同和はこわい考通信 No.88 1994.11.19. 発行者・藤田敬一

《 採録 》
その1.金 時鐘「差別を両側から超える」(『ひょうご部落解放』93/11)
 (前略)岐阜大学の藤田敬一さんが解放同盟の組織内外で論議になっている『同和はこわい考』という著書を出しまして、その中で私の言質を二、三引用しています。それは、「両方から超える」という言い方ですが、私が両方から超えるというのは、両方からの問題点を確認できる接点をまさぐりあうというのが前段にあると思います。私がいうときには、必ずおのれを見つめ直すということと抱きあわさってのことなんです。(中略)両方から超えるべきだ、とは、自分自身が抱えているものを自分の視野に自分でおさめる、という内省の眼をすえて、私という朝鮮人を心なくおしやっている側の加虐性とむきあう接点を自分でだしていかないと、この差別という不条理はなかなか超えられるものではないということが、実は私の言いたいことなんです。
 それを直截ちょくせつに運動がかかえるいたらなさのように言挙ことあげして、差別をこうむる人たちの利己的な面だけを取り上げてはいけないと思います。まずは部落の人たちは歴然と、同族の中で差別をこうむっている人たちなのですから、同族のひとりとしての自分のありようをまずあかしていくことが優先されるということは、ものの条理として当たり前のことなんです。また、反面、『同和はこわい考』に見るような意見への対応が、これまた直截かつ感情的であることも、残念なことです。(下略)

コメント.
●昨年七月、望月廣三主宰「聞法道場」で行われた講演を『ひょうご部落解放』編集部が要約したもの。金さんの『こわい考』に関する発言が活字になったのは、おそらくこれが初めてだと思われます。
さて、金さんのこの文章、読んだあと、なぜかしっくりしないものが残る。それがなんなのか、あれこれ考えているうちに一年がたってしまったというわけです。その気分はいまもって抜けない。しかし、『こわい考』にせっかくふれてくださったのだから、それなりの応答はせねばなるまいと思い直して書いてみます。

