同和はこわい考通信 No.82 1994.5.21. 発行者・藤田敬一

《 案内 》
第13回『こぺる』合評会
  5月28日(土)午後2時 京都府部落解放センター2階(電話075-415-1030)
  *5月号を中心に。「文化活動からみえてくるもの」の筆者中村 勉さんが出席して短い報告をしてくださいます。

第11回部落問題全国交流会
  日 時:1994年8月27日(土)午後2時~28日(日)正午
  場 所:本願寺門徒会館(西本願寺北側)
      京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町(電話075-361-4436)
  講 演:江原 由美子(東京都立大学教授)「差異と差別」(仮題)
  *詳細は後日お知らせします。いまから予定に入れておいてくだされば幸甚。

《 各地からの便り 》
その1.
 毎月、『こわい考通信』をお送りいただき、ありがとうございます。カウンターの隅に立ててある通信は、今やカリン亭のひとつの顔になりました。通信を持ち帰って読む人たちの周囲で、稚拙であれ、学究的であれ、多くの論議がなされているのは確かなこととして感じられ、これは大いに意義のあることだと思います。
 藤田先生の耳に届き、目に触れることは極めて少なくても、知らない場所で『こわい考通信』が、問題提起の格好な資料となっているのは間違いない事実です。
 毎月届く通信の入った封筒を手にしてはカリン亭の存在を実感しています。
                         (京都 長谷 昭さん)

コメント.
 京都河原町三条下る二筋目東入る北側に、長谷さんのバー、カリン亭があり、スツール七席のカウンターのはしっこに通信は置かれています。若いお客さんが帰りぎわにそっと通信をとって出ていってくださるという。そのあとどのように扱われているのか、もちろんわたしにはわからない。しかし、長谷さんによれば、なにがしかのメッセージとして、思索と討論の材料になっているらしい。わたしの知らないところで議論の輪ができていることを想像するだけで楽しい。
 一人でやれることは、たかがしれているけれど、一人だからこそやれることもある。義務や使命からではなく、出したいから出す。読んでほしい人、読みたいとおっしゃる人に送る。送れば反応があり、それにまた励まされる七年でした。顔を合わせていながら顔が見えない人が多いこの時代に、会ったこともないのに、お便りを通して顔が浮かんでくる読者がおられる。通信がやめられないのも無理ないでしょ。

