同和はこわい考通信 No.114 1997.5.5. 発行者・藤田敬一

《 『同和はこわい考』の十年 》①
その1.藤田さんへの手紙
Kを偲んで、Tより
 藤田さんに私を引き合わせてくれた、Kが逝去してから13年半になります。その後、「疲労困憊、不義理の極、敗北、無責任の謗りを甘受しながら、この時を選ぶ」と書きのこした彼と、私がまだ心の中での対話を繰り返している時期に、藤田さんは「『同和はこわい考』通信」をお始めになりました。社会党左派の参議院議員が理事長であったO大学に、一人で挑んだKの闘争のスタイルを思い起こし、藤田さんのことを、私が気づかったところ、「自分には、たくさんの友人がいるから大丈夫だ」とのお返事でした。
 Kも、ひと一倍に酒を楽しみ、多くの友人をもっている人でしたから、当時は、藤田さんの言葉の意味が、いまひとつ、正確に理解できませんでしたが、その後、多数の人びとが寄稿する「通信」を10年間拝読してきて、なるほどと納得している次第です。「通信」が届きますと、まず、《川向こうから》を読みます。健康にも留意され、益々、意気盛んな様子に、嬉しく、また敬意を感じております。そして、ガリ版とワープロの違いにはじまる時代の差、さらに問題や闘争(運動)の性格、人柄や個人的な環境も異なる二人の場合を同一に考えてしまった誤りに気づき、忸怩たる思いもあります。
 藤田さんの方は、お気づきなかったはずですが、初めて、あなたに私がお目にかかったのは、いまから28年前の1969年、O大学での封鎖中の「自主講座」の講師としてお見えになったときです(「全共闘」の学生と一緒になってKが企画したものでしたが、別の日には師岡さんにも来ていただきました)。あの頃を振り返ることには、誰もが、それぞれに心の痛みをともなうことでしょうが、当時、すでに教員であり、いまも教員であり続けている私などにも、「しかして今も持てるかなしみ」があります。
 このごろ聞かなくなった言葉ですが、以前は、いろいろな活動の周辺に「シンパ」と呼ばれる人たちがおりましたね。いまにして思えば、私は、「造反教員」のシンパだったのでしょう。Kは、軟弱な私を見抜いていたのか、決して表面に出させようとはせず、それでいて自分が逮捕されることを覚悟した局面では、日記がわりの手帳を預けるなど、私を当てにすることもありました。「細胞活動」の経験がそうさせていたのか、彼は、緻密なシフトのもとに行動する人でした。
 また、私は、のちには、活動から脱落したり、心身ともに疲れた学生活動家のすさぶる心にも触れる機会が多くなりましたが、私は、学生との関係においても、シンパであったように思います。さらに、私は、狭山裁判や部落解放の問題にかかわるようになってから、20年ほど経ちましたが、これも身体を動かすことが少なく、また「客分」のような扱いを受けることが多かったためか、運動に参加したという実感はありません。もっとも意味を拡大したとしても、いわゆる「随伴的活動家」ではなく、シンパという言葉のほうがそぐうように思います。本来、シンパサイザーとは、行動的な連帯者というより、心情(情緒)的に共鳴し、支持援助する人という意味でしょう。つまり、相手との関係では、一定の距離と立場の違いを意識している人に対して使われる言葉です。
 ここで、やっと、「『同和はこわい考』とわたし」について述べます。藤田さんは、差別・被差別の関係で、立場、資格の絶対化が、批判の拒否をともない、両者の間の対話をとぎれさせていると指摘し、これからは「両極から徐々に手をさしのべて、その接点をまさぐりあう」努力が必要であると主張されました。そして、いまや解放運動にかかわる人たちの間では、「両側から超える」という言葉が流行語にもなりかねない感じさえあります。「こわい考」では、論拠を慎重に示しての問題提起であったわけですが、最近のように、あまり安易にこの言葉が口にされるのを見ますと、これでよいのだろうか、と気になり始めます。
