同和はこわい考通信 No.108 1996.8.24. 発行者・藤田敬一

《 論考採録 》
思想課題としての部落
原口 孝博
1.二項対立から人の豊かな関係へ
 部落問題を「差別をしない、許さない」式の啓蒙調ではなく、誰もがもっと気楽に肩肘を張らずに語れないだろうか。パターン化した部落・一般(非部落)や差別・被差別関係の構図、正(反差別)・邪(差別主義)の二項対立的思考からもっと自由に、人と人との豊かな関係を志向する方向でそれを「開く」ことはできないか。 「部落民」としての私の関心は、被差別の辛さやそれへの怒りにも増して、ある時期から、ほとんどその一点に集中してきた。

関係のあり方こそ
 部落解放のキーワードは、「部落」というある実体化された集団を前提にした政治・社会改革の問題としてではなく、「部落」をめぐる内部と外部の「関係のあり方」(突き詰めれば、日本的な共同体・個人同士の関係意識=日本文化のあり方)を問うことである、との私なりの判断による。
 何故ならば、被差別の正当な怒りの表現である糾弾やそれに基づく人間変革は、本来決して片方(差別側)のみの一方的な理解や反省を求めるものではなく、差別側と被差別側が厳しく相互の関係のあり方を問い、より人間的で高次の(最終的には個人対個人の)共通理解への到達(=新たな関係)をめざすはずのものであった。しかし現実には、この関係概念を問うべき課題を、帰属集団の社会的立場のみに限定し、大事なものを双方が見失ってしまっている。
 私の目から見た部落問題の置かれている状況を、具体的に見てみよう。
 「同対法」施行から約30年、部落の生活・環境改善も一定程度進んだ結果、「事業はほぼ終わった、次は啓発だ」とばかりに、同和問題の研修・啓発や学習会が盛んに行われている。しかし、以前とあまり変わらず、むしろ悪くなっていると感じることが一つある。もたれている場の雰囲気がかもし出す、なんとも言いがたい光景だ。
 部落差別についての外部(一般)の認識水準を示すものだと言えそうに思うが、場の違いはあれ部落問題を語る際に、ほぼ共通している状況がある。参加者の誰もが感じてしまうある種の緊張感やいかがわしさ。あまり積極的には触れたくないというタブー(禁忌)意識。のんびりとは話せず、公式見解や肩肘張ったお説教ばかりが蔓延まんえん。「部落」の人の存在を意識した遠慮がちな発言や周囲への過剰な配慮、等々……。
 「一体これは何だ。個人としては人間的自覚や社会意識の高い人も多いはずだ。どうして部落問題を前にすると、皆同じ顔付をしてしまうのか。」という疑問が早くから私にはあった。

被差別の側にも弱さ
 一方、私達被差別側の「部落」内部の状況はどうか。社会的立場の認識から社会変革=人間解放の主体たろうとする部落解放思想に学び、糾弾の場や同和関係者の中では元気良く振る舞いながらも、一たび個別の日常に戻り、運動や集団を離れた場面では、「部落民」である自己のマイナスイメージや卑下意識(共同観念)に囚われて、怠惰や自棄に走りやすい自分や近隣者の姿がある。本来、ただの個人として獲得すべき人間的自立や主体形成が、残念ながら現在の解放運動の舞台や社会的立場論では作れていない。
 「我々の持っている力は集団的属性の力であり、個人としての内面的力ではない。『部落民』の誇るべきアイデンティティとは何だったのか。」という疑問も、また私の中にあった。
 このように、部落問題をめぐる内外の「集団性」が優先される場では、相互の関係が傾斜し、自由な個人同士としての資質や意見が退けられてしまうという状況がある。そしてその要因は、部落解放(被差別)の正義を掲げた「共同理念」が内包しているものであり、その理念が絶対化され閉じられたままでは、双方が依拠している「共同性」に基づく風通しの悪い関係を決して乗り越えることができない。
 本当は、双方を呪縛じゅばくしているこの「共同的理念」の在り方と内実こそが問われているのであり、70年代、吉本隆明氏が初めて提起した「共同幻想の個人幻想に対する圧倒的優位性」をどう越えるかという思想的課題が、この部落差別をめぐる状況の中にもはっきりと見えてくる。
 70年代以降、真実暗闇から光が射すような「部落民」の解放理念(社会的立場の自覚や社会変革の主体形成)の洗礼を受け、自らの課題として取り組んできた部落解放運動の中で、私は様々な体験と試行錯誤を繰り返し、自分なりにある一つの見解を得た。
 取りあえず、私がたどりついた結論を思い切って述べてみよう。

