同和はこわい考通信 No.117 1997.8.13. 発行者・藤田敬一

《 『同和はこわい考』の十年 》④
「両側から超える」という問題提起に応えて
住田 一郎
1.
 1969年、特別措置法が10年の時限立法として施行された。その期間内の後半ごろより、対策事業による矛盾が各地の部落解放運動の現場で生じてきた。特に、解放教育の現場における矛盾・混乱は顕著であった。小・中学生による部落民宣言が解放教育を進める上で避けて通れない教育実践の課題となったからである。一例を挙げれば、学校現場でそれまで極端な低学力のまま放置されてきた被差別部落の児童生徒への学力保障は一斉授業ではほぼ不可能とされ、彼らを抽出した授業形態が編み出されていた。ところが、実施する段階で、教師ははたと戸惑ってしまった。クラスメイトになぜ彼らのみ抽出したのか、理由を明らかにする必要に迫られ、明確に部落出身者である事実を告げねばならなくなったのである。学校での職員会議は議論が沸騰したが結論を見いだすまでには至らなかった。当然といえば当然な逡巡であった。
 しかし、対策事業として早急な実施が迫られるとともに、部落解放運動側との意思統一が不可欠とされ、真剣な論議が連日なされた。結局、運動側の考え方、つまり「自らの社会的立場の自覚」論に基づき、部落民を名乗ることが積極的に提起されることになった。むしろ、顕在化することが当然とされた。多くの教員は職員会議で「部落民宣言」が部落の児童生徒に与える影響だけでなく、他の子どもたちに与えるであろう影響に対しても教育的配慮の内容を予測する力量は当時にあってはあまりにも不十分であった。戦後民主教育の展開の中で、残念ながら被差別部落出身児童生徒に対する教育課題はごく一部の学校で取り組まれていたにすぎず、全国的には空白状況にあったからである。教職員にとって「部落民宣言」実践は見切り発車であった。このような経緯から実施された「部落民宣言」の場はさながら腫れ物に触るがごとき緊張をともなうものであった。被差別部落の親たちからは「部落民宣言」によってわが子が卑屈になったり、差別されたり、いじめの対象にならないようにとの要求が強く出された。
 テレビ放映された啓発ドラマで、ある部落の母親は、わが子が部落民宣言をする朝、学校の正門前でインタビューに答えていた。彼女は「子どもが不憫で、代われるものなら代わってやりたい。先生はわが子にがんばれと言ってきたが、大切なのは周りの子どもたちが差別しない状況を作ってくれることです。差別に絶対あわないことです」と。彼女自身の体験から、わが子が人前で部落民宣言することなど考えられなかった。隠せるものなら隠してやりたいと考えてきたのである。しかし、事態は一歩踏み出した。その彼女に、教師たちは「お母さんの言う通りです。私たちもできるだけ娘さんを守っていきたい」と答えざるを得なかった。当然のこととして、教師たちは〈何が何でも宣言した児童生徒〉を守ることが至上命令とされた。「部落民宣言」を児童生徒にやっていただく、という状況が生み出された。教師と部落の児童生徒との立場(力関係)は微妙に変化しつつあった。部落民宣言はこのような形で二重三重にガードされなければならない教育実践とされた。
 これらの対応でよかったのか。私には大いに不満であった。教師たちは母親に、少なくとも「わが子が部落民宣言するに至るまでの葛藤、成長について語り、今後出会うであろう障壁(差別)に対して彼女は乗り越えていくきっかけを、この宣言を通してつかんでくれるにちがいない。もし必要ならそのときにこそ私たち教師やお母さんが手をさしのべればいいのでは…」と答えるべきであった。
