同和はこわい考通信 No.110 1996.12.15. 発行者・藤田敬一

《 随感・随想 》
部落差別に関するノート抄
北口 忠(福岡)
1.部落問題の解決は、差別する側の差別する根拠をなくしていくことでより良い見通しが立つと期待をあおった。
 すなわち、劣悪な環境と低位性という実態が差別意識を誘発する、という図式に立って部落の環境改善、生活向上をめざしたものが同対審答申(’65)に基づく特別措置法(’69)であった。そして四半世紀に及ぶ法の効力は、部落にそれなりの効果をもたらしてきている。

2.ところが、このような実態の変化が当初もたらすであろうとされた差別する側に立たされた者の意識の変容は、容易に成果をもたらさなかった。
 それどころか、ホンネや意識のレベルで解決困難な課題が輪をかけて出てきている様相すらうかがえるのだ。金が解決したこと(同対法)を、金が裏切りもしている(ねたみ)という事態は、ここに至って部落解放運動や同和事業への見直しを警鐘として乱打しているようにもとれる。

3.よかれしと思ってすることが、思わぬ結果を招くことはあることだ。ねたみ意識という伏兵は、まさにこのことであろう。
 そもそも偶然であるとか、労せずに得た結果というものは、肯定的な感情では受け入れにくいものだ。地上に蠢く生活人はこのことを世襲の知恵で知っている。
 ひとかたならぬ先達の努力の汗、両手で天をつかみながら寒さにふるえる先人の苦難があったにせよ、制度化され、月日を追うごとにそうした姿が見えにくくなった今、「無から有は生まれない」という論理が冷ややかに立ちはだかっている。まして、世界にあふれるけばけばしい色のついた物品の洪水と、差こそあれ隔てられている者にとって、幸福は尋常の努力では容易ではない。
 (部落外の人々が)部落の向上を横目に睨んで、追い越されるという意識をかきたてられていることも想像に難くない。それは、自分の生活の匂いと比較して等しからざることへの反発になってきている。

4.さて、いかなる到達をもって部落は解放されたとするかを考えることは重要なことだ。本人の責任でないことで攻撃を受けたり、不利益を被ることを差別と考えて、次のことを思い描く。
 部落の解放とは、出自が表に出ても排斥や不利益の関係が生じない状態であろうし、言及すれば元々「部落民」は存在しないのであるから、自分からカミングアウトすることも、出身と呼ばれることも(歴史としてしか)ない状態を言うのではないかと考える。
 対象の特定にかかわらず、部落差別をする、されるの関係からしか「部落民」は出てこない。つまり、差別の現実がありそれに抗して告発していく過程にしか「部落民」は出てこない。したがって、部落解放運動は人と人との関係を変えていく営みに尽きるだろうし、同和事業はそれを補完するものでなければならない。

5.そこで、差別する側に立たされた者の意識がどう変わったかが、部落解放運動の検証の軸であると同時に、同対法のサポートのある限りにおいて、部落の側の組織や一人一人の解放への自覚がどう高められていったかが、もう一方の軸としてあるはずである。
 部落の低位性を克服するさまざまな取り組みとお膳立てがなされた。教師、隣保館(集会所)職員、支部関係者の善意と熱意と、その廉直さは疑うことはできない。だが、気がつけば上げ膳、据え膳の真摯さが、健康な常識を失って自立という最も大切なスピリットを剥ぎとってしまった、とも言えなくはないのだ。

