同和はこわい考通信 No.73 1993.8.19. 発行者・藤田敬一

《 お知らせと紹介 》
第10回部落問題全国交流会「人間と差別をめぐって」
日  時/9月4日(土)14時~5日(日)12時
場  所/本願寺門徒会館(西本願寺北側)
     京都市下京区花屋町通り堀川西入る柿本町(075-361-4436)
交  通/JR京都駅前から市バス9,28,75 系統 西本願寺前下車
費  用/8000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み)・4000円(参加費のみ)
申し込み/〒603 京都市北区小山下総町5-1 京都部落史研究所(075-415-1032)
     山本尚友あて、葉書に住所・氏名(フリガナ付き)・電話・宿泊の
     有無を書いて、8月25日までに申し込んでください。
日  程/9月4日(土)13時受付け開始 14時開会
           14時半講演:師岡佑行「歴史の語りかけるもの」
           16時分散会 21時懇親会
     9月5日(日)9時分散会 11時全体会 12時解散
その他/各地で発行されたビラ、パンフ、新聞、通信などを多数持参してください。また第一日目夜の懇親会への名産、特産の持ち込み大歓迎ですのでよろしく。

『こぺる』No.6(93/9) の内容
部落のいまを考える④:畑辺 初代「失われた時は今」
ひろば⑥:熊谷 亨「同和行政をどう『見直す』か」
平田 賢一「『被差別部落一千年史』に関する岩波書店文庫編集部の見解」
第四回合評会から(住田 一郎)

《 各地からの便り 》
■ 最近の私の思い悩んでいることは、「人が差別する」のは、そのことの正しい知識がなかったり、情報が制限されているからだという主張についてです。確かに必要条件としてはそうだと思うのですが、なにかを見落としているような気がしています。こうした見解は伝統的左翼の「ブルジョアイデオロギー」論に因っているように思います。つまり、いわゆる被抑圧大衆・被差別大衆が犯す誤りの原因を、ブルジョア的支配に還元するするものです。確かにこうした見解の間違いを証明することは難しいとは思います。しかし今日のように階級が見えなくなったことも含めてブルジョアの陰謀と見なすのは、あまりにもお手軽な権力の分析ではないでしょうか?
 「差別をしない・差別発言をしない」ということは、正しい知識に可能な範囲のことかもしれませんが、「差別をなくす」ことは、この延長には考えられないと思っています。ほんとに乱暴な物言いなのですが、私たちがいままでに手にした近代<知>や、それを得た学校・教育のシステムは、「差別をなくす」どころか「差別」を再生産し・近代化しているのではないかと疑っています。(熊本 S.Oさん)

コメント.
 偏見は無知が原因だから、正しい知識さえ身につければ偏見は克服できると信じて、全力で教育や啓発に取り組んできたものの、ことはそう簡単にまいらなかった、というのが今日の実情ではないでしょうか。成果は否定できぬにしても、大きな壁にぶつかっているという感じがしてなりません。ハレの場としての教育、啓発の限界かもしれませんが。

《 再録 》
京都新聞:コラム<きょうと文化考>
藤田 敬一
河原町七条西南角
 人には誰しも忘れられない場所が一つや二つあるものだ。わたしにとっては、今も河原町七条の角に立つモルタル塗り木造三階建てが、それにあたる。ここに部落問題研究所があった。
 大学からの帰りに京阪の七条駅で降りて、雑誌『部落』の奥付に載っていた住所をたよりに、くだんの三階建てを捜しあてたのは、一九五八年六月、梅雨空のうっとうしい日のことだった。引き戸をあけると、プーンと皮の匂いがした。一階は物置になっているらしい。薄暗い部屋の奥に階段が見える。二階は部落解放同盟中央本部の解放新聞社が使い、研究所は三階にあった。研究所では、細面の小柄で眼鏡をかけ、いくぶん年老いた男性が応対してくださった。
 部落問題を勉強したいのだが、どうしたらよいかと質問したように記憶している。たぶん若者らしい気負った物言いをしたのだろう。その方は、わたしの顔をじっと見つめながら「部落問題の勉強をするには本を読むのもいいけれど、未解放部落に行って人々の暮らしぶりにふれ、話を聞かせてもらうことが肝心やね」と穏やかな口調で語られた。未解放部落とは、現在で言う被差別部落あるいは同和地区を指すが(以下、部落と略称)、その方は部落をたずねるようにと、名刺の裏に紹介状を書いてくださった。名刺には「部落問題研究所常任理事木村京太郎」とあった。
 木村京太郎さん(一九〇二-八八)は奈良県御所市、住井すゑさんの『橋のない川』の舞台になった小林の出身で、水平社以来の活動家である。木村さんの紹介で部落解放同盟京都府連委員長の朝田善之助さん(一九〇二-八三)を知り、朝田さんを通して京都や大阪の部落の人々と知り合いになれた。「足を踏んでいる者には、踏まれている者の痛さが分からんところがあるんやよ」と教えられたのはそのころのことである。生き方が問われているように思われた。
 理屈と膏薬はどこにでもつくとは、水平社創立に加わった米田富さん(一九〇一-八八)の口癖だったが、理屈で入った者は理屈で出てゆくともいう。理屈を振りまわしているうちに、いつしか別の理屈に魅入られて、もともとの問題が吹っ飛んでしまうことがよくある。わたしにも何回かそんなときがあったが、そのつど木村さんのあの一言がなぜか思い出され、ハッとわれに返ったのだった。
 木村さんとお会いしてから三十五年、休み休みしつつ部落問題について、わたしなりに考えつづけているのだが、日暮れて途遠しの感を深くしている。身のまわりには冴えない雰囲気が漂い、意気消沈することもあるけれど、これまでに出会った人々とのつながりに支えられ、なんとかやれているという感じがする。
 先日、久し振りにあの建物の前を通った。外観は少しも変わっていない。京都靴商工組合事務所の看板も元のままだ。以前ここに部落問題研究所があったことを知っている人は少なくなった。しかし、わたしには忘れがたい場所なのである。

