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《 案内 》
第14回『こぺる』合評会
6月25日(土)午後2時 京都部落史研究所(電話075-415-1032)
*6月号の廣澤隆之「仏教と平等・差別」を中心に。廣澤さんに短い話をしていただくほか、梅谷繁樹さん(園田学園女子大学)がコメントしてくださる予定です。なお当日は、合評会につづいて部落問題全国交流会の事務局会議がありますので、例の「天狗」での一杯はお休みにします。あしからず。
第11回部落問題全国交流会「人間と差別をめぐって」開催のご案内
84年夏、ひょんなことから岐阜で開いた集まりが、今年で10周年を迎えます。部落問題について日頃感じていること、考えていることを率直に出し合えば、もう少し情況が見えてくるのではないか。“わたしと部落問題”を見つめ直すことから、運動や組織のあり方を問い返すきっかけがえられるかもしれない。そんなことをおぼろげながら考えての集まりでした。
この10年、「自分以外の何者をも代表しない。経験や資格を問わない。結論や方針を求めない」を合い言葉に、それぞれの課題を持ち寄って「人間と差別」について議論してきました。交流会は年一回だけの出会いの場です。終われば、散り散りに別れる。別れたあとどうするか。それは各人が考えること。交流会はそんな集まりです。ぜひお出かけください。 日 時:8月27日(土)午後2時~28日(日)正午 場 所:本願寺門徒会館(西本願寺北側) 京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町(電話075-361-4436) 交 通:京都駅より市バス9・28・75系統 西本願寺前下車(約5分) 講 演:江原 由美子(東京都立大学)「差異と差別」 日 程:8月27日(土) 14時 開会 14時30分 講演 16時 分散会 21時 懇親会 8月28日(日) 9時 分散会 11時 全体会 12時 解散 費 用:8000円(参加費・夕食・宿泊・朝食込み) 4000円(参加費・夕食込み) 申込み:〒602 京都市上京区寺町今出川上る4丁目鶴山町14 阿吽社(TEL075-256-1364,FAX 075-211-4870)まで、葉書か封書またはファックスで住所・氏名(フリガナ付)・電話・宿泊の有無を書いて、申し込んでください。申し込み先が変更されました。お間違いなきよう。 締切り:8月10日(水) その他:ビラ・パンフ・新聞・通信などを多数持参してください。また第一日目夜の懇親会への名産・特産の持ち込み大歓迎。懇親会に参加される人には多少のカンパをお願いしますが、よろしく。
《 随感・随想 》
全解連系部落問題研究集会参加記
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住田 一郎(大阪)
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久し振りに他流試合にいってきました。大津市で開催された第23回部落問題研究集会(全解連他で実行委員会を構成)に、です。第1分科会(シンポジゥム)「21世紀をめざす部落解放運動」に参加、基調報告は前立命館大学教授真田 是氏、阪南大学教授杉尾敏明氏、全解連副委員長村崎勝利氏の三名でしたが、三人の話の中では真田氏の「新しい運動の方向」に教えられるところが多かった。
ところが超形式主義者杉尾氏の持論(戦後、憲法で基本的人権が明記されたのだから部落民は存在しないという。社会的関係性のなかで存在しつづける部落民を彼は認めない)は20年前からまったく変わっていませんでした。他の組織のことだから、でしゃばることもないが、全解連の存在、いや部落民の存在すら否定する彼の論理を、部落問題の解決をめざす全解連組織はどのように理解しているのか聞きたいところです。「わっはっは」と笑いながら聞き流す質の提起ではなかったと思うのですが…。ここではこれ以上触れませんけれど、彼の部落問題についての見解は、部落問題研究所に結集する研究者の最極端(異端)の位置にあることは間違いない。部落問題の部落問題たる所以の部落民の存在を否定して、どのような部落問題を解決するというのか、という疑問が起こってきます。
<歴史的後進性=被差別部落民の内面的弱さについて>
本題に戻ります。87年に全解連は「21世紀をめざす部落解放の基本方向」なる文章を発表し、部落問題の解決、すなわち国民融合について四つの指標を内外に提起しました。私がもっとも興味を抱いた指標は、第三の「部落差別にかかわって、部落住民の生活態度・習慣にみられる歴史的後進性が克服されること」でした。ずいぶん以前から私はこの歴史的後進性について「被差別部落民の内面的弱さ」として数多くの研究集会で問題提起を行なってきました。それゆえ全解連も解同も同じ部落民を対象にした運動を推進しているのだから、それぞれの組織が具体的に「歴史的後進性」をどのように明らかにするか、その内容に関心を持ち続けてきたのです。