6.部落解放運動と同和事業の見直しを、三つに絞ってとらえ直してみる。

1)
差別を見る時の中心点を変える見方がある。
 環境改善に中心をおくのではなく、教育や仕事の面での抜本的な運動の見直しを。運動の中心を“差別の結果ではなく、差別の原因に”。
2)
差別を見る時の距離を変える見方がある。
 部落を内側から見る視点を、遠く高く外から、部落の内と外を眼下に一望する視点を重視(重点移動)していってはどうか。
 すなわち、差別する人間と差別をひきおこす構造がなくならない限り、我々の運動が止むことはない。差別する側の人間の意識がどう変わっているのかが運動の検証軸である。意識の変容につながらぬ運動は無意味である。
 我が内に巣くう腐敗の進行を防ぐとともに、崇高な思想を拡めなけれならない。人間の魂を照らし出し、神秘のエネルギーを涌き立たせ、屍と化した魂をよみがえらせる思想。共感を呼び、(部落であろうがなかろうが)その前に崇め、ひざまずく思想を。
3)
差別を見る時の角度を変える見方がある。
 いったん思い込むと、思い変えに気づくのは難しいものだ。だから内なるかたよりを疑い、従来の常識を疑ってかからなくてはならない。
 運動を糾弾と行政闘争とする常識がある。この常識を捨てて糾弾闘争と行政闘争を抜きにした運動を考えなければならない。今の運動を否定しているのではない。糾弾も行政闘争も重要で、なお生命線である。だが、今ある解放運動のスタイルでは、部落の解放に到達できないことに気づくべきであると考える。
 なぜなら、差別は表面にあらわれ出て初めて糾弾闘争が組まれ、行政闘争へと展開される。しかし、地の底、人の心の底にまである差別は、地表に出てこない限り、闘いは組めない。
我々の今の運動の限界がここにある。

7.だから、金や学歴や地位の見てくれが差別をなくすのではない。人間なのだ。遅れた市民意識に迎合し、後ろ指さされぬ人間をめざすのではない。生き方が共感を呼び、その人のことばが法と同じ響きを持つ人間なのだ。
 彼のけい眼は政治(富と分配の不平等)・社会(世襲制、閥)・文化(人と人を隔てているものの考え)を撃つ。彼の頭脳は恐怖や困難を克服する働きをする。心が決まれば、ことばが決まる。心とことばが一致すれば、行動が一致する。彼の思想に触れた者は気がつけば部落の垣根を超越えていた。
 たとえ苦難の道であったとしても、人より先に見た者、人より先に目覚めた者がこの道を歩かなければならない。

8.ウォーターゲート事件で知られるニクソン(元)大統領は、指導者が尊敬と感謝を受ける人格者であるとは限らないと、死の直前、回顧録の中で語った。社会的地位、学歴、財産と、その人の人間性は相関関係にないということだ。
 つまり、人格は貧しくとも地位や財があれば社会からはじかれることはない。一方、優しさと慎みをわきまえた人望家がないがしろにされることが身のまわりに起こることを私たちは知っている。
 これは合理的な疑いがあり、政治・社会改革の問題として争う構えを示さなければならない。本人に責任を問えないことで万人が持つチャンス(学ぶことの機会)に差異があってはならず、どこまでもらしていかねばならない、という意味において組織をあげて向き合う問題は山とあるのだが、部落を政治・社会改革の問題としてとらえるなら、建前と本音のギャップはどこまでも縮まらないだろうし、個人と個人の関係意識に集約すれば、地球を逆回転させる危惧をはらむ。
 組織的な運動と個々人のベクトルが相まって「美しい日」の到来を待つことができるのだと信じる。加えて人間(個人のベクトル)が信用されずして運動が信用されることはないのだ。
 このレポートを書きながら、忘れていたことを恥じながらも、嬉しい気持ちだ。過去を探して未来を見つけるレポートなのだ。

