同和はこわい考通信 No.115 1997.5.27. 発行者・藤田敬一

《 『同和はこわい考』の十年 》②
『こわい考』と私
高橋 勝
 『同和はこわい考』が出て10年。私の手元にあるのは第三刷で87年7月発行のものだ。その頃、私は30歳過ぎの普通科高校の教員として、在日朝鮮人の生徒を担任したのをきっかけに同僚に刺激され、部落問題や在日朝鮮人問題について深く考えてみようとしていた。なかでも湊川みなとがわ高校にいたというⅠさんは、人間的にもすばらしく、その教育観や教師としての姿勢から学ぶことは多かった。しかし、彼の勧めもあり、県の同和教育の研究会に参加したが、何か重苦しい空気が感じられ、これといった反対意見も出ず、発言に「枠」がはめられているようで、すっきりしなかった。一部の「熱心に解放教育に取り組む教師」と「普通の教師」たちとの間に溝のようなものが感じられ、お互いがそれを埋めるように話が進まない点が何より嫌だった。たとえば「部落の人のやさしさに学ぶ」といった言葉をよく耳にした気がするが、そう言われれば言われるだけ、今部落出身の生徒と直接の関わりを持っていない多くの「普通の教師」は何も言えなくなるのだった。ちょうどそんなとき、岡山の大学時代からの友人から、『同和はこわい考』を紹介され、大学時代以来の部落問題についての多くの疑問が自分の中で解決し、すっきりしたのを覚えている。
 部落問題ではないが、当時の私の疑問をひとつだけ挙げると、Ⅰさんから借りた本の中にこんな話があった。ある在日朝鮮人が日本人の友人に自分のことを語ったとき、その友人が「日本人であろうと朝鮮人であろうと同じ人間だから、友情には何も関係ないよ」と言ったことに対して、そのときは「これは、落胆している私を励ます上での精一杯の思いやりのある言葉であり、うれしく思ったが、今は、どれほど朝鮮人・韓国人としての自覚を失わせるものか、とても恐ろしい言葉に思えてきます」という話だった。確かに、在日の問題への深い理解に欠けているのだろうが、そのときの私には、どうしてもこれを「恐ろしい言葉だ」と生徒にわからせる自信がなかった。
 『こわい考』の中で、「差別を知らない」ことそれ自体が差別だと短絡的に言えないのではないかというのを読んで、自分の疑問は納得できるまでは持ち続けなければならないなと思った。自分が納得しないまま、被差別の側に寄りそい、「こんな恐ろしい言葉を使わない人になろう」と「指導」してしまいそうだったので。

「差別-被差別関係、差別のしくみとの、具体的で緊張にみちた共同の闘いの中で、一方は差別者への不信一般に逃げこまず、他方は被差別者への絶望に逃げこまず、双方の開かれた批判と自己批判がすすめられることによって、堂々めぐりの『迷路』からぬけだす道をさぐりあてうるのではないか」(93頁)