共同幻想を超えて
 部落問題は、一般的な理解にあるような現代日本の政治・社会体制の改革のみによって実現できるような代物ではない。歴史学者・横井清さん流にいえば「要するに大変なスケールの差別」なのだ。その困難さの要因は、おそらく数千年前に起源を持つ日本の地域共同体や国家の形成・展開の仕方と、その長い過程ではぐくまれた共同幻想的な伝統・文化・習俗慣習(共同観念)の根強さの中にある。
 部落差別の根(賤視観念)は、人類史の発展に伴う共同体相互間の排他性に基づく<共同規範>として形成され、時々の世界観や民衆内部の文化・習俗として定着してきた。それ故に、ある時期(近世)には政治支配体制の中に身分制度(前慣尊重)として組み込まれ、制度的な枠が取り払われた近代以降も、その幻想性と弥生やよい以降日本社会が持つ農耕中心性の故に、非定住・非農耕を専ら強制されてきた被差別民に対して頑強に存続し続けている。
 従って、各時代の共同体(や構成員)がそのまま現在の「部落」「部落民」に実体的(血縁的)連続性を持っているのではなく、実体としては見えない様々の共同観念としての連続性が、現在の「部落」(「部落民」)に幻像として憑いていると考えるべきであり、その意味で、本当は「部落」や「部落民」はもはや実体としては存在しないのである。
 このことを運動体や関係者・一般市民も含めて、現代の部落問題(同和教育)を考える際の前提条件としなければならず、また部落解放理論も新たな再構築を図らなければならない。
 部落解放の展望は、現代の資本制市民社会における日本的共同体の相互関係や共同観念(賤視観念)の解体を射程に入れ、そのメンバーとしての近代的個人の一対一の関係のあり方や新たな共同体・社会づくりを志向するものとなるべきではなかろうか。

2.日本文化見直しの中での「国際化」を
 部落問題は、今確かに大きな転換点に差しかかっている。水平社以降の部落解放運動は、近世起源論を基礎に、近代資本制社会における矛盾の集約的存在として社会的に認知され、差別との闘いを通じて社会変革=人間解放を担うべく、日本の政治・社会運動の中軸として位置づけられてきた。

転換点に立つ解放運動
 しかし、80年代以降、ソ連・東欧社会主義の崩壊から左翼神話が終焉しゅうえんし、国内においても明確な階級対立という図式が見えなくなった現在、部落解放同盟の「第3期の部落解放運動」の提言にも見られるように「人権・平和・環境」というキーワードによる国際的視野を含めた反差別運動の方向へ大きく傾斜しようとしている。
 我が福岡の大先輩である故上杉佐一郎・部落解放同盟中央委員長も、これらの環境変化を鋭く感知し、社会運動の命運をかけて「第3期」への転換に全勢力を傾けた一人であった。(先達・松本治一郎氏の数少ない直弟子であり、77年8月狭山上告棄却糾弾の中央集会で、数千名規模で最高裁突入の構えを見せていた私達青年を、落涙しながら大音声で制止した上杉さんの「部落民魂」は終生忘れられない。優れた現場型指導者として、その急逝きゅうせいを惜しみたい)
 上杉委員長はじめ同盟指導者の多くは、階級史観の修正と一部に見られた利権・物取り主義克服の危機感から、従来の部落第一主義的傾向を改め、「間口」を広げた国内・国際規模で反差別・民主団体との共闘を志向しようとしているのは間違いない。また、インターネットや貿易(資本)自由化、環境破壊、エイズ問題といった例に顕著なように、現在の人間社会を取り巻く様々な問題は「国際化」や「人類的規模」を避けては通れないのも確かだ。
 しかし私は、部落解放運動の現時点における「国際化」へのスタンス移動は、何か大事なものを置き忘れてはいないかという危惧を感じている。

