同和はこわい考通信 No.116 1997.7.4. 発行者・藤田敬一

《 『同和はこわい考』の十年 》③
『こわい考』と民主主義の精神
野町 均
 一冊の詩集のことからはなしをはじめたい。長田弘『深呼吸の必要』(晶文社)という忘れがたい詩集があって、詩歌管弦、花鳥風月にははなはだ緑の薄い無粋な当方でもこの詩集には感銘を覚えた。詩人は人生の途上のいろいろな局面を描きながら、人間が一人前に育っていくのはどういうことなのかを、やさしく、しなやかな感性で読者に差し出してくれている。
 たとえば、黙々と時計の修理にいそしむ時計屋さん、この時計屋さんは散歩が好きで、近所の子どもの「きみ」にいろんな話をしてくれる。時計屋さんには片脚がなかった。戦争で片脚を無くしたのだという。「痛くない?」とくと、足は痛くはない、痛いのはこころだよと答えるのだった。
 「きみが片脚の時計屋さんの言った言葉をはっきりとおもいだしたとき。きみがきみの人生で、『こころが痛い』としかいえない痛みを、はじめて自分に知ったとき」、「きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ」。
 自分の辛さや悲しみは他人にはわかるはずがないと口を閉ざす人もいるだろう。にもかかわらず多くの人が重い口を開いて差別の痛みを訴えてきたのは「『こころが痛い』としかいえない痛み」が他者にも秘められており、それゆえに自身の痛みがなにほどか他者に通ずるだろう、その可能性に希望をつないだ言論なのだと、あのころ、そう十年前、わたしはぼんやりと考えていた。

 『同和はこわい考』について記すにあたって一冊の詩集をとりあげたのは、春秋の筆法を気取ってのことではなく、『こわい考』に接する直前にこの詩集に巡り会った僥倖ぎょうこうと当時のわたしの心象風景を語りたかったからにほかならない。『こわい考』が出たのが1987年、二年後には東西冷戦構造が崩れ、ベルリンの壁が崩壊する。世界は閉塞状況に風穴を開けなくてはいられない時期を迎えようとしていた。そしてわたしが職場とする教育の場にも閉塞感は漂っていた。
 目を血走らせて制服のわずかの寸法の狂いを発見しての生徒指導、息せききったような状態で朝に夕に偏差値三昧の受験指導。『深呼吸の必要』はそうした事態に直面する人びとに深呼吸をして自分自身を、そして周囲の世界を見つめなおし、考えなおしてみようとささやいているように思えたのである。
 思いっきり大きく息を吸ったり吐いたりすることは、へんにたかぷった気持を落ち着かせる。元気のないとき胸を大きく張るのは背骨をしゃんと伸ばして視野を広くさせる。そんなところに深呼吸の効用はある。だから、深呼吸を必要と感じるときは、妙なたかぶりに襲われたり、反対にえてしぼんだ気分で視線が下を向きっぱなしになったりしているときだ。
 世界の政治状況はさておくとして、教育現場はまさに深呼吸を必要としていた。いまはその時期ではないと言うつもりはない。また、高等学校教育を生徒指導や進路指導、同和教育などに分解させてしまう思考にもわだかまりは覚えるけれど、それにしても当時わたしが同和教育主任の職にあって部落差別の考え方や同和教育の進め方について自分なりにいろいろと考え、ときにうじうじと悩みながら、ひとつ深呼吸をしようとしてふと周囲を眺めたときに藤田敬一『同和はこわい考』に出会えたのは幸せだった。
 昨年高知県の県立学校長同和教育研修会の席上、藤田氏の講演を企画した一人として講師紹介を行った際、「当時わたしは高知西高校で同和教育主任をしていまして、不勉強と本の読みの浅さを棚に上げて言うのですが、少なくともわたしが接した同和教育に関する本には、二、三十頁も読めばもうあとは読まなくてもわかるといった質のものが多かった。そんななかでの『こわい考』の印象は鮮烈でした」と述べたのであったが、これはヨイショでもなんでもない率直な感想である。
 そこには部落差別はもちろん人間と差別についてのさまぎまな問題を考えるヒントがあった。ともすれば「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である」、この二つのテーゼをめぐる議論が強調されているように見受けるが、本書には行政による住民意識調査の在り方、自助努力の軽視、差別較ペの愚かさなどさまざまな論点がちりばめられている。そしてなによりもいろいろな論点の記述に貫通する藤田氏の「背骨の硬さ」がひしひしと伝わってくる。さらに、本書の後半は藤田敬一、前川む一両氏の往復書簡となっており、前川氏の「貧しさはもう御免だ。差別ももう許せない。しかし、物を要求するときだけ『部落差別をいう』心のいやしさと怠惰は、もっと許せない」と述べる姿、志の高さはわたしの心をった。