 これを読んだときには、本当に閉ざされていた道が開かれたように思った。部落解放は「共同の闘い」なのであり、私たちは「随伴者」ではないということがわかった。そして私たち教師の場合、開かれた関係ができなかったのは、いずれにしても、教師が部落解放の教育を主体的に担いえなかったことが問題だったのだと気づいた。主体性がないからこそ、多くの教師たちは、企業の「アリバイづくりの同和研修」同様、「アリバイづくりの同和HR(ホーム・ルーム)」をしていた。県内のある学校では今も同和HRと言えば、この3年間ずっと部落の歴史学習で、政治起源説の説明をただ繰り返しているだけだという。また同和教育の研究会は年々発表者が減り、参加者も学校割り当ての「動員」ばかりで、主体的な参加がどんどん減っているようだ。
 さて、話を「熱心に解放教育の取り組む教師」と「普通の教師」の溝に戻す。私は70年代後半に岡山で大学生活を送ったが、関西学院大学の解放研にいた友人が当時の活動を振り返って「学内と地域での活動に忙しく、大学での勉強はほとんどできない状態で、自分たちが無計画に作り出した忙しさを、闘っている実感と勘違いして『他の暇なやつとは違う』と、解放運動を錦の御旗にした傲慢さを私はもっていた」と語ってくれたことがある。「解放教育」に熱心な教師たちにも「他の教師とは違う」といった傲慢さがあったとは言わない(人格的には優れた人が多く、むしろ何事も自分の責任とする謙虚な人が多かった)が、「ここにこそ本物の教育がある」といった主張には、確かに一定の正しさはあるものの、自分の生活を犠牲にしてまで「解放教育」に賭ける「謙虚すぎる」その姿勢は、自分には真似できないというような、ある近づきにくさを生んだのではないかと思う。また、兵庫の「解放教育」を絶賛した学者の存在も、「普通の教師」が部落問題を自分の頭で批判的に考えたり、自由に発言することをしにくくさせていたように思う。そこで、研究会は、熱心な教師の語る「すばらしい実践」を拝聴するという感じになることが多く、率直な質問が出なくなっていったのではないか。
 最後に、現在の自分のまわりのことを少し書いてみる。
 昨年転勤した今の勤務校には、部活動として「部落研」「朝文研」がある。聞いてみると、もう何年も部員がいないという。部活動の規定を見ると、「2年間部員がゼロで活動がないと廃部になる」とあるが、奇妙なことに、なくそうという声が挙がらないらしい。私は、おかしいではないかと言ったが、ある同僚は「こういう部はなくしてはいけないから」と答え、今年も存続している。大切な部と言いながら、部員が入るように特に働きかけることもしない現状に対して、私はこう思う。活動したい生徒が出てきたら、規定通りいつでもまた同好会の形からつくればいいのだからと。もし、「同和はこわい」という意識から、れ物にさわるように例外的にこれらの部を存続させているとすれば、それこそ教師が主体的に「同和教育」に取り組んでいないことの現われではないか。今年は「地域改善対策係」になったので、再度問題提起をするつもりだ。そんな中から、教師が主体的に取り組む「同和教育」への道を探っていきたい。
 何かを始めようと思いつつ、まだ具体的に動けない自分は、外からは「昼寝する評論家」のように見えるかもしれない。しかし、この現状を変えるには、やはり身近なところから「人と人との関係を変える」ことしかないと思う。部落出身生徒や在日朝鮮人生徒はもちろんのこと、他の生徒にも、〈人と人との関係を、より人間的で、より豊かなものにしていく〉ことを根幹に据えて、語り始めたところだ。

《 各地からの便り 》
その1.
 「狭山差別裁判反対!」「無実の石川青年即時釈放!」と壁に貼られたステッカーの文字を口で反芻はんすうしながら通った道、その大学に入った(1970年)ことが部落問題との「出会い」の始まりでした。もちろん、福井から大阪に出てきた当時の私は、部落の意味も部落差別の存在も「狭山差別裁判」も全く知りませんでしたが、「出会い」は「解放研」に関わることによって深まり、ムラとの関係をひらいていくことになりました。
 1973年11月27日の第2蕃再開公判、翌74年9月26日の11万人集会、そして、“暗黒”の10月31日と続いた狭山闘争や“被差別統一戦線”を掲げた上田選挙などに象徴される70年代部落解放運動の息吹に触れたことが自分の生き方を決定づけました。
 1976年、その魅了してやまない部落解放運動のただ中に身を置くことを選びとり、T支部の専従となりましたが、外見の“華やかさ”とは裏腹な現実が支配する内側で、時計の振り子のように振られて処すこと14年、活力の源であるはずの部落解放運動が桎梏しっこくと化し、身を引きました。
 私が関わった頃、解放運動をめぐって激しく意見を闘わせる青年たちがいましたが、いまは、誰が話しても判で押したような「第3期論」しか出てきません。異論や異端、過激さを包摂し、多様性と個性を尊重する気風の喪失と共に、部落解放運動はその輝きをなくしていっているように思います。
 私が見る限り、解放運動の現場である支部は、行政闘争と「同和」事業の時代の終焉という分岐点にあるにもかかわらず、運動は活力・求心力をなくし、野垂れ死にしかねない状況にあると思います。行政依存から脱却し、上意下達・指示待ちのスタイルを克服し、自主・自立の運動へ転換をと叫ばれてはいるものの、至る所に口を開けている問題への的確な処方箋は提示されず、先送りされるだけというのが実情です。もちろん、「基本法制定!」のかけ声に呼応する地域での動きは鈍く、動員やスケジュールをこなすだけで精一杯です。
 20代、30代と解放運動に“夢”をかけ、自分の未来を重ね合わし、労をいとわず汗を流し、それなりに“いい思い”もしてきましたが、その“夢”は覚めつつあります。しかし、解放運動の行く末に私自身の今後も左右されることも確かです。だから、「夢をかけて繋がれる運動」の再生のために、