その2.
 部落問題や部落解放運動に対する大衆の感情には、共感もあれば反省もあり、憤りも憎悪もあります。そして、その態度も同情であったり、連帯であったり、追従であったり、もうちょっと考えさせてくれ、ということであったり、無関心であったり、あきらめであったり、無言であったり、饒舌じょうぜつであったりします。また、社会に対してなげかけられるいくつかの問題提起は、本当に人間の解放にとって必要なものである場合もあれば、「差別用語」問題にみられるように、新しい権力的統制を肥大化させていくにすぎないのではないかと感じさせるものもあります。部落差別が歴史的忌避のひとつのあらわれであることからも分かるように、<差別>を徹底して否定していくためには、禁忌を無くしていくという方向こそが求められなければならないはずなのに、かえって禁忌が増えていくという現状をどう理解したらよいのか。
 こうした状況の中で、ごく普通のひと(私も含めて)の<差別>に対するイメージは様々にこんがらがっています。これを解きほぐしていくことはきわめて重要だとは思いますが、とても困難な気がします。
 なぜ、ごく普通のひとが<差別>に対して抱いている様々なイメージを解きほぐしていくことが難しいのか。ひとつには、それが単なる個々人の意見の集合体としてではなく、共同幻想とでもいうほかない独自の存在感をもった、「雰囲気」のようなものとして社会に共有されているからにほかなりません。また、それを解きほぐそうとするもの自身に、おおかたの場合は団体や権力の後ろ盾があるから、その混迷を追及しようとしても、到底普通のひとのイメージの根底にまで到達できないで終わってしまうのだと思います。
 これはなにも<差別>にかぎりませんが、大衆の思想の全体像は、一つ一つの意見に厳密に分解できるものでもなければ、特定の意見をあたかも全体の意見であるかのように、代表させてしまうことのできないものです。また、その意識の基盤を、政治的あるいは経済的な関係に還元してしまうことでは、決してつかみようのないものです。従ってより大切なのは、こうした共同幻想として共有されているものの本質とそのあらわれを、個人の意識や政治的・経済的事象になるたけ還元させることなく、それとして正確に見つめれるかどうかです。
 この私の意見には、ある「反発」を含んでいます。いわゆる一般社会を対象とした啓発が「差別を見抜く力を養うこと」「自己の差別性を自覚すること」とか「解放の主体として成長すること」などを目的としてなされ、個人の道徳や倫理のレベルの問題に終始しているのではないかと思えるからです。ここでは「差別意識」があるかないかという問題だけが重視され、結果的には個人の責任で解決されなければならない問題と、社会問題の本質が取り違えられることになります。
 その逆に、現代社会全体に対する視点は軽視されています。私たちが生活するこの時代は一体どういう時代で、何が変わりつつあるのかといった、この世界が向かっている歴史的な展望の中で<差別>を考えてみようとする姿勢が、非常に弱いのではないかと思えるのです。ただあいも変わらぬ近世政治起源説だけがお題目のように唱えられ、現代社会は十分な位置付けを与えられないまま、主として階級支配的な政治支配の方法として残存しているとまとめられてしまいます。しかし、私にはこの問題をもう少し徹底して考えてみないと、<差別>や<差別問題>の本質が解明できるとは思われません。
 勿論、個人に責任がないというわけではないし、自覚することが悪いということでもありません。しかし、現状の<差別>を指摘するおおかたの方法では、エンドレスの“モグラたたき”にも似て、次に出てくるモグラ(差別意識の個別形態)のことばかり気にして、それで一体<差別>の全体構造が果して把握できるのかどうか疑問の残るものも多いように思います。
 また一方で<差別>の原因が近世の政治体制にもとめられるため、<差別>は大衆を分裂支配しようとした結果であり、それを作ったのは支配者であるということになって、一般大衆の主体的な意識や感覚、イメージについてはほとんど重要な意味を与えられないか、個人に結び付けられた差別意識が一足飛びに政治関係に結び付けられて解釈されてしまうという結果をもたらしています。
 こうした方法が、いわゆる<差別者>と<被差別者>の固定化を大前提とすることによって可能となっているのは確かでしょう。私には、<差別者><被差別者>という概念が、どういう条件のもとで成立する概念なのかよく分からなくなるときがあります。<差別者>も差別を受けることがあり、<被差別者>も差別をすることがあるのだとすれば。あるいは、そもそも<差別>の発生が個人レベルから社会レベルまで多種多様だとすれば。と同時に<出身>の意味づけもよく分からなくなります。部落内外の<出身>の違いで<差別者>と<被差別者>が決定されてしまうのだとすれば、具体的な<差別>の有無とかかわりなく<差別者>と<被差別者>が存在するということになるのでしょうか。であれば、なぜわざわざ両者を区別しなければならないのかが私にはよく分かりません。
 それはさておき、<差別者>と<被差別者>の連関や、両者の概念の枠組みの再検討にではなく、両者の区別に多大なエネルギーが費やされることで、<差別>はより細かく規定され、<差別>の原因も個人の道徳や倫理、あるいは差別意識の個別形態に収束していきます。しかし、そうすればするほど、思想としての普遍性は失われていくにちがいないと思うのです。普遍的な思想が、カテゴリーやイデオロギーのぜい肉を削ぎ落とし、ごく普通の人々の意識を一旦はくぐり抜けることで、いくつかの異なった立場や様々な関係に何らかの道筋をつけるところから生み出されるものであるとすれば、一方が他方を峻別するために形成された思想、そしてそこから出ていけない思想には、思想としての普遍性はないとすべきです。
 こうした啓発や<差別>をめぐる論議の中で、一体私たちは何を学ぶのでしょうか。ほとんど何も学んでいないという気がします。
 例えば、啓発の一場面で、だれかが「自分の差別性を自覚しなければならない」とか、「差別性を克服して、自己を解放することが必要である」といったとします。しかし、多くの場合、その啓発に参加した者達は「アナタハナニヲ自覚シテイルノデスカ」「自己ヲ解放スルコトトハ、アナタニ従ウコトデスカ」と心の中でつぶやくのではないでしょうか。「差別とはなにか」「自己の差別性とはなにか」「解放とはなにか」といった基本的な問いかけをなおざりにしたままで、個人の道徳や倫理の問題、あるいは政治支配の問題に還元されてしまう現状では、このこんがらがった情況を打開することは相当に困難なことにちがいありません。
 ただ私が一つ思うことは、例えば旧ユーゴ問題、ソマリア問題、南アフリカ問題など、リアルタイムで入ってくる、民族問題を核とした各種紛争の映像情報の意味はそんなに小さくないのではないか、ということです。その影響も具体的にはよく分からないし、これらの民族紛争と<差別>の橋渡しをする見解にも出会ったことがありませんが、これらの紛争の数々が、人間の<差別>を考えさせる上での重要な情報発信を続けているような気がします。
 『こぺる』94年4月号で津田ヒトミさんは次のようにおっしゃつています。

