同和はこわい考通信 No.75 1993.10.17. 発行者・藤田敬一

《 紹介とお知らせ 》
『こぺる』No.8(93/11)の内容
高田 嘉敬:岐阜県水平運動史覚書二則
『特殊部落一千年史』の改題をめぐって②③
  柴谷 篤弘:文字が差別を助長するか
  工藤 力男:原点に帰る
ひろば⑧
  松岡 勲:スペイン・モロッコの旅と『野生の夜に』
第五回『こぺる』合評会から(灘本 昌久)

『こぺる」合評会:10月30日(土)午後2時 京都府部落解放センター2階

《 各地からの便り 》

■ 今日の集会では、あたたかい励ましやご意見をいただき、ありがとうございました。同僚とは、いつも愚痴っぽく言っていることをはじめて他の人の前で言いました。言いながら、自分が今まで思っていたことをまとめたり、考えなおしたりしました。でも、今、思い出してみると、感情の部分だけで言って、事実をちゃんと伝えることができたのか、ずい分不安です。それと、私の言ったことが何らかの形で私のかかわる支部などに、伝わったらどうしよう…と、これも大きな不安です。
 私が今まで考えてきたこと、思ってきたことをもう一度ふり返り、まとめてみます。私が今の学校に来たのは○年前、以前は、いわゆる一般校にいました。日共の先生もいて、部落解放学習をはじめ人権教育と言われていることにはずい分と邪魔されました。『にんげん』(副読本-藤田補注)を使わない人もいて、私がまだ若いこともあってずい分苦労しました。職会での言い合いや学年会議でのやりとりに多くの時間を費し、くやしい思いをしたこともありました。そんな中で、同和校へ行けばきっとやりたいことがきっちりできるだろうと思い、同和校に転勤希望を出し、その希望がかなったわけです。
 転勤した年度末、差別事件がおこり、確認会がもたれました。この時に私たちは差別者の側にいるんだと認識しました。私が差別者であるなんて自分では思ってもみなかったのですが、確認会での親の発言を聞き、部落差別の厳しさを目のありにし、自分のことを見直した時、差別者の側に立っていた自分を認識しました。
 3年目に部落の子どもを担任しました。部落の子に対する過保護なまわりの配慮は、ずい分気になりましたが、その子どもが将来、何らかの差別を受けるのかと思うと、そんな社会の状況に腹が立ち、子どもといっしょに悩んだり学習していこうと決めたのです。私なりにいっしょうけんめいやったと思います。子どもとの関係も良く、学力の面ではしんどい子でしたが、部落解放学習のときも、下を向いて聞くわけではなく、子どもなりに納得しながら学習できたんではないかなと思っています。(今も)
 ○年目に同和加配(同担)になり、今に至っています。同担になって2年目、私のとった行動に対して、指導員から夜8時に呼び出しがあり、私と担任の2人が解放会館に行きました。私は、私のしたことのどこが悪かったのかを聞くこともできず、ただただ言われるままでした。いわゆる恫喝です。頭ごなしにワーと言われ、何の返答もできませんでした。そして、その中で、「おまえらは信頼でけへん」と言われました。約2時間、ずっと泣きっぱなしで終わりました。その時、何が悪かったのかわからなかったのですが、後から考えると、親と話ししたことを指導員に話していないということと、勝手に親と学級懇談の中味について話ししたこと(前もって指導員や支部と話をしていないのに)に怒っておられたようでした。「信頼でけへん」という言葉に、その時はカッーとなって、「もう、そんなんやったらええわ」と投げやりに思い、担任と腹立つなあと夜深くまでしゃべりました。
 でも、次の日、子どもたちの顔を見ると、「ええわ」じゃなしに「何とかやっていかなあかんな」と思いました。冷静になって考え、「信頼できない」私に、何か問題があるんだろう、信頼を得るような私にならなくてはならない、子どもたちのためにも、そうしていこうと考えました。信頼できない教師としか思ってもらえないのは、今までの教師たちの部落に対する思いが部落の人たちに伝わっていないから、それに差別的な教師たちも、それは多かったと思うので、ずい分教師にいじめられてきた部落の人たちがいるんだろうな、とも思いました。私自身の責任ではないけれど、教師に対しての思いが「信頼でけへん」という言葉になって表われたんだろうとも考えました。