 編集部が要約したせいか、文章に揺らぎがあり、論旨がたどりにくいのだが、基調は、わたしの意見との差異の確認にあるようだ。金さんは、「両側から超える」ということを主張するには、「おのれを見つめ直」し、「自分のありようをまずあか」すことが前提であって、その上で「両方の問題点を確認できる接点をまさぐりあ」うという段階が必要なのに、『こわい考』にはそれがないといいたいらしい。金さんのこの『こわい考』評には納得いたしかねる点があるけれど、まあ、それはさておくとして、金さんのいうことは、差別-被差別の資格・立場を超えた個々人の内面的課題として一般的抽象的に語られるかぎりでは異存はない。しかし、このような意見が部落解放運動という場に持ち込まれたときのことを考えると、おいそれとは同意できないのである。
 たしかに部落差別問題にいやいや取り組んでいる人、運動や組織に面従腹背する人がいる。その一方で、努力不足だと批判されながらも、自らの心理、意識とむきあい、部落差別問題は人間の問題だと受けとめ、その解決にむけて一所懸命に取り組んでいる人がいる。仕事としてかかわるようになったものの部署が変わったからといって「ハイ、さいなら」とはいかないと感じている人がいる。ところが、運動はこの人びとをひとしなみに差別する側の人間としてくくり、ときには差別者と断定し、ことあるごとに「自分のありようをまず明らかにせよ」「おのれを見つめよ」と迫ってきた。「被差別部落民でないものになにがわかるか」「差別する側の人間など信用できるか」といわれて、なおかつ対話をつづけようとする人はめったにいない。そんなこんなしているうちに、いつしか運動内部で差別-被差別の資格・立場が絶対化され、関係の固定化がおこり、対話のとぎれ、関係のねじれ、ゆがみが生まれてしまった。
 わたしには、被差別部落民という資格・立場が明かされたとたんに、ひるみ、沈黙した体験がある。この体験の底にあるものはなにか、どうしたら怯み、沈黙を余儀なくされる関係から抜け出せるかを考えつづけたあげくたどりついたのが、とぎれる対話をつなげ、ねじれてゆがんだ関係を変えるには、資格・立場を相対化し、差別-被差別関係総体を止揚する共同の営みとしての部落解放運動を創出するしかないというもので、それを金さんの言葉を借りて「両側から超える」と表現したのだった。出版後、わたしと同じような体験と思いを持つ人が予想外に多いことを知って驚くとともに、部落解放運動の宿痾しゅくあの遍在を再確認させられている。
 そこで金さんにたずねたいのだが、金さんが求める「おのれを見つめ直すこと」、なににもまして優先的に明らかにしていくべきだとする「自分のありよう」とはなにかということである。それが運動のなかでよく耳にする「差別者としての加虐性の自覚」を指すのなら、わたしには意見がある。差別が人と人との関係に根ざしている以上、関係を変える回路・場がなければ、「差別者としての加虐性の自覚」なるものは空転ないしは空中分解するしかない。空転・空中分解するだけならまだしも、人びとにたいして「差別者としての加虐性の自覚」を断固として即時かつ無条件に求めることによって、人と人との関係を変える回路を閉ざし、場を奪っているというのが現実なのだ。この現実を素通りし、相変わらず「加虐性の自覚」を求めるとしたら、それは、金さんのいう「両側から超える」方向にではなく、逆に両側のあいだに高い壁、深い溝をつくる結果しか生まないだろう。金さんが部落差別問題や部落解放運動について非常に慎重ないいまわしをなさることを充分踏まえても、ここのところはゆずれない。
 次に、部落解放運動批判の問題について。金さんは「それを直截ちょくせつに運動がかかえるいたらなさのように言挙ことあげして、差別をこうむる人たちの利己的な面だけを取り上げてはいけない」という。この文章の「それ」がなにを指すのか、肝心なところなのに、よくわからない。とりあえず被差別者の「差別する側の加虐性とむきあう接点を自分でだしていくこと」としておくが、それでもまだはっきりしない。金さんはなにがいいたいのだろう。主題が不明のままで、話は運動批判をたしなめる方向へとずれる。キーワードは「言挙げ」である。辞書によると、言挙げとは「その事柄を特に取り立てて言うこと」とある。取り立てていうほどのことではないのに、なんらかの意図を持って、あえておおげさにいいつのるという語感をこの言葉は含む。金さんは、一般論として放恣な運動批判をたしなめているかに見える。しかし、文章の流れからいって、『こわい考』もたしなめの対象にされているとみて間違いあるまい。
 わたしは、『こわい考』で部落解放運動の現状に苦言を呈し、その発想、理論、思想を批判した。いったい、わたしの意見、主張のどこが「言挙げ」にあたるのかたずねたい。同和事業にかかわる不祥事、金融などをめぐる刑事事件は運動の根幹をゆさぶり、その基礎を掘り崩してきた。表面的にどうであれ、部落解放運動にたいする信頼は確実に低下し、運動としての存在根拠が問われている情況を目の前にして、それを無視したり、「利己的な面だけを取り上げてはならない」などと自己規制したり、擁護・弁護したりすることは、わたしにはとうていできない。さらにいえば、部落解放運動批判のどこまでが「言挙げ」で、どこからが正当な批判にあたるのか、その基準、条件も明らかにしてほしい。そうでないと、苦言、批判はすべて「言挙げ」だとされかねないのである。
 こんなことをいうわたしは、自らの立場をわきまえぬ人間、差別者、融和主義者、部落責任論者だと非難されている。そのさい必ずといっていいほど、被差別者を批判する前に差別者としての自己を問え、差別する側の人間には被差別者とその運動、組織を批判する資格はない、などという言葉が投げつけられる。そのような物言いこそが批判の拒否になるのだと応えても、理解しようとしない人がいる。差別者と被差別者という二項対立がまずあって、すべてはここから始まり、ここに戻るという感じなのだ。被差別部落民ではない人間のいかなる苦言や批判も、資格・立場を問うこの論理によってすべてはね飛ばされてしまう。こんな情況でどうして「両方からの問題点を確認できる接点をまさぐりあうこと」が可能なのかと思う。
 しかし、そうはいっても、『こわい考』の出版から七年半、いわゆる被差別部落出身者との間で、資格・立場を超えた真摯な対話が成り立ちはじめている。金さんとは意見をことにするかもしれないが、わたしはわたしの道を進むつもりだ。

