同和はこわい考通信 No.118 1997.9.1. 発行者・藤田敬一

《 『同和はこわい考』の十年 》⑤
経験の思想化
師岡 佑行
 風はよく通る。しかし、湿気を含んで空気は重く、気温は高く、すでに三○度を越えている。なにもする気がしないで、ただゴロゴロとしているばかりの日曜だ。
 『同和はこわい考』が出版されて10年。なにか打ち出さねばならないと思いながら、容易にキーが進まない。
 ふと、先日、開かれた土方鐡さんの古稀を祝う会の光景が思い出される。土方さんの古くからの文学仲間、各地で部落解放運動に取り組んでいる友人たちが集まって、結構、盛んだった。
 しかし、その席には部落解放運動の中で土方さんにもっとも近しく、親しかったはずの顔が見えなかった。土方さんは、戦後、早い時期に部落解放運動に加わり、長いあいだ、『解放新聞』の編集に当たってきた。前編集長でもある。また、京都府連では顧問という地位にもついている。
 わけは聞いた。ヘドが出るような話だった。
 それはそれとして、どうして、この集まりに出て土方さんを祝い、長寿を願うことができないのだろう。『解放新聞』は、運動内部でのさまざまな抗争に耐えて継続して発行されてきた。そのために果たした土方さんの役割は大きい。この一点においても、ボイコットのような事態はあるべくもなかった。
 こんなことが、つぎつぎと頭に浮かんでくる。おそらく、10年前だったら、なんとヒトデナシなことよ、と笑いとばしていたに違いない。しかし、いまはジクジクと思い出され、どうしてこんなことになってしまったのかと呆然とした気持のなかに落ち込んでいく。
 いったい、部落解放運動とのかかわりのなかでなにをしてきたのだろう。醍醐から東山(ここ山科からは西山にみえる)にかけての低い山やまが梅雨ぞらですっぽりと包まれている。年をとったせいかも知れない。気持が萎えてしまって、『同和はこわい考』を容易にひろげることができないでいる。
 とはいえ、藤田敬一さんが『同和はこわい考』を生み出す現場のもっとも近いところに、わたしはいた。ともに部落解放中国研究会のメンバーであり、藤田さんは『紅風』と名づけた機関誌の編集にあたっていた。わたしたちに共通したことは同和対策事業特別措置法制定以降、とみに目立ちはじめた部落解放運動内部での利権との結びつきを断ち切ることにあった。いまにして思えば、カマを振りあげたかまきりに過ぎなかったかも知れない。世の中すべてがとうとうとバブルの波に押し流されていくなか、敗北は必至だったが、部落問題という小さな領域で進めてきたささやかな抵抗であった。
 『同和はこわい考』が出たのは1987年である。そのきっかけは副題の「地対協を批判する」が示しているように、その前年1986年に地対協が提出した意見具申にあった。この意見具申は、当面している部落問題として、行政の主体性の欠如、「同和関係者」の自立・向上心の不足、えせ同和行為の横行、自由な意見交換の環境づくりの侵害をあげ、これらを解決するためには国がリーダーシップをもたなければならない、と主張した。部落解放同盟・全解連・同和会を民間運動団体とよぴ、問題解決の脇役、啓発のための精神修養団体として扱おうとした。
 当時、わたしは、この答申を中曽根内閣が進めている「戦後政治の総決算」のなかに位置づけ、「国家主義的同和政策」の強行をめざすものととらえた。糾弾を強く非難する答申にたいして、積極的にこれを擁護したのは、部落問題解決の主人公はあくまでも部落解放運動の側にあると考えたからであった。だが、その後、大激動のなかであたかもかつての翼賛体制と同じような体制がめざされ、部落解放運動も主体性をとりもどすことなく、そのなかにとりこまれていっている状況からすれば、この「国家主義的同和政策」という評価はあまりにも大時代すぎて適確だったとはとても言えない。この事態にたいする予感があったとしても、従来の運動論の手法ではとてもつかみ切れなかったのである。