 ところで「両側から超える」といわれながら、さしあたり人びとの念頭にあるのは体験の絶対化が対話をとぎれさせる要因になっているなど、もっぱら被差別(部落)の側に対する批判であろうと思います。問題解決に向けての共同の営みであるはずが、被差別の側の自己批判、自己規制を求める声ばかりが聞こえてきて、犯罪学でいえば、加害者の問題はさておき、被害者学の必要性が唱えられているというところでしょうか。しかし、一方で、具体的な中身も示さずに、解放同盟などの運動体の側からさえも、「両側から超える」という言葉が出てきたりしますと、あれは活動家だけでの問題を指していたのかと、はたと戸惑いを覚えたりしますが、どうでしょうか。
 解放運動の活動家との私のかかわりは、行政関係の会合など、ごく限られた範囲にとどまっております。それでも、「視察旅行」や、「懇親会」のときだけお目にかかる活動家の幹部がいたり、また一方で、ホンネを隠して運動体におもねる行政担当者がいたりして、両者の対話が成立せず、苛立たしい場面に遭遇することは少なくありませんでした。しかし、それ以上に差別・被差別の関係における対話のとぎれ、共感と連帯の困難さを認識するのは、もっと大衆レベルにおいてです。最近、私がかかわりをもった、ある市民意識の調査によりますと、現在、部落差別があると思っている人は60%であり、60歳以上の世代では、「差別はない」と思っている人のほうが多いという結果でした。また、ほとんどが学校での同和教育を受けているはずの20歳代の人でも、部落差別はあるとの回答は70%止まりです。一方、全国調査(1993年)によりますと、部落出身者の33%が被差別体験があると答えているわけですが、そのうちの47%は「黙って我慢した」との回答でした。このように、人びとの部落差別に対する認識が希薄になりつつある状況の中で、部落解放を求めての「両側から超える」共同の営みは、今後どのようにして生み出されてくるのでしょうか。
 また、私は、「資格や立場の絶対化」の排除に賛同しながらも、そのあまりの寛容さには懸念を覚えます。差別・被差別は、人間関係のありかたの一つですから、そこには知性のみではコントロールしがたい、情緒的な要因が強く存在します。情緒的な要因を無視して、論理のみを問題にする批判が、相互不信の増幅を招くことは明らかです。藤田さんの提言は、「共感と連帯」の絆の存在を前提にしてのことでしょうか。それとも、相互批判を通して信頼関係を築くというのであれば、それは個別体験の伝達可能性への過信であり、楽観論に過ぎるように思います。体験にまつわる自分の気持ちを、相手がまったく理解してくれない場合と同じく、「あなたの、その気持ち、わかる、わかる」などと、簡単に言われる場合のもどかしさも信頼関係の成立を阻害します。このように考えますと、体験や立場の相違の絶対化も排除すべきですが、相互理解に対する謙虚さをもたない限り、「両側から超える」ための信頼関係は生まれてこないと考えます。
 Kは、よく口癖のように、連帯すべき人たちと、そうでない相手を見分けるよう、活動家の学生に話しておりました。いま思えば、差別、被差別のいずれの側の者かを見きわめるということであったのでしょう。喧嘩ばやい若い学生が相手であったことでもあり、「両側から超える」などという「おとなの論理」は、彼の口から出てくるはずもありませんでしたが、彼が生きていたら何といったでしょう。また酔っぱらって、藤田さんを殴ったりするには、もう歳をとりすぎていますよね。
 私は、囲い込まれてくる羊のように、おとなしくなってしまった学生たちの側に身を置きながら、もう少しだけ、「牧場経営」の行く末を、Kに代わって見てみようと思っています。「展望は明るい、マイナスのカードをためてゆけば、やがてプラスに替わるときがくる。」というのも、彼の口癖でしたよね。(1997.3.25.)