 鳴り物入りで真綿にくるんだ「部落民宣言」実践が、いったい部落出身児童生徒たちに、どのような力をつけることができたのか。部落の児童生徒たちに〈気をつかう〉教師の姿勢は学校現場で子どもたちの友人関係をぎくしゃくさせてきたのも当然であった。「部落民宣言」は当の児童生徒にとって教室の中で一段高いところから、異を差し挟むことを許さぬ〈訴え〉となっていた。部落の子どもたちの自立への芽は教師や親たちの〈善意の配慮〉によって摘まれてもきたのであった。当時、私はこのような現場に解放会館の教育担当職員として何度も出会ってきた。
 ある教育懇談会での状況を今でもはっきり思い出すことができる。
 懇談会の席上、中学三年担任の教師が「私のクラスのAくんのことなんですが、彼はクラスでの舞台発表会で役割を決めるとき、三年間常に裏方の照明係に立候補してくれたのです。立候補自体は積極的なので、これでいいのかとも考えたのですが、どうして彼は裏方にしかつかないのだろうと疑問に思ったのです。彼はやはり逃げているのではないだろうか。この引っ込み思案がちょっと私には気になるのです」と話した。間髪をいれず、彼の母親が「何で文句があるのか。劇には裏方もあれば、舞台で演じる人もいる。それぞれの役割はあるはずや。先生はうちの子どものどこが気にいらんのか」と発言した。他の母親たちも「そうや」と相づちを打った。学校職員の席は一瞬静まりかえってしまった。
 確かに、その母親が言うように、Aくんが裏方を選んだことが間違っているというわけではない。しかし、先生が指摘したかったのは、日ごろのAくんの勉強ぶりや物事に取り組む姿勢や態度から考えたとき、舞台で演じる役にも挑戦してほしかったということなのだ。裏方から舞台で演じる役までには、Aくんにとって飛び越えねばならないハードルがあった。先生としてはAくんに彼の前にハードルがあることを知ってほしかったし、そのハードルを越えてほしかったに違いない。越えようとする意欲がほしかったのだろう。この先生の指摘は誤っているのだろうか、と私はたまらず発言していた。母親たちは口々に「そう言うてくれたら、わたしらにもわかるんや」と、その場は収まった。しかし、先生方は納得できただろうか。
 私も母親の思いは思いとして認めたい。しかし、母親の子どもへの対応が、母親の思いとは違って子どもの〈自立〉の壁になっている場合もあるという事実について、じっくり話し合う必要があったのである。しかし、残念ながら母親の学校生活や人生体験には、人々と対等に話し合うという対話の経験はあまりにも少なく、話し合うことを敬遠してきた。そこで彼女には教師の指摘が息子への非難とのみ映り、無条件に息子を守らねばと感じた結果の発言だった(いわゆる「身がち」)。しかも、その迫力には息子への非難は絶対許さないとの決意すら感じられ、普通はこれで双方の対話は途切れてしまうのである。
 この時期、「部落民宣言」を経験した生徒は、進学した高校で、中学時代の学校・教師の対応とのあまりの格差に戸惑いを覚えていた。二重三重にガードされた解放教育を当然と考えてきた生徒たちには、高校の姿勢が「冷たく差別的」と映ったのである。カルチャーショックであった。実は、カルチャーショックは一般的にはそれと取り組む生徒の跳躍台になるきっかけでもある。カルチャーショックを皆無にすることは決してできず、何らかのカルチャーショックがなければ若者にとって成長のきっかけをなくすとすら言える。ところが、彼らは高校の教師との間に生じた見解の相違についてじっくり話し合うのではなく、何事においても地域の解放会館(部落解放同盟支部)にダイレクトに苦情として持ち込んできた。残念ながら、解同支部は一呼吸おいて対応することが少なく、彼らの苦情を鵜呑みにして学校側と代理交渉することも稀ではなかった。本来、自主的な判断でなすペき集会参加についても、直接学校側に〈公休扱い〉を要求するのではなく(要求内容の是非は措くとして、直接要求するならまだしも)、解放会館から頼んでほしいと言ってくる。自らの責任を自覚する手だてを覆い隠されてきた青年たちによる部落民宣言とは、いったい何だったのか。私の疑問や苛立ちは募るばかりであった。