残念ながら、解同組織ではこの点の指摘は皆無にひとしい。逆に、「歴史的後進性=内面的弱さ」の指摘は差別につながるとの意見が現在でも根強く存在している。しかし、第三の指標が発表されて6年が経過したにもかかわらず、全解連、部落問題研究所に結集する人々のなかから、この「歴史的後進性」について具体的に展開した論考に、私は出会ったことがありません。ぜひ読んで学びたいと思っていたのですが。そういうわけで今回の研究集会第1分科会への参加となりました。 真田氏の報告は四つの指標にもとづいて、さらに具体化するとともに理論化する作業でした。とくに、第三の「部落の歴史性による傷痕-歴史的後進性について」では、被差別部落民の
と強調されました。 今後の引き出される二つの課題の一つとして、彼は「歴史的後進性克服の課題」を再度提起し、次のように指摘します。
と。ここまできて、私にはほんとうに奇妙に感じられることがあります。全解連系のこの種の集会では、“被差別部落民”は使用されなかったけれど、いまでは“部落民”すら使用されません。“部落住民”が辛うじて、それも控え目に使用されるのみです。最極端に位置する杉尾氏にいたっては、「部落解放とは、旧身分が、結婚・就職・交際等で問題にしたり、されたりするすることのない状態をつくること」と指摘するものの、被差別の主体=エタ、部落民、被差別部落民は確定されず、登場することもない、なんとも奇妙な話になっています。
<歴史的後進性の具体的追究は不発>
さて、討議の時間が極めて少ないということもあり、以下のような真田氏への質問と私の意見を述べてきました(黙って聴くだけでは駄目な性分ですので)。杉尾氏の見解はこの場合、無視することにしました。
真田氏は具体的な内容には触れることはできないと断りつつ、「後進性のイメージは旧共同体型の生活様式で同族意識が強い(血のつながりを重視)、上下の支配意識、自我が未成長な個人、視野が広がらない、外との対話が極端にとぎれている等が考えられる」と答えました。しかし、全解連副委員長からの発言は聴けませんでした。たぶん、彼はこれまで具体的に「後進性」について考えてこなかったように思われます。杉尾氏からは、私の意見に賛成で、「あなたは、すでに自立した個人である」とのお褒めの言葉までいただきました。 確かに、彼らが指摘した同和対策からの自立は緊急課題にちがいありません。がしかし、被差別部落大衆が今日のように同和対策事業にいともたやすく安住し、生活意識まで歪められてしまっているのも被差別の実態とのかかわりは大きい、と私は考えるのですが。部落問題の解決は決して「格差の是正」だけではないはずで、それゆえに「格差」が大幅に近づいたとされる現時点で、私たち被差別部落民が考えなければならない最大の課題は、「歴史的後進性=内面的弱さ」を私たち自身が自らの問題として引き受けることだと思うのです。事業の終了宣言を当面の課題とする全解連は、もう一つの柱である「歴史的後進性」克服の内実を具体的に明らかにすべきです。 部落差別問題は、同和対策事業(主としてハード面)の終結宣言で解決するものでしょうか。地域社会の構造に長年組み込まれてきた(約50年前の戦前には部落差別の根拠は天皇制絶対主義と寄生地主制等により構造的に存在するとされました)、被差別部落民への差別が同和対策事業によって容易に解決するものだろうかとの疑問が生じるのも当然ではないでしょうか。被差別部落と他地域との間の課題、および被差別部落内での課題が明らかにされる必要があります。被差別部落民にとって部落差別とはいったい何だったか、を明らかにするためにも必要な作業にちがいないのです。 それらは今後の課題とするとして、大阪から大津まで2時間かけて参加した成果は大いにありました。まず、今日の全解連の理論的状況を垣間見ることができた点。次に、私の予想を修正するほどの「被差別部落大衆の内面的弱さ」への追究がほとんどなされていない事実を知ることができた点。それに、部落問題関連の諸集会に見られる悪弊である途中退席が、全解連の集会でも目立った点(午後の再開時には60~70%が退席)。私が学んだのはこんなところといえましょうか。
《 江原 由美子さんを読む 》①
「いっしょ」と「ちがい」の狭間で
-「『差別の論理』とその批判-『差異』は『差別』の根拠ではない」- |
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藤田 敬一
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1.