 1986年の意見具申を読んだとき、サッと走ったのは、政府に先を越されたという印象だった。問題点としてあげてきた四点は、まず部落解放運動の側が取り上げねばならないものだった。どれもが生きている問題だった。直面している問題をきちんととらえて解決をはかっていけばこそ運動である。それを運動ではなくて政府が取り上げた。印象というよりも危機感であった。おそらく、藤田さんもそうだっただろう。だが、藤田さんはいわば状況から論じていくやり方をとらなかった。
 『同和はこわい考』を読み始めたとき、あらためて、ああ、藤田さんは、ともすれば一過性で終わってしまう日ごろの経験を思想化しているナ、と痛いほど感じさせられた。
 藤田さんは岐阜に住んでいる。その岐阜で友人たちとみずから超ミニコミ誌とよぶ『天国通信』を発行していた。『同和はこわい考』に先だって、この超ミニコミ誌に身近なところで行われている部落問題についての意識調査を取り上げていた。「同和問題」を知っているもの80%。しかし、その中味はどうだと藤田さんは問う。そして勤務先の大学での部落についてのレポートで学生が「(部落では)肉屋の冷凍庫にはブタ、牛のみならず、犬やネコの死骸がつるされ、近所にはそれらの姿はないといわれる」などと記した文章をあげる。
 バクロではない。80%もが部落について知っているといっても、内実、どれほど部落にたいする偏見が強いか、「同和はこわい」意識がしみわたっているかを具体的に示した。同和教育、啓発の効果だなどととても喜んではいられないのである。しかも、忘れてならないことは、例示だとはいえ、このような文章をあげることはタブーだったことだ。あえてタブーを破ることによって、また、そうでしかできないのだが、数字だけをあげつらった表面的な評価のうさんくささを、ものの見事に喝破することとなった。『同和はこわい考』の最初のところに載っているが、この問題への迫りかたはけっして過去のことではなく、現在にも求められるところだ。この本が10年経っても息づいているのはこのためだと思う。

 狭山事件についてのわたしのレポートに間違った記述がある。そのことを差別だとして、Sから糾弾を受けたことがあった。この糾弾は藤田さんにまでおよび激しい攻撃を受けた。わたしたちが、党派から独立した「狭山闘争に連帯する会」をつくったのが気にいらなかったのである。わたしは掲載雑誌に自己批判の文章を載せたことで攻撃をかわした。しかし、藤田さんにたいする攻撃は執ようで、暴力沙汰は藤田さんとその友人にまでおよんだ。
 地対協の意見具申を政治論や運動論の文脈でとらえたわたしと違って、藤田さんはこの経験を対置した。意見具申には「確認・糾弾という激しい行動形態が国民の間に同和問題はこわい問題・面倒な問題であるとの意識を植え付け」たという一節がある。わたしはこれを糾弾の否定だと批判した。しかし、藤田さんは、すべて運動団体に責任を求める意見具申を非難しながらも、「こわい問題」とみる見方については、もっと慎重に、じっくりと見定めることが必要だと考えたようだ。そして、生育歴をたどりながら、部落を「こわい」所だと感じ、そう見るのは他でもなく自分自身であることを明らかにした。Sによる糾弾はそのハイライトだった。
 Sから糾弾すると告げられたとき、「自分の全存在が根底から揺り動かされるような恐怖感」におそわれた。そしてそれは「自己責任の無限性」にたいするおののきだったという。そして「S君の主張にたいして論理性と道義性によらずして膝を屈してしまった自分の『だめさかげん』にわれながらまいってしまっていた」と言い、「なにが、わたしをひるませたのか。苦い思いの底にあるものを、わたしは考えつづけることとなる」と結んでいる。
 早合点すれば、地対協の指摘に同調するものに見える。事実、身近なところでもその意見が出た。しかし、「肉を切らせて、骨を切る」との言葉がある。藤田さんをかばった友人は、「俺は部落民や」というSの発言にたじろぎ、「土下座して、両手をついて謝っていた」。制裁は苛酷をきわめたという藤田さんにとって、忘れたい嫌な思い出だ。これを文字にすることは、いっそう辛い。しかし、地対協が指摘してきたところにたいしては、ここまでつきつめなければ主体的に立ち向かうことはできないとして、あえて取り上げたのであった。
 『同和はこわい考』はわたしにとってしんどい本である。さっき、「よほど気力がなければ読みつづけることはできない」と打ち出して消してしまったが、少し読み出して、あらためて、そうだと思った。
 Sの糾弾と言えば、わたしはうまくかわして過ごしてしまっている。そのことによって、もっと見えたはずのものも見えないでおわったままだ。たしか、事実認識の誤りについて、部落出身者なら間違わなかったものを、そうでない立場だから見誤ってしまったと弁解した。これは、どう考えてもこじつけだし、本来、事実誤認がそのまま差別であるはずがない。それを差別だと認めていた。いま、思いかえせば、「部落民にとって不利益なことは一切差別である」というテーゼがわたしのなかで生きていた。
 「苦い思いの底にあるものを、わたしは考えつづけることとなる」と藤田さんは書いている。
 今井正監督の映画『橋のない川』にたいする糾弾闘争は奈良や京都をはじめ各地で闘われた。逮捕者が出、有罪の判決を受けた人もいた。朝田善之助さんの指導があったとはいえ、糾弾の論理を示した解放同盟の糾弾要綱を書いたのは、まぎれもなくわたしだった。闘い、傷つき、犠牲となった方々には全く申し訳ないが、映画の内容から評価するのではなくて、朝田理論の展開による反対派攻撃の素材としてとらえた要綱は間達っていた。
 いつもとは言えないが、ふと、このことが頭に浮かぷと袋小路に迷いこんだように重苦しくなってくる。しかし、それだけのことだ。「考えつづけることとなる」という藤田さんのことばは、わたしの怯懦を強く鞭うつ。