9.妻の父親(故人)がした。悪性腫瘍が胃を冒していた。妹からの連絡で妻が看病に行った。これが郷里との往来の引き金となった。汗でまつわりついた着衣が乾いて肌から離れていくように感じた。
 そう感じるほど、わだかまりはしつこく重かった。わたしと妻が結婚して、すでに二十年が経っていた。
 法事では、久しぶりの再会が共通した過去をめくり、彼らを懐かしがらせ寂しがらせる。本家、新家、里という名で呼びあう一族は、親しげな挨拶のあと、車座になり、お互いの息災を喜びあう。ゆっくり着実にグラスの酒が減っていって、また注がれ、また減っていった。
 一族の若い子どもや孫はいつも遅ればせだ。目の合った縁戚の娘や息子たちに近況をさぐることばかけをしながら、彼らは自分の子供時代、青年時代の物思いに耽る。子どもの中に入口を見つけて彼らは古い記憶の扉をあけていくのだった。そして、戦時下の恐怖に近い窮乏生活から子供時代の苦労話へと移っていくのだった。悲惨と耐乏をかいくぐって生きてきた苦労話は、必死であるが故に滑稽でもある。哄笑が起こり、控えめに聞いていた若者たちは追従笑いを浮かべた。
 だが、突然、場の雰囲気が変わる。
 “関所があったもんな。どの道通ってもひとつ関所ば通らなならんと”
 七十がらみの男の表情に軽蔑の薄笑いが蒸気のように漂って消えた。
 “大人まで出てきて、かぼちゃやら大根ばおいていかなならんやったもんな”
部落への憎しみと攻撃だった。息が止まる。唾液がたまり、気づかれず飲み込もうとするとゴクンと音がして私を焦らせた。
 もう一人息を止めた人がいた。妻の母、私の義母である。始終目線を落として聞いていた。
 “あいつどうは、何ばして喰うていきよったとかねえ”
 男(の声)はもう怒りだしていた。いたたまれなくなった義母は、障子を開けて捜し物をするように台所に立っていった。義母がその時見せた、私へのせめてもの償いだった。

10.昔話なのに、私の生まれていなかった戦前の話なのに、人差し指で指されているように私は感じてしまうのだ。そして心を悲しみに変え、私を罰し続けるのだった。思えば、物心ついた時から私の人生は謎解きにはじまる。
 小二(7歳)の頃、隣町の友人が遊びに来た時のことだ。安さで評判の部落の八百屋に買い物に来ていたその祖母は、目の隅に孫をとらえると、走り寄って平手で叩きだしたのだ。顔を真っ赤にして打たれた頬をあばう手を外すと、祖母は再び打った。倒れ伏した地べたの、悲嘆で涙をためた(友の)目が忘れることができない。
 “ここに遊びに来たらいかんというとったろうが”
 と友を打ちながら吐き捨てた早口の声は、悪臭のように今も私の鼻孔にくすぶる。
 自分が存在してはならないのかと考え込んだことが、しばしばある。住所をたずねられるたび、親の仕事を聞かれるたびに、みぞおちのところから熱い固まりがあがって来る。いつからか付き合い嫌いとなり、初めて会う人、不慣れな場所はおっくうだ。会食はおろか挨拶すらもほうほうの態で、避けられるものならという気持ちが常に支配している。
 順序・秩序にこだわる人に窮屈を感じ、肩書き・ステータス・家門をひけらかす者に嫌悪に似た感情が走る。礼節につきまとうゴマすりに反発が心にたぎる。何故自分がこうなのだろうかと訝ることが多いのだ。これらは、自分の感情が理に合わないとわかっていてもなかなか克服できないこととしてあり、自尊意識を破壊されてきた体験の副産物としてある。
 謎解きは体験の副産物を含めて、感じて言いあてえない匿名の権威を解体することにある。そのために、私はいま自分をバラバラにして再生しようと試みる。内在する卑下と虚勢から解放されることが私の解放であり、差別する側に立たされている者が越えてくる垣根をとり外すことにもなるのだから。

11.何かをめざすということは、いまある状態が満足でないことを意味する。自分が不十分だということだが、部落解放運動を通じて自分を変え人を変えして、関係を修復していかなければならないと考える。アイデンティティを磨かなければと思う。
 いくつか自分の中にもある。

おのれの苦境から同じ立場にある者の境遇を思う。
(親分に)へつらわず、(子分)つくらず。
どんな場所でも、誰の前でも、自分であること。
金儲け、出世欲に振り回される人生はまっぴら。
結果としてなるのはいいとして、そのためだけに努力はしない。
自己表現を磨く。
金持ちでもなく、風采もあがらない、たかってくる者は誰もいない。なんとか人を引き留めようと気を使わずに表現が磨かれる。
                        [1996年8月 記]

