同和はこわい考通信 No.100 1995.11.15. 発行者・藤田敬一

《 論考 》
部落民としてのアイデンティティをめぐって
津田 ヒトミ
 重層した二つの価値観
 シルビー・スティールの『黒い憂鬱』(五月書房)を読んだ。アメリカのアファーマティブ・アクション(黒人優遇政策)が、黒人の自立向上に与えている逆効果、それも慢性的恒常的という意味で「憂鬱」という訳になっている。訳者は「あとがき」に「日本の少数者にそのまま適用すれば、大きなは誤ちを犯す」という一節を加えているが、この著書の「黒人」を「同和対策事業対象地域住民」と置き換えて読むことは(もっとも被差別部落住民は日本の少数民族ではないが)十分可能であり、示唆的であった。
 特に彼が繰り返し述べているいくつかの言葉は、私自身が「部落民としてのアイデンティティ」ということについて思考するときいつも陥るある矛盾に対する明快な答えとして読み取れた。そして、いつも陥るある矛盾とは、私の個的なものとしてあるのではなく、60年代後半からの部落解放運動そのものがはらんでいた矛盾に他ならないことに気づかされた。
 オールロマンス事件を契機に部落解放運動は、あらゆる行政サービスの対象から被差別部落が外されていたことを指摘した。住環境の劣悪さはそのまま貧困を象徴し、また就学、進学がままならず、結果として安定した仕事に就けなかった。そしてこのことは慢性的に再生産され続けたと分析した。以後、同和対策審議会答申をもって「社会的、経済的に低位にあること」「教育、就職の機会均等を奪われていること」、つまり「あらゆる市民的権利を奪われていること」を国の課題とさせ、特別措置による解決を目指した。部落差別を解決するためには住環境の整備、安定した収入を得る手だて、教育の機会均等の保障ということを掲げたのだ。
 思えば、運動はここからすでに矛盾をはらんでいた。答申の言う「同和問題の解決」は市民的権利を得ることであるが、それが部落問題の究極の解決ではなく、あくまで戦術に過ぎないと言いながら、様々な目先の要求闘争に邁進まいしんした。「同じ日本人なのに」「同じ人間なのに」、差別される由縁はないと論じる。その一方で実態として差別されているという証明としての「特殊性」をほのめかす。この「特殊性」は被差別であることの証明なのだから、自ずと「低位」な状況を指し示すことになる。しかし、「低位」な状況には正義が存在しなくてはならない。被差別部落の「低位」な部分をまるごと積極的に理解し、その背景にこそ部落差別があるとした論理は、部落解放運動が要求闘争として展開していく論拠となったし、何より被差別感で卑屈になっていた私たちの心を解き放った。さらに、部落民としてのアイデンティティの根拠として、他とは違う何かを探し始めた。「被差別部落民としての誇り」として、被差別であることのマイナスをプラスに転化するという言い方で再び「特殊性」は強調された。
 部落問題を認識するうえで、これらはつねに表と裏の関係として存在していた。究極の目的がどこにあるのか、「部落の解放」と称して、いかなる社会を目指そうとしていたのかという根幹にかかわって論議を私たちは丁寧に行わなかった。時折、相対的過剰人口を内包するような下部構造の社会を否定し、また競争主義、能力主義の延長としての受験競争の戦線に乗ることを否としながら、就労、就学、進学を志向することとの整合性を探る形で「解放理論」が示された。「土方のままの解放」などということもしきりに言われていた記憶がある。そして、私はずいぶん長い間、あちら(要求闘争としての市民的権利の享受)とこちら(そこから疎外されてきたという正義)を行ったり来たりしていたように思うのだ。
 私自身が部落問題を思考していく時、いつも相対する二つの価値観に引き裂かれてきたのは、このようにもともと運動がはらんでいた矛盾に翻弄ほんろうされてのことだったように思う。私自身いつも、被差別部落に生まれたということについて、ある意味を持たせようという意識(これは被差別ということにプラスとマイナスの意味を付加することになる)と、そんな枠をとっぱらってしまって何者でもない私自身を正当に評価して欲しいという思い、つまり部落に生まれたということに何の意味も持たせまいとする意識の裂け目に陥った。(『こわい考』通信で展開された住田-灘本往復書簡でもそのあたりのことが論議され反響を呼んだのだと思う。)