開かれた、自立した人間関係を土台にした共同実践を通じて高まり合う運動
個人の関心・興味・意思を徹底して尊重した自発型の運動
権限と責任を限りなく平等に分担した自分のためにする運動

これを地域で創りたいと思います。
 部落差別によって引き裂かれた人間関係を修復する共同作業を現場で実践するためには、部落解放運動がこれまで営々として築いてきた財産、とりわけ人とのつながりを結び直すことが不可欠だと痛感しています。ほころぴを縫うのではなく、自己解放の心地よさや自己実現の充実感を味わえるような場と関係を創る第一歩として、T市の運動に想いを寄せ、部落問題や解放運動と接点を持ち続けたいという個人が参加したサークル活動をいくつか始めました。あわよくば、これらが、T市の運動への刺激となり、活性化・再生につながればと思っています。
 このように私自身、少しばかりまわりが見え、ゆとりを持って部落問題を考えられるようになってきたのは、「こぺる」誌や「こわい考」通信などからの新鮮な触発によるところが大きかったと実感しています。今後も多様な角度からの提起と示唆とを期待すると共に、わたしも地域で、私自身の解放と部落解放運動とが重ね合うようなとりくみ続けたいと思います。
        (大阪 S・Kさん)

コメント.
部落解放運動の実状に落胆して離れて行く人をたくさん見てきました。そのつど何とも言えない寂しさを感じたものです。しかし、S・Kさんは、組織から身を引いた後も、新しい人と人との関係を作るべく模索したいとおっしゃる。金時鐘さんの言う「切れてつながる」関係を思い浮かべました。深くつながるためには、辛くても一旦「切れる」必要があるのかもしれませんね。

その2.
 お久しぶりです。3月22日付けの朝日新聞(名古屋本社版)に掲載されていました「議論こそ差別解決の道」を読ませてもらいました。そこで、読後の感想や自分としての思いを述べたいと思います。
 たしかに「教育等で、部落問題解決をめざしての取り組みを行っているゆえに、市民4人のうち3人が部落問題についてなにがしかの知識を持っている」に違いなかろう。でも、それはあくまでも「なにがしかの知識」であって、あまり期待できるものではないと僕は思う。いま、自分が一番考えているのは、「近世部落の誕生」についてです。「近世部落の誕生」そのものが、「部落差別の発生」と混同してしまうのが現実です。もちろん、「近世部落の誕生」を教えるのに手っ取り早いというか、教えやすさからの混同だと思うのだけど…。従って、生徒たち(教師も含む)は、「部落差別」は江戸時代になってから発生(誕生)したものだと思っている。そりゃ、確かに、江戸時代の為政者が意図的に支配構造として放り入れたものかも知れないが、江戸時代以前から、吾々人間の中に存在する「ケガレ」の構造・思想を利用したにすぎないと僕は思う。だいたい、同和問題のアンケートなるものの中に、「近世部落の誕生」について回答を求めるのがあって、「江戸時代に支配者によって作られた」というのに○印を記入した人が、同和問題を理解している人になるらしい。しかし、こういうアンケートなるもの自体が僕にとってイヤなものなのです。「作られた」という言葉の裏には、直接的にしろ間接的にしろ差別にかかわっている自分たちの姿を見させないようにしむけている気がしてならない。
 自分の内なる差別構造にメスを入れずに、「以前の支配者によって作られた」ものだから部落差別を解消していこうと教育の場であの手この手で指導したところで、虚しい結果になってしまう。僕たちの日常生活を振り返ったときに、「部落差別」の根源になる「ケガレ」の思想が随所に見られるはずである。葬式から帰ってきたときの「清めの塩」なるものの存在自体おかしいもの一つであろう。「ケガレ」と「清め」はついになって存在するものに違いなかろう。そうであるならば一方で「清め」をすることはまさに「ケガレ」を想定しての行為になるはずではなかろうか。
 また、「江戸時代に作られた」ということだけでは、本質を見極めていないと思う。なぜなら、「作られた」というのなら、じゃ一体どういう人がその対象になったのだろうという疑問が生徒側から出てくる。だから、あくまで「作られた」というのなら、「従来から存在していた差別を身分制度の中に取り入れられた」と教えるペきだと思う。そして、生徒たちに気づかせたいのは「身分制度の中に取り入れた」ことじゃなくて、自分の内にも「ケガレ・清め」の対の構造があること気づかせたい。さらに、その「ケガレ・清め」の対構造は、日本人の習慣の中に深く根づいていることもわからせたいと思う。くだくだと書き綴ったけど、僕の言いたいことは、「部落差別」を語るときに必要なのは自分たちの内なる「ケガレ」・「清め」の考え方を清算しなければならないのではなかろうかということです。「近世部落の誕生についての知識を何十%の生徒が持っていたから全国平均以上だね」などといった知識理解よりも、自分をとらえなおす観点の方がいま必要なのではなかろうか。そういう指導を各教育の場で行うことこそ、「差別解消」につながると思うのだけど、どうでしょうか。飛騨もようやく春爛漫です。飛騨を訪れることがありましたら、ご一報ください。            (岐阜 T・Tさん)