 そして、とにかく信頼してもらえるように努力してきました。話をしたり、相談したり、いろんな情報交換をしたり…。波風たてずにうまくとりまとめをしたり、学校での調整をしたり、うまく話のできない教師と会館のあいだに立って話をまとめたり…。
 そうしながらも胸の中は、ブツブツと愚痴がたっていってました。いわゆるストレスみたいなものが。でも、その頃は同担○人の中で、その愚痴をしゃべる相手がなかったので、ただただ胸にたまってました。そのころだと思います。「同和はこわい考」の本を読んだのは。そうだ、そうだ!と思い、読み進ていきました。職場の何人かの人にも配りました。でも、みんなでそのことをしゃべりあえるところまではいかなかったと思います。私があえてそれをしなかったのです。それは、あの本が差別文書のごとく扱われるかもしれない、同盟の方でいろいろ問題になっていると聞いたからです。この本を職場で読んで、みんなで話をしているなんて支部の方に伝わったら、おおごとだと思ったのです。だからそのあとも胸の内は不満でいっぱいなのに、とりあえず「会館の言うことをよく理解してくれる善良な教師」としてふるまってきました。
 そしてようやく最近になって同担の人たちとも心の内をしゃべれる関係ができ、今までのことを考えてみました。教師は、いつも差別者でしかないのか。部落じゃない人は全部差別者なのか。無理なことをいろいろ言われ、それなりに対処してきたけれど、こんなことでいいのだろうか。一人の人間としてじゃなくて、自分たちの都合でうまく動かせる一つの駒としてしか扱われてないのじゃないか。学力が低いのは教師だけの責任なのだろうか。信頼関係がうまくできないのは教師だけの責任だろうか。対等の関係にはなれないのだろうか。私たち教師の労働条件はどうなるのだろうか。身を粉にして働くのがほんとうに解放につながるのだろうか。無理してなんとか仕事をしているけれど「できない」と言ったら、差別になるのだろうか。etc …
 親しい人としゃべるときは不満バクハツの状態です。でも、相手には全く言えない。会館へ行くと、別の私がいるというかんじです。自分の口でしゃべっている言葉が本当はうそだとか、自分で言いながら心では別のことを考えているとか、腹立っているのにヘラヘラ笑っている自分がいるとか、…何が本当の自分なのか、私なのか、わからなくなって落ちこんでしまいました。ただ毎日がすぎていくだけの日々です。でも、子どもたちはいるので、会館の言うとおりに動いてきました。私と会館のあいだに子どもたちがいる。これが私が自分の思いを言えないいちばん大きな理由です。孤立もこわいし、確認会もこわい。けれど子どもたちとの関係が切れることがいちばんこわいです。やっぱり教師は子どもあってこそですから。
 集会や分散会の中で心やさしくアドバイスしてくださったり、私の思いを辛抱強く、たくさんの方が聞いてくださって、ほんとうにありがたかったです。私自身がかわらないとなにも解決しない、これはほんとうにそうです。あえて、それをしない(できない)私は、やはり差別者なんだろうなと思っています。
 相手が私を人として見てないということは、私も相手を人として見てないということですから。心でいろいろ思っているのに、何もかもわかったふりして、善良な教師を装っているなんて、ほんとうに相手をバカにしてる以外の何ものでもないのですから。
 ずい分長々ときたない字で書いてしまいました。ずい分読みずらかったことと思います。すみません。今、私にできることは、同僚ともう少し話を深めて、みんなで何とかできないだろうかと考えてみることです。その時に、今回の集会でのみなさん方のご意見などを伝えていこうと思います。93.9.5.  (N.Kさん)