 「怠惰」と「勤勉」ということ
 例えて話を進めよう。昭和初期に生を受け、戦中、戦後に青年期を過ごし、同対審答申、特別措置法に人格形成の上であまり影響を受けなかった私の両親。その親の生活のなかで確かに存在した不合理は部落差別というものに起因しており、それ故に結果としてもたらされた低位な状況は社会政策の課題とするのが当然だと考えられたとしても、やはり父や母の人生のマイナス要因そのまるごとが部落差別のせいで、ということではなかったと思う。
 私の知っている父は結構物知りである。私が知らない難しい漢字や用語や歴史のことをよく知っている。父は旧制中学に入学したにも関わらず中途退学した。金銭的な理由というのではなく(確かに経済的に楽ではなかったが、勤勉な祖父はその上の兄も中学に進学させている)、悪さが発覚して退学になったと聞いている。その後入学した海洋学校も途中で辞めた。もちろん「悪さ」に至る経過も含めて、学校生活の中で部落に生まれたということでの被差別の体験はあったに違いない。その後父は食肉関係の仕事に就く。食肉に関わる仕事(屠殺から解体、小分けに至るまで)は確かに被差別部落に生まれたことと深く関わっていると思う。が、父はその職人芸の腕前を持ちながら、さらに立派な体格、それなりの教養も持ち合わせていたにも関わらず、人嫌いでつき合いが下手で、偏屈で、仕事が続かなかった。借金はうまいが、返済となるとまるで疎く、台所は火の車だった。しかし、そのことがまるごと部落差別のせいだとは言いがたいと思うのだ。同じ被差別部落に生まれた父の兄は、旧制中学を優秀な成績で卒業し、その後一家で中国に渡ったのち上海の大学へ進み、優秀な成績を修めている。戦後日本に引き上げた直後、父の兄は亡くなったが、その兄の大学時代の成績表を父は今も持っていて、いかに勉強ができたかを私たちに自慢していた。
 母は被差別部落でも裕福な家庭に生まれ、なに不自由なく育ったが、経済的に裕福な家庭に育ったとしても、聞けばやはりそれなりの被差別体験を持っている。母は父と結婚したあとは一転してお金の苦労をし続けてきた。すでに母の祖父は亡くなっており、長兄の代になっている母の実家からは金銭的な援助は得られず、がむしゃらに働いた。そんななかで母は、負けないこと、努力すること、よく勉強すること、学校に行くこと、行儀よくすること、そして女である私には貞節であること、その一方で男に頼らずとも自立できるよう芸事を身につけることなどを教えた。母はいつもせっかちで怒りっぽかったので、周囲からもあまり好感を持たれなかったように思う。父でさえ母の無教養(しかし彼女は高等女学校を卒業している)や、がさつなところを軽蔑していた。幼い私たちは怒りっぽい母をあまり好きでなく、その一方で稼ぎもないのに借金をしてでも子どもになんでも与えようとする甘い父を慕った。
 部落差別を意識し始め、部落解放運動に足を突っ込むようになった大学生の頃は、父の怠惰はまるごと部落差別のせいであると理解し、逆に父を反面教師としてきた母の子育ての仕方に反発した。父は部落差別の犠牲者であり、守るべき存在であった。部落差別を認識するということは、そういうことだと考えていたのだ。
 被差別部落に生まれなかったら、確かに父にはもっと違った人生があっただろうと思う。しかし、たとえ父が青年期に退学させられたことを部落差別のせいだと理解したとしても、その後彼の人生のなかで自己の知的欲求を満たし自己の能力をさらに開花させる機会が皆無だったとは思えない。確かに被差別の体験は、何をやっても無駄なんだという失望を持たせ、努力することを無意味だと結論づけさせることがあるだろう。もし、父がそんな無力感の中で人格形成をしたとしたら、やはり私は父の人生をただ残念に思うだけだ。以前『こぺる』に書いたことがあるが、幼い頃から私は父が肉の仕事をしているのを見るのが好きだった。それは、額に汗して見事に牛や馬を解体していく父は生き生きとしていて、「無力感」とか「怠惰」というのとは反対の側にあったからだと思う。結局、私は、人生に対して積極的で「勤勉」であることを評価しているのだ。