特異性を見失う恐れ
 理由の一つは、部落問題は「身分」や「階層」というよりも最終的には「出自」が問われる(他の差別との違いが顕著な)事情から、直接に政治・経済課題とはなりにくく、閉鎖・排他性を色濃く持つ日本的共同体の伝統・文化の中で存続しているという事実を無視できないという点である。なぜなら、表(公・制度・建前)の政治・経済的改革レベルでは、運動の進展や「同対法」施行以後の膨大な国家予算投下により生活・教育・労働条件の一定向上をみたものの、逆に裏(私・意識・本音)のレベルが、解決困難な課題として浮上し、結果的には差別が法や規制の及びにくい地域社会・共同体相互や個人の人間関係の中に奥深く潜行して、ますます見えにくくなってきている現代日本において、部落差別は決して解消されているのではない。
 国や自治体だけでなく運動体までもが、法制度・事業・モノ、カネ・格差是正等の数量基準で部落問題の解決を実現できるという錯覚に陥ったという事情もあるが、より大きな問題は、日本社会における部落差別の本質(従ってその解決法)をまだ正確には見定めきれていないということではないか。
 理由の第二は、水平社宣言の崇高な「人間解放」の理念やその後の部落解放運動の中で明確にあると考えられてきた「部落民」のアイデンティティ(帰属の根拠・独自性)が、当事者にとって、意外に脆弱ぜいじゃくなものでしかないという事態である。明治の解放令以後の急速な資本主義化は、近代社会への参入を賃労働者として余儀なくされた部落の人々にとっては、自らのアイデンティティを奪われていく過程でもあった。民族や性、肌の色といった外在的特徴を持たない「部落民」は、かつては「身分的共通感情」や「相互扶助」などの共同体的きずなを帰属の根拠としてきたが、それが失われつつある現在、確固とした自己証明を得られないまま浮遊化(まさしく「同和」)の道をたどっている。
 「部落民」にとってアイデンティティは不要なのか。「部落」の持つ共同幻想性を対象化したうえで、もう一度、「部落民」にとってのアイデンティティを追求し直すべきではないだろうか。それを見定めぬままの「国際化」とは何なのだろう。 今問われているのは、世界の少数者(マイノリティ)差別との現象面での共通点や表面的な連帯を追求する前に、部落差別の本質や独自性を、日本社会の深部を照らす中からもっと明確にしていくということではないだろうか。

今こそ根源的論議を
 現在の解放理論や部落史は、左翼神話・イデオロギー優先による近世政治起源説の呪縛じゅばくから解き放たれ、中世・古代……起源論などの民衆史観の転換や各時代の伝統文化・習俗習慣の見直し作業から、やっと生き生きした民衆生活の具体像による「部落の起源」や「差別の本質」論議が、テーブルに乗りつつある。
 時間をかけてこの成果を大胆に取り入れ、部落解放の主体や解放の展望をまず明確にしていく作業を経てこそ、国際舞台における部落解放運動の位置は、世界規模での「人権の旗手」として大きな影響を持つことが可能となると考える。
 最後に、いま一つ触れておきたい。
 早逝した熊野の部落出身文学者・中上健次氏は、解放運動の現場には身を置くことなく、文学世界における〈路地〉のイメージで「部落」の持つ人間的豊かさや濃厚な人間関係を描ききった。ほとんど独力の作業ではなかったか。
 数年前、一度対面した時の暗い表情とそれを重ね合わせ、私自身の地域におけるとぐろを巻いていくような生活体験を思い浮かべながら、「部落」の持つプラス・マイナス両極のエネルギーというものを強く感じた。
 人間の営みはやはり「伸びやかでカラフル」であるべきだ。「部落」の可能性を、かわききった現代社会を乗り越える日本文化の源流(日本・人類総体の共通財産)として再生させるならばその意義は大きい。その意味で、「部落解放」はやはり「人間解放」なのだと私には思える。 (『読売新聞』西部本社版夕刊、96/7/4, 5)