その2.岐阜の町は燃えていた
工藤 力男(岐阜市)
 十年前の夏、岐阜の町は燃えていた。鵜飼の篝火によってではなく、『同和はこわい考』の炎によって。
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 わたしの以前の職場に、会議には滅多に出席しないのに、たまに出席すると、えらく元気のいい男がいた。わたしが着任して一年もたたないころ、ある会議に久しぶりに出席したその男をからかったことがある。男はわたしの名も知らなかったのではないかと思うが、大きく目をいて、「大事な会議はちゃんと出とるわい」とのたもうた。その男の名は藤田敬一。
 やがて、太平天国社による狭山再審請求ハンガーストライキの衝撃、岐阜大学狭山事件研究会への出席、同人誌『幻野』に連載された永平和雄氏の「狭山裁判ノート」などが契機となって、わたしも遅れ馳せながら狭山事件に関心を示し始めた。契機はもう一つ、狭山裁判の被告・石川一雄さんが、藤田氏、自分と同い年だということがあった。石川さんは、自分が大学を卒業した年に逮捕され、以来監獄暮らしを強いられている。自分はいろいろ回り道をしたが、ともかくも研究者として生き、大学に職を得ている、この違い。
 刊行当初、『同和はこわい考』の標題が差別的だとあちこちで言われた。しかし、それは、「考」一字がもつ批判の重みを知らぬ、日本語の分からぬ人の言うことで、ひとつ土俵で議論はできない、と日本語学徒のわたしは思った。むしろこの標題ゆえに注目されて議論を呼んだのだ。その意味でこの命名は卓抜であった。とにかく藤田氏は、飽きず焦らず諦めず議論を展開した。当時の通信、さまぎまの刷り物や集会の資料などを見ると、氏を中心に熱い炎の渦巻いていたさまが鮮やかに蘇る。岐阜の町は燃えていたのである。
 映画『燃ゆる街』の上映会の案内文の中で、藤田氏は、水膨れした虚偽の部落像に汚染された大学生のレポートを引き、「このような現実があるにもかかわらず、岐阜大学をふくめて、岐阜県の教育界はシャラーとしているかのようです。」と書いている。何かしなくては、と思っていたわたしに、これはこたえた。それが引き金になって、藤田氏ほか六人の同僚の協力を得て、1989年春、岐阜大学教育学部に、人権を考える授業を開講することになった。題して「言葉と人間」。わたしのせめてもの罪滅ぼしであった。これは翌年、岐阜大学の公開講座にも取り入れられた(本通信28、29、34、37、40号に記事あり)。カリキュラム改定のために二年間で閉じられたが、この授業は、氏の胸の内なる火がわたしに飛び火したのである。ついでに多すぎる頭髪も飛んできたら良かったのに。
 部落解放運動の進め方は、わたしには難しすぎて定見が持てない。しかし、地域改善対策協議会の意見具申に見える、部落差別自然解消論が幻想にすぎないことは、穢多非人廃止令から百三十年近い現実を見れば明らかである。一方、部落更生論・部落責任論を強いれば、新たな怨恨を生むこと、朝鮮と日本の関係、パレスチナの問題、各地の民族紛争を見ると明らかである。この悪循環を絶つ道は、「両側から超える」以外に無いだろうと思う。
 藤田氏の魅力は何か。まず、己れの内にあった差別意識を隠そうとせず、むしろそこから出発した率直さである。「自分以外の何者をも代表しない」という個人のたちばに徹する潔さである。あるいは整然と厳しく展開する議論の鮮やかさである。わたしは、1989年の「部落問題全国交流会」に出席して討論を見聞きし、氏が議論の方法を会得した秘密が分かったような気がした。そして、わたしが最も強く心打たれたのは、ある日の教授会での発言、「人間のすることに、とめられないものはない。」であった。ここに氏の生き方の根源がある、と思ったのである。これらの発言に「同和はこわい考」「両側から超える」を並べると、名コピーライターの趣きがある。広告業界に職を得たら、糸井重里を超えたかもしれない。
 いま藤田氏は、不本意ながら大学の要職にあり、多忙の中で『こぺる』の発行に力を注いでいる。そのかたわら、この通信をつづけて十年、112号に達した。大したものだ。俗に、「持続は力なり」という。「守成は創業より難し」ともいうが、幕引きは守成以上に難しいだろう。が、解放運動はしんどいけれど、多くの人と交流できる通信の発行は楽しいから続くので、はたからやめよと言ったとてやめられるものではあるまい。通信を発行する楽しさは、わたしも、授業「言葉と人間」の通信『修羅』の経験からよく分かる。こうなっては、老いた体をいたわり、酒を控えめにして、二十年、三十年を目指してもらいたい。むろん、その前に部落差別が完全消滅することを希望するが、人権の問題は多岐にわたるのだから。