藤田様
  あの手紙を出してから、ずい分軽薄なことをしてしまったなと、後悔していました。感情のままに書いてしまったなと、その時も思ってましたので、へんな話ですが自分の文をコピーしていました。今、その文を読み返して、この文が通信に載ったら恥ですね。でも、その時の感情ということで、しようがないなとも思っています。ただ、なんとなく“自分ががんばっているのに、相手が理解してくれない”という、自分が悲劇のヒロインみたいに自己中心的な文だなというところが気になっています。解放運動から学んだこともとても多いのに、もちろん。出会った人もいい人が多かったのに、すべてだめだみたいな文で申し訳ないと思っています。
 自分はがんばってやってる、なんて自己満足にもほどがある、たいしたことしてないのにと、自己嫌悪しきりです。申し訳ありませんが、通信に載せる際、ご配慮下さい。よろしくお願いします。次から次へとわがままを言って本当に申し訳ありません。93.9.15.   (N.Kさん)

コメント.
 日付が「9.5.」とあり、全国交流会から帰ってすぐに書いてくださったことがわかります。よほど胸につかえるものがおありだったのでしょう。もどかしいほどの自己分析が、なんともつらい。対話のとぎれが行き着いたあげくのはてが見えてきます。それは、N.Kさんの過剰(過敏)反応だということだけではすみません。 どうかN.Kさん、自分は差別者であるなどと思いつめないでほしい。そんなに自分を痛めつけても、新しい人と人との関係は生まれはしないのですから。
 部落解放運動は、なにかといえば70年の歴史を誇るけれど、ほんとの友人をつくってこなかったのではないかとの感慨をいだきます。ほんとの友人とは、苦言や直言を呈し、ときには率直な批判もしてくれる、気のおけない身近な人のことでしょう。ところがここ二十数年、「部落民でない者は差別者だ」という断定がまかりとおり、協同者であるべき人を萎縮させ、疲労させ、挫折感にさいなまれるような状態におちいらせているのに、いっこうに気づかぬ風情。そんなことでは、いかに人間解放への希求を語ったところで説得力があるはずがない。心底そう思う。
 N.Kさんは、この手紙の内容が支部や会館に伝わらないか気かがりのようで、早速第二信がとどき、そのあたりへの配慮を頼んでこられました。ところどころに○を使っているのはそのためです。

《 採録 》
畑中 敏之「『部落民』という“立場”について」(『部落』1993年8月号)

 (前略)部落問題は民族問題ではないと言いながら、研究において、教育において、そして運動においても、事実上、「部落民」という民族・種族を超歴史的に存在させてきた。これが、従来の「部落史」の枠組みであり、部落問題論であった。もう一度、原点に戻らなければならない。部落問題は民族問題ではない。「部落民」という民族・種族は存在しない。部落問題は身分にかかわる問題である。今一度、この原点に立ち戻って考えてみなければならない。「部落民」とは何か、「部落民」という“立場”とは何か。これは単に「部落史」の枠組みだけではなくて、部落問題解決の展望を左右する重要な論点である。
 たとえば、『同和はこわい考』(阿吽社刊、1987年)の著者、藤田敬一さんは、「被差別という立場・資格を絶対化し、差別・被差別関係を固定化する」ことに反対して、次のように主張する。

おたがいに差異を認めつつ、一人の「丸ごと生命いっぱいの人間」として向きあい、民族や性別、生い立ちや障害など個人の自由な意志で選択したわけでなく、個人の努力で変更できない事柄を理由に他者を忌避・排除する差別に立ち向かう共同の営みを続けるとき、気がつけば両側を隔てていた溝が埋まり、壁が消え、差別・被差別の二項対立でない新たな人と人との関係が生まれているにちがいない。(「運動は人と人との関係を変えたか」『こぺる』93年4月号)

 『同和はこわい考』などでの藤田さんの、このような「両側から超える」という主張に対しては、たとえば、小森龍邦さんなどは、「立場というものを理解しないものの屁理屈でしかない」(「気づかされた認識の甘さ」『部落解放』350・92年12月)などと批判して、その“立場”を強調する。小森さんの批判の仕方をみると、逆に藤田さんが何を主張したかったのかがよく理解できる。  その小森さんが書記長を務める部落解放同盟の規約の第四条には、次のように書かれている。

本同盟の綱領、規約を承認し、所定の手続きを経て本同盟に加入する部落民を同盟員とする。但し部落民でない者についても、都府県連合会で審査決定し、中央本部の承認により同盟員とすることができる。