 さまぎまな論点の提示もさることながら、おそらくそれ以上に『こわい考』は、部落問題についての言論の場を民主主義の精神で裏打ちしようとしたところに最大の意義があるのではないか。一方に何か言うと「こわい」という意識、他方に行政、教育の取組みや差別事象へのいら立ち、双方にある立場・資格の絶対化から来る遠慮と批判の拒否、これらのことがらは部落問題の言論の場をひどくいびつなものとしていた。異なる意見に言論でもって厳しく批判するにしても、その最基底部には異論表明を歓迎する寛容の精神がなければならないと信ずるのだが、そうした雰囲気はあまりに稀薄であった。いまも同様の事情にあるのは否定しないが、しかし『こわい考』以前と以後ではなにほどかの変化はあったとわたしは感じている。
 部落問題を他人事ではなく自分自身の問題として考えるように、とはよく耳にする主張であるが、これは通常、地区出身者ではないあなたが、もしかして将来地区出身者と結婚しようとして、周囲から反対されたとしたらどうするかとか、地区出身者のあなたが、就職選考の際、部落出身のゆえでもって差別されたとしたらどうするか、といったレベルで解釈されている(と判断する)けれども、そうした仮定や可能性に頼ってしまう理解はおそらくことの本質ではない。自分自身の問題として考えるというのは、なによりも自身の頭で考え、感性で捉え、自分の言葉で意見表明し、存念を綴ることであるはずだ。『こわい考』はおそらく解放運動団体との軋轢あつれきを予感しつつ、それでもなお自分自身の問題として考え、著された書物であり、著者の姿勢そのものが部落問題をめぐる言論の場を民主主義の精神で裏打ちしていたのである。
 一読、再読したあと自分もここに示されたさまざまな問題を考えてみよう、そしてなによりもこの著者の姿勢に学ぼうと思った。勇気凛々りんりんという気分ではなかった。面はゆい言い方になるけれど覚悟に近い。自身の言論がたとえ「正統的知識」からずれたり、反したりしても、それはそれでいいではないか。こんなふうに書くと悲壮感にひたっているように受け取られるかもしれないが、そうではない。わたしは部落問題、同和教育についていままで感じたことのないさわやかさとかろやかな気分をも覚えていた。
 重ねての贅言を許していただくと、愛読する永井荷風『断腸亭日乗』に、軍部や時局への批判を日記に記しても、その発覚を恐れて一部を削ったり、外出の際に下駄箱に隠したりしていた荷風がそうするのを一切止して「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし」と決意するくだりがある。(昭和十六年六月十五日)
 おそらくこの決意は荷風のこころにさわやかさとかろやかさをもたらしていたはずだ。不遜かもしれないが、自身の『こわい考』体験の気持を増幅させたなら荷風の心情に近づくのじゃないかしらと考えた。心が硬く、ちぢこまっていては口も重くなり、筆も進まない。反対に自由な心があってこそ言葉は輝きを帯びる。じじつ、荷風の日記はここらあたりから忌憚のない軍部批判、時局批判に輝きを増してゆくのである。ちなみに荷風に先のくだりを書かせたきっかけとなったのは喜多村筠庭いんてい『筠庭雑録』の読書体験であり、そこには「平生の事は随分柔和にして遠慮がちなるよし。但筆をとりては聊かも遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失ふこと多し」とある。