その2.報告『第一回同炎の会全国交流会-現況と課題について』(94/10)
 ◆ 岡田 豊(三重同炎の会)
 ここ二、三年の三重同炎の会の主な関心は、「差別するものの解放」とはどういうことなのか、ということにあったように思います。もちろんこれは「『同和はこわい考』通信」から出されてきた問題ではありますけれども、もともと会員の中にも、差別するものの解放とはどういうことなのか、どうもよくわからないという声がありました。それはたとえば「地対協」の「意見具申」を検討したり、藤田敬一さんの『同和はこわい考』を読むなかで、いわゆる固定化された差別・被差別という関係に対する疑念という形で内抱されていたように思います。
 そのことはともかくとして、「『同和はこわい考』通信」No.57から引用すれば、「(人と人との関係の変革にむかう回路をもたぬ自己否定は、遅かれ早かれ空中分解せざるをえないものです。もし空中分解しない自己否定があるとすれば、それは-以上、藤田増補)「主体なき同一化」か、それとも質の悪い冗談、もしくは自己防衛の擬態のいずれかにほかならない」という言葉で、差別するものの解放論、あるいは差別者の自覚ということに対する批判がされています。
 前年度の「同炎の会総会・研究集会」での言葉ですが、「教団人としての反差別というものが、極めてイデオロギー的な、政治的な立場ではないのか。「差別者の自覚」といっても、糾弾を受けとめるための手段ではないのか」、さらには「危機管理としての同和対策、啓蒙運動というのがある。「差別者の自覚」もそうでなかったのか」という反省がなされました。差別を課題とする、差別と闘うということが、逆に、差別を課題としない人、自己を差別者だと認めない人に対する差別を生んでしまうという面があったのではないか。そういうところから、自己防衛の擬態としての差別者の自覚あるいは信仰証明としての差別者としての自覚が生まれてくる。また「主体なき同一化」という面からいえば、差別者の自覚ということが、被差別者への拝跪へと結びつき、対等な関係ではなく被差別者による差別者の精神的な支配という新しい上下関係を生み出してしまう。これでは自己の人間性の破壊ばかりか、被差別者の人間性の冒とくに他ならない。このような差別者の自覚ということのもつ欺瞞性が藤田さんから指摘されたように思います。
 このような批判によって破綻したかにも思える、差別するものの解放論ですが、それでもなぜ差別するものの解放にこだわるのかというと、差別するものの解放という言葉で、本来は、人間の解放ということを表現しようとしたからです。つまり被差別者というのは差別をしない人ということではない。それはひとつの事象において差別されるものであっても、次の瞬間には差別するものとなるかも知れない。そういう意味では、基本的には被差別者と差別者には違いはない。すべての人間が差別するものであるからです。/(中略)差別するものであるがゆえに差別を自己の課題とするのです。水平社宣言に感動するのも、宣言に人間としての意味を見いだすからに他なりません。
 ところが、差別するものの解放論の結ぶ実像は、真宗大谷派の姿と二重写しになって、残念ながら初めに述べたような批判されている姿です。それが私たちの真意でないとするなら、差別するものの解放論を明らかにする必要があります。そしてそれと同時に、差別するものの解放に生きようとする生き方を明示する必要があります。そういう意味で今後の課題としましては、(中略)融和運動家といわれながらも(ある意味では水平社の運動に対して自律的な運動であったと言えるのではないかと思いますが)、水平社以来の差別されてきたもの自身の運動に応答しようとしてきた、武内了温のもつ構造的な意味をあらためて考えていきたい。そしてそのことが、同炎の会の差別するものの解放論に繋がっていくのではないか、というようなことが先日の三重の同炎の会で話されました。