 この規約で気になるのは、「部落民」と「部落民でない者」というように書かれている、その“立場”の捉え方である。「被差別部落出身者」「被差別部落外出身者」などというように一般的に表現されている、そのような“立場”の区別とその認定についてである。部落解放同盟は、この規約にあるように、そのような“立場”を同盟員の資格審査に持ち込むというのであるから、そこには、それなりの絶対的な基準がなければならないことになる。はたして、このような「部落民」と「部落民でない者」との区別を、では一体、何を以て誰がどのように認定するというのであろうか。どうも、この区別・認定そのものが容易ではないと考える。たとえば、いわゆる「部落民」を両親にもちながらも、「部落外」に生まれ育った者は、「部落出身者」となるのだろうか。また、「部落民」と「部落民でない者」との両親のもとに生まれた者は、「部落民」なのかどうか。いずれの場合にしても、疑問が残る。「部落民」と「部落民でない者」を峻別する論理に固執するかぎりは、結局は「血統」などというものを持ち出して、それを基準にして、「部落民」を区別・認定するということになってしまうのではないか。高知の小笠原政子さんへの「部落民宣言」の強要事件は、そのことを示しているだろう。その人の“立場”というのは、人格そのものであり、その人の生き方にかかわるものである。そのような“立場”が「血統」などというもので区別・認定できるわけがない。ましてや、そのような“立場”を強要するなどとは論外であり、明らかに人権侵害なのである。
 もし「血統」以外の条件、たとえば居住地等の条件で「部落民」を認定する(できる)とでも言うならば、それはもはや「部落民」などという呼称自体が不適当なものとなる。そして、さらに言えば、「部落」「同和地区」という居住の線引きが無意味なものとなれば、その住民の特定も消滅するわけであるから、固定的な「部落住民」「地区住民」も存在しないはずである。ということは、それでもなお「部落民」を特定・認定しようとするならば、「血統」などという血縁的系譜観念に頼らなければならないことになる。しかも、その「血統」が、祖先の江戸時代の旧身分という血縁的系譜で説明されているところに重大な問題がある。今、我々の克服すべき課題は、まさに、この血縁的系譜観念による人間観なのではないか。祖先の旧身分で、子孫の“立場”を認定するなどということは、身分差別そのものではないのか。このような「部落民」などという血縁的系譜観念による人間観を前提にしたままで、「家柄」「血筋」などによる差別的人間観を批判することなどは決してできないはずである。
 「部落民」と「部落民でない者」などという区別を、現在においてもなお設けることに、私は、違和感をもつ。そもそも、この区別は、華族・士族・平民などというものが制度的に存在するなかでの近代社会の体制的な身分的秩序において、結果として存在させられていたものなのである。「部落民」と「部落民でない者」が「血統」的に存在していたわけではない。近代社会(戦前)にあっては、体制的な被差別の結果としての「部落民」なのである。それ故に、差別の告発として、たとえば、水平社の時代にあっての「部落民宣言」的なことは、それなりの積極的な意義があったことを否定はしない。「部落民」という“立場”は、歴史的産物なのである。戦後の体制改革と運動・教育の前進、そして60年代以降の社会的変化を経て、現在においては、もはやそのような“立場”の区別そのものが否定されなければならない段階に至っていると考える。にもかかわらず、現在においてもなお、「部落民宣言」を至上課題とし、「血統」で「部落民」と「部落民でない者」とを区別するるなどというのは、もはや、時代錯誤そのものであると言わなければならない。
 確かに、藤田敬一さんは、この“立場”を「被差別者」・「差別者」として絶対化・固定化してはならないと強調する。私も、絶対化・固定化には反対である。しかし、藤田さんも、そのような“立場”の存在自体は認めている。絶対化・固定化してはならないとは言うが、藤田さんの「両側から超える」という議論も、「被差別部落出身者」と「被差別部落外出身者」という“立場”の存在を前提にしたものである。このような“立場”の認識は、藤田さんだけのものではなくてむしろ一般的なものである。しかし、問われなければならないのは、現在において、その“立場”とは、そもそもどのようなものなのかということである。前掲の引用部分で藤田さんは、「おたがいに差異を認めつつ」と言うが、「被差別部落出身者」と「被差別部落外出身者」との“立場”の「差異」とは一体何か。藤田さん自身が、その「差異」をどのようなものとして認識しているのか、またその「差異」は現在何によって生じていると考えているのかが問題なのである。前掲引用のところでは、「民族や性別、生い立ちや障害など」ということが例示されているが、「被差別部落出身者」と「被差別部落外出身者」との「差異」というのは、その内のどれなのか、あるいはここに例示されている以外の別のところにあるのか。この点が、明確にはされていないと思う。『同和はこわい考』を読むと、“立場”の絶対化・固定化への藤田さんの批判は明瞭なのであるが、では、その議論の前提になっている、現在における「被差別部落出身者」などという“立場”とは一体何か、その概念が明示されていないのである。
 「民族や性別、生い立ちや障害など」の“立場”の「差異」を絶対化・固定化してはならないという考え方は、現在の情勢に照らしても、重要な視点である。しかし、部落問題をめぐっては、そのような“立場”の絶対化・固定化が誤りであるという論点から、さらに展開して、現在は“立場”そのものが問われいると私は考える。「部落民」という“立場”の存在そのものを問うことによって、部落問題解決の展望を確かなものにしなければならない。今、そのような段階に到達していると考える。
 現在においてもなお「部落民」という“立場”を絶対的なものとして捉えるということは、そのような“立場”が前述したように結局は「血統」を唯一の基準として成り立つものであることを認めなければならないだろう。祖先の旧身分との血縁的系譜という「血統」に基づく人間観を基準にして成り立つ組織が、「家柄」「血筋」などによる差別を糾弾することは明らかに自己矛盾である。「部落の起源」論が、「部落民」の「血統を遡る」というルーツさがしになってしまったのも、「部落民」という絶対的な“立場”の存在を、当然の出発点としたからである。「部落民」が、歴史を越えて存在しているのではない。「血統」によって、「部落民」の“立場”を日本の歴史にこれ以上固定させてはならない。

コメント.
 畑中さんは立命館大学経済学部の教員で、著書に『近世村落社会の身分構造』(部落問題研究所、90年)、『「部落史」を問う』(兵庫部落問題研究所、93年)があります。全体の三分の二弱を抄録しました。
 上掲部分に関して、畑中さんの論旨をまとめれば、

部落解放同盟は、その規約で、部落民と部落民でないものに区別しているが、その根拠は近世の身分につながる血統的系譜と考えられる。
しかし、そのような血縁的系譜観念こそ今日克服の対象である。いまや部落民と部落民でない者との区別そのものを問うことによって、部落問題解決の展望がひらけるだろう。
したがって、立場の絶対化・固定化にたいする藤田の批判は重要ではあるが、ただし、その意見は部落民と部落民でない者という立場の違いを前提にし、しかもその違いの根拠を明示していない点で、不十分である。

ということになりますか。要するに畑中さんは、部落民と部落民でない者の“立場”の区別など不可能かつ不必要であるばかりか有害であって、そんな区別さえしなければ部落問題は一挙に解決できるといいたいらしい。
 さあーて、と。雑誌『部落』で、『こわい考』がまともにとりあげられたのは、これがはじめてだから、きちんと応えなければならないと思う反面、少々気が重い。概念をいじくりまわしたり、論理の筋だけを無限に追うような文章にウンザリしているからです。しかしまあ、そうもいっておれないので、少し書いてみます。
 畑中さんが指摘するように、わたしは「部落民」と「部落民でない者」という区分けを出発点にして議論しています。ある人が、歴史的に賤視の対象とされてきた特定の地域に生まれ育ち、もしくは現に住んでいること、あるいはその親や祖先がかかる特定の地域に生まれ育ち、もしくは住んだことがあるという事柄を理由に、部落民のレッテルをはられ、忌避・排除される差別が現実に存在している以上、この区分けを無視することはできない、というよりここから出発すべきだと考えるからです。部落民という“存在”は、歴史的に形成されてきた特定地域にたいする賤視観念(現在ではもっと複雑な忌避の感情でしょうが)と不可分のものであって、それは「個人の自由な意志で選択したわけでなく、個人の努力で変更できない事柄」から生じている。親や祖先は選べない、生まれる場所は選べないのです。生い立ちを理由に差別されるのは、まことにもって不条理、不合理きわまりないものです。この不条理、不合理な現実を抜きに部落問題を考えることなど、わたしにはとうていできません。
 本誌に連載された住田・灘本往復書簡「被差別部落民とはなにか」についてのコメントにも書いたように、部落民の概念は、厳密に定義づけようとすればするほど曖昧なものになってしまいます。かつて提唱された「身分・職業・地域の三位一体」論も、あるいは「地域・血統・共同体意識の共通性」論も、今日の状況をとらえることはできない。実体のあるものとして部落民を定義づけようとしても、もともと不可能なのです。どうしても曖昧さが残る。ところが世間には、曖昧さが許せないというたちの人がいるようで、「部落民の定義づけはできないのだから、したがって部落民は存在しない。ゆえに部落問題はない」などといいだす。
 わたしは、部落民なるものは部落差別意識を媒介にした人と人との関係のなかに結ばれる幻像だから、曖昧であって当然だとする観点に立つ。もちろん幻像であろうと、それに縛られている人にとっては実体のあるものとして映りますから、対話のとぎれもおこるのです。そして部落民でない者だけでなく、部落民のなかにも、そうした幻像に縛られている人がいる。また住田一郎さんがくりかえし論じているように、特異な“まなざし”や“遇され方”の積み重ねのなかで、ある種の行動様式が身についてしまったり、固有のようにみえる生活文化が生まれることもありえます。それがまた紋切り型の部落民像を再確認させ、型通りの反応を引きおこす。こうして人と人との関係は解きほぐしようがないくらいねじれてしまう。これまでの運動や事業、啓発などでは、このねじれを根本的には解くことができませんでした。
 一方、この部落差別意識を媒介にした人と人との関係およびそこに結ばれる幻像から自由である人びと同士にとっては、当然のことながら部落民なるものは存在しない。そこでは“立場”は相対化されているからです。「部落差別意識からたがいに解き放たれた関係」とは、そういうものでしょう。具体的な“生”の共有を通して成り立つそのような解き放たれた関係を核にしつつ、人と人との関係をほんとうに人間らしいものに変えてゆくための協同の輪が広がるとき、この閉塞状況になにがしかの風穴があくかもしれない、とわたしは考えています。

《 川向こうから 》
★9月いらいの無理がたたったのか、風邪で寝込んでしまいました。扁桃腺がはれてといったら、「青春のシンボルのような病気だな」と友人に笑われたものの、それがきっかけになって元気がでてきたから不思議です
★9月26日、部落解放同盟奈良県連(山下 力委員長)の研究集会に招かれ、「両側から超えて共同の営みを」と題して話をさせてもらいました。帰りぎわに「話を聞いて自信がもてた」と声をかけてくださる方もいて、かえって励まされた思いです
★大江健三郎さんの「文芸時評」(朝日.9月27日付夕刊) に「『部落』という差別の言葉がほとんど使われなくなるまでには云々」とあり、いやはやと感じ入った次第。それにしても大江さんは本気で「部落」を差別の言葉だと考えているんですかねぇ。東京の出版界の常識なるものがはしなくも露呈されたということかもしれませんけれど
★松本 修『全国アホバカ分布考-はるかなる言葉の旅路』(太田出版)は、評判通りの本でした。20年ほど前、「アホ・バカは精神障害者にたいする差別語だ」と主張する人たちがいたことを思い出します。所は前橋の群馬大学、集まっていたのは医学生たち。あの議論、どこでどう消えたのか、ちょっと気になりますな
★「あとがき」ではあまりにも芸がないと気づいて変えました。「川向こう」には、もちろん「あの世」とか「彼岸」の意味はなく、純粋にわたしの住所からとったものです。誤解せんといてくださいね
★9月16日から22日まで、東京、三重、兵庫の三人の方から計8,844円の切手、カンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)