 『こわい考』が世に出て以来十年、賛否と功罪は論じつづけられてきた。とはいえ、わたしには賛否はともかく罪は思いつかないのだが……。『同和はこわい考通信』114号によると「しかし世には、部落責任論や差別者免罪論が広がりつつあるとして、その責めを『こわい考』に帰す人がいる」らしいとして藤田氏は「わたしになにほどの力があると言うのでしょう」と述べて反論している。
 しかしこの反論はいささか謙遜に過ぎるのではないか。わたしの見るところ、ある種の人たちにとって差し障りのある、あるいは邪魔立てになる意見が目立ってきたとの意味ならば氏の「なにほどの力」の果たした役割は大きい。
 ある種の人たちというのは金科玉条の「正統的知識」があって、それを全国民に浸透させて一糸乱れぬように意識の統一を図ることを教育、啓発の重大な使命と考えている人たちという意味である。一定の知識を公定の教科書や行政方針等で正統化しようとするのは世の習いであるにしても、一方では「正統的知識」を相対化し、その思考範型を問い直す作業もまた不可欠である。そうした作業なくして思考、認識のダイナミズムは生まれるはずはないのだから。しかるに「正統的知識」以外は許容しないというのなら、それは社会主義あるいは洗脳と言うにひとしい。
 「自由の気風はただ多事争論の間に在りて存するものと知る可し」。福沢論吉『文明論之概略』中のたいへんに有名な箇所であるが、これにつづいて福沢は中国に例をとり、秦の始皇帝ひとたび多事争論の源を塞いで以来、一治一乱、王朝交替はあってもその社会体質は変わることなかったために「人間交際の趣は改まることな」かったと論じている。こうした中国史像に異を唱えるのはやさしいだろう。だが、「人間交際」つまり人と人との関係を改めていこうとするならば「多事争論」があってしかるべきだとの洞察の普遍性は、わたしは信じる。部落問題を考える際においてまた例外ではない。とはいえ『こわい考』が出るまでは喧嘩かなれあいしか見ていないから部落問題に限っては「多事争論」を実感できないでいたのである。
 異端的言論を排除するかたちも含め部落問題の解決に向かっての道筋はいろいろと考えられるだろう。そして、わたしは「多事争論」を通じて合意形成を求めつつ「人間交際」の在り方を考え、改めていくことに賭ける。その決断をもたらした大きな契機として『同和はこわい考』をはじめとする藤田氏の言論活動がある。(1997年5月)
                *見出しは藤田がつけました。

《 採録 》
その1.階級闘争史観改めソフトに--部落解放同盟、新綱領決定へ
     -環墳改善は一定の成果・「差別意識問題」に重点-
(「朝日新聞」1997/5/20、名古屋本社版、主張・解説欄、北野隆一記者)
 部落解放同盟(上田卓三委員長)が、運動の基本である綱領を十三年ぶりに改定する。新綱領案によると、階級闘争史観的なイデオロギー色の濃い現綱領を全面的に改め、「人権・福祉・環境」を強調したソフト路線への転換を打ち出している。26、27両日の東京都内で開かれる全国大会で決める予定だ。国内外の人権問題をめぐる情勢変化に対応し、解放同盟が約十年がかりで取り組んできた部落解放運動のあり方を見直す論議の一つの到達点でもある。

 ■内部にも階層化
 1984年決定の現綱領に並ぶ「独占資本」「帝国主義」「労働者階級」「貧困」などの用語が、新綱領案では一掃された。冷戦の終結などで階級闘争史観が時代に合わなくなったことに加え、同和行政や部落解放連動をめぐる状況が大きく変化したという事情がある。
 政府の同和行政の基本とされてきた65年の同和対策審議会(同対審)答申では、同和地区の特徴について「劣悪な生活環境、低位の職業構成」などと指摘されていた。解放同盟の現綱領でも、被差別部落の置かれた状況を「階級的搾取と政治的支配の手段である身分差別によって、屈辱と貧困と抑圧に呻吟しんぎんさせられている」と規定している。/だが、同対審答申から約三十年の間に、同和対策で道路や住宅建設などの事業が実施された。対策が遅れた地域もあるが、多くの同和地区で、生活環境は改善された。解放同盟も、今大会に提案する97年度運動方針案で「環境改善のとりくみは、一定程度の成果をあげている」と認める。/大賀正行・解放同盟顧問は「以前は部落と部落外の格差が大きかったが、今では、学歴を得て高所得をかせぐ若者が出てくるなど、部落内の階層化、多様化が進んだ」という。