 くりかえし、くりかえし行われた運動のすすめ方についての議論。そのなかで、意見が対立したとき、とどめをさすように、「部落民でないものになにがわかるか」という発言がなされることがしばしばだった。こういうとき、わたしは、不快だったが、またかと聞き過ごしてきた。しかし、藤田さんはそうではなく、こだわった。人一倍くやしがった。
 しかも大事なのは、個人的な怨恨として内側に飲み込むのではなく、この経験を運動における部落民と部落出身でないものとの関係としてとらえ、普遍化したことである。『同和はこわい考』ではくりかえし「体験、立場、資格の絶対化」を戒めて、それが「批判の拒否」、さらには「部落第一主義」「部落排外主義」につながり、これでは「差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営みとしての部落解放運動」をつくりあげることはできないことを警告している。藤田さんの部落解放論の根っことも言える「両側から超える」という主張はこうした自分自身の疑験をもとにして築きあげられている。

 本というものは出版すればそれまで、というのが普通である。ところがここでも藤田さんは違っている。運動のなかで対立が激化したとき、藤田さんはひろく全国の部落を訪ねた。ときには、利権を求めるグループに暴行され、拉致されかけるという軽験さえもっている。そうしたなかで、通り一遍ではない、深いつきあいを重ねる友人が多い。友人・知人の消息を口にするときの藤田さんのやわらかなまなざしと声調は忘れられない。
 『同和はこわい考』は、版を重ねただけではなかった。「『同和はこわい考』通信」を出して、読者や部落問題に関心をもつ人びと結び合っている。毎月届く「通信」は、驚きでさえある。読者からの手紙や文章を選び、適切なコメントをつけ、ときには自分の考えも、自らパソコンで打ち出し、印刷して折り畳み、封筒に入れて発送する。以前は封筒の宛名はペンで書かなければ、気がすまなかったのだが、最近ようやく、シールを利用することになった。
 これはわたしを含めて「通信」の読者ならだれもが知っていることだが、あえて記させてほしい。克己という古いことばを思い出してしまう。とても、わたしのような不精者にできることではない。「両側から超える」こと、「差別・被差別関係総体の止揚に向けた共同の営みとしての部落解放運動」の構築は藤田さんにあっては、提言だけにとどまらない。「通信」ひとつ取りあげても余人にとても真似できない地道きわまりない実践を着実に行っている。藤田さんは言説の人にとどまらないのである。(未完)

 なかなか、キーが打てなかったが、なんとか打ちはじめると、毒気にあてられたようにすすみ出した。思いも寄らないところに「両側から超える」のことばを見るようになった。といってもまだまだ、市民権を得るにはほど遠い。古稀を前にして、気分はブルー。