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 古い号を読み返していたら、13号に、塩見鮮一郎氏の「『差別の痛みは被差別者にしか分からない』という主張にこだわる理由」(朝日ジャーナル1988.6.17)を採録して、「その意味で『こだわる』という見出しの言葉は塩見論文の主旨にそっていません」という藤田氏のコメントが目についた。思えば、「こだわる」が負の意味をまとわず用いられ始めた時期なのだろう。この用法、今の日本には氾濫している。日本語学徒としては、ここにも十年という時間の重みを実感する。

その3.出発点としての「こわい考」
恩智 理
 春になれば学生時代を思い出す。少々唐突な連想のように思われるが、私の場合はいつもそうだ。なぜだろう。私は学生時代を東京で送ったが、最初に入った下宿の日当たりが極端に悪く--なにしろ、冬至の頃にならないと、陽が部屋の中に入ってこないのである--、冬を過ごすのがなかなか大変だった。その反動で、全てのものが新たに活動し始める春の印象が強い、ということだろうか。あるいは、私の下宿の近くに見事な桜並木があり、4月頃になると花見をする人たちで夜遅くまでにぎわい、私も一人でよく花の散る中を散策したものだが、その記憶が残っているのだろうか。それとも別の理由だろうか。例えば、私は恥ずかしながら2回留年することを余儀なくされたのだが、そのために春となると、卒業していく友人たちを見送りながら、一人孤独と落伍感とを噛みしめなければならなかった。最後の年も未だに単位を集めるありさまで--教員免許をとるために、かなり余計に単位が必要だった--、無事卒業できるか、気が気でなかった。その悪夢(?)のような体験のお陰で、私の中で春と学生時代とが知らぬ間に結び付いてしまったのだろうか。私には分からない。どっちにしろ春になれば私は学生時代を思い出し、何となくほろ苦いものを味わう。もう10年以上前の出来事なのだが。
 先日も友人と話していて、たまたま話題が桜の話になったため、私は相手をそっちのけにしてつい一人で懐旧談に耽ってしまった。当時の恥ずべき所業や、忘れてしまいたいような出来事などが、このような小さなきっかけで思い出され、私としては、今でも居心地が悪くなる。あのときああしておけばよかった、このときこうしなけりゃよかった。もちろん、すべて後の祭り、である。もういい加減、過去はきっぱり振り捨ててしまい、何もかも新しくやり直してしまったほうがよいのだろうか。私はここでしばし立ち止まる。いや待てよ、それでほんとにいいのだろうか、と。そもそもその友人にも桜の話をする直前に私は語っていたではないか、「自分は辛いことばかり覚えている傾向があるが、当時のことを具体的な資料に基づいて正確に再現しようとすると、それ以外のいろいろなことも併せて思い出されてくるもので、暗いイメージの時代でも、実情は必ずしもそうでなかったことに気付かされるね」と。
 更に言えば、学生時代に出会ったもので、その後の身の振りに大きな影響を与えたものも決して少なくはない。36歳とになった今も、何か事件があって非常に動揺させられることがあったら、これまで自分が歩いてきた道を言わば再確認するために、学生時代からの愛読書をひもとくことはある。そしてそうすることによって確かに私は心安らぐ。
 私たちは自分の過去を抹消したり、更新したり--そうすることが可能なら、の話だが--しようと努めるのではなく、むしろそれをまずそのまま保存した上で、別の視点から虚心に見直してみる、思い出して見るということも、決して出来なくはないはずだ。
 私はいつの間にか、歴史認識の問題にまで足を踏み入れてしまったようだ。だが、一般化はここでは避けたい。私は私個人の話に限定する。私は自分の学生時代をそれが大変不完全で不満足なものであるにもかかわらず、基本的は肯定したい、と言いたいだけなのだ。やっぱりあれは、一つの出発点であった、と。春になれば私が学生時代を思い出すというのも、あるいは春が一つの出発点であるからだろうか。