三十年目の答案
 朝田善之助さんに教わったことは多い。右の手のひらを上に向け、指先をつまむ形にして、ちょっと突き出し、パッと広げながら「あのね」と語りかけるしぐさが、今もなつかしく思い出される。しかし、なんといっても衝撃的だったのは京都や大阪の都市部落の実状だった。
 当時のようすは、実態調査の数字や文章では伝えられそうにない。「老朽家屋の密集地」では舌をかみそうだし、仕事が商業とか工業とかに分類されてしまっては、行商人や靴職人のつぶやきは聞こえてこない。それにひきかえ写真や映像は視覚に訴え、生き働く人々の姿が匂いや音、色をともなって浮かび上がってくる感じがする。その意味で、『写真記録 部落』(写真・藤川 清、文・東上高志、柏書房、一九八四年)や、亀井文夫監督のドキュメンタリー作品『人間みな兄弟-部落差別の記録』(一九六〇年)は貴重だと言える。とくに亀井さんの映画には、わたしが寄せてもらったことのある部落がいくつか出てくる。
 大きな邸宅の塀が映し出され、カメラが右にゆっくり移動すると、広い道が映る。それにかぶせて「道がある。その道が狭くなったところに部落がある」というナレーションが流れる。NHKの宮田輝アナウンサーの低く押さえた声と白黒の画面がマッチして、これから展開されるテーマの重さを予告するかのようだ。
 狭い一本の道によって隔てられている部落の現実を象徴しようというわけである。この冒頭シーンに出てくるのは、学生時代に子供会をやった左京区の部落である。あれから三十余年、道は広がり、住宅も整備され、昔の面影はない。
 木村京太郎さんのアドバイスに従い、各地の部落に出かけ話を聞かせてもらってきた。経済の高度成長と同和対策事業の進展によって生活実態は大きく改善されたように思う。啓発・教育も幅広く取り組まれている。
 わたしが教えてもらった理論では、荒っぽく言えば、劣悪な実態が偏見を生んでいるのだから、実態が改善されれば偏見はなくなるはずだった。ところが差別事象があとを絶たない。いったいこれはどうしたというのだろう。こんな疑問を抱いているのは、わたしだけではないのに、いっこうに議論が起こらない。
 あれこれと悩んだあげく、差別・被差別の両側を隔てている壁を破り、溝を埋め、とぎれる対話をつなげ、一緒に部落問題の解決に向けて力を合わせるしかないと考えて書いたのが『同和はこわい考』だった。発行以来六年、いまだに賛否こもごもの意見に揺さぶられている。しかし、あの本は部落で学んだことをふまえて三十年目に提出した答案でもある。
 出来の悪い学生の答案かもしれないけれど、人と人との関係をほんとうに人間らしいものにしたいという部落の人々の願いをも心に刻んで書こうとしたことだけは確かだ。朝田さんが生きておられたら、どんな感想をもらされるか、聞いてみたい気がしないでもない。(93年8月1・3日の朝刊に掲載。字句を少し変えました。)