コメント.
最近、ケガレ意識に関心を持つ人が増えているのか、後掲の部落解放同盟綱領改正案にも、イエ意識・貴賤意識とならんでケガレ意識が鍵言葉として登場しています。しかし、「ケガレ」は差別の歴史を叙述するのには有効であっても、それが今日ただいまの、いわゆる被差別部落(民)に対する人びとの意識、イメージの分析に役立つとはとても思えない。もっと部落問題の現実・現状に即した解明が求められているはずです。運動が衒学げんがく的な主張を振りまわすときは気をつけた方がいいというのが、これまでの経験に基づく教訓です。注意!注意!

《 資料 》
部落解放同盟綱領改正案(『解放新聞』97/4/28)
【前文】
 わが同盟の目的は、部落差別からの完全解放の実現にある。/ふるさとを隠すことなく、自分の人生を自分で切りひらき、自己実現していける社会、人びとが互いの人権を認め合い、共生していく社会、われわれは部落解放の展望をこうした自主・共生の真に人権が確立された民主社会の中に見いだす。
 わが同盟の組織は「人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする」部落大衆の結集体であり、差別と闘うすべての人々との連帯をめざす大衆団体である。
 わが同盟は、1922年「エタである事を誇り得る時が来たのだ」との血の叫びのもとに創立された全国水平社の歴史と伝統を継承し、部落差別を糾弾し、人権施策の確立を求め、すべての差別と闘う。また、部落差別を支えるイエ意識や貴賤・ケガレ意識と闘い、差別観念を生み支える諸条件をうちくだき、世界平和と地球環境を守り、人権文化を創造する。/われわれは自立自闘の精神を鼓舞し、「世界の水平運動」と「自主・共生・創造」の旗を高く掲げ邁進まいしんする。

【基本目標】
1.われわれは、互いの尊厳の承認と自主解放の精神をもって団結し、広範な人々との連帯のもと、部落解放の「よき日」をめざす。
2.われわれは、差別事件を糾弾し、差別の不当性を社会的に明らかにするとともに、差別の根絶のためのとりくみを求める。
3.われわれは、部落差別を支える非民主的な諸制度や不合理な迷信・慣習、またイエ意識や貴賤・ケガレ意識など差別的文化を克服し、身分意識の強化につなかる天皇制、戸籍制度に反対する。
4.われわれは、国際的な人権諸条約の早期締結ならびにその具体化と、部落問題はじめ、あらゆる差別撤廃に役立つ国内法制度の整備と司法の民主化を求める。
5.われわれは、今日における部落差別の実態と課題を明らかにし、人権・福祉・環境をキーワードとして、災害に強い魅力あふれる街づくりにとりくむ。
6.われわれは、高齢者、障害者、母子・父子家庭、生活保護世帯等の自立生活を支援し、人権の観点からの福祉・保健・医療改革を推進する。
7.われわれは、教育の向上と仕事の保障を獲得し、一人ひとりの部落大衆が持つ可能性を最大限発揮できるようにとりくむ。
8.われわれは、部落の地場産業を振興させ、全国的流通ネットワークの構築をはじめ経済面からも相互連帯をはかる。
9.われわれは、周辺地域との連帯交流を推進し、地域社会の改善に参加する。
10.われわれは、人権・教育・啓発の積極的な推進を、行政、企業、マスコミ、学校・大学、労働界、宗教界、法曹界、政党政派やNGO等各方面にはたらきかけ、差別観念の払拭ふっしょくと人権意識の普及高揚に貢献する。
11.われわれは、被差別民衆の生活文化を継承発展させ、人権文化を創造する。
12.われわれは、アジア・太平洋地域を軸として世界の水平運動を展開し、差別なき平和な世界の建設に邁進する。
13.われわれは、人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成のために突進する。