 さて、私は大学を卒業した後もこれまで紆余曲折を重ねてきた。その過程で、やはり忘れてしまいたい思い出がないわけではない。と同時に、いろんなものと出会っても来れた。人との出会いもあるし、本との出会いもある。それは偶然の出会いではありながら、自分としてはまさに何ものかが計ってくれたのではないかと考えたくなるくらいに、当時抱えていた問題を解くに当って大きな手掛かりを与えてくれた。「時が熟する」という言葉が連想されてくる。『「同和はこわい」考』もそんな貴重な出会いの一つだった、と私は思う。きっかけは全く俗なもので、教員採用試験を受けるために同和問題の知識が必要だろうというので入手してみたに過ぎない。もちろんその前に主に朝日新聞の報道で関心を覚えていたということはある。しかしそんな事前の知識もなく、また、公立高校の教員になろうともしていなかったら…。もうひとつ言えば、このとき本屋の書棚にこの本がなかったならば…。最終的には自分の意思で買ったにせよ、その意思決定には実にさまざまなものが関わっていたことに改めて気付かされ、私は粛然たる想いがする。
 家に帰って早速ページをめくっていると、左翼の人たちの紋切り型の人間像にうんざりしていた私は、たちまちのうちに魅了された。傍線を引きながら読み進めるうちに、どんどん引き込まれていったことを覚えている。ただ、この本の中で藤田さんが伝えようとしている内容は、私自身の中にも食い入ってきた。「ひとごとだ」といって、笑って済ませるわけにはゆかなかった。意外なことに、と付け加えておいてもいいだろう。部落の問題にそれなりの関心を持ちながらも、そんなふうに自分に近づけて考えたことなどなかったのだから。しかし思うに、意外さの全くない出会いなどには、意味もないのではなかろうか。
 それから私は自分の頭で物を考えざるを得なくなった。自分でもつたないと分かる言葉を使ってであったが、そんなことに構っていることはできなかった。自分の問題を整理せねばならぬと感じたからだが、その一方で、そうすることが自分にも十分可能だという印象--これも「こわい考」によって与えられたものだろうか-にも励まされていた。そして、時間が随分掛かったことは事実だが、この本に書かれていることを土台として、私は一歩足を踏み出すことが出来たと思う。
 だからこの本も私にとっては一つの出発点なのだ。出発点としての「こわい考」。今後とも私は数知れぬほどの失敗を重ねていくことになるだろう。その失敗の重みの下で、これまで辿ってきた道のりまでも見失ってLまいそうになることが、もしかしたらあるかもしれない。そんなとき、再びこの本に返って、中身を読み直すことが出来たならば、それまで気付いていなかった新しい内容を発見すると同時に、何となく勇気づけられ、また新たな道を歩んでいく元気が出てくるのでは、と私は期待してしまう。
 きっとこれからも私は幾度となくそんなふうにしてこの本を読み返しては、出発点を再確認するに違いない--春を迎え、桜の花が開くのを見るごとに、やはり一つの出発点だった自分の学生時代を思い出すのと同じように。

《 川向こうから 》
■本文わずかに75頁、往復書簡などをふくめても135頁の吹けば飛ぶよな小冊子の波紋が10年にわたってわたしを揺さぶり続けるとは思いもよらぬことでした。この間、運動の内外を問わず今日ただいまの差別・被差別関係のありようそれ自体が人間存在の根源にかかわる問題なのだとの確信は強まるばかりで、ちょっとやそっとのことでは引き下がるわけにはまいりません。しかし世には、部落責任論や差別者免罪論が広がりつつあるとして、その責めを『こわい考』に帰す人がいるようですが、それはお門違いの過大評価です。わたしは10年前に小さな本を出版した。いまは、六百数十部の『通信』を各地に送り、招かれれば話をする。友人たちと年一回百人程度の集まりを開き、千三百余部の『こぺる』を編集する。それだけです。そんなわたしになにほどの力があると言うのでしょう。第一、差別・被差別の資格・立場の絶対化がいかなる情況をき起こしているか、その底にあるものはなにかを見ようとしない人には、わたしの意見などのカッパに違いない。多少目ざわりなときは、「現場を知らない評論家先生になにがわかるか」と一蹴いっしゅうすればすむ話ですし。それでいいのです。人はそれぞれ信ずる道を歩むしかないのですから。道が交叉するとき、出会いが生まれる。出会って挨拶をかわし別れ行くこともあれば、しばし同行することもある。同行を願うけれども強制はできない。これが10年たってのわたしの結論です。かっこ良すぎますかね。
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