部落差別というものを目の前にしたときの主体の作り方とは、被差別の呪縛から自分がいかにして解き放たれるかにある。そしてそれは「社会」というつかまえどころのないものを相手にするのではなく、社会的関係から再び個と個の関係に結び目を結び直すことから始められるのではないだろうか。(10頁)

私はこの津田さんの見解を全面的に否定するつもりはありませんが、多少違った可能性も認めるべきではないだろうか、という気もします。こんがらがったものをほどいていくのは、思想の普遍性だと思います。     (島根 Y.Sさん)

コメント.
 コメント.  個人と社会という、一筋縄ではいかぬテーマを秘めながら、思想の普遍性の観点から現在の部落差別問題をめぐる状況に切り込んでいくY.Sさんの筆鋒は鋭い。「一方が他方を峻別するために形成された思想、そしてそこから出ていけない思想には、思想としての普遍性はない」というところなどにも、Y.Sさんの思索の深さがうかがえます。なお終りで津田文にふれておられますが、あそこはわたしもちょっと気にかかった部分です。もう少し展開なさったら、津田さんも応答しやすいのではないでしょうか。まだまだ言い足りないはず。近いうちにぜひお便りをくださいますように。

その3.
 こぺる四月号、津田さんの文章、興味深く読みました。しかし一事が万事、具像好みの私としては津田さんのレトリックの先に形造られるはずのイメージがうまく結べませんでした。(私のセンスの無さを棚にあげて何ですが、津田さんは、どこか「出口探し」を急ぎ過ぎてはいないかという印象です。)ともかくその中で一点理解できないところがあります。
 津田さんは「在日が…アイデンティティにこだわるとき、(価値観等が)日本のそれとは違って存在している。…」とおっしゃる(9ページ下段)。
 たしかに、「日本のそれとは違って存在し」たいという願いを、めざめた在日の少なくない人々が抱くことは、まちがいありません。しかしそれは希望的観測というほかなく、“実在”にはほど遠いというのが、私の感じているところです。
 実際のところ、“文化的異存在”あるいは文化的価値葛藤を日ごろの生活の中で意識している在日がどれほどいるでしょうか。むしろ「言語や生活習慣や…」といったことがらは日本のそれに十分なじんでいる、これが実情に近いはずです。
 とはいえ、津田さんのような在日に対する「思いちがい」は少なくありません。それは在日朝鮮人論の組み立て方の中に問題があったとみています。コトバとしては適切ではありませんが。朝鮮系日本人(三代前はまぎれもない朝鮮人、あるいは朝鮮人を出自としつつも、今日では朝鮮半島で暮らす人々とは文化的同調行動をとりにくい日本で暮らす人々)という枠組でながめてみたらどうなるかと考えています。部落差別を考える人々が在日をどうながめてきたのか、あるいはその逆の場合についても興味をもっています。   (兵庫 T.Yさん)