《 随感・随想 》
河原者又四郎のことば-『京都の部落史』を読む①
藤田 敬一
 京都部落史研究所編『京都の部落史』全10巻が完結しました。机上にずらっとならんだ10巻を眺めていますと、この19年間の出来事があれこれ思い出されて感慨深いものがあります。小規模の民間研究所が存続することがいかに困難であるかを身近に見てきたわたしには、『京都の部落史』に格別の思い入れがあります。しかし、大切なのは、それらが人びとの歴史認識、歴史意識とどのように響き合うかということでなければなりますまい。さいわい、京都部落史研究所は所長の師岡佑行さんを講師にこの9月から月1回のペースで「『京都の部落史』を読む会」を開催することになっています。わたしもぜひ聴講したいのですが、岐阜からではとても無理と判断し、ならば、わたしなりに一人で『京都の部落史』を読んでみようと思い立った次第。やり方は、概説篇・史料篇・年表を気ままに開いて、面白い史料に出会ったら、それを素材に想像をたくましくして「人間と差別」について考えるというものです。専門家でない者の気楽な読書ノートとしてお読みください。
 前置きはこれくらいにして、さっそく本題に入ります。
 第3巻「史料古代中世」篇579頁に、「河原者かわらもの又四郎またしろう相国寺しょうこくじ周麟しゅうりんに身上について述べる」と題された史料(『鹿苑ろくおん日録』延徳元年[1489]6月5日)が載っています。

晩、河原又四郎来る。庭松を洗い、懐中より一冊を出していわく。これ、植樹排石択吉凶選月日の書なり。末に一段ありて文字読み難し。師の朱墨を加えんことを請う。(中略)又曰く。それがし、一心に屠家とかに生まれしを悲しみとす。故に物の命は誓うてこれを断たず、又財宝は心してこれを貪らず。昔日、路上に於いて蚊幬ぶんちゅう四、五片を拾う。某、その人を追いてこれを与う。今に至るも路に逢わば、則ちこれを謝す、と。おもえらく。又四郎れ人なり。今時、円顱えんろ方袍ほうほう所為しょいは、屠者としゃに及ばず。慚愧ざんき々々。(以下略。原漢文、読み下だしを一部補筆)

 おおよその意味は、「晩方、又四郎という名の河原者がやってきて庭の松の手入れをしていたが、それを眺めていた予にむかってふところから一冊の本を取り出し、『これは、植樹と石の配列の仕方、吉凶・月日の占いなどに関する書物です。終わりの方に文字が読めない箇所がございます。教えていただけないでしょうか』といった。(中略)また、こうも語った。『わたくしは、屠家に生まれたことを心から悲しんでおります。ですから、物の命を断つようなことはすまい、財宝を貪るようなことはすまいと心に決めております。ある日、路上で蚊帳かやを4、5枚拾いまして、落とし主を追いかけてお渡しするということがございました。その方は、今でも路上でお逢いしますと、お礼を申されます』と。思うに、又四郎こそ人間らしい人間である。それに引きかえ、最近の僧侶のやっていることといえば、屠者にも及ばない。まことに恥ずかしいことだ」といったところでしょう。
 ここに登場する又四郎は具体的には庭者にわもの(造園者)ですが、彼は自らを屠家と称し、そのことばを書き留めた京都相国寺鹿苑院主・景徐周麟けいじょしゅうりんは河原(者)・屠者と呼んでいます。又四郎が生き物を屠り、売りさばく生業についていたかどうかはわかりかねますけれど、彼がそのような自称・他称の網の目の中に生きていたことだけは確かだと思われます。「屠家に生まれしを悲しみとす」との河原者又四郎のことば、「今時、円顱方袍の所為は、屠者に及ばず」と評する禅僧景徐周麟のことばは、当時、「屠家・河原者・屠者」と呼ばれていた人がどのように自らを見ていたか、世間から「屠家・河原者・屠者」にどのようなまなざしが投げかけられていたかを示す貴重な証言です。しかし、それだけでは物足りない。なぜなら又四郎の「不浄とされる出自への悲しみ」の内面的深さ、それゆえのきびしい生活倫理、自己の運命を変えようとする生き方が見落とされるからです。
 横井清さんは又四郎のことばについて「おそらくは中世賤民史全体をつうじて、賤民自身が自らを語った言葉としては殆ど唯一のものといってよい」と評しています(『中世民衆の生活文化』(東京大学出版会、1975)。又四郎のことばで中世の賤視を受けていた人びとの思想を代表させることはもちろんできないにしても、被賤視を貧困と屈辱に直結させがちな常識を揺さぶるに充分な思想を内包していることは疑いのないところでしょう。
 わたしは、横井さんの本ではじめて知って以来、「人間と差別」を考えるたびに又四郎のこのことばが蘇ってきます。賤視されつつも人は、何を願って、何を求めて生きようとしたかを、このことばは教えてくれているように思えるからです。庭先の又四郎と濡れ縁の周麟のやりとりを想像しますと、身分の違い、目線の違いはあっても、そこには卑屈なことばや怯懦な素振りとは無縁の関係が一瞬であれ成り立ったように、わたしには見えるのですが、錯覚でしょうか。

《 お知らせ 》
 ☆『こぺる』合評会
   9月28日(土)午後2時 京都府部落解放センター4階
   話題提供者:藤田敬一「『京都の部落史』第1巻前近代概説篇を読む」

 ☆『京都の部落史』を読む会
   講師:師岡佑行(京都部落史研究所所長)
   場所:京都府部落解放センター
   日時:9月13日・10月11日・11月8日・12月13日・97年1月12日
      (いずれも午後6時から9時)
   お問い合わせは、京都部落史研究所(電話075-415-1032)まで

《 川向こうから 》
☆7月から8月中旬にかけて猛烈な忙しさに見舞われています。おかげで、またもや『通信』の作成が遅れてしまいそう。目下、全国交流会に間に合うよう、ねじり鉢巻きでワープロのキーをたたいています。水泳のせいで体重が4キロ減って体調はすこぶるよろしい。気力も充実。問題は時間が足りないことです。ぜいたくな悩みですかね。

☆原口さんの文章は『読売新聞』西部本社版に掲載されたもので、西日本以外の人には読む機会がなかったのではと思い採録しました。わたしと同じようなことを考えていた人がいたことを知るだけでも励まされます。原口さんがおっしゃるように、おそらく問題の背景には日本文化の問題があるのでしょうが、いまのわたしには手に負えないテーマです。結論を急がずにじっくり思索してみます。

☆前号の野町文に誘われて高杉一郎さんの本を読んでみました。『極光のかげに』が出版されると、「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ。こんどだけは見のがしてやるが」と語ったのが宮本顕治だったことなどを知りました。しかし「偉大な○○○」と口に出して呼ばないまでも心のどこかで名付けていなかったか自らを顧みて恥ずかしい。誰かを「偉大な」と形容したとたんに、自らが空っぽになることを忘れないよう肝に銘じて生きていきます。

☆部落解放同盟の1996年度運動方針(案)が発表されましたが(『解放新聞』96/8/5)、同盟は部落解放運動第3期論を修正して、部落解放基本法実現をめざして、連立政権下での政治工作を強化するとともに、従来型の差別糾弾闘争・行政闘争を展開する方針のようです。行政依存型運動からの脱却を掲げてはいるものの、要するに運動側が主導権を握り、解放行政という名の同和事業拡充路線を堅持するということでしょう。3月以来、徐々に現れつつあった路線の再転換がはっきりしたといえます。行政責任論に立ち、同和事業の継続・拡充を主張してきた人びとはほっとし、運動の質的転換を願ってきた人びとはがっかりするということにならぬともかぎりません。これでは方針案にある「周辺地域に信頼される組織」への脱皮はおそらく夢物語になるに違いない。疑う人は、『こぺる』96年9月号の鈴木正穂「同和行政と制度疲労-京都市議会での質問から」をお読みください。人と人との関係を変えるには、まず人間への信頼がなければなりません。それが損なわれてしまっているのです。人間への信頼なしに、自らを中心と位置づけ、組織・団体への信頼だけを「周辺」市民に求めても、それは無理というものです。

☆本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)