 冷静になって考えてみよう。目から鱗が落ちる思いで会得した解放理論。被差別感で凝り固まり小さくなっていた卑屈な心が、なぜ解き放たれたのか。
 <部落差別のせいで>学校に行きたくても行けなかったし、勉強したくてもできなかったし、働きたくても働くところがなかったという主張は、貧困であることや粗野であることや低学力であることが「怠惰」ということとイコールではないと認知されたことによって意味をなした。そこに決定的な価値観の逆転があったのか。否である。つまり「怠惰」はマイナスの価値観のまま私たちの中に存在している。そして正直であることや勤勉であることはそのままプラスの価値観として存在している。「部落のよさ」「部落の誇り」として私たちは「生産と労働」を主張する。貧困で粗野で低学力であっても正直で勤勉でよく働いた、と。解放理論が用意した二つの価値観の谷間に落っこちていた私は、そのことに気づき、そのことを正面切って論じることが、ずっとできなかった。
 シルビー・スティールは言う。「黒人運動家は被差別の立場の根絶に向けて努力したが…逆に、黒人であることイコ-ル被害者的立場と教えた。…生粋の黒人は貧しい黒人だけであるという主張が出てきた」と。大学教授で白人と結婚し、白人居住区に住む彼を、多くの黒人運動家は「彼は黒人じゃない」と言うそうだ。
 部落解放運動の担い手は、被差別部落住民が「居住の自由を奪われている」状況を解消し、被差別部落を物理的に離れ、被差別部落出身であることを隠すか、忘れるかしたことを批判的に見てきたし、居住を変えずとも高学歴、高収入である者は「生粋の」被差別部落住民とは見なさなかった。つまり、小市民的な上昇志向は被差別の側であることを否定することにつながると考えたのだ。これは前述の、被差別部落の低位な部分をまるごと積極的に受け入れ、その背景にこそ部落差別があるとした論理につながっている。つまり、被差別の側の正義とは、貧困で社会的に低位であることそのものである。よって、特別措置法以後もたらされた住環境をはじめとする経済的援助、就学や就職に関する援助が、被差別の側の正義たる貧困や低位な状況をある程度克服させると、我々はさらに被差別の正義を求めることになる。理由の一つは単純に、これがなくなればこれまで勝ち取ってきた賠償を手放すことになるからである。しかし、被差別の正義の追求はこれだけが理由ではなかった。もっと複雑な様相をして私たちの前に立ちはだかっている。だから私はいつも堂々めぐりを繰り返していたのだ。
 シルビー・スティールが『黒い憂鬱』の中で繰り返し繰り返し使っていたいくつかの言葉が、その出口を示してくれているような気がする。
 彼は、アファーマティブ・アクションという黒人優遇政策のもとで黒人がますます怠惰になっている状況を、<被差別の側の正義(過去の被抑圧についての断罪)によって手にする賠償は、個人的欲求としての物質、あるいは社会的地位という小市民的豊かさである。が、これが自助努力によってではなく政策的に与えられるものであるために、手にした豊かさを自負できない>と述べる。
 なるほど、同和対策事業の個人給付や住宅の家賃の内容を、私たちは公にしない。部落問題に無理解な輩が「ねたみ差別」を引き起こすからと説明してきたが、まさに政策的にもたらされた小市民的物質的豊かさを自負できない、負い目に思うからではないだろうか。手にした小市民的豊かさが政策的にもたらされたものである限り、それを自負できないのだから、我々は求めているものが質的に違うと主張し続けなければならないのである。故に「実質的均等」を求める被差別の側の正義(被抑圧の断罪)には終わりがない。
 貧困、低学力、低収入という、被差別であることの証明としての低位性を克服すればするほど、自分は被差別の側であるということの自己確認こそが必要だった。したがって、私の場合、被差別の側としてのアイデンティファイは、自己の、または両親の低位な部分に結びつけて行われてきたように思う。私自身が抱えてきた矛盾、引き裂かれてきた二つの価値観とは、つまり被差別の立場として自己確認しようとすれば、物質的豊かさ、あるいは学歴を含む社会的地位(というより経済的自立の根拠という方が、私の考えにぴったり)を得ようとする上昇志向の自分を否定しなければならないということだったと思う。わたしは前述したように、この二つの価値観のあちらとこちらを行きつ戻りつしながらその整合性を探していた。
 政策的にもたらされた豊かさは、それを得るために努力するということを(努力せずとも手に入れるため、努力そのものを無駄だとしたり、努力した者に対してもそれを正当に自負できなかったりという意味で)歪めた。高校、大学の進学に関して、私は被差別部落出身者が受給できる、例の無償の奨学資金を受給していたし、過去の運動歴によって採用はあり得ないとある筋から聞かされていたにもかかわらずパスした教員採用試験に関して、何らかの力が働いたかもしれないし、現在の教員としての私の評価や扱いが、出身ということに関わって正当に評価されないと感じることがある(プラスにもマイナスにも)。まさに手にした小市民的豊かさは政策的に与えられたという負い目を持たされ、それらを得たという自負を正当に持てないできたような気がするのだ。
 しかし、今再び考えを押し進めることができたのは、やはりそれらは自己の努力なしには得られなかったものであるという自己に対する評価のしなおしができたことに起因していると思う。言い替えれば、一種の開き直りである。

 自負、自己肯定、自己評価のための自助努力ということ
 幼い頃の悲しい切ない体験や、就職や結婚に関してのいくつかの悔しい思いを被差別体験と言うことはできるが、そんな言葉でもって私の人生を表現したくないという気持ちがずっとあった。悲しい切ない悔しい体験も、今の「わたし」を形成するうえだ必要であったもので、とすれば単純にそれを否定できるものではない。むしろそんな悲しい切ない悔しい体験を大切な宝物のように思っている。わたしはそのことを荒々しく人前に出して被差別の側の正義とか被抑圧の断罪の武器にしたくないのだ。そんなふうに思えるようになったのは、多分自己を肯定的に受け入れているという前提が成立してからだと思う。
 努力すること、頑張ること、挫折すること、そしてそこからい出すこと。そのひとつひとつの結果として手にした豊かさこそ自負に値するし、そこにあるのはそのプロセスこそがもたらした自己肯定、自己評価であると思う。差別に屈しないとは、何者でもない私自身を正当に評価せよということであり、正当に評価せよと言う論拠として自分のしてきた努力に対する自己肯定があるだろう。
 私たちが先達たちの闘いに学ぶとしたら、親の生きざまを学ぶとしたら、悔しさや無念さや悲しさを乗り越えて生きてきたこと。泥にまみれ、額に汗し、生を全うしてきたこと。そして、時に大きな犠牲と引き替えにしても不当な扱いに屈せず、人としての尊厳を守ったその姿にこそ学びうるものがあるはずだ。被差別の正義のうえにあぐらをかいて賠償に群がる姿や、被差別側の正義を振りかざして結んだ関係における庇護や優しさに安住する姿ではない。
 法が制定されて30年が過ぎた今もなお、「ひとしくない」という理由で、あるいは低学力や進学率の差を理由に、手にした「保障」をいまだに放棄しようとしていない。しかし、事業未実施地区(未認定地区)にも高度経済成長という波は押し寄せたし、あまりにも優遇された認定地区との格差は大であろうが、市民的権利という言い方のうえでの格差がそれほどあるとは思いがたい。教育の分野における格差にしても、30年前にまさに教育の課題とされた状況がどれだけあるだろうか。被差別部落の小、中、高校生を持つ親で、文字が読めない、書けないという人がどれだけいるだろうか。被差別部落の中に家計を助けるために学校を休まねばならない生徒がどれだけいるだろうか。
 運動側の主張は、「答申」の言う機会均等の保障ということではなく(それは制度上簡単なことであった)、実質的な均等を求める論理にすり変わった。そしてこの「実質的な均等」を求めて要求は際限なく主張される。