*[あとがき]
 今回の一連の問題の背景には、「地対協意見具申」の問題をきっかけにして、改めて部落差別問題の現状をどう考えるのかという問題をはらんでいたと思います。因みに「地対協の意見具申」(1986年)が出された前年には「靖国懇の報告書」が出されています。部落差別問題と靖国問題とが同じ時期に出されているのですが、ある意味で、政府の側から国民政策の重要な問題として二つの問題が取り上げられたのではないか、そんなことを感じていたのですが。その「地対協意見具申」が「人々の「同和はこわい」という意識にとって実に受入れやすい」と、ある意味で単に政府批判にとどまらず民衆の「こわい意識」に着眼された藤田さんの提起は私自身もっと真正面から受け止めるべきではないかと思っています。そして、この指摘は決して教団の外側の問題ではないと思います。(大橋)

コメント.
 三重の藤井慈等さんから送られた『報告』を読んでいたら、岡田さんと大橋さんの文章が目にとまりました。わたしの意見が同炎の会で議論の対象にされているとか。これまで真宗大谷派同和推進本部の『同和推進フオーラム』に掲載された調さんの文章をめぐって、いろいろやりとりがありましたが、そんなことはどうでもよろしい。むしろ「差別するものの解放」論に関する意見の違いはおいといて、部落解放運動が直面している問題について、信仰者、宗教家でもあるみなさんと突っ込んだ議論がしたい。そうでないと、議論が空まわりするしかないと思いますよ。

その3.畑中 敏之「『出自の自覚』と部落問題-四国学院大学の『特別推薦入学選考』制度に寄せて-」(『部落』No.583,94/10)
 (前略)「部落民」とは何か。これは、ずいぶん長く議論されてきたテーマである。しかし、ここに至ってもなお(と言うべきか、やはりと言うべきか)定義は困難な情況のままである。たとえば大賀正行さんは、「部落民とは何か」と問われて、次のように答えている。

これはなかなかむずかしい。端的には部落の居住者。そしてその出身者。部落民は民族じゃないし、血筋とか居住とかで決定しがたい。自分は部落民やという意識も入ってくる。だからほんとうに自分は部落民やと思う者が部落民というてもいい。そしてまわりにそう思われている者が部落民ということになる。(大賀正行・藤田敬一「対談・部落解放運動新時代の可能性(下)」『こぺる』18号、1994年9月)

 大賀さんの考え方で言えば、“部落民としての自覚を持つ者”が部落民ということになる。おそらく、“部落民としての出自の自覚を持つ者”などとは言わないだろう。やはり、この相違点は重要である。また同時に、大賀さんが「まわりにそう思われている者」というように言っていることにも注意したい。
 そこで問題になるのは“部落民としての自覚”という場合、自覚する対象としての「部落民」とは何かという点である。大賀さんは、同じ対談で「エタであることを誇れるという思想を持っているのが部落民」と言っている。もちろん、大賀さんは、ここで「出自」=生まれ・血縁で単純に「エタであること」などと言っているのではない。水平社宣言の「吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ」に通じる思いからであろう。私は、この宣言の歴史的意義を否定するものではない。むしろ積極的に評価したい。しかし、この宣言は、その時代の部落差別の存在を前提にしているのであり、「エタであることを誇り得る時」と宣言したのがどのような時代であったのか、この点を見落としてはならないのである。「部落民」なるものの定義も、歴史的でなければならない。今が、「エタであることを誇れる」などという“部落民としての自覚”が必要かつ可能な時代であるとは考えられない。
 大賀さんと対談した藤田敬一さんは、次のように言っている。

