同和はこわい考通信 No.85 1994.8.10. 発行者・藤田敬一

《 案内 》
第11回部落問題全国交流会「人間と差別をめぐって」
 日 時:8月27日(土)午後2時~28日(日)正午
 場 所:本願寺門徒会館(西本願寺北側 電話075-361-4436)
 講 演:江原 由美子(東京都立大学)「差異と差別」
 申込み:〒602 京都市上京区寺町今出川上る4丁目鶴山町14 阿吽社(TEL075-256-1364,FAX 075-211-4870)まで、葉書か封書またはファックスで住所・氏名(フリガナ付)・電話・宿泊の有無を書いて、申し込んでください。申し込み先が変更されました。お間違いなきよう。

《 紹介 》
『こぺる』No.18(94/9)
 部落のいまを考える(12)
  大賀 正行+藤田 敬一:対談 部落解放運動新時代の可能性(下)
  藤田 敬一:対談を終えて
 第15回『こぺる』合評会から(山本 尚友)

《 各地からの便り 》
その1.
 “こぺる”8月号、読みました。大賀正行さんとの対談(上)は興味深く、(下)が早く読みたいとの気持ちになりました。対談によると、部落解放運動は、まだ本当に始まったばかりではないかと思われます。私達の文学運動も約50年と言ったところで混迷の中にありますが、じっくりと腰をすえて歩むことだなと思いつつ、いささか年をとりすぎたなと、ぼけた頭で考えています。(岐阜 吉田 欣一さん)

コメント.
 吉田さんは岐阜市在住の詩人。大賀さんとわたしとの対談から「部落解放運動は始まったばかり」という印象を受けられたよし。わたしもそう思います。ところが、若いのに、始まる前から疲れた顔をしている活動家がいる。これはまったくもって変ですなあ。

その2.
 お元気におすごしのご様子、何よりと存じます。広沢氏の論では、でも僧職者は人間平等を吹きまくってきたではないか…と立ち止まってしまい、大賀氏の発言をみてると運動体の“苦悩”はまだこのような地点に?!とびっくり。あれこれ、こちらの不勉強も働いて、しっくりこないまま、ずるずると行く。要するに、「差別」の一語が物事・事態の“本質”を明白にする有効な道具として働き続けた時代は終わって、それが逆に物事・事態の“本質”を見えにくくもしている時代が来たか。この一語の使用を峻拒してなおかつ差別を語り明かせぬものか。ムリかとも思うが、面白い“方法”では?「被差別…」然り、「賤民」「賤視」然り。便利な言葉を抑制せんとするところからの再出発……なんちゃって。   (京都 I.Iさん)

コメント.
 「兄への私的呟き」との添え書きがありましたが、大切なことが指摘されていて、独り占めするのはもったいないので載せさせてもらいます。
 交流会でも以前、差別という言葉を使わないで問題の所在が語れないか話しあったことがあります。差別という言葉には呪力があり、それに縛られてしまうからです。そういえば、江原由美子さんも「差別という言葉はあたかも魔術的な呪文のように、その言葉を投げつけさえすれば、すべての批判や論争に終止符をうつことができるかのような力を持つことになる」と書いておられます(「差別問題の構造-言説の空洞化をめぐって」)。わが意をえたり、の感あり。I.Iさんや江原さんのような、同じ考えを持つ人がおられることを知ると、なんかこう、元気が出てきます。

《 採録 》
解放同盟新方針への期待と要望(『労働運動研究』1994.5)
大阪  高橋 正明
 (前略)本誌四月号で紹介された「部落解放同盟の新方針」は、従来の行政闘争中心の否定面(「解放が目的、事業は手段」原則の転倒等々)に対する深刻な反省と、「地対財特法」の期限切れを三年後にひかえた危機感のなかから、これからの解放運動を「第三期」として自覚的に位置づけ、「国内外の共同闘争」の時期として新たな時代に積極的に対応しようとする姿勢がうかがわれる。
 同和事業の見直しのみならず、綱領・規約の改定をも射程にいれたこの自己改革は、閉塞状態におちいっている運動の現状を打開するものとして、これからの活動に大きな期待を寄せたい。/新方針にいたる中央理論委員会の活発な諸論議が『新たな解放理論の創造にむけて』として公刊されているが、とりわけその「第三期運動論部会」の提言にはこれまでにない大胆さで現状の問題点が指摘されており、たいへん興味深く、今後の論議のなかで掘り下げられていくことを期待するとともに、同盟のこれからの活動について、次の二点を望みたい。
 第一に、従来の運動の否定面を直視するために、組織の内外での開かれた自由な大衆的討議をいっそう活発化すること。とりわけそのさいには、必ずしも納得できない批判に対しても、「差別の助長につながる」とか「敵に利用される」という外圧的な決めつけで批判を封殺しないこと。(かつて『同和はこわい考』における藤田敬一氏の貴重な問題提起に対する中央本部の対応は、心ある人々を失望させた。) 第二に、「基本法」制定運動や、反差別国際運動として、外に向かって幅広い共同闘争を追及するだけでなく、同時に「差別とは何か」「解放とは何か」という根本的な問いを繰り返し問い続け、参加者一人一人の自発的な討議を深めてほしい。狭く政治闘争に収斂されないかたちでの、自主解放の精神の形成・拡大を、そのための諸条件の追及とともに望みたい。