2.
 上記のような体験を通じて、70年代後半に私は、このままでは部落解放運動は足元をすくわれるに違いないとの危機感にとらわれていた。メモ書きしながら、80年代部落解放運動のあり方を模索する文章を綴っていた。しかし、発表するまでには至らず、運動内部で私の意見が受け入れられることも少なかった。もちろん、私の指摘が稚拙であった事実も見逃せないが。当時、部落大衆の〈弱さ〉を指摘するなど論外であった。部落解放同盟寄りの解放教育主流派教師たちから私たち夫婦は露骨に敬遠されてもいた。このメモ書きを下敷きに、私がはじめて公に発表した「部落解放をめざす教育運動の課題」(田中欣和編著『解放教育論再考』柘植書房、1981年刊所収)に次のような文章を挿入していた。

部落差別の歪みが外面的な生活の劣悪さとしてストレートに現れるだけでなく、内面的な人格形成のうえで重要な役割を担う“学習の場”を奪われてきたために背負い続けねばならなかった部落大衆の“弱さ”としても存在することの意味を無視することはできない。

 以後、長男の小学校入学と同時に、私は地区内で教育を守る会(義務教育段階の子どもを持つ親の組織)活動の参加した。この活動から具体的な父母の生育歴を知り、彼らの考え方に流れる〈部落的なもの(思考)〉に接することができた。この〈部落的なもの(思考)〉をより深く知るにつけ、先に指摘した〈部落大衆の“弱さ”〉の存在に確信を持つようになってきた。部落差別への過剰反応としてしか私には理解できなかったが、部落外に対する異常とも思える部落大衆の装い。デパートで不自然な〈標準語〉を語り、お里が知れるとざっくばらんな〈部落言語〉を絶対使わない母娘の振る舞いを知った。私には母娘の態度を笑うことはできなかった。
 93年に実施された総務庁の(被差別部落)生活実態調査に、「かりに、日ごろ親しくつきあっている隣近所の人が、なにかのことで、同和地区の人であることがわかった場合、あなたはどうしますか」との質問に、地区外の87.8%の人が「これまでと同じように親しくつきあう」と答えているのにたいし、「かりに、日ごろ親しくつきあっている隣近所の人に、なにかのことで、あなたが同和地区の人であることがわかった場合、その人の態度はどうなると思いますか」との質問に、地区内の43.5%の人が「表面的には同じだが、実際は避けるようになると思う」と答えたという。このコントラストが先のデパートでの振る舞いにも通じていることは容易に理解してもらえるのではなかろうか。私はこのコントラストにこだわり続けてきたと言っても過言ではない。その後、被差別部落大衆の〈内面的弱さ〉の指摘に行き着いたのもその延長線上であった。
 この模索の時期に、行きつけの書店で、題名の奇抜さにそそられ新刊コーナーで手に取ったのが『同和はこわい考』であった。それまで、私は藤田敬一なる名前をまったく知らなかった。当時、部落解放同盟とその周辺で彼を知らなかった者はモグリであると言われても仕方なかったかもしれない。だが、私は17歳から自覚的に解放運動に参加してきたと自負しているが、その名前は知らなかった。答は簡単で、解放運動における〈世界〉を異にしていただけである。私は高校・大学を通じて学生部落問題研究会に属し、部落問題研究所の文献で部落問題を学んできた。藤田さんの活動範囲と接点をもっていなかったのである。狭山闘争一つとっても、私は学生のころから国民救援会の「石川さんを守る会」に属していた。
 私たちが高校時代(1965年)に部落問題研究会を大阪で組織したとき指導してくれた四条畷学園の人見嗣郎先生(故人)は、藤田さんたちが作った京大の学生部落研の顧問格だったというのだが、当時の私にはその存在を知るすべはなかった。ただ、私の父(住田利雄さん。1911~1986。部落解放同盟住吉支部長、大阪府同和事業促進協議会理事、府連副委員長などを歴任。著書に『「下駄直し」の記』解放出版社がある-藤田補注)がたまたま59年から60年の矢田調査にもかかわっていた関係で、調査員として参加した人見先生や学生のことをよく覚えていた。名前は明らかにできなかったが、「熱心に調査に参加した学生がいたが、今どうしているか」とも語っていた。私はその後、藤田さんをよく知るようになるにつけ、親父が言っていた学生とは藤田さんに違いないと確信した。親父が存命中(86年1月没)に確認できなかったことが心残りである。
 因縁と言えば抹香臭いが、『同和はこわい考』との出会いは、私にとってまさに因縁であった。

差別は人間の尊厳を犯すといいますけれど、しかし差別は、差別される人の人間性をもゆがめるともいえます。部落解放運動をみるとき、「差別の結果」という分析はあっても、崩壊させられていっている感性を、どうとりもどすかが、ほとんど語られないのは、どうしたことかと、私は、いぶかしく思っているのです。「傲慢さを許しているのが、差別だ」という声は聞きますが、その傲慢 さの中で、人間をダメにさせられていっていることへの警鐘が鳴らされることがあまりに少ないのは、どうしてでしょう。