被差別部落に生まれ育ったというだけで、さげすまれたり、避けられたり、仲間はずれにされた体験をもつ人びとから、何度このような言葉を聞いたことか。「同じ日本人なのに…」という人もいた。 差別する人は、差別する理由をあれこれとあげる。貧しい。乱暴だ。言葉が荒い。衛生状態が悪い。服装が汚い。だらしない…。また、差別する人は、差別される人びとの集団に「しるし」を求め、「しるし」を作り出す。職業、名字、地名…。そのいずれもが「わたしたちとはちがう」というイメージを前提、理由にしていたことは間違いない。だから差別される人びとのなかには、「ちがい」、つまり差別の理由とされるものや「しるし」を消し、あるいは隠そうとして、職業を変え、名字を変え、地名を変え、部落を離れ、本籍を移し、親戚づきあいを絶つ人がいた。 だが、水平社は、押しつけられた「ちがい」を受けいれて卑屈になったり、怯えたりする生き方を拒否し、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」と宣言することによって、価値の逆転をはかろうとしたのである。同時に、「宣言」は、「生々しき人間の皮」「暖かい人間の心臓」「誇り得る人間の血」を語ることを通して、自らが人間としてなんら卑下すべき存在でないこともあわせて主張し、「人間を尊敬する事」「人間を冒涜してはならぬ」ことを指摘するのを忘れなかった。 たしかに、水平社宣言は高い思想性を持っていたけれど、被差別部落の人びとは、それ以後も「いっしょ」と「ちがい」の狭間で揺れ動いてきたのであって、現在もなお揺れ動いている。「いっしょ」をどれほど強調したところで、差別する人が言いつのる「ちがい」の前では無力、無益であること、「ちがい」に「いっしょ」を対置してもせん方ないことを経験的に知りつつ、「いっしょ」を主張せざるをえないというジレンマに人びとは立たされてきたのである。ところが、これまでの部落解放運動はこのジレンマにほとんど関心をはらってこなかった。 箙 田鶴子『神への告発』(筑摩書房、1977)に、こんなことが書かれている。
わたしも以前、「障害者には目に見える障害があり、しかも一代かぎりの差別だけれど、われわれの場合は、親から子、子から孫へとつづく、いわれなき差別だから、障害者差別などの一般差別と部落差別を混同してはならない」という批判を受けたことがある。「いっしょ」を主張しながら、「ちがい」を認め、しかも差別する人があげる「ちがい」をさらに区分けして差別される者のあいだの「ちがい」を強調するといった揺れがみられるだけでなく、ときには「いっしょ」といい、ときには「ちがい」をいう便宜主義すら感じとれ、そんな物言いに違和感を抱ていたころだったから、この箇所はひとしお印象深かった。 これまでの反差別運動の理論、思想は、差異と差別と平等について、きちんと考えてこなかったといえる。人びとのジレンマ、部落解放運動の内外に漂う冴えない雰囲気、差別をめぐる右往左往の根底にあるものを見定めるには、差異と差別と平等の内容とその相互関連の検討は避けて通れないテーマなのである。そんなことから、いろいろ本を探して読んでいるうちに、江原由美子さんの「『差別の論理』とその批判-『差異』は『差別』の根拠ではない」(『女性解放という思想』1985年、勁草書房に収録)に出会ったのだった。
2.
江原さんがどんな運動に、どのようにかかわってこられたのか、わたしは知らない。しかし、文章からは差別告発運動の現状にうんざりしている気分が伝わってくる。差別告発に、どうしようもない消耗感が残るのはなぜか。差別問題にかかわる者ほど自由に差別を論じることが困難になるのはなぜか。それは、多くの人の心のかたすみにわだかまっているものにちがいない。袋小路に入り込んだような感じはまったくなく、消耗もしていない人は幸せだ。しかし世の中、そんな人ばかりだとはかぎらない。わたしは部落解放運動における差別・被差別の対話のとぎれ、関係のねじれ・ゆがみの実情から出発し、例の二つのテーゼ批判に行き着いたのだが、江原さんは従来の差別論のどこかに落とし穴があるとみて、その理論的な解明に取り組み、一応の結論としてまとめたのがこの論文ということらしい。
江原さんは、通説的差別論を批判する。まず「不平等は悪い。なぜなら現代社会は平等な社会だから」、「差別とは、現実的な利益や不利益の不平等分配である」といった常識に異をとなえ、ふやけた平等観を批判する。「みんないっしょ」が強迫観念にまでなりかかっているいまだからこそ、いったい人間の平等とはなにか、人間はどんな意味で「いっしょ」、平等なのかを問うことは、差別問題を考える大前提なのだ。さらには「単なる財の平等分配の強制的確保では差別がなくなりはしないことはあたりまえ」とも述べる。このあたり、行政施策の積み上げを解放への要件の一つとする部落解放運動への批判のように聞こえる。 ところで、差別の原因は差別する側にあると広く信じられている。そして「差別する側は自明に悪く、差別される側は自明に良いという二項図式」も根強い。かくして「お説教と非難」がくりかえされるわけだが、「こうした問題の立て方はショック療法的価値はあるとしても、被差別者側にも消耗感を与えてしまう。差別者が悪いと何度くりかえしても差別は残る」と江原さんはいう。問題は「差別者も被差別者も共有する社会的規範や社会意識に根拠を持っているのである」から「単なる倫理的批判では解消され」るわけがなく、いま必要なのは差別を、意識と言語の面に限定して論じることであるとされる。そんなことを議論してなんの意味があるのかといぶかる人がいるかもしれない。しかし、これまでの差別論、反差別運動が依拠する問題の立て方は、実は差別する人が押しつけ、仕かけてくる巧妙な論理、問題設定の枠内で議論している。なかでも差異と差別をめぐる問題はその根幹をなすのだから、これを論ぜずしては差別論の落とし穴、反差別運動の立ち往生状態の原因も明らかにならないというのである。ここがわからないと、この論文はチンプンカンプンになってしまう。 さて、そのあと展開される論旨の要点を箇条書きにする。
3.