《 江原 由美子さんを読む 》②
近代社会システムの罠から抜け出す道は?
 ──「差別問題の構造-言説の空洞化をめぐって」──
熊谷 亨
1.
 東京のT君から江原さんのこの論文を教えられたのはいつのことだったか。たしか、『同和はこわい考』の出版に刺激されて再開された「差別論研究会」の場で紹介したことがあるので、87年の秋か冬、いずれにしても論文発表からまもないころだったと思います。慣れぬ社会学の術語に難渋したものの、従来の差別論とは一風変わった論調に不思議な感覚を抱いたのを覚えています。
 ぼくが江原由美子さんの名前を目にしたのは、このときが始めてで、彼女が日本のフェミニズムの代表的な論者であるということを知ったのは、ずっと後のことでした。
 その江原さんが今年の部落問題全国交流会で、「差異と差別」というテーマで講演されるとのこと。『こわい考通信』No.83で、藤田さんが紹介している「『差別の論理』とその批判」(『女性解放という思想』所収)で、江原さんは、

「解放のイメージ」を言語化して提示することは重要なことである。だが、それと同様の、もしくはそれ以上の努力が「差別の論理」の巧妙なしかけと「反差別」の言説の強いられる困難性の解明に向けられなければならない。(中略)「解放のイメージ」を自由に語りあえる場をつくるためにこそ、「差別の論理」の解明は必要なのである。(同書P81)

と述べるとともに、論文を

被差別者にとっては「生身の」問題である「差別」をこうした形式的な水準で記述することは、その内容に立ち入ることがないゆえに反発も多いかもしれない。だが、被差別者が「差別の告発」においてすら感じざるをえない消耗感の淵源を把握するためには、「差別」という現象の意識的・言語的水準での把握、すなわち、その問題設定自体の「非対象性」、「不当性」を明確にする必要があるのではなかろうか。(同書P97)

と結んでいます。
 今回紹介する論文「差別問題の構造-言説の空洞化をめぐって-」(『フェミニズムと権力作用』勁草書房、1988所収、初出『ておりあ』No.6,87/10 )も、同じく意識と言語の面から、差別問題の全体的な構図を描こうとしたものと言えます。
 江原さんは、初めにこう述べています。

「差別論」は現在非常に危い位置にあると私は思う。表面的な「差別告発運動」の成功のかげで、その成果を危くするような動向が生じている。「差別問題」の本質であると私が考えるところの言説の空まわり現象が広範に生じ、告発する側をも巻き込んだ差別構造の強化が進行している。現在必要なことは、この総体的構造を見抜きうる分析能力の強化である。(同書P100)

このような現状認識に立つ江原さんは、「差別」という言葉に対する思い入れをやめ、「差別とは何か」「差別はなぜ悪いのか」といった思考と論争の場を確保すること、それによって「差別」に対する分析能力を増大させ、「差別現象」が持つ、現代社会にとっての本質的な位置を解明する必要があると主張する。これは、「差別告発運動」の現状批判であると同時に、江原さんの社会学の立場でもあるようです。江原さんは、部落解放運動について少し論及してはいますが、直接的に部落問題や部落差別について論じているわけではありません。「そんなもん『記述』して、だからどうなんだ?!」という声も聞こえてきそうです。しかし、江原さんの「まず、『差別とは何か』『なぜ差別は悪いのか』というところから考えてみる」という提案は、決して無意味とは思えません。
 なにしろマルクス主義を基礎にした従来の部落解放論が破綻し(心情的には「有効性を大幅に減じた」ぐらいにしたいのですが)、部落解放同盟中央理論委員会が昨秋出した『提言』の中で、「『部落とは』『部落民とは』何か、が問われている。そして、いかなる状態を解放というのか。それを実現するための諸条件と方策」についての論議を呼びかける時代なのですから。ひょっとしたら、いままで全く的はずれな「差別像」を描いてきたのかもしれないのです。

2.
 以下、江原さんの論文をまとめてみます。
 まず、「差別問題」とは、人々が特有の正当性構造に基づいて、その正当性構造からすると不当な処遇をめぐって相互行為をするとき成立する問題と定義される。「差別」を告発する上での正当性構造を成立させたのは、あらゆる人々に規範的同質性を要求する近代の理念(平等や人権)であるが、このような認識は、①前近代的な身分意識や偏見の残存が「差別」を生み出すという位置づけと、②合理主義的、利益優先的、生産性重視的な価値観の形成を伴った近代的意識自体が「差別」を生み出すという、相対立する二つの理論を成立させた。
 ①からは「差別」は自明に悪いという主張が導かれ、②からは、人々の間に優れた-劣るという尺度を持ち込むことが「差別である」とされる。①②が同時に並存・混在することで、「差別は絶対に悪」く、「いかなる区別もカテゴリー分けも差別である」という差別批判の言説の円環が作り上げられる。
 ところが、人は、常になんらかの価値判断を行うことによって、その生活を維持している。日常生活者の微細なカテゴリー装置こそ、人々が自ら組織化していく社会関係を形成する能力の本質とも言える。だから、あらゆるカテゴリー分け、区別だて、差異化をすべて「差別」であるとし、絶対的に悪いと非難するような判断は、事実上、力を持たない。「差別は悪い」という言説が、タテマエ的部分において支配権を確立すればするほど、その実際の効力は喪失されることになる。運動側・告発側は、差別は悪いという主張の効力の喪失化が生じてきていることに対して、気づいてはいても、むしろ一層、その傾向を強めるような働きしかできなくなってしまう。つまり、「『差別される側』は『差別問題』という罠にはまってしまっているのであり、その罠それ自体の構造がこの言説の空洞化、空まわり状況を生み出す」というわけです。
 「解放新聞」などを読んでいると、「Aは、実際に体験したわけでもないのに、『部落民は荒っぽい。すぐ暴力をふるう』という知人からの伝聞を信じ込み、このような発言をした云々……」といった記事を目にすることがあります。また、確認・糾弾会の場で、「お前は、部落のもんがそんなことをするところを本当に見たことがあるんか!人から聞いただけやろ!」という激高した声がとぶ場面があります。しかし、こうした批判は、よく考えるとあまり有効ではありません。
 藤田敬一さんは、『同和はこわい考』で次のように述べています。

…わたしも、わたしの家族も「確認・糾弾」なるものと無関係だし、いわゆる「威圧的態度」や「脅迫」にあったこともない。(中略)つまり、わたしはなんの体験、経験もないままに被差別部落(民)はこわいと観念していたわけである。「同和はこわい」とのイメージは直接的体験に基づかなくても容易に形成されるのだ。(同書P38 )

人は朝起きてから寝るまで(ひょっとしたら夢の中でも)、さまざまな人・出来事に出会い、その都度どう対処すべきか価値判断を行って生活しています。「正しい」判断・選択を行えば「利益」が得られ、「誤り」の判断・選択を行えば、「損失」を被ります。その基準は、直接の体験によることもあれば、親や友人、あるいはマスコミからの伝聞によることもあります。伝聞よりも体験の方が確実なもののようにも見えますが、実際には、伝聞によって形成された基準の方が、価値判断の上で重きをなしている場合が多いと言えます。
 江原さんは、こうした空洞化状況を積極的に直視し、分析を深めることを提案します。そして、上記①②の「差別批判の言説」が、空まわりしてしまう理由、その構造的要因が近代社会システムの二重性にあることを明らかにしていきます。

3.
 近代社会システムは、そもそもの成立において公・私の分離という制度を採用し、公的領域における普遍主義と業績主義を正当化イデオロギーとして確立しました。同時にそれは、社会生活において事実上作動している諸規範を、公的領域から切り離すことで、個人の主観性の名のもとに存続させます。個人の社会関係の多くが、公的領域ではない私的領域として認定されますが、私的領域の存在は近代社会システムにとって必要不可欠な前提なのです。公的領域の自立化につれ、私的領域は私化傾向を強め、いかなる社会規範の支配からも自由な恣意性の領域とされていきます。正当性を要求されない自由な差異化装置は、そこで全面的に開花する可能性が与えられる。「差別告発」という公的な普遍主義的正当性理念に基づく言説は、そこにおいて流通範域を縮小し、私的領域から異質なもの、違和的なものとして排除されるのである。
 つまり、近代社会システムの正当性装置は、その流通限界を暗黙に指示しながら、表面的には全面的な正当性として成立しました。この二重の意味指定の狭間におかれてしまった人々、近代社会システムの二重性の罠にはまってしまった人々が被差別者であり、この二重の意味指定こそ、被差別者の「差別告発」言説が空まわりしてしまう根拠なのだ、というわけです。
 だいぶ長くなってしまいました。まとめたつもりが、かえって分かりづらくなったり、誤解している部分もあるかも知れません。ご容赦ください。
 江原さんは女性解放論に即して以上のような見取図を描いたわけですが、部落解放運動も、言ってみれば公的領域における普遍主義をたてにとり、行政責任の追及を徹底しておしすすめることを最大の戦術・戦略としてきたわけで、それによって獲得してきたもの、失ってきたもの、現在ぶつかっている壁について、記述することも可能ではないかと思われます。もっとも、江原さんの立場からすれば、そのように構造から部落差別を説明しようとするのは、逆立ちした議論かもしれませんが。
 交流会当日まであとわずか。もう少し江原さんの著作を読んで学習を積みたいとは思いますが、果して、「近代社会システムの二重性の罠」から抜け出す道はあるのでしょうか。江原さんはどのように考えておられるのでしょうか。あるとすれば、江原さんが「人々が自ら組織化していく社会関係を形成する能力の本質」という、「日常生活者の微細なカテゴリー装置」をぼくらがどのように活用(改造?)していくかにかかっているような気がします。つまり、既存のカテゴリーを疑い、「自分のカテゴリー」を作ること、また常に更新していくこと、でしょうか。
 それには、「自分以外の何者をも代表せず、経験や資格を問わず、結論や方針を求めずに、『人間と差別』について議論すること」-ちょっと手前みそにすぎますか?

《 再録 》
書評:貴重な問題提起-山下 力著『荊冠旗に乾杯』(水平出版社,1994/5)
藤田 敬一
 権力は腐敗する、という。なぜ腐敗するのだろうか。権力は批判を拒否し、批判などできそうにないと人びとに思わせるからだ。批判を許さないうちに、自分のやることなすことすべて正しいと考えてしまう。そこに待ち受けているのは人間的腐敗である。
 運動も組織も、ひとつまちがえば権力に変質することは、部落解放運動の現実が示している。対話がとぎれ、人と人との関係がねじれ、ゆがんだままで、部落解放・人間解放を語っても説得力はない。
 だが、本書にもその一端が示されているが、山下 力さんには、対話をつなげようとする姿勢、既成の発想・理論・思想を問い直そうとする勇気がある。
 世間には相手の資格や立場によって、その意見に耳を傾けようとしない人がいる。だからこそ古人も「人を以て言を廃せず」と教えた。なんのための運動か、なんのための組織かとあらためて問いただされているいま、資格や立場がどうであれ、部落解放を求めるもの同士が、基本問題について真摯に論議をする必要がある。その意味で、本書に展開されている山下さんの問題提起は貴重だといえる。
(部落解放同盟奈良県連[山下 力委員長]機関紙『解放新聞』94.5.25 に掲載。 なお同書の問い合わせは、水平出版社07443-3-3145まで。頒価1500円)

《 川向こうから 》
★木曾・長良・揖斐の木曽三川に沿って湿った空気が濃尾平野をさかのぼり、山にあたって、わたしの住むあたりの上空で滞留しますので、例年、夏は不快指数が高いんです。加えて今年の記録的な暑さ。もうたまらない。こういう時は機械いじりが一番と思い定めてパソコンと格闘中。だいぶわかりかけてきましたぞ。
★七月、岐阜太平天国社の仲間で酒友でもあった人がガンで亡くなりました。しょぼんとしているところへ、今度は京都の友人が脳血栓で倒れたとの報あり。二人ともわたしより若いのに、なんたることかと怒っています。ま、怒っても仕方ありませんけれど、しかし、それにしてもねぇ。
★最近読んだ本のことなど───新聞広告に「部落問題は差別する側にいる人間の問題」とあるのが目にとまり、川元祥一『部落問題とは何か』(三一新書No.1085)を読んでみた。書名から現代の部落問題がテーマになっているのだろうと思って当然だが、中味はさにあらず。部落史の話が大半で、「差別されてきた人びと」の崇高な人間精神を顕彰し、返す刀で「差別する側」の精神を告発するという内容。筑波大学での講義をまとめたとある。講義、講演となると、どうしてこうも人は啓蒙主義的になるのかあらためて考えさせられた。
★7月18日より8月9日まで、岐阜(5),京都(2),愛知、三重(3),埼玉の12人の方から計6万4,000円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。なおこの間の主な出費は郵送費4万8,570円、中質紙・宛名ラベル代1万4,822円でした。本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)