【規約改正案(抄録)】
第2条「本同盟は部落差別から部落民衆を完全に解放することを目的とする。」→「本同盟は部落の完全解放・真に人権が確立された民主社会の実現をはかることを目的とする。」
第3条「本同盟は全国にわたる部落において、前条の目的を達成するために活動する部落民をもって構成する大衆団体である。」→「本同盟は全国にわたる部落を拠点とし、前条の目的を達成するために活動する部落住民・部落出身者で構成する自主的団体であり、差別と闘うすべての人びととの連帯をめざす」
第4条「本同盟の綱領・規約を承認し所定の手続きを経て本同盟に加入する部落民を同盟員とする。/但し部落民でない者についても、都府県連合会で審査決定し、中央本部の承認により同盟員とすることができる。」→「本同盟の綱領・規約を承認し、『加盟登録規定』の手続きを経て、本同盟に加入する部落住民・部落出身者を同盟員とする。」

《 川向こうから 》
★第1号は87年6月14日の発行ですから、『こわい考』に遅れることひと月で『通信』も十周年を迎えます。先日、旧太平天国社のメンバー4人と山小屋で祝杯をあげました。82歳のいまも元気な吉田欣一さんから励ましのお便りと差し入れあり。次回は、吉田さんを囲んで一夜を過ごす予定でおります。
★『部落解放運動情報』No.10に、『芸備人権新報』(97/3/28)の「『同和はこわい考』派の今日的運動認識は」と題する文章が紹介されています。それによると、師岡佑行さんの「人権擁護施策推進法の成立と部落解放運動」(『こぺる』No.48、97/3)が部落責任論として批判されているらしい。ある意見にどんな批判を加えようと自由ですが、『こわい考』派なるグループを勝手に想像・創造されては困ります。師岡さんとは60年代初頭いらいの付き合いで、部落解放運動をめぐって常々議論してきた仲ですから、考えに共通点があってもおかしくありませんが、あくまでも師岡さんは師岡さんであって、わたしではない。二人を「こわい考」派などとひとくくりするのは運動的発想の悪い癖です。ひょっとしたら、筆者自身が自分への帰属意識(派意識)を人の心理に刻印し、それにしがみつかざるをえない状態にあるんとちゃうかと勘ぐりたくなりますな。
★『解放新聞』5月5日号の駒井昭雄さんと大賀正行さんの対談を読みました。お二人とも理論家として知られていますが、対談からは危機感が伝わってこない。運動の危機は、予算の削減や関係部局の名称変更などにあるのではなく、差別-被差別の資格・立場を峻別する二項対立的発想、事業の積み重ねや新しい社会の到来に部落問題解決の展望を想定する理論・思想そのものの破綻から来ていることは明白です。ところが破綻を認めようとせず、同和予算を人権予算と言い換えて事業の継続・拡充を求める声すら聞こえてくる始末。これでは大賀さんの言う「ハード面でかなり(目標が)達成されてきたのに、差別事件はどうしてなくならないのかという問題意識」が浸透しにくいのも無理はありません。
★新しいパソコンが入ったのを機会に、やる気になってE-mailの番号(k-fujita@cc.gifu-u.ac.jp)も決まり、機器も接続してもらったのですが、使い方がようわからんのです。くそっ!マスターするまでお待ちくだされたく存じ侯。
★本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX O58-293-2222)です。(複製歓迎)