同和はこわい考通信 No.79 1994.2.20. 発行者・藤田敬一

《 紹介とお願い 》
『こぺる』No.12(94/3)
部落のいまを考える⑦
 黒川 みどり:近代部落史研究の課題
時評③
 土方 鉄:みえない刃先-宗田さんの「山脇東洋」を読む-
ひろば(11)
 柴田 則愛:職場と部落問題
第九回『こぺる』合評会から(住田 一郎)

『こぺる』合評会と刊行会総会
 2月26日(土)午後2時 京都府部落解放センター2階

『こぺる』購読の継続手続きをおねがいします。
 『こぺる』の復刊からまもなく一年がたとうとしています。内容がむずかしい、編集がマンネリではないか、情勢に遅れている、「部落民」といった被差別部落の人びとを低く見る言葉を無造作に使う雑誌なんか読みたくないのでもう送ってほしくない、などなどのご意見も頂戴しながらの一年でした。たしかに自転車操業の感なきにしもあらず。しかしまあ、ともかく初志貫徹、さらに充実した内容で発行してゆくつもりです。お力添えください。
 ところで、復刊一周年とは、購読の継続手続きをしていただく時期がきたということでもあります。よろしく。

《 各地からの便り 》

その1.
 78号、拝読しました。素心からの文章は、読んでいて思わず引き込まれてしまいます。こういった気持ちでいつも話しができれば「両側」は簡単に埋まりそうなんですが。ところで今、私の職場では顧客をパソコンで管理するようになってきて、45才を越えた人にとってはたいへんな状況です。特に管理者の中に、人を軽視する言葉が増えてきているのが気になるところです。
    (三重 S.Nさん)

コメント.
 不景気風が吹き、業績や効率が強調されるにしたがって、これまで「人類普遍の原理たる自由と平等」を語っていた立場の人のなかに、人間の尊厳なんかクソくらえといわんばかりの言辞をろうする人が出てきても、いっこうに不思議ではありません。要するに、つけ焼き刃はいつかははがれるということでしょう。今後、このような事態は確実に広がってゆくものと思われますが、問題はそんな言辞にたいするまわりの人びとの反応です。そこらあたりも教えてくださればありがたい。

その2.
 いつも楽しみにして「通信」を読ませてもらっています。先生の根気強い取組みに対して、ただただ感銘を受けるばかりです。立場を考えず、個と個とのふれあいから始まる解放運動、これが本当の部落解放を目指した運動だと私は思っています。 私が「こわい考」を目にしたのが、もう4年以上も前のことで、最初から最後まで何がでてくるかという不安や期待で読んだのを今でも忘れていません。それ程、インパクトがきつかった。いわゆるカルチャーショックというやつですかね。
 今回ペンを走らせたのは、75号で同和加配の先生が書かれた文章を読んで、へたな文章しか書けないけど返信せなあかんと思ったからです。
 先生も書いておられたように、解放運動70年の歴史は人と人との関係をどう変革させてきたのかということです。なにもできなかった時代、できそうもなかった時代もあったと思うが、わかっていながらしなかったともいえるのではないか。これまでのようなことをいっていたら、孤立化してしまうのではないか。これがわれわれの指導者かと思う人もいて、バカらしくてなさけなくなってくる。
 時代のニーズにあった要求闘争はよかった時もあるが、部落民を堕落させる材料になったものもあるのではないか。立派な理論を語る人はいる。しかし、その実態はとなると…。先生、言いたいことはわかったもらえますよね。最近、やたらむなしさを感じます。でも、やらなければ。寝た子を起こさないと。
 水平社は京都で生まれました。オール・ロマンス闘争も京都で闘われました。常に解放運動の中心にあった京都。この地から人間解放の出発点となるような土壌づくりを進めていきたいと考えています。   (京都 M.Tさん)

 さて、毎日取り組みに追われていますが、『通信』に登場してくる情けない話とも毎日のように接触しています。でも、逃げられませんし、辞められません。運動を真っ直ぐにするまでは、です。今、私は同和対策事業をめぐる、ある問題について、なんらかの対応はできないものか考えているところです。具体的なことは申し上げられませんが。しかし、情けないことです。本来の解放運動ではなくこのようなことに忙殺されるようでは先が思いやられます。でも愚痴はやめます。信念をもってやってきた運動だからです。   (京都 M.Sさん)

コメント.
 京都のお二人からあい前後してお便りが寄せられました。具体的な情況が伏せられているので、なんのことかわからないとおっしゃる方もおられるでしょう。「アカンことはアカン、許せんことは許せん」と運動内部で忌憚なく語れるときがくるまでは、残念ながらこのような物言いをするしかありません。しかし長い間、筆名でものをいい、友人に愚痴をこぼしつづけた経験があるわたしからすると、すべてはこのように徐々に情況を対象化してゆくことから始まるのです。現状となれあわない気概もまた、そこから生まれるにちがいありません。

その3.
 例年になく冬らしい冬で、寒さも厳しいことと存じます。「こわい考」通信を、いつも楽しみにしています。部落解放運動のみならず、さまざまな反差別の運動に役立つ、というか、通じている、口にしなくてはいけないけど、ついこわくて口にできず、きれいごとをいってしまうような、そんなもどかしさを、解決する助けになっています。それと、周りの人で、えっ!と思うような人が、通信やこぺるを読んでいておどろいています。評価されているというか…。自分としては、人間の弱さをもありのままに認め合いながら、一歩一歩、進んだり退いたりして、生きていこうと思っているので、これからも助けてください。  (鳥取 M.Kさん)

コメント.
 助けるだなんて、とんでもありません。わたしの方こそ、みなさんからお便りをいただいて励まされているのです。わたしがやっているのは、『こわい考』以来考えていることどもを時折書いたり、話したりしていることだけです。もちろん、吹けば飛ぶようなこのミニコミ誌でもM.Kさんにとって少しでも意味があるとすれば、ほんとにうれしい。

その4.
 昨年末の藤田さんの講演で、同和地区内の住宅がなかなか売れなくて、道一本隔てた建売住宅が基礎工事の段階で完売になったという話を聞き、思い出したことがあります。
 私の友人に不動産屋さんに勤めている人がいます。十数年前に三里塚闘争で逮捕され、一年近く留置場と拘置所を体験したのち保釈され、その後食い扶持を求めて建築・不動産の勉強をして、いまや有能な不動産営業マンです。数年前に私がマンションでも買おうかと思った時、それを聞きつけて早速我が家にやってきました。その時は不動産業の様々な裏話・本音を聞かせてくれて、なかなかおもしろかったのですが、その中に同和地区内の住宅についても聞かせてもらいました。

あそこのホリケって君も知っているやろ。同和地区や。こんなことを言うたら、僕自身もむかし狭山闘争なんか行っとったんやから、どうかなと思うんやけどな。これ見てみ。このファイルの最後にある5~6枚、全部そこなんや。これだけ広くて、築年数がこれで、駅からもまあ近くて、それがこんな値段や。ほかと比べて見てみ。2割どころやない、もっと安い、それでも売れんのや。差別はあかんことは分かっているんやけど、売れんものしゃーない。あんまり売れんのでそのままにしてたから、ほら見てみ、そこの紙、みんな紙の色が変わってるし、端がボロボロになってしもうた。

記憶のままに思い起こして書いてみましたが、おおむね間違いないと思います。はたして彼の言がどれだけの真実を伝えているか、良く分かりませんが、私は彼が嘘を言っているとはとても思えませんでした。
 同和地区内の不動産の評価が他地区に比べて低いのは事実だろうと思います。それが具体的な数字としてどれだけ低いのか、各同和地区によってその「低さ」の違いはどれだけあるのか、その「低さ」は何に起因するものなのか、住宅環境、教育環境、自然環境、大都市までの交通便利性、下水道・道路等の都市基盤整備の度合い…等々、不動産の評価には色んな要素があると思うのですが、同和地区の「低さ」はどんな要素ゆえの「低さ」なのでしょうか。それは同和地区であるがゆえの「低さ」としか私には思えないのです。
 しかし、「低く」評価する責任はだれか、となると行政でもない、不動産やでもない、同和地区の住宅を買いたがらない国民であるとしか言いようがないのでしょうか。つまり具体的に責任追及が可能な行政や企業ではなく、漠然として実態がなく、責任追及のしようのない国民の差別的体質ではないでしょうか。このように国民に、あなたは何故同和地区の住宅を買わないのか、と問うのは、あなたは部落の者と結婚できるか、と問うのと同様の全くの愚問でしかないと思います。
 つぎは私の勝手でバカな想像です。同推校では教育熱心な先生が多いし、ほかの学校より偏差値が高い、一流の国公立の大学にもいける、などという評判がたてば、多くの国民は喜んで同和地区に住もうとするのではないか。今の何とも言い様のない学歴差別社会と偏差値重視の詰め込み教育を見ると、このような感想を実際持ってしまいます。つまり今の「同和教育」なるものが「偏差値輪切り」という現実の本音の教育思想を凌駕しえていないのではないか、と思うのです。
 十数年前のことですが、ある解同の支部の幹部の人が、私が大学を出ていると聞いて、「大学出というのはわしは嫌いなんや。うちのムラでも大学にいったもんはみんなムラから出て行きよる。一人もムラに帰って来ん。」と言ったことを思い出します。彼の言が真実かどうか私は確認したことがありませんが、おそらく一面の真実を語ったのではないかと思っております。
 藤田さんの講演を聞いての私の昔の体験を聞いてもらうつもりが、変なことを書いてしまいました。私は在日朝鮮人問題についてはそれなりに自分の見解を持っているつもりですが、部落問題についてはほとんど自信がありません。しかし私自身には「同和」についての具体的な体験があり、それを徐々に思い出しつつまとめて、自分の意見を確かなものにしたいと思っております。  (兵庫 T.Tさん)

コメント.
 被差別部落内の土地の値段が安いことは、以前から指摘されてきました。全国自由同和会では、それを部落差別の表われととらえ、土地価格の平準化が部落問題解決の一つの指標だとしています。しかし土地価格の平準化が即差別撤廃ともいえないようです。都市化と混住が進み、価格面で特に安いということもなくなっている地域もありますが、そこでの意識のありようは複雑で、差別意識がなくなったと簡単には断定できそうにないからです。
 それにしても自分の住む土地が被差別部落だとされるがゆえに忌避され、結果として土地価格が低いという事実の確認は人びとをいらだたせます。被差別部落に隣接する団地が、同じ地名の使用を拒否して通称を押し通そうとしたり、自治会への加入を断ったりする話を聞くにつけ、なんともいいようのない気分になる。
 「なぜ同和地区の住宅を買わないのか」。T.Tさんのおっしゃるように、これは愚問といえば愚問です。しかし解決への道がようとしてみえないもどかしさのあまり、愚問を承知でたずねたくなるのも人情ではありますまいか。匿名による落書き・投書・電話にしても、責任の所在を特定できないし、解決策も明確というわけにまいらない。まして結婚の問題となれば、要因は多様で一義的にこうだとはなかなかいいきれない面がある。それだからこそ、みんな悩んでいるのです。悩みをもったまま思索をつづけるしかないように思うのですが、どうでしょう。

その5.
 私のところに通信が届くようになったのは70号からなのですが、私は大谷派の寺で生まれ育ち、今もまたそこに戻って暮らしていますので、70号の、大谷派の取り組みのあり方への批判の経緯は、興味深く読ませていただきました。
 私が『同和はこわい考』-特に『こわい考を読む』にひかれたのは、私がしばらくお寺を出て施設で働いていたころのこだわりからです。私は私自身の施設職員としての位置のところで抱えた問題-職業病や仕事のつらさに取り組む中で園生たちとの関係を作っていきたいと思っていましたが、私が女であるというところで持っていた疑問や反発も、一たん保留しておいて、「障害者解放」に取り組む、といった方向は取りたくなかったのです。でも厚かった壁や、さまざまな悔いとともに、どこで関係が成り立つのかということが、私の問題として、今も残っています。
 でも、お寺に帰ってから、私は自分の位置を失ったという気がしています。私が今何もしていないから、ということもあるのですが、でもそのせいではなくて、関わる上での立場がずるずると抽象化していくといったらいいのか、────私自身がどうしていくのかにかかわることなので、いつまでもそれだけ言っていてすむことではないのですが……藤田さんは、お寺の人たちを見ていて、どう思われるのかなと思ったりします。   (神奈川 F.Cさん)

コメント.
 F.Cさんがどんな経験をお持ちなのか、このお便りだけではよくわからないので推測するしかありませんが、わたしが文面から読み取ったところでは、F.Cさんは養護(?)施設における日々の仕事を通して、園生と人間らしい関係を成り立たせようとしたけれど、壁は厚く、施設を離れざるをえなかった、しかしいまだに障害者とどこで、どのように、どんな関係を成り立たせることができるか考え続けている、ということになりましょうか。
 そうだとすると、事柄は結局のところ、障害者と健常者、介護される人と介護する人、支援される人と支援する人、当事者と非当事者との関係、さらにいえば「わたし」と「他者」との関係の問題にいきつきます。こうした点については、『通信』76号に再録した拙文「共同の営みのなかで関係を変えるということ」以上のことを申し上げる準備はできていません。ただF.Cさんが、施設をやめて、お寺に戻ったことにより「自分の位置を失った」かのようにおっしゃっているところは、ちょっと気になる。具体的な関係をとりむすぶ場というのはたしかにありますが、それがすべてではないと思います。実践というのも、あまり狭く考えないほうがいい。読書も思索も大切な実践でして。ところで、お寺の人たちをどうみているかとのことですが、僧侶にかぎらず人に道を説くことを仕事(職業)にしている人には、なんともいえない臭みがある。飲み屋で教員臭をぷんぷんさせている人がいて、あとで大将に聞くとたいてい当たっている。体臭は自分では気づかないという。わたしもまわりの人を辟易させているかもしれませんなあ。

《 採録 》
紹介 藤田敬一著『同和はこわい考』(柚岡正禎 『労働運動研究』93/12)
 かつて七〇年代、何が差別かを指摘するだけで運動が進んだ時代があった。民族、性、障害、地域、教育など、高度成長で肥大化した日本社会を改めて人々は見直したのである。/だが八〇年代、すでに以前からそのような運動の先頭を行き、それゆえにまた利権や糾弾をめぐる諸問題をあらわにしつつあった部落解放運動のただ中から、そのように次々と差別を指摘しながら、その概念を「拡散」させて行くことに疑問を抱く人々が現れた。“何が差別か”という問の前に、いったい“差別とは何なのか”というより根本的な問が存在することに気付きはじめた人々がいた。 “それは差別だ”と指摘されると、なぜ人はあんなに動揺するのか、なぜこの言葉は人々を萎縮させ、また時にこれを発する人々に自らの弱さや問題点を見つめることを回避させるのか。被差別側の間違いをも告げ、真に助けようとはしなかった運動の「随伴者」たちに責任はなかったのか。本書は部落出身者ではないが部落問題を理解しようとし、部落差別をなくす運動に尽くしたいと願った一人の人間が、運動の現実の中でうろたえ、立ちつくし、問を発し続けた魂の記録である。
 そして九〇年代、戦後政治が音を立てて崩れつつある今、それを支えてきた社会運動・市民運動が突き当たっている壁も見えてきた。反差別の運動が空虚で無残な言葉狩りにまで行き着き、このままではどうしようもないことは、これに手を貸してきたマスコミ・ジャーナリズムにとってさえ明らかになりつつある。
 このような激動の時代に、人は何によって生きるのだろうか。理論も思想もおそらく当てにならない。それらはいわば自分がすでに持っている何らかの技術や装置でしかないからだ。ただひとつ言えることは、われわれにはこの現実の中で突き当たって感じたこと、疑問を抱いたその問いを大切にする以外に方法がないということである。/自分の感性と良心から生まれた問いを信じ、それをできる限りそのまま正確に取りだし、偽らずに人に伝えること、勇気はこのとき必要であり、そして理論もここから始まること。このようなことを私はこの本から時と共に学んだ。そしてこの小冊子は、いつも私の部屋の本箱の最上段にあって、他の分厚い本に挟まれながら、存在感を示し続けているのである。

《 川向こうから 》
★今年の年賀状に「失礼ですが、その“お年”でこのパワー、頭がさがります」とあり。ほんまに失礼ですよ、M.Aさん。まだ55歳。親父が死んだ年齢を超えてひと区切りがつき、さあこれからと思っているんですから。話を聞いてやろうと声をかけてくださるところが増え、多忙な日々を送っていますが、酒もうまいし、体調もよろしい。元気が取り柄のこのわたし、ご放念ください。
★京都市研究集会の第11分科会「私自身と部落問題」のパネラーに招かれ、いまさっき帰ってきたばかりです。100人ほどで3時間半、心を開いた議論ができました。小さい会場でじっくり議論したいという担当者たちの熱意が伝わったのか、途中で退席する人はほとんどなく、みんなでこれからも部落問題について話し合いたいので連絡先を書いてほしいとの訴えに7割以上の方が応じてくださったのも画期的。まだ名前のないこの会に、わたしも参加するつもりです。
★部落解放同盟の1994年度運動方針第一次草案を読みました。昨年9月、全国研究集会で発表された「提言」をふまえ、部落解放理論の再検討が主張されてはいるものの、部落の現状分析が相変わらずなのにがっかり。「解放が目的、事業は手段という運動の原則が本末転倒する傾向があらわれた」と指摘してはいる。しかし、なんのための運動なのか、なんのための組織なのか、それが根源的に問われているわりには、危機感が伝わってこない。方針案にそこまで求めるのは酷だとしても、せめて全国大会では運動と組織の再生をかけた議論をしてほしい。そうでないとせっかくの「提言」が泣きます。
★部落解放同盟中央本部と広島県連とのやりとりが激しくなってきたようです。2月7日付中央執行委員会決定「小森氏側の中央本部批判への反論」は「事実を『傲慢』と『欺瞞』によって歪曲する『無責任性』は許されてはならない」と小森さんたちを批判する一方、「広島県連との間に部落解放運動の路線上の違いはない」ともいう。ところが2月9日付『解放新聞』広島県版「主張」は、中央本部を融和主義と断定し、その克服を呼びかけている。融和主義というレッテルは、運動用語としては敵規定に近い。部落解放の理論や思想をめぐるちがいではなく、政治路線のちがいからきていることの必然的な結果でしょう。この論争から思想的になにか深いものが生まれてくる可能性は期待できそうにありません。
★1月18日より2月19日まで、大阪(6),京都(6),岐阜(2),三重(2),鳥取,愛知,岡山,神奈川の20人の方から計7万6216円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一(Tel&FAX 0582-39-5348)です。(複製歓迎)