同和はこわい考通信 No.78 1994.1.17. 発行者・藤田敬一

《 紹介とお知らせ 》
『こぺる』No.11(94/2)の内容
部落のいまを考える⑥
 谷 亜生:職場と同和研修
『特殊部落一千年史』の改題をめぐって⑨
 ともい きみかず:「桶を桶」は、余りに乱暴-高橋貞樹著『特殊部落一千年史』改題について
時評②
 師岡 佑行:「部落」は「集落」か
ひろば⑩
 山本 由美子:いま考えていること
第八回『こぺる』合評会から(柚岡 正禎)

『こぺる』合評会:1月29日(土)午後2時、京都府部落解放センター2階

こぺる刊行会総会
 日時 2月26日(土)午後4時 場所 京都府部落解放センター2階
こぺる刊行会の総会を開きます。ぜひご参加ください。

《 各地からの便り 》
その1.藤田先生へ
第10回部落問題全国交流会では、藤田先生とはほとんどお話できずに帰ってしまい、悪かったなあと感じています。今回はぜひ泊まってくださいと言われていたのですが、僕はあまり団体行動が好きではなく、寝る時も大きないびきをかくせいで、いつも出張に行くとひとりで寝る始末であります。
そんなことから期待にそえなくて本当にすいません。交流会の感想ですが、師岡先生の講演はいままでの研修や講演では聞いたことのない解放運動史の面であったので、ひじょうに新鮮に感じました。帰ってからテープをおこし、勉強させていただいています。それと分散会は住田一郎さんのところへ行きました。どうしてかと言うと、住田さんも「差別の結果」である被差別者の弱さの部分を強調しておられ、僕自身も今の仕事についてから、ずっと変わらぬ悩みがあったので、どうしても住田さんのお話を聞いてみたかったのです。当日の分散会ではひとこともしゃべることができなかったけど、意義のある会であったと思っています。全国同和教育研究協議会大会などでは、そういったことが議論できないのです。僕と同じことを思っている人に会えたのはうれしかった。
今見るとめちゃくちゃな文章で恥ずかしい限りですが、1987年、職員に採用されて1年目くらいに書いた、三重県同和教育研究大会での僕のレポートを同封しました。ちょうどこの頃から「差別の結果」というのは、どの部分までさすのだろうかと悩んでいました。現在もやはり悩んでいます。学校同和教育では、部落史の転換ということで、「労働や生産」を通じて部落の担ってきた光の部分にスポットをあてて取り組んでいます。しかし、僕の仕事はプラスの部分よりマイナスの部分と向き合うことが多く、そのつど「差別の結果としての地域の弱さをどう克服するか」という問題に行き着くのです。なんとなく矛盾も感じますが、これからもがんばっていきたいと思います。先生も地道にこの企画を続けて下さい。きっと、これからの解放運動にとって必要となることだと思いますので。それでは…   出口 英樹(三重)

どこまでが「差別の結果」なのだろうか
1.
 自分が今までこの仕事に従事してきて、理解できぬこと、矛盾したことに出会い、自分なりに反省し、また考え悩んできました。まず、このレポートを書くにあたり、小学校時代から現在までと、自分の思ってきたこと(地区の実状など)を、本音の部分を書き表してみたいと思います。
 自分が部落だと始めて知ったのは、中学時代である。それまで全然知らなかったし、両親は何も教えてはくれなかった。

注 小学校時代、①道が狭くガタガタの細い道②犬が多い③若い人がブラブラ数人座って話しをしている。いったい仕事はしないんだろうか?といった雰囲気から何となく他の地区と違う感じを受けていた。

自分の住んでいる所が部落だってことを何も知らずに中学校へ入学したわけであるが、このときの磯部中学ってのは県下でも指折りのガラの悪い学校だったと思う。また生徒がグレだすのも中二のときで、在所の生徒を中心とした集団が結構すきなことをしていた。生徒指導室には毎日ではないが先生と生徒のケンカ。タバコを吸うのは日常茶飯事で、教室の窓を割ったり、授業をほっぽりだし、木刀を持って教室で暴れ、学校内でウィスキーを飲んだり、恐喝、深夜徘徊、シンナー、無免許運転など、大半は在所の生徒だった。そんな中に自分もいっしょになっていたが、ふと、なんで悪いことをするのは在所の人間が多いんやろと考え、やはり家庭の影響やな、そんなんやったら仕方がないかなと思ったこともある。
 あの頃の中学教師は、あたまから何か問題があるとすぐ迫間の生徒を呼んではガミガミ言っていた。差別まるだしの教師もおったけど、生徒と真っ正面からぶつかる教師もいた。だけど今の同和教育みたいに、問題がある生徒の背景を探り、どのようにかかわり対処していくかまではいっていなかったし、事件がおこればその事件だけの対処であったように思う。先生も生徒も同和問題に関しては認識不足であった。
 それぞれ自己の見解は持っていたと思うが、それでも「差別はなくならんやろ、何十年、何百年たっても」という考え方の持ち主が多い気がした。地区生徒みずから「俺はエッタボシや、四つや、文句あるんこ!!」と指を四本だしては、先生とケンカする場面があった。歴史の時間なんか、その時代の話しをしていると、地区の子は「エッタやんかエッタ」って、後ろの方でぼやいているのである。
 自分が同和問題に気づきはじめたのは、ちょうどその頃で、エッタ、四つって何かと、友達に聞いてみた。そんなら「迫間やんか」と答えが返ってきた。歴史的な背景なんかは全然わからなかったが、だんだん、イヤな思いがつのり、同和地区ってのは自分らの地区なんかと気づきはじめたのである。
 それからというもの、地区生徒がそんな賤称語を使うと、すごくイヤな感じがして、何か心に重いものがのしかかった気がして、あ~こんなことがずっとこの先ついてまわるのかという不安と焦燥感にかられた。

注 中学時代、①この地区って、他の地区との通婚がほとんどなく、大半が地区内同士の結婚であること②迫間の子ってのは、その地域だけのグループを組むことは知っていた。

2.
 今思えば、小中時代もっと早くから同和教育を取り入れてくれていたら自分の考えも少しは違っていただろうにと考えもするが、あまり期待できない部分もある。
 現在、磯部は同和教育の先進校と呼ばれているが、それだって元をただせば地区の人からもろにきついことを言われ、そしてごく一部の先生達を機に変貌していったのである。それまでの話しといったら、真剣に取り組んでいる先生たちに対して「ガン」だの、「磯部じゃ、あない先生はええこと言っても最終的には人事異動で変わっていくし、私らはずっとここ(磯部)におらなあかんのョ!!そんな過激なこと言えますか」という言葉がなぜか僕の耳にはいってきた。まともなことをやっていると非難され嫌われる。特に地元(磯部)の先生からは。
 今は小中、ある程度の線まできたけれども、これからはそんなに進まないと思う。なぜ進まないかと言ったら本音と建前という壁をつくってしまっているからである。教師は、教師の顔でものを言うといったような、一線を引いてしまい、自分の本音を言わないで、あくまでも教師集団の中でその秩序を守り通し、ただ一教科としてやっていく。本音を出すことによって仕事が増えたり、回りからにらまれ、そして立場上不利になるからではないか。自分としては、その部分を超えなければ、それ以上は進歩がないと思う。だからある程度の形がつくられ、問題がおきてもそのパターンにのせてしまうことになる(教師自身の変革がなく、生徒自身を変えようとする)。各大会、研究会のレポートの内容も、こうやったから、こうなったと全体をとらえるものばかりで、その中でこのことをこうしたが、どうしてもできない、わからないといった、しんどいレポートが少ない。つまりレポートの形骸化である。そのうえ発言すらない。下向いてメモばっかりの先生、共感共鳴するが実践に結びつかない人。「わかっとんかいね、あれで生徒に教えるんやで、いい思いやりのある生徒が育つワ!!」と言いたくなってくる。自分だってこの部落に長年過ごしてきてもわからないことがたくさんあるのに、これはどうなっているんだろうか。「いつもこんなことしているが、どうなの?」ということがないのだろうか。
 毎回、研修、研究会の場で発言する人はごく一部、毎年あんまり変わらず。それと地区の人だけ。はっきり言ってくだらん。やりたくないものをやれというのが酷なのかもしれないが、それは教育者としてはむしがよすぎる。ある大学の教育実習生になると、同和地区をもたなくて僻地やない学校へ行きたいんだって。そんな話しも聞いた。何を志して先生になるのか、かわからない。磯部は先進校と呼ばれているが、それはうわべだけで、先生の自己変革までにはいっていない。あまりきついことを言いたくないが、そう思えるので仕方がない。

3.
 中学校についてはこれくらいにして高校時代へ移りたいと思う。高校へ入学してから、これが差別なんかということにでくわす。一年に入学すると、各部活の勧誘がある。「あんたどこ」「磯部や」、「磯部のどこ」「迫間や」と言ったら、「まあ、ええわ」と言われた。あの時は腹立ったけど、何かこの先、不安やった。誰も相談するやついなかったし。ケンカでもそうで、ガンのたれあいで、上級生とぶつかると、「お前どこね」「迫間や」と言うと、「まあ、ええわ」ですんでしまう。「なさけな~」という感じ。女の子から「迫間、あ~恐い」って言われたり、色々あった。もっとひどいのになると、教師みずから「僕はPTAの会議やら同和の会議には行かない。あんなの行っても意味ない。会議していても寝とる先生もおるのに」と、授業中、そんな関係のない話しをされた。自分はそのことを教育集会所主催の高校奨学生の集いで同和教育推進教員に告げた。「あの先生、絶対問題おこすぞ」とつけ加えたが、数年後、見事に的中、差別事件をおこし「三重の差別事件」に連載された。
 こう考えると志摩高には、全然いい思い出がない。特に教師には。入学したての時、教室にはいってくるなり「やる気なかったらいつでもやめてけ」と言われたり。
 先生と生徒のつながりって何やろ?と考えさせられた時代であった。お互いのばかしあいで。そんな高校が同和教育に取り組んでいる。自分がいた時と若干ことなる部分もあると思うし、進歩もみられたと思うが、やはりまだまだという気がする。
 小中高の中で一番高校が遅れている。志摩高校でもまともにやっているのは同推教員だけ(公務上やむをえないからかも)。あとの先生は問題にならん。普段、家庭訪問もしない先生に果たして生徒がついてくるでしょうか。やはりもっと考えてほしい。やればできるのだから。なかなか先頭に立ってやっていくのは難しいし、教師間で敵もつくると思うけど、能書きだけじゃない、生徒の意志を尊重した学校づくりに期待したい。
 あまりいい思い出が残らなかった高校時代であったが、自分にとって部落問題を深く考えさせられた学校生活であった。

4.
 卒業してから親の勧めで迫間文化会館にはいった。別に動機なんてない。これといってやりたいこともなかったし、アルバイトにちょうどいいと思って。この地区に生まれ育ち、少しは在所のことも知っていたから多少のことがあっても驚きもしないけど、たまに恐わいことがあった。「わいらええね、なんもせんとボケーッとすわとったら、ようさん金もらえるんやで」とまあ、こんな具合にたびたび言われたり、こちらが残業のあるときに酒飲んできて関係のないこと話しかけられたり、気にくわんとそばにあるものをぶつけられたり…。そんな時なんか正直恐わかったけど、かかってきたら、いつでもやったるという気持ちは持っていたし、開き直っていた。今でもたまにあるが、前みたい恐わくない。
 自分が会館にはいって間もない頃、在所の人の感覚は「ここ(館)におったら何でもせなあかんのや」というもので、子ども会にしろ区のことにしろ、全部こちらがするのが当たり前なんやという人が大半やったと思う。今は前より理解者も出てきたと思うが、そやけど「なんで在所の人らってこんなんやろか」って、よく考えたものだ。それも「差別の結果やんか」と言ってしまったら、それまでだけど。館の仕事っていうのは、社会福祉、保健衛生、広報活動、各種クラブ活動、その他教養文化事業と、まあ地域住民の自立、意識の高揚及び社会的自覚の促進に努めるわけだが、事務の仕事なんてそんなに難しいものでもないし、おもにウエイトを占めるのが相談事業、後は本庁に残務処理してもらうだけ。
 相談なんかでも筋の通らないことを言ってきたりするときがたまにあったりするが、これが差別によって教育を奪われた結果かなとも思うのだが、なぜか言葉が出ない時もある。自分からみて、在所の人は(そんな人ばかりではないが)、制度を利用するにおいても本当に利用するだけで、同和教育はダメと言う人が多い気がする。たまに館にきて、いきなり「あの楽なないのん(気楽なものはないかの意味-藤田補注)、貸してくれま」と言ってきたり、これはこういう制度なんですよと説明しても、「まあ、ええさ、そんなことは。貸してくれるんこ、くれへんのこ」と言ってきたり、どういう感覚なんやろと思うのだが、貸付等に関しても借りたらかえさない、資力があっても「しまいには、この法がなくなったらかえさなくてもいいんや」という話しがはいってくる始末(このことに関しては、どこの市町村でもあたまを悩ませていると思う)。
 そのことに関しては行政の責任も大である。事業ばかりの進行で、啓発の部分が立ち遅れ、このような結果になってしまった点。やっかいなことになると、先に首をつっこまなくてワンクッションおいて館を利用する本庁の連中はたいしたものである。啓発が遅れているというのは、やはりこの磯部町の同和教育に対する認識のレベルともとれる。自己の見解ではあるが、部落問題の認識がないのには、①「寝た子を起こすな」式の考え②解放運動に対する無関心③同和教育に対する反感などの原因があげられると思うが、これからもっとくわしく調査してみたい。今の親というのは、子ども達に自分が受けた差別を語ろうとしはない。子どもを想う心情なのか。それとも自分の傷を子どもにさらけだすのがいやなのか。そう言や、自分が結婚するまで、親からはひとつも聞かなかった。他人からは聞いたけど。

5.
 館で実施している講座については、参加者不足。それを左右する人間関係、特に女の人はすごい。ここ数年、館の事業もワンパターン化してきているが、正直これといっていい対策もない。運営委員会で取り上げてみても「それはそれで根気強くやってなあかん」の一言でかたづけられてしまい、あまりいい答えになっていない言葉が返ってくる。ましてやその地区における特色というものがある。その色の中で人を動かし、継続させていくのは難しい。この地区にも運動団体が二つあるが、それとてこれといった啓発活動はしていないし、やっていたとしても限られているし、全地区住民をとらまえた啓発なんかやっていない。長年この地区に住んで人間関係というものを知っているあまりに思うようにできないのだろうが。
 外部の人になってくると色々理想論を述べてくるが、そのことをいざやるとしても、その発言をした人はただ述べるだけで、実践とまではいかない。そういう人間はたくさんいる。「そんならあんたがやってくれればいいのに…」と思ってしまう。 余談になるが、自分が一般地区の人と結婚して、日常生活の中で、はてなと感づいたことがある。それは、よく昔の地区の人は人情味があり、他人の家へはいるのでも気がねせずに自分の家にはいるようにしていたという話を聞いたことがある。 河内のおっさんの唄ではないが、“おっ、何しとんねん”と言ってドタドタとはいっていき、“まあ、めしでも食べてけ、まあ”という雰囲気である。そういう生活の中ではぐくまれてきた持ち味は、俺の親父にもあった。
 現在、自分は一般地区に住んでいるが、自分とこの親が遊びにくると、何も言わずに玄関まではいってきてはドタドタとあがりこんでくる。当の本人にしたら自分の子どもの家なんやで、なんとも思っていないのだと思うが。「はいってくるときくらいは、挨拶ぐらいはしてほしい。基本的な生活習慣というのは、そういうときからが大事なんやで。子どもの教育に悪いもん」と妻に言われたことがある。「そやけどな、地区の人ってのは……」と話しをするが、何か妻に自分の都合のよいことばかり言って逃げているような発言ばかりで。妻の言っていることにも「そやね」と思うことがある。
 方言にしろ、たしかにその地区の特色である。しかし、いざ社会人となり職場でそんな言葉を使ったら、上の人の目からみたらどうなるだろうかと思う。言葉に関しても妻から注意されたことがある。「あんたな、そんな言葉でしゃべっとったら、子どもも大きくなったら、わかってくるんやで、やめて。」そやけど自分は「そんなもん、しゃあねぇやんか」といつも反論するのだが…
 ある地区の青年が県外へ働きにいったら、とことん言葉を注意されたという話しを聞いた。地区の中では通用するが、社会人となったら、あまり通用しない。
 話しを元に戻すが、この館にいるとき、めったにないが、たまにひとつまちがったら、取り返しのつかない、いやな雰囲気に出会うことがある。要は自分の身は自分で守らなあかんってことを教えられた。精神的に強くなれる。なんかこんなことを書いていることが差別をしているみたいであるが、素直な気持ちだし、わからないことはわからないことなんだし。偏見になるかどうかわからないが、そのことについて書いてみたいと思う。
 まず働けるのに働かないで遊んでいる人、「生活保護受けて、車はターボにのって、こちらがまじめにしとるのがアホらしい」という地区住民の声も耳にする。よく同和教育の雑誌に「地区の人は努力もせずに生活保護を受けている」という質問に対して、「差別によって生きる権利を奪われ(教育・就労・生活)、表面的には努力していないというように受けとられる人々の中味は、働きたいとの考えを持ちながらも、働けない実情や若い頃の重労働がたたって身体をこわしている人らがいて…」といった答えがのっている。そやけど努力している人は努力している。信念を持って仕事へ行き、まじめにやっている人もいる。その人かて同じように差別の結果、貧しくて学校へ行けなくてもがんばっている。たしかに重労働がたたって身体をこわしている人もいるし、差別を受け会社をやめた方もいる。そんな色々な話も聞く。
 うまく意思が伝わらない、物事に対して障害が生じる、そんな時、暴力で対抗する。やられた方としたら、たまったもんではない。差別以前の善悪の判断やと思うのだが。わかってやっとったら子どもよりタチが悪いと思うけど。これも差別の結果やというのだったら、「そんなら、がんばっている人はどうなんや、同じやで」と考えるのだが。だってそんな中にも「別に制度を借りんでも、できるだけ自力でがんばっていきますわ」と言う人もいるからである。
 役場(本庁)内においての暴力事件もたまにあるが、殴られた方は泣き寝入りのかっこうみたいだし。その紙面上の仕事が済んでしまえば「ハイそれまで」、それ以後のかかわりなんて学校の生徒とのかかわりに比べたら(比べるのがおかしいけど)少しのもんである。自分は「あ~、あの人もやっぱり迫間の人は恐わいと思っているだろうな」と、そういう場面があるといつも思うのだが。
 いまいち悪いことは、「悪いやんか」と問い直す職員がいないことである。そうやって地区の人が怒るのも課内での横の連絡が不十分であったケースもあるが、なぜ反論しないのか。あれが、わからん!!やっぱり自分がかわいいのだろうか。それともめんどうになるのがいやなのか。まだまだ本庁内での差別体質は依然として根強い。酒飲んでのヤボ、物を持っての威嚇、言うだけ言って(要求して)、自己の義務を果たさない人、色々な人がいる。いくら書物を読んで、正しい知識を身につけ、そのことを、これはこうなんやとはめこんでみても、たしかにそうなんだと思うが、現実体験の方が勝ってしまう。
 なんか無理に「これも差別の結果なんや」と押しつけているみたいで、どうしてもわからなくて矛盾したことってあると思うし、特に先生なんか偏見が強いし、たくさん持っていると思うんやけど。これが不思議やねん。クサイものにはフタかな。
 俺も差別者なんかなあと考えもする。このことについてプロの先生方、またそのような活動で実践の先駆者の人に、矛盾と自己の差別性を打破するためにも教えてほしい。
 支離滅裂な文章でありますが、何分こんな長い文章、生まれてこのかた書いたことがありませんので大変読みづらいかと思いますが、その点ご了承お願いします。尚、不足な点につきましては、口頭で述べさせていただき、説明にかえさせていただきます。あしからず。

コメント.
 標題「どこまでが『差別の結果』なのだろうか」は、わたしがつけました。生い立ちをたどりつつ、会館職員として日々感じる矛盾を素直につづった、いい文章なのでご本人の了解をえて、のせさせていただきました。なお少し省略してあります。

その2.
 「こぺる」「通信」が送られる度に、今月号は何が書いてあるのか楽しみにしながら封筒をあけます。正直云って、これまで「同和はこわい考」は感動をよぶよりも、むしろ運動を進める者のじゃまもの、運動への迷いが生まれるものとして見ないよう、読まないようにしてきました。
 ところが、同和事業に関わっての仕事を始めてから、藤田さんやそのまわりの人が書いていることの意味が、徐々に理解できました。
 大阪では同和事業の見直し、点検が始まり、その作業に自分も関わり、始めて本だなから出してきて、その必要性をヒニクにも実感したものです。先月の「通信」で大賀氏へのラブコールが書いてありました。私はどきどき大賀氏の話を聞きますが、どうも「こぺる」や「通信」に書いてあることを大賀氏風に云っているかのように思えるから不思議です。また同調する事もあります。その辺の話しをゆっくりしゃべってみたいものです。             (大阪 N.Tさん)

コメント.
 N.Tさんは古くからの友人なんですが、『こわい考』には反発したとおっしゃる。誰しも批判や苦言、直言は聞きたくないもの。六年たってそれが変わってきたと。うれしいですなあ。ぜひ部落解放運動全般について議論したい。ところで、大賀さんの意見はあくまで大賀さん独自のものであって、『通信』や『こぺる』所載の文章とのあいだには、なんの関連もないと思いますよ。もっとも前号から大賀さんに『通信』を送りはじめましたから、あるいは対話が成り立つかもしれません。

《 川向こうから 》
★前号はあわてたためミスがいくつかありました。申しわけなし。今号も郵便料金値上げ前に、と急いでおります。なんせ郵送料1万円増は大きいですからねぇ。
★読者からのお便りに、「先頃、自分の話をまとめた本の中に、外の意見を聞かないで自分の考えだけで物を考えているのは『タドンで顔を洗うようなもので、洗えば洗うほど汚れてしまう』といったような意味の表現がありました。その箇所を知人から黒人差別につながるのではないかと文章で指摘され、びっくりしてしまいました」とあり。タドン=黒い=黒人=汚れ=差別という連想が成り立ったというわけです。この調子だと、すべての言語表現に差別を嗅ぎとる人が出てきてもおかしくありません。困ったもんです。
★小森龍邦さんが部落解放同盟中央本部書記長を辞任し、広島県連選出の中央本部役員も役職辞任を申し出たとか。小森さんの辞任挨拶には「今日の部落解放同盟の中央執行部が突き進もうとする道は、水平社七十余年の歴史に汚点を残すもの」と批判してはいるものの、「日共との対立のような手法をとることなく、理路整然とあるべき運動の姿を提起しつづけると共に、すぐれて人権思想の闘いである狭山再審闘争などに全力で取り組む決意です」ともあり、同盟内にとどまって理論闘争を展開する方針を示唆しています。小森辞任によって表面化した政治路線上の違いが、部落解放の理論・思想の違いとしてどのように現われるか、注視しています。
★最近読んだ本のことなど───寺田 透「随筆道元」(『群像』94/1)。曹洞宗のあるお寺が餓鬼は差別語に類する言葉ゆえ施餓鬼会を施食会せじきえと変更したという話を枕に振りながら、道元と差別について論じた寺田文は、『正法眼蔵』や『正法眼蔵随聞記』を拾い読みしている程度のわたしにもよく納得できました。こういう文章に出会うと気分がさわやかになります/高 史明『歎異抄のこころ』(NHK出版)は期待はずれ。西洋に起源する近代的人間観の克服を語っている部分はそれなりに興味深かったけれど、文学者高 史明がいないのです。「お釈迦さま」「阿弥陀さま」はいいとしても、「親鸞さま」の連発には閉口しました。
★今年の第11回部落問題全国交流会は8月27日(土)・28日(日)、京都・西本願寺門徒会館で開きます。講演は江原由美子さん(東京都立大学、社会学)です。いまから予定に入れておいてくだされば幸甚。
★93年12月18日より94年1月8日まで、兵庫,岐阜(2),鳥取(2),京都(6),三重(2),大阪(4),石川,東京,愛知の20人の方から計6万1584円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます。本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)