コメント.
 「在日朝鮮・韓国人が民族のアイデンティティにこだわるとき、そこにははっきりとした言語や生活習慣や宗教や価値観が日本のそれとは違って存在している。アイヌも沖縄もしかりである。その是非はともかく違っていることをよしとするという意味でプラスのアイデンティファイが始まる。/ところが部落はどうだろう。アイデンティファイし直す、選びとるというだけの他とは異なった文化が存在しているだろうか。」津田さんのこの論述は、「在日朝鮮・韓国人には、民族という、帰ることができる根拠があるけれど、被差別部落民には自らの拠って立つ根拠がない。そこに被差別部落民の、比べようもないしんどさがある」という意見を思い出させてくれました。わたしも、ときには人前で、そんな話しをしたことがあります。
 ところがT.Yさんは、津田さんの在日朝鮮・韓国人にかかわる論述には「思いちがい」がある、在日朝鮮・韓国人に民族としてのアイデンティティから切れている人びとが出てきているのだという。最近、このような意見を聞くことが多くなったように思います。いずれにしても在日朝鮮・韓国人にかぎらず、被差別者とされる人びとにたいする、思い入れ過剰のステレオタイプ(紋切り型)を再検討する必要があることは確かでしょうね。

《 再録 》
理屈と膏薬は……
藤田 敬一
 米田さんといえば、たびたび聞いた「理屈と膏薬はどこにでも付く」という警句をまっ先に思い出す。小賢しい理屈をこねまわし、外見だけは大仰な言葉で飾られているが、中味は自己顕示と自己弁護にすぎない実例をいやというほど見聞きしてこられた人ならではの実感がこもっていた。
 米田さんの警句を聞きながら、「理屈で入った人は、理屈で出て行く」ともいえると思ったものだ。1970年代、多くの人が部落解放運動に近づき、そして去って行った。去るにあたって、大抵の人は理屈をつけた。
 わたしの体験からいうと、こうもいえそうである。「金で入った人は、金で出て行く」と。金の切れ目が縁の切れ目、利害損得がらみの結合はもろい。あるいは、「仕事で入った人は、仕事で出て行く」とも。行政や教育・啓発など部落問題関連のポストに着いているあいだは部落問題と向き合うけれど、ポストが移ると「ハイ、それまで」という感じの人が結構いる。そんな人に出会うと、なんとも悲しくなってしまう。
 しかし、わたし自身、偉そうなことはいえない。なんど横道にそれかかったことか。途中下車前途無効にならなかったのは、部落解放運動のなかで多くの忘れがたい魅力的な人びとと出会ったからだ。失礼を承知でいわせてもらえば、米田さんは間違いなくそのお一人だった。
 それにしても、思想とはなんだろう。米田さんは、抽象化された理論や学説を体系的に語ったわけではない。そうではなくて、名誉や地位や財産に重きをおかず、まっ直ぐに部落解放を求めつづけたその生き方と姿勢によって多くの人びとを魅了なさったといえるのではないか。少なくともわたしにとってはそうだった。運動家を名乗りつつ、ずいぶんと放埒ほうらつな生き方をしている人を時折見かけるけれど、米田さんの一生はそんなものとは無縁だった。そこに米田さんの思想がある。あの独特の風格は、内からにじみ出た思想としかいいようがない。
 そういえば、最近、個性的で風格のある活動家が少なくなった感じがする。それが時代の風潮といってしまえば話は簡単だが、ほんとにそうなのかどうか。米田さんが生きておられたらちょっと聞いてみたい気がするものの、たぶん眼鏡の奥の目を細め、例の調子でヘッヘッヘッと笑って言葉を濁さはるにちがいない。