江原さんのこの論文は、けっして読みやすいとはいえない。カギかっこが多いのも気になる。いうまでもないことだが、現在の部落解放運動にたいして具体的な問題提起をしているわけでもない。しかし、人は部落差別問題を語り、差別の不当性を訴えるとき、必ず「いっしょ」と「ちがい」に触れる。江原論文は、その「いっしょ」と「ちがい」の背後に重大な問題がひそんでいることを明らかにしている。なんとも意気あがらず、堂々めぐりしている情況の根っこにあるものを考えようとする人には必読の一篇だと、わたしは思う。 講演では「差異と差別」と題して、日常の生活感覚ではあたりまえにみえる個々人の「ちがい」=差異が、どうして排除としての差別につながってゆくのか、具体例をあげながら話していただくようお願いしてある。演題から想像されるようなむずかしい話にはならないはず。なお、わたしがお聞きしたいことは以下の通り。
*附記 江原由美子さんのプロフィール 1)1952年横浜生まれ 東京都立大学助教授 社会学・フェミニズム論 2)編著書(抄) 『生活世界の社会学』勁草書房 1985 『女性解放という思想』勁草書房 1985 『現象学的社会学』共編 三和書房 1985 『フェミニズムと権力作用』勁草書房 1988 『ラディカル・フェミニズム再興』勁草書房 1991 『ジェンダーの社会学』共著 新曜社 1989 『フェミニズム論争』編 勁草書房 1990 『女性のデーターブック』共編著 有斐閣 1991 『フェミニズムの主張』編 勁草書房 1992
《 紹介 》
『こぺる』No.16(94/7)
部落のいまを考える(11) 小林 丈広:「特殊部落」とはなにか-近代部落史の一視点 時評⑦:師岡 佑行「勦るかの如き…その2」 ひろば(13):亀岡 哲也「博物館展示と歴史的呼称」 第13回『こぺる』合評会から(藤田 敬一)
《 川向こうから 》
★京都へ出かける楽しみの一つは、合評会のあと「天狗」という酒場で報告者を囲み一杯やることなんです。先月は酒がだめな中村 勉さんもウーロン茶を飲んで付きあってくださいました。それが今月は休みになり、わたし同様期待している人をがっかりさせてはということで1頁の<案内>記事になった次第。
★最近読んだ本のことなど───『週刊金曜日』5月27日号の「座談会:『差別語』の背後にあるもの-マス・メディアを覆う『言葉狩り』狩りをめぐって」は、岩波書店社長の安江良介が、なにを思ったのか『ちびくろサンボ』絶版のときとは打って変って反差別運動にも責任ありと発言をしているのが目につく程度の散漫な内容。「屠場という言葉自体は差別表現でもなんでもないわけですよね。実態を表わす言葉ですから」との全芝浦屠場労組委員長の発言を載せながら、中見出しで「と場」、発言の部分で「屠場」とするようでは話にならない。だいたい言葉狩り対“言葉狩り”狩りという、筑紫哲也の立てた構図そのものが、問題の核心をつかみそこねている。浅田 彰「筒井康隆氏はやはり間違っている」(『諸君』94/7)の方が根源的に考えようとしている点で、ずっといい。 ★5月23日より6月10日まで、岐阜(5),京都(4),三重(2),兵庫,埼玉,滋賀,大阪の15人の方から計6万6,246円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。なおこの間の主な出費は郵送費4万8,196円でした。本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎) |