派なものなんです。貧乏人の悲しい性でいかほどするものか気になって聞いたら、手縫いの革靴をはるかにしのぐらしい。値段を知るとよけいにもったいなくなって、とても履けそうにない。同封のパンフレットによれば、雪駄職人の木村義信さんは苦学の末、教員免許証を取得したものの、父親の強い希望に従って教員への道をあきらめ、雪駄造りに一生をかけてきた人だという。そのせいか、雪駄には凛とした風格があり、見て触っているだけでこちらの背筋がしゃんとするから不思議です。
☆奈良で発行されている 『部落解放運動・情報』No.14(97/9/20)に「『同和はこわい考』の10年-なにが見えてきたか-」を寄稿したところ、編集者のお一人から、
わたしも当時、藤田さんの主張は「部落解放運動の地平をねじ曲げるものであり、反動行政を勇気づけるもの」として、「両側から超える」論を批判したひとりでもあります。それから十年が経過。しかし、部落解放運動の展望がみえるどころか、主体性のない「法」依存・行政依存による運動を生みだし、部落大衆からの信頼を失ってきたのが実態である。今日、部落史の見直しとともに運動においても発想の転換(運動と組織のありよう)が叫ばれはじめている。藤田さんのいう「差別・被差別関係総体を止揚する共同の営みとしての部落解放運動の創出」という提起が心に響いてきた感じがする(ちょっとは人間ができてきたのかな?)
とのコメントをいただきました。そう、たしかに十年というのは、見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえてくる歳月なのかもしれません。『情報』については〒630 奈良県磯城郡田原本町鍵301-1 同誌編集委員会(TEL 07443-3-8555)まで。定価1部300円(送料別)、郵便振替 01050-0-23411。
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