切り札をもたない人びととの交遊
松岡 勲(高槻市)
はじめに
 私が藤田さんと知りあったのはいつ頃だっただろうか。高槻の同和校に在籍したまま、大阪府同和教育研究協議会の事務局にいた頃だった。79年9月から部落解放史講座を企画・担当し、師岡さん・横井さん・堀口さん・山本さんをお呼びしたのをきっかけにして、解放教育の現状に疑問をいだいていた私は、まだ熊野神社の近くにあった京都部落史研究所で開かれていた差別論研究会に参加するようになった。その中で藤田さんとお会いしている。あれから17年、『同和はこわい考』が出版されて10年、『こぺる』の再刊から4年余、長いつきあいになった。この藤田さんや『こぺる』を介してつながった人々とのつきあいがなぜ長く続いたか、それを振り返ってみたい。その前に『こぺる』合評会での矢田支部の報告について触れたい。

矢田支部のさわやかな決断
 今年の2月22日の『こぺる』合評会は「矢田の教育をめぐって」で、解放同盟矢田支部の組織改革、教育改革の報告があった。この報告を聞いて、久しぶりにさわやかな感想を持った。解放同盟の話を聞いて、こんな爽快な気分を感じたのはめったにないことだ。
 それは28年間の同和対策事業依存から脱却し、解放同盟の組織改革を断行してきた取り組みで、「個人の豊かさから地域・組織の豊かさへ」「部落の中から外へ、外から中へ」をめざして矢田支部は動いてきた。話の内容が新鮮で、聞いていて、こういう時期に同和校に勤務していたら、小踊りして喜んだだろうなあ、との感慨を持った。
 矢田支部が教育状況の問題点としてとらえているのは次のことであった。部落の子どもたちは組織的過保護状態のなかで、依存心が強く、知的好奇心が弱くなっている。部落外の子どもとの溝が深くなっている。それに対して、部落外の子どもには学校以外の放任状況の中で、学力の低下・荒れ・不就学・怠学が起こっている。部落の子どもたちに対する構えとしては、周辺地域の差別意識を反映して、部落外の子どもたちに「ちゃんとものが言えない状況」が生まれている。この両者の子どもたちの現状を視野に入れて、解放教育の課題とその刷新を考えている。「依存から自立へ」「思いから行動へ」「違いを認めあう関係づくり」を課題としているとのことだった。すでに、大阪府では部落の子どもに対する特別就学奨励費が今年の4月から廃止されたが、この状況を見すえ、学校での子どもたちの自立心の確立をめざし、部落解放子ども会への参加も今までのような組撒丸抱えではなく、主体的な参加をめざしているという。
 こういう支部の教育方針の転換は同和校内部に「とまどい」も起こしていると、合評会に参加した同和校の教員から発言があった。そのとまどいもよく分かる。そのことで私が考えたのは、次のことだ。同和校の教員と解放同盟とのあいだでその時々の教育方針の決定権をいつも解放同盟が握ってきた歴史がある。関係を決める「切り札」が解放同盟に握られてきたのが、特別措置法体制下28年間のあり方だった。その関係を矢田支部が変えようと決断したとき、これまでの28年間の体制に慣らされた学校が判断停止に陥るのは容易に想像できる。だが、今は学校にとって、生気を取りもどす絶好の機会だろうし、学校の主体性の再生をぜひとも実現していけたらいいのにと思った。矢田支部にも同和校にもエールを送りたい気分になった。