《 採録 》
部落解放運動-1995年(『平凡社百科年鑑95』)
師岡 佑行
1995年は阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、沖縄のアメリカ兵少女暴行事件、金融破綻、住専問題、〈もんじゅ〉の事故など、かつてない大きい事件が相次いだ1年であった。しかし村山連立内閣はなんらみるべき政策を示すことなく無為無策に終わった。この政情のなかで、部落解放同盟(解放同盟)と全国自由同和会(全自同)とは法律制定を運動の主軸に据えたが、全国部落解放運動連合会(全解連)はこの動き、なかんずく解放同盟のそれに反対する立場に終始した。

【解放同盟と全自同、連名で要望書提出】
解放同盟(上杉佐一郎委員長)は95年5月30-31日、東京で第52回全国大会を開き、部落解放基本法の制定に全力を尽くすなどの方針を確認、〈綱領〉改正案を決定した。基本法については第123回国会での成立をめざした。
 これより先に解放同盟、全自同の法制定の動きを反映して与党である自民党、社会党、新党さきがけの3党は〈人権と差別問題に関するプロジェクトチーム〉を発足させた。解放同盟は部落解放基本法、全自同は人権基本法の制定をめざしたが、3月には同チームの求めに応じて、両者は連名で〈社会的差別撤廃基本法〉の制定を求める要望書を提出した。このなかで社会党では5月に〈部落差別撤廃基本法案〉新進党もまた6月に〈同和対策基本法案〉を策定した。しかし、与党プロジェクトチームの共通認識は〈何らかの法的措置を含めて、十分かつ速やかに検討していくことが必要である〉という漠然としたものにとどまり、国会への法案提出はなかった。
 大会では上田卓三書記長と新進党小沢一郎幹事長の間で3月に結ばれた法制定についての協力の覚書、大阪での新進党からの同盟員の立候補が問題となった。本部からは基本法成立に協力するなら社会党に限らないとの答弁がなされたが、55年体制の崩壊のもとでの政治の激動が解放運動のなかに大きな波紋を及ぼしていることをまざまざと示した。また、解放運動が政治的実益に振り回されている姿を露呈するものであった。
 綱領改正案の提示は現時点における解放同盟のスタンスを明確にすることをめざすものといえる。84年制定の現綱領は社会党左派的な観点から記され、大きく変動する状況をつかんでおらず、あらためて大衆団体としての性格を明らかにし、階級的史観ではなく民主主義、人権主義の観点を貫くことなどを明記し、1年間の討議を経て96年に開かれる第53回大会で決定することとなった。しかし、意見書を提出したのは兵庫・広島両県連のみであり、またこの件については、全国研究集会で論議されたくらいで関心は低い。むしろ、組織外の雑誌《こぺる》が綱領に対する諸意見を連載したのが注目される。

【人権差別撤廃条約が国会で承認】
法といえば、95年12月に〈人種差別撤廃条約〉が国会で承認された。承認に先立って衆議院・参議院の外務委員会は〈部落問題やアイヌ問題、定住外国人問題など、あらゆる差別の撤廃にむけて〉努力することを決議した。
 6月には、総務庁地域改善対策協議会(地対協)総括部会に、93年に実施した〈同和地区実態把握等調査〉の結果が報告された。地対協がこの調査を通して〈基盤整備がおおむね完了する一方において同和問題に関する国民の差別意識は、着実に解消に向けて進んでいるものの依然として存在している状況がみられ、人権侵害も生じている〉との見解を示したことは解放運動にとってもきわめて重要である。それは地対協がみずから〈統計数値から読み取れる事項を基本としてまとめを行ったものであり、分析の不足や課題の遺漏もあるかもしれない〉としながらも90年代の部落の姿を示した点においてである。