 ■人権意識の高揚を
 新綱領案では、階級闘争史観に代わって「差別意識」の問題が前面に出てきた。
 昨年5月、総務庁の地域改善対策協議会は「物的基盤整備はおおむね完了し、格差は大きく改善された。しかし、差別意識は解消へ向けて進んでいるものの、結婚問題を中心に依然として根強い」と分析した。/政府の施策は、差別意識解消のための人権教育・啓発に重点が移りつつある。95年に始まった「人権教育のための国連十年」に対応し、国内行動計画の策定が進む。さらに昨年暮れ成立した人権擁護施策推進法にもとづき、今月27日に人権擁護施策審議会の初会合を開き、新しい人権行政のあり方について審議にとりかかる予定だ。/解放同盟は、新綱領案の中で、草別意識の問題について主張を展開している。それによると、部落差別を支えているのは「非民主的な諸制度や不合理な迷信・慣習、イエ意識や貴賤きせん・ケガレ意識など差別文化」だと指摘。「身分意識の強化につながる天皇制、戸籍制度に反対する」とともに、「差別観念の払拭ふっしょくと人権意識の普及高揚に貢献する」と述べている。

 ■「部落民」姿消す
 部落問題の本質を、立場を超えて議論し合おうという動きが出てきている。藤田敬一・岐阜大教授らが呼びかけて京都で毎年夏に開かれている「部落問題全国交流会」には解放同盟員、教師、公務員、部落問題研究者などが参加し、率直な議論を展開している。/解放同盟の理論的支柱ともいわれる大賀顧問も昨年夏、交流会に参加した。大賀顧問は運動が今後進むペき方向を提言した著書「第三期の部落解放運動」で、「『部落民』は法律的には存在しておらず、『部落民』という民族も存在しない。アイヌ民族は(差別から)解放されてもアイヌ民族だし、黒人解放といっても黒人でなくなるのではない。では、部落民が解放されたらどうなるのでしょうか」と問題提起している。/論争を踏まえ、解放同盟は新綱領案から「部落民」という言葉の扱いを改める方針だ。「部落民」は、部落解放運動の原点である22年の「水平社宣言」以来、「差別を受け、解放運動を担う者」という意味で綱領、宣言に盛り込まれてきた。だが新綱領案や新規約案からは「部落民」という言葉は姿を消し、誤解を生じさせにくい「部落住民・部落出身者」に変えていく。
 大賀顧問は「部落民という言葉は、日本人の一部を差別によって異民族のように仕立てあげた虚偽の概念だからです」(という-藤田補筆)。

 ■「最小限」の文面
 新綱領案の分量は、約千三百字。約四千字あった現綱領の約三分の一と、簡潔になっている。解放運動をめぐる歴史に関する記述については、別の文書に移すことにし、全面的に削除されたからだ。組坂繋之書記長は「多様な思想・信条を包括する大衆団体としては、同盟員が一致できる最小限の文面でまとめる必要があった」と説明する。