部落民を一義的に定義することはできない。部落民というのは、部落差別(意識)を媒介にして成り立つ人と人との関係の中の幻像であって、部落民という民が存在しているわけやない。しかし、この幻像が実体化される。つまり部落民というものは存在しない。存在しないのに存在させられる。実体としては存在しないのに実体化される。実体化されるから差別されるわけで。(前掲「部落解放運動新時代の可能性(下)」)

 「存在しないのに存在させられる」という捉え方に注目したい。「存在しないのに存在させられる」というのは、前述の大賀さんの言う「まわりにそう思われている者」という捉え方と共通するものである。「存在しないのに存在させられる」のは、言うまでもなく、そこに部落差別が存在するからである。“まず部落差別ありき”であり、“まず部落民ありき”ではない。現実は、相互に絡んで展開しているが、本質的な問題は決してこの逆ではない。私は、藤田さんの捉え方を受けてそのように考える。(中略)
 私は「部落民」なるものを、近代日本社会の構造的差別としての部落差別(部落問題)の結果として生み出された身分的存在というように捉えている。「部落民」とは、民族・種族ではなくて、部落差別の結果としての社会的存在なのである。

コメント.
 早いもので、住田一郎さんと灘本昌久さんが「被差別部落民とはなにか」をテーマに本誌上で往復書簡を交わしてから三年がすぎました。「なんでいまごろ、そんな議論をするのか」と、いぶかしそうにいう人がいたけれど、それが部落解放運動の根本問題につながっているという確信が、わたしにはあったのです。いまなおこの確信は揺らいではいない。それどころか、ますます強くなっている。もし、そんなことはどうでもいいという人がいるなら、その人は部落解放を深く考えようとしていないとみてさしつかえありません。
 重要なのは、部落解放運動がこの問題に正面からむきあうやいなや、既成の組織方針、運動方針の転換と再編は不可避で、資格・立場を絶対化し、差別-被差別関係を固定的に考えている人びとなどは、その「大変」にひと呑みにされるのは必定だということです。資格・立場に安住する人が、このテーマに見向きもしないのはあたりまえといえます。
 で、畑中さんの意見についてですが、いずれ近いうちにその他の論文も含めて、わたしの考えを述べたいと思っていますので、しばらく待っててください。

《 紹介と案内 》
『こぺる』No.20(94/12)
 部落のいまを考える(15)
  石元 清英:「いまなお厳しい差別の実態」という見方
 時評⑧
  師岡 佑行:賀茂街道の秋
 ひろば(15)
  東谷 修一:ある貼紙から見えたもの
 第17回『こぺる』合評会から(藤田敬一)

第18回『こぺる』合評会
 11月26日(土)午後2時 京都府部落解放センター4階
 近藤祐昭「大学における同和教育から」(11月号)について。話題提供者は筆者の近藤祐昭さんです。ぜひお出かけください。

《 川向こうから 》
◆今号は、採録特集になりました。いまだに『こわい考』を取り上げてくださる方がおられることは、この七年半が無駄でなかった証しです。思えば、『こわい考』が縁でたくさんの人と知り合いになれました。もちろん、わたしの前を通り過ぎていった人も少なくありません。人の噂もなんとやらで、関心と思索を持続するのは、ほんまにむずかしい。しかし、先日も、ある方から人づてに「通信は、すみずみまで読んでいる。藤田の意見が徐々に広がっていることがわかる」とのメッセージが届きました。また久しくお会いしなかった方が『こぺる』合評会に出席してくださいました。こんなことがあると、なんともうれしくなり元気がでます。おかしなもんですねぇ。少し疲れているせいかもしれませんが。
◆11月1日より5日まで岐阜(3),三重の4人の方から計5,960円の切手、カンパをいただきました。多謝。この間の主な出費は郵送料4万960円でした。
◆本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。研究室の電話が12月5日から直通(ダイヤルイン)になります。番号は、058-293-2222です。(複製歓迎)