コメント.
 5月4日、米田 富さん(1901-1988。もと部落解放同盟奈良県連委員長・部落解放同盟中央統制委員長)の七回忌の集いが奈良で開かれ、わたしも出かけていきました。この文章は、当日配られたパンフレットに寄稿したものです。

《 紹介 》
『こぺる』No.15(94/6)
 部落のいまを考える⑩
  廣澤 隆之:仏教と平等・差別
 時評⑥
  師岡 佑行:小沢詣で
 新しい差別論のための読書案内①
  灘本 昌久:松本 修著『全国アホ・バカ分布考』
 第12回『こぺる』合評会から(住田 一郎)

京都部落史研究所編
『近代に生きる人びと-部落の暮らしと生業』
 旧『こぺる』に連載されて好評だった「近代に生きる人びと」を増補したもの。「60年代末、知恵や才覚を働かせて暮らしを支えた生業の多くはその姿を消していった-今、その意味を問う(広告文から)」。生業を通して被差別部落(民)像の再検討を試みた一冊だといえる。2280円。お申し込みは阿吽社(075-256-1364)まで。

*師岡佑行「近代・差別・生業-序に代えて-」
*部落の仕事と生活

 行商1(師岡),猿回し(土方 鉄),草履表(山本尚友),竹の皮(中村水名子),マッチ(八筒亮仁),わらじ(永尾眞砂子),番茶刈り(小林丈広),春駒(土方),行商2(灘本昌久),くず買い(中村),ブラシ(金子眞知子),生業(師岡),井戸掘り(八筒),葱屋(前川む一),土方(小林),瓦づくり(中村),屠殺(中村),皮革づくり(中村),にかわ造り(中村),漫才(土方),毛モス買い(灘本),法界屋(中村),くつ(小林),人力車(灘本),バラス上げ(中村),蛇捕り(藤田),犬捕り(田中龍雄)

*藤田敬一+師岡佑行:対談「生業を通してみる部落の暮らしと感性」

《 川向こうから 》
★わたしのようなものでも、この季節には緑がこれほどまでに多彩であるのかと感 じ入ってしまいます。富有柿の葉はぶ厚くて嫌いだという人がいますが、重く垂 れた枝に朝日を受けて光るその新緑には生命力が溢れていて、わたしは好きです。
★京都部落史研究所は、常勤の師岡佑行さんと平野貴子さんを中心に、今年度内に 『京都の部落史』第一巻と『近江八幡の部落史』を完成して、1977年以来の歴史 にひとまずピリオドをうちます。今後どのような形で再出発するか目下検討中で、 方向が決まり次第、お知らせするつもりでおります。
★最近読んだ本のことなど────田中龍雄「もうひとつの根っこばなし」(地域改善対策研究所[03-3234-9456]発行『人権』7号、8号。94/3,5)。『被差別 部落の民話』の著者が語る回想記風の一篇。伯父北原泰作さんのエピソードも交 えつつ、部落を出て行った人、強制的に分散させられた人びとの思いにふれられ ていて、読後に余韻がのこる文章である。北原さんとながく一緒に活動してきた 方であるだけに、新しい北原泰作像が描かれそうな気がする。
★4月21日より5月20日まで、島根,京都(6),岐阜(2),鳥取,大阪(2),熊本,三重, 東京の15人の方から計6万5,740円の切手、カンパをいただきました。ほんとに ありがとうございます。なお、この間の主な出費は郵送費4万6,420円などでし た。本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一 です。(複製歓迎)