その2.北野隆一「コラム・私の見方-差別の『根本』問う議論を」
(「朝日新聞」名古屋本社版、1997/6/9)
 福岡市内に「福岡水平塾」というグループがある。/部落解放運動を経験した教師や公務員たちが「部落問題を、『差別者対被差別者』という二項対立的な思考でなく、だれもがもっと気楽に語り合えないか」と呼びかけ、昨年3月から座談会を続けている。/今年3月の会合に行った。「部落出身教師の会」の中学教師が、20人の参加者を前に、「解放運動のゆくえ」と題して問題提起をしていた。「環境改善が効果をあげたのに、部落を見る目は、期待したほど変わってはいない。われわれの今の運動に限界があるのではないか」。何人かが発言する。「そもそも私たちが目指す『部落解放』とは何か、結論が出ていない」「では、まわりと同化して『部落』を隠すことが問題の解決なのだろうか」/熱心で率直な議論は、4時間を超えてなお続いた。/部落問題の本質にかかわる議論が水平塾など一部のグループで活発化した背景には、部落解放運動が今、大きな転機にあるという事情がある。
 1965年の政府の同和対策審議会の答申以来、同和対策によって生活環境の改善は進んだ。だが、同和事業が「おおむね完了」した現在もなお、被差別部落出身者がみな「差別はなくなった」と実感するには至っていない。同和行政や運動は、今後のあり方を根本的に見直すべき時にきていると言える。
 一石を投じたのは、藤田敬一・岐阜大教授が87年に著した「同和はこわい考-地対協を批判する」だ。政府の地域改善対策協議会に対し、「『同和はこわい』というイメージの原因を被差別部落民にのみ押し付けている」と批判した。同時に運動側にも「差別の痛みは被差別者にしかわからない」と立場を絶対化することで、差別を克服するための対話をとぎれさせる傾向がある、とも指摘した。
 これに対し運動団体からは、大賀正行・部落解放同盟顧問が91年出版した「第三期の部落解放運動」で、運動の見直しを提唱し「今まで通りのやり方ではいけない。部落民とは何か、部落解放とはどういう状態をいうのか、理論的にもはっきりさせて取り組もう」と説いた。/部落解放同盟が5月の全国大会で綱領を全面改定したのは、こうした論争に、運動団体としての回答を示したものとも言える。階級闘争史観を改め、部落解放の展望を「ふるさとを隠すことなく、自分の人生を自分で切りひらき、自己実現していける社会」に見いだす、と定義した。差別を支えるのは「イエ意識や貴賤、ケガレ意識」であるとして、差別意識の克服を訴えた。
 ただ、「同盟の憲法」(大賀顧問)というほど重要な綱領改定を議論し、決定した全国大会の会期が、昨年より一日少ない二日間だったのは、私には意外だった。また、95年秋の時点で綱領改定案に盛り込まれていた、解放運動の歴史について述ベた部分を「組織内に見解の相違がある」(組坂書記長)との理由で削除し、別の文書に移したことは残念だった。運動の歴史的評価をめぐって丁々発止ちょうちょうはっしの議論が展開されることを、大会に期待していたからだ。
 全国大会が閉幕した日、法務省の人権擁護推進審議会が第一回会議を開いた。今後、教育や啓発、人権侵害救済の施策について審議するという。/審議会には「いかに」施策を進めるかだけでなく、差別とは「何か」、「なぜ」差別が起きるのか、といった本質にかかわる議論をまず深めてほしい。差別問題を根本から検証する姿勢が「人権教育・啓発」の手本を示すことにもなると思う。

《 案内 》
第14回部落問題全国交流会
 日 時:9月13日(土)午後2時~9月14日(日)正午
 場 所:本願寺門徒会館(京都・西本願寺北側 TEL 075-361-4436)
 内 容:パネルディスカッションと討論「部落・部落民・部落差別…」
    パネラー:住田一郎・畑中敏之(司会)・原口孝博・山城弘敬
 費 用:8000円(夕食・宿泊・朝食・参加費)・4000円(夕食・参加費)
 申込み先:阿吽社(TEL 075-414-8951,FAX 075-414-8952)
 締切り:8月29日(金)まで

《 川向こうから 》
☆心と体の硬さは関連しているようです。野町さんのおっしゃるように、ときおり深呼吸して体をほぐし、心をしなやかにする必要がある。わたしの場合、プールと山小屋が、格好の息抜きの手段となっています。お酒ですか。お酒は、生命の泉、源でして、手段なんて言ってはお商に対して失礼です。アハハハ。
☆全国交流会の開催要項、詳しくは『こぺる』7月号を参照ねがいます。今年は、いつもとは一味ちがう中身になるはずです。先日、参加資格の問い合わせあり。どなたでも参加していただけますので、ぜひお出かけください。
☆E-mailの番号を載せたら友人たち何人かがメールを送ってくれたらしい。開け方がわからずそのままにしていたところ、返事をくれとの催促の葉書が到着。そこで「少し待て」と葉書で返事した次第。電子メールって面倒なもんですなあ。なお、いまだ開け方は承知していませんので、ご注意ねがいます。
☆本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX 058-293-2222)です。(複製歓迎)