あえて切り札を持とうとしない人たち
 元来、差別には、強者が弱者に対し一方的に「切り札」を切る社会的関係があると見てよい。部落差別についても、その他の差別についてもそうだ。ところが、部落解放運動の長い努力が特別措置法を制定させ、部落問題が「国民的課題」となったこの28年のあいだに、この関係の逆転が引き起こされた。特に行政・学校関係者と解放同盟との関係において、「切り札」を同盟側が握る傾向ができあがってきたと言える。この関係の具体的事例については、私の経験をもとに『こぺる』96年11月号に書いた。(「〈解放教育の終焉〉を考える」)
 その後にもこんなことがあった。在日朝鮮人子ども会が設置されている前任校で(この4月に転出)、在日朝鮮人子ども会の保護者会があった。私は子ども会設置の意義を話したのだが、その中で子ども会設置に反対のお母さんから「今の発言の中に差別発言がある」と言われ、驚いた。それは「3世の子どもたちは、祖父母や両親の歴史を背負っている」という私の発言を指していた。「『背負う』という言葉には否定的イメージがあり、差別発言だ」と言うのである。いいがかりと言うほかない。この言葉を使って説明は続けたが、でも、そう切り込まれたとき、私の中に確実に動揺があった。ここにも関係の逆転、つまり差別問題で、被差別者が一方的に「切り札」を切るという共通の傾向が見られるのである。
 そこで、結論なのだが、『同和はこわい考』や『こぺる』などを介して長いつきあいができてきたのは、先に矢田支部のことで書いたように、差別をめぐって人と人との関係の取り方を変えていこうとする人々、「切り札」をあえて使わない決断をした人々の集まりであったからだと思う。「スペードのエース」を持とうとしない人たちとの交遊は心地よい。いつの時代もこういう人たちは少数である。「両側から超える」とは、そういうことだったのだ。だから、長く関係が続けられたのである。こういう関係がさらに広がっていけたらいいと、『同和はこわい考』の10年にあたり、思うわけです。

《 川向こうから 》
△某日、岐阜県恵那郡川上かわうえ村へ。中央線中津川で降り、車で30分。久し振りに恵那 山を仰ぎ、映画「青い山脈」を思い起し(というのも原節子、池部良、杉葉子さんらが出演した第一作は中津川でロケーションが行われたんです)、ええ気分にひたりました。川上村は木曽の西に位置し、島崎藤村の『夜明け前』の舞台馬籠まごめにも近い人口千人の山村です。教育委員会の担当者は、夜7時半からの集まりに何人参加するか心配そうでしたが、結局50人ほどで熱心に話を聞いてくださいました。千人中50人ですから5%、大したもんです。こうした集まりをもつにはそれ相応の苦労があり、その苦労の過程が大切な何かを考えさせてくれるわけです。それがないと研修会は単なる人集めの催しに過ぎなくなってしまいます。
△片や某町の「生涯ママ習大学講座」は、民間業者の教育研修事業部にすべておまかせの手際のよさ。生涯学習課長さんは開会の挨拶、業者から手渡されたメモを見ながらの講師紹介、閉会の挨拶をするだけで、終わるやいなやそそくさと姿を消さはりました。以前、講師派遣業者のパンフレットを見たことがありますが、人権啓発が声高に叫ばれれば叫ばれるほど、この手の研修会・講演会が幅をきかせ、中には金もうけの手段にしようとねらう手合いが出てきても不思議ではない。すでにその徴侯が表われはじめたというわけでしょう。いやはや。
克己こっきとは、辞書には「自分の怠け心や欲・邪念に打ち勝つこと」とあるけれど、そんな立派な志があってこの『通信』を出しているわけではないのです。どう見ても師岡さんの評はホメすぎです。『こわい考』の波紋を伝え、誤読を正し、誤解を解き、書く人・読む人の境目を超えて問題のありかと解決の道を一緒に考えたいと願って出してきたにすぎません。実を言うと、「出すか、止めるか」の選択をしながらの10年でしてね。惰性化し習慣化した関係って見苦しいですから。
△中野孝次さんが『現代人の作法』(岩波新書)で、最近のマナーの悪さにえらく怒ったはりますが、大筋において同感。世の中、無礼失礼なヤツが多くなったように感じます。『通信』を読みたいから送れというので送っても梨のつぶての人がいる。そんな人が他者と日ごろいかなる出会いをしているか想像できるというもんです。部署名・学校名を変えればみんな同じ文面の、「私こと、この度…、もとより微力ではありますが…」といった印刷された転任・転勤挨拶を添え書きなしで送りつける人がいる。そんなものは個人あての便りではなく、法人あての通知・通告にすぎない。まともに挨拶ができなくてなにが差別・人権か、なにが教育・啓発かと、このところ大いに腹を立てています。トシをとったんかなあ。
△本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX058-293-2222)です。(複製歓迎)