 朝田理論の言う「主要な生産関係に組み入れること」とは若干違うかもしれないが、運動の進んだ地域には公務員の枠が確保されるようになった。「親の願いとして」の就学、進学志向に応えねばならないとする取り組みが、経済的にもまた受験勉強という意味でも手厚く行政によってなされている。それでもまだなお格差が縮まらないのだという。格差が縮まらないのは(属地主義による施策がもたらす貧困層の滞留現象と統計上の問題は措くとしても)行政によってなされる経済的、実質的進学対策によっては解決しないということの証明に他ならない。なのに運動論も教育論も、二つの価値観のあちらとこちらを上手に世渡りするばかりだ。この二つは決して重なることはないのに、である。
 政策的にもたらされた豊かさは自負(正義)に値しないという負い目のすり替えとして、質的な違いをいつまでも主張し続けねばならないというのは、慢性的恒常的「憂鬱」だ。運動がというより、私たち個人個人が課題を整理しようではないか。部落問題の解決は市民的権利を保障することであり、それを特別措置によって解決しようとした、その意味での国の責務は終わった、と。それでもなお部落問題が解決しないとするならば、それは少なくとも(恋愛や結婚といったものが部落差別に起因しているとしても)制度とか政策、金銭における賠償といったもので解決する類いのものではないことを。
 価値観の多様化の時代と言われている。「豊かさ」の意味も個々に違うだろう。しかし、勤勉であること、正直であること、努力することといった価値観(これはアメリカ保守主義が誇示してきた価値観であるとしてブラックパワーの勢力は否定的であった)を逆転させるほどの理論を部落解放運動も解放教育も示し得なかった。もはや課題は、制度や政策、それに伴う国家の賠償といううものではなく私的自治のレベルに委ねられるべきものである。勤勉や自助努力によって手にした小市民的豊かさ、自立の手だてに、負い目は不要である。手にした豊かさではなくそれに至る勤勉や自助努力を正当に評価しよう。
 被差別部落に生まれたという自己をありのままに受け入れ、そのなかから確かな人としての営みをしていく。勤勉や努力や挫折や立ち直りを繰り返しながら自己を評価していく。自己肯定、自己評価に値する人格を形成していくことが、これからの運動の、これからの教育の課題ではないだろうか。

《 お知らせ 》
○『こぺる』合評会と忘年会
 12月23日(土)午後2時 京都府部落解放センタ-2階
  話題提供者:畑中敏之さん「住田一郎さんの『「部落史」の終り』への書評の感想」(仮)
 なお、合評会終了後(5時半)から、こぺる刊行会と京都部落史研究所との合同忘年会を開きます。
 ぜひご参加ください。
  場 所:中華料理『鳳舞ほうまい』(解放センタ-東200メートル。電話075-231-5776)
  会 費:5000円
  申込み:こぺる事務局(阿吽社内 電話075-256-1364)または京都部落史研究所
      (電話075-415-1032) まで。締め切りは12月15日です。

《 川向こうから 》
☆前号の住田さんに続いて、「被差別の側にある者」の主体を問う津田さんの論考を一挙掲載。次号は、山城弘敬さんです。特集連載を企画したわけではなく、期せずして文章を寄せてくださったのです。人が文章を書く気になるには思索の煮詰まりが必要で、個人によって多少の差はあるものの、その時間はほぼ同じということかもしれませんね。

☆鳥取倉吉で教員をしていた友人が、くも膜下出血で亡くなったとの知らせあり。享年36歳。なんということかと憮然としています。大山を眺めながら関金温泉に二人でつかったのは三年前。自分よりずっと若い人が亡くなるとこたえます。

☆『通信』百号。われながらあきれています。この間、みなさんから頂戴したご厚意に感謝するのみ。現在540通650部、月二日から三日程度の作業です。出さなければならない義理もないし、絶対出さなあかんという使命感もない。気力と体力がなくなればやめるまでのことと気楽に考えております。今後ともよろしく。

☆本『通信』の連絡先は、〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)