 この文章に接したときの私の驚きと喜びをわかってもらえるだろうか。私が70年代後半以降そのときまで、被差別部落の内部から問題提起し続けてきた課題を、藤田さんは大胆にも部落外から公に発表した。当時、私は開き直りにも似た考えに支配されていた。被差別部落民が背負ってきた〈内面的弱さ〉は決して部落外から指摘することはできない。当の被差別部落民はそれをわかっていないわけではないが、部落外からの指摘を受け入れることはなく、指摘すれば〈差別だ〉と糾弾されることが多かった。それ故、部落民である私が問題提起し続けなければと背伸びしてきたのである。それだけに私には衝撃であった。待ちこがれていた問題提起でもあった。確かに『同和はこわい考』は、中央本部によって「差別図書」と烙印された。今もって正式にこの規定が解除されたとは聞いていない。しかしながら、三万近い人々に読まれるといううれしい誤算までついてきた。私の問題提起も決して孤立したものでない事実を知ることもできた。

3.
 以後、私は藤田さんの鋭い問題提起に刺激されながら、自分自身の部落差別問題を深めてきた。私がつたない文章を発表することができたのも、藤田さんや「こぺる」合評会、それに部落問題全国交流会に参加した人々との議論や支えがあったからであった。しかし、それらの場で受け入れられながらも、私には後ろめたさが絶えずつきまとっていた。私の考え方が受け入れられねばならないのは、実は部落解放同盟支部の現場なのだという意識であった。被差別部落大衆の〈内面的弱さ(貧困の文化)〉は彼ら自身によって自覚されなければならない課題なのだ。部落出身以外の人々には「不可解としか映らない被差別部落民の振る舞い」は克服されねばならない課題だと、私は涼しげに指摘するだけで終わってはならないのである。たぶん克服されねばならない課題に違いない。しかし、それ以前に何故そうなってきたかについて被差別部落大衆との〈対話〉を成り立たせる必要がある。私にはその課題があるに違いないと考えてきた。
 先日、私は友人から次のような話を聞いた。
 部落問題全国交流会に出席したおり、はじめてこの集会に参加した、公務員に優先採用された部落出身者と同室になった。話が弾むうちに彼はこう語ったという。

自分はこれまで職場で同僚に暴力を振るったことが多くあった。暴力の原因は決まって酒の席で同僚から、「あんたはどこから通ってるんや。どこに住んでいるんや」と聞かれた場合で、この何気ない質問を同僚からされると、わしはカッと頑に血がのぼって暴力を振るってしまう。居所を言うとわしが部落出身やということがばれるからや。どのような言葉で話し合えばいいのか分からんかった。それまで人とじっくり話し合ったことなどなかった。人前ではわしは言葉がまったく出なかったんや。それでうっとうしいからこれまでは殴って一件落着やと思ってきた。しかし殴られた相手はなんで殴られたか分からんかったやろな。決して「部落出身がなんでえ」とはよう言わんかった。しかし最近部落外に自分の家を購入してから、近所づきあいや子育てを通じて考えるようになってきた。暴力を振るうだけでいいんやろか。そう考えると自分がいかに部落問題について何も知らんかということがよう分かった。それでこの集会にも参加したんですわ。

 暴力が解決にならないことを百も承知の彼に、暴力はダメだと言っても、そんなに効果はないのではないだろうか。暴力に至る彼自身の心のわだかまりに共感することのない指摘は空虚ですらある。共感することは暴力を認めることとは次元を異にしている。私は以前に親父との夜を徹する激論の中で「お前はそれでも部落民か」と怒鳴られた事実を不満げに記したことがある。しかし、今あらためて私は親父の指摘を受けとめ、「部落民とはなにか」「部落民的なもの(思考)とはなんなのか」にこだわろうと考えている。被差別部落大衆に共感するとは、私にとってどのようなことなのか。親父の思いはこの共感ではなかったか、と自問自答している。それは、私にとって部落差別を受け続けるとはどういうことなのか、いったい差別は被差別部落大衆にどのような形で現れているのか、を明らかにすることでもある。
 私の〈共感〉へのこだわりは藤田さんが長年の実践と苦悩の中で行き着いた「両側から超える」との行動提起を積極的に受けとめたものたと考えている。