【《京都の部落史》全10巻が完結】
部落解放運動は95年もまた政党間の対立、政治的混乱をまともに受けて1年を送った。この状況は当事者にとっては避けられないものであり、決着をつけないでは何事もすすまない重大事に違いない。だが、部落に解放にとって今、必要なのは90年代の今日、部落がどのような課題を抱えているかを、それぞれの生活、足元からきちんととらえて、課題に据えることである。綱領の作成にせよ、〈21世に差別を持ち越さない〉のスローガンにせよ、このところを土台にしないかぎり生きた運動を進めることはできない。
 12月、京都では京都部落史研究所が18年かかって完結した《京都の部落史》全10巻を祝う集いを催した。そこには立場を超えて約200人が参加したが、21世紀に向けての可能性がうかがえたといえる。

《 川向こうから 》
●ご無沙汰しました。109号が9月28日付ですから、およそ3か月ぶりの『通信』ということなります。体調をくずしていたわけではなく、ただただ単純に忙しかったからにすぎません。各地への行脚が続いたこともありますけれど、五〇男がうつつをぬかすようなことがあったんですな、これが。
 実は、前号本欄には書きませんでしたが、美山町円原川の畔に小さな山小舎を建てたんです。先日、旧太平天国社の常連7人(片岡、戸田二郎・三郎、船坂、大野、田中、高田)を迎え、お酒をたっぷり酌み交わしました。翌朝は高田くんに話題を提供してもらって話し合うという、なんとも充実した内容。山小舎が新鮮な再会と交感の場になったんですから、こんなうれしいことはありません。戸田二郎くんの提案で、少なくとも年四回、季節ごとにやることにきまりました。
 まもなく美山の奥には雪が積もります。円原川畔の雪景色もきっと美しいことでしょう。小型四駆を走らせて出かけるつもりです。ヘヘヘ…
●11月9日、京都部落史研究所主催のシンポジュ-ム「『部落の近世政治起源説』をめぐって-新たな部落史像を求めて」に出かけました。会場の京都府部落解放センター4階ホ-ルがほぼ満員という盛況ぶり。既成の部落史像にたいする人びとの不満、疑問が根強いことの表われです。ただ、パネラーお一人お一人の話は興味深かったものの、焦点が定まらず生煮えで終わったのは残念でした。テーマが「部落の起源説」と「部落史像」とに分裂し、パネラーが専門家同士として和気あいあいの雰囲気を尊重しすぎたためか議論に緊張感がなかったのは遺憾。次回はパネラーの数を少なくしてテーマをしぼり、もっと突っこんだ議論をしてほしいというのが、わたしの率直な感想です。
●11月29日は、部落解放同盟京都府連副委員長だった中野孫四郎さんと山野宗次さんを追悼する会に出席。京都・田中のみなさんをはじめとして、なつかしい人びとと顔を合わせ、久し振りに学生時代に戻った気分でした。中野さんとは70年代後半、部落解放運動の再生と蘇生をめざす取り組みのなかで知り合い、山野さんとは高岸町(亀井文夫監督作品『人間みな兄弟』の冒頭シ-ンに出てくる町)で子供会をやらせてもらったときにお世話になって以来お付き合いをねがってきた方です。中野さんには『こぺる』復刊のさいにお力添えをいただきました。山野さんは『こわい考』に最後まで批判的なご意見をお持ちだったようですが、それはそれとして、お二人との出会いとつながりのなかでたくさんのことを学ばせてもらったように思います。お二人のご冥福を心からお祈りいたします。
●『通信』は、この九年半いちおう毎月出すよう心がけてきました。しかし、そんなにがんばっても何ですから、今後は出したいときに出し、読んでほしい方、読みたいとおっしゃる方にだけお送りすることにします。送ってもあまりお役に立ちそうでないなと判断した場合は勝手に郵送を止めますので、悪しからず。
●本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(研究室直通TEL&FAX 058-293-2222)です。(複製歓迎)