同和はこわい考通信 No.107 1996.7.17. 発行者・藤田敬一

《 採録 》
「部落」をめぐる思想の魅力に触れる-原口論文にうながされて
 (『読売新聞』西部本社版、6/26,27夕刊)

<新鮮な議論が感じさせる可能性>
 部落問題をめぐる言説の空間に新しい風が吹いているようである。「部落」をテーマにこれほど魅力的な思想の言葉が語られているとは、うかつにも知らなかった。同和問題の解決を「国民的課題」と位置づけた同対審答申から31年。本音の議論さえしにくいような空気は今も確かにあるが、そのことばかりを気にかけていたのは、単に怠慢や無知のせいでしかなかったのかもしれない。雑誌「こぺる」5月号に福岡市の原口孝博さん(47)(部落解放同盟福岡市協議会)の論文が掲載された機会に、新鮮な議論の一端にふれた。(小林清人記者)
 「こぺる」は「人間と差別」をテーマに京都で発行されている月刊誌。京都部落史研究所の所報として出されていたのが4年前に廃刊になったが、読者らが寄金を集めて編集委員会(刊行会のこと-藤田補注)を作り、1993年4月復刊した。現在の定期購読者千三百数十人は北海道から九州まで全国に広がっている。部落問題をめぐる魅力的な議論の舞台の一つと言えるだろう。
 原口さんの論文「部落と共同体意識の関連について」は、昨年出版されて話題になった畑中敏之著「『部落史』の終わり」を読んでの違和感を、他の研究者による同書への批判なども検討しながら述べたものだが、「『共同幻想』(共同観念)としての部落差別」という考え方を示している点などが注目されている。
 京都市での合評会のほか、福岡市でも福岡水平塾(主催者は故松本治一郎氏の秘書を長く務めた松永幸治氏)で三回のわたって議論され、うち一回は京都部落史研究所長で「戦後部落解放論争史」の著者でもある師岡佑行氏が講師として招かれた。 原口さんが問題にした畑中氏の議論は「部落」や「部落民」は近代社会固有の身分差別であり、近世の身分差別とは別概念であるとする立場から、「部落民」と近世以前の被差別身分(賎民身分)とをつなぐ系譜的連続性を否定する点に特徴がある。そのような連続性でとらえる考え方では「『部落』『部落民』なる特別の“種族・民族”が血縁的系譜の連続において存在するかのような偏見を助長することになる」というのである。

▽血肉化した共同幻想
 一方、原口さんは「部落民」と近世以前の被差別身分の間に「実体的具体的事実としての血縁的連続性はない」という点で畑中氏に同意したうえで、それではなぜ、「現在の『部落』『部落民』と自己認定する人々が自分達の先祖の悲惨と苦痛に満ちた歴史や十字架を一身に背負い、いくら証明できないと言われても、自己の内部に部落民性を抱え込んでしまうのか」と問い返す。/そして、それは長い歴史の中で私たちが「無意識を含めて血肉化してしまっている共同幻想の連続性」、「現在もなお『部落』内外の人々を呪縛じゅばくし続けている“物の怪”的な差別観念=共同体意識(共同観念)」のせいなのだとして、共同レベルで存在するその「観念的迷妄」と「自ら闘う過程」の重要性を強調する。この点、部落差別は解消過程にあるとして、国民融合論を支持する畑中氏の立場と決定的に異なっている。
 原口さんによれば、部落差別を個人意識より優先する共同観念領域(心)の問題としてとらえた場合、迷妄的な観念に呪縛されているという点では、差別する側と差別される側は本質において同じだということになる。共同観念の解体という課題を、「部落民」・非「部落民」の双方の共通の土俵として設定することが可能だというわけである。こうして、「部落」という共同観念の解体は「両側から超える」べき課題として位置づけられることになり、それを対象化していく個人意識のあり方に原口さんは注目する。

▽両側から超える
 ところで、部落差別に関して「両側から超える」という表現を、最初に使ったのは「こぺる」の編集責任者でもある藤田敬一・岐阜大教授だ。藤田氏は87年に出版した「同和はこわい考-地対協を批判する」の中で、「差別・被差別関係の総体を止揚する共同の営みとしての部落解放運動」を提唱した。
 一方は、「差別された者の痛みは差別された者にしかわからない」と言い、他方は「痛みのわからない自分たちには部落問題について語る資格がない」と沈黙する。藤田氏はそのように、「資格・立場を絶対化する」考え方をしていては対話がとぎれてしまうと指摘したうえで、とぎれがちな対話をつなぐ粘り強い努力によって、差別・被差別の関係を両側から超えてゆこうと呼び掛けたのである。
 折から、地域改善対策協議会(地対協)の「基本問題検討部会報告書」と「意見具申」(いずれも86年)が“部落差別は被差別部落民に責任がある”と言わんばかりの見解を出した直後のことで、地対協の誤った主張が市民の共感を得やすい背景があることを運動の側も直視すべきではないかと率直に苦言を呈した点にもこの本の画期的な意義はあった。タイトルが衝撃的だったこともあって、真意が伝わりにくい一面もあったようだが、その後の経過を見ると、運動団体の関係者にも次第に理解され始めていると言えそうである。
 藤田氏が提起した問題を受けとめ、深めてゆこうというのが、「こぺる」の編集方針であるようだ。原口さんの論文も、「両側から超える」関係や「共同の営み」の創出を目指そうという藤田氏の呼び掛けにこたえてなされた理論的・思想的な努力の一つの成果と位置づけることが可能だろう。

▽差別の状況に風穴
 京都市の京都府部落解放センターで開かれた合評会で、藤田氏は「両側から超える」という言葉の意味について「内(『部落』)と外(非『部落』)と言うが、人と人とが本当に出会う時に、内と外ということが一体どんな意味を持つのか。両側からと言っても一気に一斉にというのではなく、個と個の関係で、気づいたら超えていたということになるのではないか」と敷延した。
 原口さんが自身の体験に基づいて語った「(共同観念を)対象化できた個人同士の間では超えられる」という発言も、意味するところは同じだろう。
 会には福岡からの5人を含む30数人が参加した。活発に質問や意見が出て、シーンとなったり、意見を求められてしり込みする人がいたりということがない。これほど自由闊達に、しかも真剣に行われる討論に立ち会ったことはあまりないような気がする。部落問題を考える思想の可能性ということを思わせる会の空気だった。
 「部落共同体についての原口さんのイメージは古風ではないか」という指摘や、カミングアウト(「部落」出身者であることを名乗ること)の体験を語った学生の発言、共同体と個人の関係をめぐっての議論など話題は多岐にわたったが、司会の藤田氏はあえて集約しなかった。何ものをも代表しない個人の立場で発言し、それを受け止めた人がそれぞれの思索と実践の場に持ち帰る、という原則のようなものを参加者のすべてが尊重している様子である。/参加者たちがしばしば口にした「超えてゆく」とか「開いてゆく」といった言葉が、「差別をめぐる息苦しい情況に少しでも風穴をあけよう」(「『こぺる』の再出発にあたって」)という共通の問題意識を示しているようで、印象に残った。

<改めて問われる「起源」や定義>
 「こぺる」5月号に掲載された福岡市の原口孝博さんの論文「部落差別と共同体意識の関連について」に興味をそそられて、関連のあるその他の人々のいくつかの論文を読み、研究者の幾人かには直接話を聞く機会も得た。印象的だったのは、原口論文に限らず、この数年、「部落」とは何か、「部落民」とは何かといった本質的な問題を改めて議論し直す機運が盛り上がっているらしいことだった。

▽転機に立つ解放運動
 「部落」の本質論が切実なテーマになってきた背景には、部落解放運動がいま大きな転機にさしかかっているという問題が横たわっているようだ。/1969年の同和対策事業特別措置法と同法の延長、地域改善対策特別措置法(地対財特法)への引き継ぎ、さらに同法の延長と続いた「特別措置法」による各種事業によって、「部落」の生活条件はかなりの程度改善された。「部落の生活の劣悪な状態が差別の観念を生み出しており、実態をなくせば差別はなくなる」とする、いわゆる「実態反映論」に基づいて、同和対策は行われてきたわけだが、実態が改善されても差別はなくならかった。つまり、この理論では差別を説明できなくなったわけである。
 さらには、「部落の生活は大幅に改善されたのだから、差別意識は解消して当然なのに、『同和はこわい』という差別意識が再生産されるのは、運動団体の糾弾などの運動形態に問題があるのではないか」という具合に、本来運動の側の論理だった実態反映論が、逆に差別の責任を運動側に転嫁する主張の道具として使われる事態も生じてきた。これらが事情の一つ。
 一方では、92年から5年間延長された地対財特法が来年で期限切れになり、部落解放運動が「特別措置法という手厚い保護、ある意味ではつっかい棒に支えられて」きた(大賀正行・部落解放研究所研究部長)状態から脱して、新たな運動を創出してゆかなければならない地点に立たされているという事情がある。新しい解放理論を構築するためにも、本質的な次元から議論し直す必要が出てきたわけである。
 大賀氏は著書「第三期の部落解放運動」のなかで、その辺の事情を率直に述べている。/「『部落民とは何か』、『部落の定義』といったことは、実は明確になっていないのです。「第三期を強調するというのは、今まで通りのやり方ではいけない。部落民とは何か、部落解放とはどういう状態をいうのか、理論的にもはっきりさせて、完全解放ということを射程に入れて、お互いに知恵を出して、腹をすえて取り組もうということです」
 「部落民」の多くが劣悪な生活条件の中に置かれていた50年代、60年代には「そんな観念論より現実の改善が先だ」といった理由で顧みられなかったテーマが、解放運動が一定の成果を得た今、改めて真正面から取り上げられるようになったという見方もできるだろう。/原口さんが論文で批判している畑中敏之氏の著書「『部落史』の終わり」が話題を集めたのも、こういうもろもろの背景があってのことだ。だが、その畑中氏も同書の中で、「『先祖の身分のちがい』という差異に負の価値を付与して、差別の口実に転化させる“しくみ”」とか、部落差別を合理化しようとする社会的な関係」という言い方はしているものの、その「しくみ」や「諸関係」を具体的に解き明かしているわけではない。

▽近世政治起源説に疑い
 「こぺる」編集責任者の藤田敬一氏は大賀氏との対談の中で、「部落民というのは、部落差別(意識)を媒介にして成り立つ人と人との関係の中の幻像であって、部落民という民が存在しているわけやない。しかし、この幻像が実体化される。つまり、部落民というものは存在しない。存在しないのに存在させられる」と述べている。「部落」や「部落民」の起源の問題は解かれていないのだ。
 故上杉佐一郎・部落解放同盟委員長の同盟葬が福岡市で行われた6月3日、京都部落史研究所長の師岡佑行氏を囲んで開かれた福岡水平塾の集まりで、参加者の一人である青年教師が「定義にかかわる部分がはっきりしないから解決方法が見えてこないのではないか」と指摘した。部落問題を考える人の多くがこの「定義にかかわる部分」のわからなさに直面していることをうかがわせる発言だった。
 師岡氏はそこでの座談会で「『京都の部落史』は原始から書き出している。人間が人間を差別するということがどうして起こったのか。賎視するということが始まったのは案外古いのではないか。“原罪論”と言われるかもしれないが、近世から中世にさかのぼったくらいではだめで、常にそういうもの(賎視観念)と闘っていないと。いつか自然になくなってゆくという問題ではないのではないか」と述べた。
 さらに従来通説とされてきた「近世政治起源説」についても「歴史家の実証的な研究から出てきたのではなく、占領下の日本の支配構造をどうとらえるかについての考え方が部落史の考え方に反映してつくられたもの」と指摘したうえで、「冷戦構造の崩壊以後、近世政治起源説を生んだ条件はなくなった。暗中模索の苦しみが我々にある」と語り、部落史研究の現在地点がどのような場所にあるかを示した。
 「部落」の起源を中世を超えて古代、原始時代にまでさかのぼらせようという師岡氏の考え方は、「数千年の長い時間の経過と歴史的文化・伝統の中で、無意識を含めて血肉化してしまっている共同幻想としての連続性」を言う原口さんの問題意識とも重なる。

▽雄大な歴史の遠近法
 論文の中ではほとんど言及していないが、原口さんには、「部落民」であることの積極面をすくい上げたいという関心があり、そこが原口さんの思想の魅力の核心であるように思われる。「部落」の共同性、そこでの濃密な人間関係といったものの中にはマイナス面とともにプラス面もあり、それは太古の日本人(原日本人)が持っていて、長い歴史の中で失ってきた何かなのではないか。そういう雄大な遠近法の存在がそこに感じられるのだ。
 これは、例えば大賀氏の「解放された後も部落民は部落民か」という問いにも通じる視点であり、作家土方氏の「部落の文化」への愛着とも通い合っているように思われる。/大賀氏は「アイヌの人は、アイヌ解放がなされても、アイヌ人というのが消えるわけではありません。黒人解放といっても黒人でなくなるのではありません。在日韓国・朝鮮人解放というのもそうです」と述べた後、「部落民が解放されたらどうなるのでしょうか。解放されても部落民なのでしょうか」と問う(「第三期の部落解放運動」)。/この点、畑中氏が「部落民」を疑似民族的に理解する誤りを避ける観点から、「“『部落民』であること”は部落差別とともに否定されるべき存在なのである」とか「“『部落民』としての解放”ではなく、“『部落民』からの解放”なのである」(いずれも「『部落史』の終わり」)と述べることと、決定的に対立する。/「部落の文化さえも差別の構造という大枠の中で生み出されたもの」(同)だとしても、だからと言って、そこに積極的なもの、つまり私たちがそこから学んだり、共感したりすることのできるものが含まれていないとは限らない。この問題は、国民融合論をどう考えるかということとの関連でも重要なテーマであるだろう。
 今回の取材を通じて痛感したことは、自分を見つめることなしに「部落」を考えることはできないという一点である。部落問題を考えることは、自分とは何か、日本人とは何か、人間とは何かといった問いにそのまま重なってゆく。議論を深めるには、自分にも他者にも正直に向き合える関係が何より必要なのであり、そのための開かれた議論の場として「こぺる」のような雑誌の存在意義は大きいのだろう。
 部落解放同盟の理論的指導者の一人である大賀氏に「こぺる」をどう評価するか尋ねた。「いろんな角度から考えることは大切なことで、今は(同盟の立場と)違っていても、目指す所は同じだと思う。(『こぺる』での発言者の中には部落出身者でない人も多いが)出身者でない立場で真剣に考えてくれる人は我々にとって大事な人です」と好意的な回答だった。
 「両側から超える」思想は、「部落」内外の人々の心をとらえ始めていると言えそうだ。

《 読書漫記 》
鏡と現実───高杉一郎『極光のかげに』『スターリン体験』
野町 均
 某日某所でわが友人が本を読んでいると知り合いの御仁がやってきて退屈を紛らすように本を覗き込み、その風変わりな書名を見て興味が湧いたらしく、本を取り上げて御丁寧にも奥付まで眺めた。読んでいたのは畑中敏之『「部落史」の終り』で、奥付には氏の主な著書の出版元が部落問題研究所とあることから御仁は「これは全解連の本じゃないか」と難詰するというか、いささかトゲのある口調でのたもうた。真理真実の探求に解放同盟も全解連もあるものか、それに「臆断を以て物の倫を説き」「天下の議論を画一ならしめんとする」(福沢諭吉)のはいかがなものかと反論し、激論に誘おうかと思ったが、翻って考えてみれば自分も「赤旗」を手渡されたときなんか読む前に内容がわかっているとばかりに臆断、敬遠するばあいが多いので、腹立ち気分のままやり過ごした次第、と友人は語った。
 かように人間はイメージや先入観、思い込みでもって状況に対応する生き物である。一方に、いったん抱いたある人間・集団・事物へのイメージを終生抱きつづけて新しい情報や事態には目を向けず「信念」を通す生き方、他方に、森を見ず木ばかり見てイメージを不断に更新しようとする生き方がある。前者は硬直をともないやすく、後者は優柔不断に陥りやすい。もとよりおなじ事物に対してのイメージは人によって異なり、ばあいによっては偏見と差別の温床となる。
 「おわかりでしょ、ユダヤ人には『何かが』ありますよ。だから、わたしには生理的に堪えられないのです」。サルトル『ユダヤ人』中のひとつの挿話で、あるイメージが差別につながるひとつの典型である。
 有限の人間が硬直に傾き、あるいは優柔不断に揺れながらなおできるだけ偏見や差別から自由でありたいと願うならば、ときに自己の抱くイメージの問い直し、検証は不可欠となろう。検証の結果イメージが変われば「目から鱗が落ちる」のだが、ならば、どうしてそれまでのイメージを持っていたのかの反省も生ずるゆえに鱗が落ちても苦味は残るのは否定できない。ともあれこれらのことをわたしに痛切なまでに教えてくれた本として高杉一郎『極光のかげに』と『スターリン体験』の二書がある。
 1932年、ナチスはマルクス、レーニン、ベルンシュタインさらにはハイネ、ヘミングウェイにいたる「非ドイツ的なもの」の大規模な焚書を行い、またプロイセン芸術家アカデミーからトーマス・マンやフランツ・ウェルフェルらを追放する。これらの報道に接して、当時改造社の新入社員だった高杉一郎はファシズムの野蛮とファシズムからの文化の擁護を考えればおのずと「ソヴェト同盟への期待につながっていった」と回想している。こうした著者の「期待」ひいてはソヴェト像を揺さぶったひとつにアンドレ・ジイドの『ソヴェト紀行』があり、そこには「ヒットラーのドイツでさえ、人間精神がこんなに不自由で、こんなに圧迫され、恐怖に脅えている国はほかにないだろう」とあった。日本のファシズム化を眼前にしながら著者は中条(宮本)百合子とこの問題を話し合う。「これは現実をうつした鏡の方がこわれているのよ。ジイドはこわれた鏡だったのよ」と彼女は語ったという。
 スターリン治下のソ連への期待と疑問を抱きながら著者は1944年に召集され、満州へ送られ、やがて敗戦とともに、ソ連軍に武装解除され49年9月に復員するまでシベリア送りにされた。いやおうなく軍事俘虜として自身の鏡にソヴェト社会の現実をうつす機会がおとずれたのだった。その記録が『極光のかげに』(1950年初版、91年岩波文庫)であり、『スターリン体験』(90年岩波同時代ライブラリー)には俘虜生活に前後するスターリン像、ソヴェト像の検証体験の軌跡が綴られている。 俘虜となっても著者はソヴェトへの期待感として、明るい肯定的な面をひとつでも多く見つけだそうとしていた。その姿勢を支援するかのように日本語による宣伝パンフレットが大量配布される。だが、彼が「唯一の判断の拠りどころ」としたのは「行き交う人々の表情や会話」であった。「たしかに、建設はおそろしいほどのテンポで進行している。(中略)しかし、そこで働いている人間の表情のなんと暗いことだろう」。収容所に勤めるロシア人女性マルーシャはツアーリズムの遺産と国内の戦争、国際干渉のおよぼした影響を説くが、高杉はスターリン政治への疑問を払拭できなかった。
 やがて帰国した著者は俘虜生活の体験と自身の鏡にうつったソヴェトの虚構と恐怖と愚行を、そしてそうしたなかにおいてもなお涸れずにある良識と理性を綴った。だが、この鏡は一群の人たちには「こわれた鏡」であり、「偉大な政治家スターリンをけがし、けしからん。こんどだけは見のがしてやるが」と神託のごとき言を下した人もいれば集団的なつるし上げをくわえた新日本文学会系列の作家集団もいた。それらの人たちからすれば「ソヴェト同盟の友人でなければ、ほんとうの民主主義者ではありえないし、それぞれの民族の愛国者であることもできない」のであった。 現実をうつす心の鏡は人それぞれである。「けしからん」の裁断ではなく、心の鏡の有限と相対を認識しながら、個々にうつった像を提出し、交流させるのは学ぶことの醍醐味である。「差別の現実に学ぶ」重要さが指摘されて久しい。この主張は同時に「現実」をうつす鏡の検証の重要さをも指摘しているように思う。(96/6)

第13回部落問題全国交流会

8月24日(土)午後2時~25日(日)正午 西本願寺門徒会館
講 演:大賀正行「部落解放運動第三期論の今日的意味」
申込み:阿吽社(電話075-256-1364 7月25日以降は電話075-414-8951)

《 川向こうから 》
☆6月はとうとう『通信』を発行できませんでした。ま、のんびりやります。
☆本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)