《 採録 》
寺園 敦史『だれも書かなかった「部落」』(かもがわ出版、97/5)
 藤田敬一氏(岐阜大学教授)は『「同和はこわい考」通信』という個人通信を発行している。『通信』は、「差別」-「被差別」の立場の絶対化・固定化を前提に進められる部落解放運動に疑問を呈する人たちの交流紙的な性格をもっている。(中略)それにしても「同和」「部落」ということがかかわると、なぜ人びとの表情は硬くなり行動がぎこちなくなってしまうのか。「落書き」にしても、「同和」以外の内容なら、これほどの反応を行政は示していないだろう。また、たとえば市民向けに行われている同和研修の場でしばしば見られる光景---うつむいて押し黙ったまま時間が過ぎるのをひたすら待っている参加者---を生み出す原因はなんだろうか。(中略)「同和」と聞けば一方では過敏になり、もう一方では無反応になってなってしまう現実がある。この現実のもつ意味を考慮することなく、「啓発」や運動を繰り返しても、そこからは何も生まれないのではないか。
 前記『「同和はこわい考」通信』の藤田氏はこんなことを書いている。
 「部落解放運動は、なにかといえば七○年の歴史を誇るけれど、ほんとの友人をつくってこなかったのではないかとの感慨を抱きます。ほんとの友人とは、苦言や直言を呈し、ときには率直な批判もしてくれる、気のおけない身近な人のことでしょう。ところがここ二十数年、『部落民でない者は差別者だ』という断定がまかりとおり、協同者であるべき人を萎縮させ、疲労させ、挫折感にさいなまれるような状態に陥らせているのに、いっこうに気づかぬ風情。そんなことでは、いかに人間解放への希求を語ったところで説得力があるはずがない。心底そう思う」(『通信』No.75、93年10月17日付)

コメント.
寺園さんの本は、京都市の同和行政にかかわる部落解放運動の問題点を詳細に述べています。記述には根拠が示されていて、読む者をして愕然とさせる話にこと欠かない。運動団体は、せめて指摘された個々の事実について釈明、もしくは反論すべきです。もし、これまでのように無視するというのであれば、社会的信頼はさらに失われ、いよいよ冷淡なまなざしにさらされることになるにちがない。ま、わたしがここでこんなことを言ったって無駄でしょうが。

《 案内 》---第14回部落問題全国交流会
9月13日(土)~14日(日)京都西本願寺北側・門徒会館(075-361-4436)
パネルディスカッションと討論:「部落・部落民・部落差別…」
パネラー:住田一郎・畑中敏之(司会)・原口孝博・山城弘敬
申込み先:阿吽社(TEL 075-414-8951、FAX 075-414-8952)

《 川向こうから 》
★夏休みに入って山小舎がにぎわっています。先日は吉田欣一さんを囲み、岐阜のメンバー(片岡・戸田・船坂)に関西から高田・松本・恩智の三君も加わって愉快なひとときを過ごしました。交感の場として活用中といったところ。
★大阪矢田の調査でお世話になった方々を思い出しながら住田さんの文章をパソコンに入力しました。文中に出てくる住田利雄さん・人見嗣郎さんのほか、亡くなられて久しい田中三郎さん、泉海節一さん……。あれからいろいろあったけれど矢田での体験と思索が今もわたしを叱咤してやまないのです。西岡 智さんや戸田政義さん、西岡映子さんは相変わらずお元気で、わたしを励ましてくださっている。わたしはほんとにいい出会いをさせてもらったなあとつくづく感じます。
★E-mail、開けてぴっくり。京都・大阪・兵庫の友人からどっさりメールが届いてました。中には、永遠に返事がもらえないのではと危ぶむ便りもあって大笑い。ただ、個性ある筆跡が楽しめる手紙・葉書、うれしい声が聞こえる電話にはかなわないなというのが率直な印象です。
★本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX 058-293-2222、E-mail:k-fujita@cc.gifu-u.ac.jp)です。(複製歓迎)