《 論稿 》
70年代ラディカル市民運動の隘路あいろ
 -花崎皋平『アイデンティティと共生の哲学』(筑摩書房)を読んで-①
柚岡ゆおか 正禎まさのり
 ロッキードか三里塚か。これは1976年、ある新左翼党派を悩ませた選択肢だった。その党派は結局、三里塚を選ぶのだが、本書での花崎さんの表現にならうなら、政治共同体(議会)に抽象的普遍を求めるのではなく、社会の中に具体的普遍を求め、そこに近代文明全体を根底から批判する根拠地を築こうとしたのである。
 その選択をさせたのは70年代、日本列島に噴出していた住民運動・反公害運動・反差別運動の社会闘争だった。それは明らかに60年代おわりの大学闘争のラディカリズムを継承しており、生活、環境、性、民族の見直し、あらゆる差別に対する断固たる糾弾、要するに日本社会の根本からの意識変革を迫るものだった。70年代ラディカル市民運動の誕生である。
 だが既成左翼の議会制民主主義に批判的だったこのラディカルな市民運動は、いくつかの自治体選挙や、反原発を掲げた単発の国政選挙を例外とすれば、以後、一貫して、議会政治からは一定の距離を保ってきた。そしてそれぞれ独自に、社会の部分に在りながら、しかも政治に集約されない人と人との普遍的なあり方(オールタナティブ)を探ることとなったのである。
 むろんこの冷戦時代、中道政党をのぞけば野党そのものがいわゆる抵抗政党でしかなかったのだから、基本的には野党も市民運動も同じ姿勢で政府を批判していたのだが、80年代から徐々にすすめられた社会党の(運動なき)現実路線が到達した最近の事態にいたって、この市民運動(すでに動員力も落ち、メンバーもロートル化しているが)の現実政治からの隔絶がきわだっているのである。この政党と市民の分離は日本における政治(民主主義)の欠如そのものであった。
 ちなみに、先の社会革命主義的な新左翼党派についていえば、ときどきもたれる“実力闘争”が国家に向かう唯一の通路、政治となっていた。だが権力がこの間一発の実弾も発射しなかったことを考えれば分かるように、あらゆる闘いは“国民”という観客を想定しているのであり、国民的合意(大義)をめぐり、条件を提示し合って争われる、そして時には実力行使も辞さずと構えられる、“政治”なのである。その意味であらゆる闘いは本質的に条件闘争であるはずだ。多分に抵抗闘争の性格を帯びた三里塚闘争でさえそうであった。
 ロッキードを選ばなかった新左翼やその戦後民主主義批判を“市民”の「政治不信」としてしか継承しなかった今日の(ラディカル)市民運動が、日本社会を決定的に枠組んできた自民党一党支配の終焉になんの役割も果たせなかったことは必然だった。総じて日本の市民が政党をつうじて政治を動かしたことは一度もなかったのである。

(1) ピープル
 花崎さんの近著『アイデンティティと共生の哲学』は、このような多かれ少なかれ新左翼の流れをくむ市民運動・社会闘争が、80年代に思想的にも・理論的にも窮地に陥り、また冷戦の崩壊を目の当たりにして、再び政治へと浮上するか、そのための諸契機を足許に見いだしているか、その意味で「地域」は十分に開かれているかを、その最良の知性において占うもの、と期待された。
 だが残念ながら答えは否であった。
 本書で花崎さんは、社会主義の没落を、国家権力の奪取による計画経済、20世紀国家社会主義の崩壊とだけ総括し、国家や貨幣関係に捕われず、“国民”でも“市民”でもない「越境するピープル」のネットワークに、もうひとつの社会関係(オールタナティブ)を見いだそうとしている。

いまの社会体制を一挙に、暴力的に打ち倒してあたらしい革命権力のもとで、自分たちがプログラムしたあるべき社会を土台から建設するという思想と運動論が、非現実的でもあれば反ピープル的であることもあきらかになった。政治・経済・社会の改革の基礎に、社会的な人と人との関係におけるアイデンティティと共生の文化や倫理をどうきずいていくかという観点が、思想としても運動論としても問われている。(P289-90)

 だが問題はそのとき、「政治・経済・社会の改革の基礎」とされる人々の「ピープル」としてのあり方が、どれだけ本当にそれらの「改革」に対して「基礎」たり得ているか、花崎さんが本書で、「歴史を踏まえ、差別と権力に対して徹底した緊張関係に立つ普遍的身分=アイデンティティとして『ピープル』を範疇として鍛えあげること」にどれだけ成功しているかである。

(2) 道行
 本書を読んでいて読者は、うねるようにして進む花崎さんの読書の旅、思想の歩みに、知らぬまに(少し苦しいが)同行させられることになる。
 まず第1章は普遍主義宣言である。「普遍的な人権秩序をめざすことと西欧化=近代化とを区別し、その普遍主義をよりいっそう人類的普遍の相へと発展させること」(P44) がめざされる。マルクスのすぐれた特徴である普遍主義(=世界性)を花崎さんはけっして手放さない。
 日本の平和と民主主義、普遍的人権の理念に破産を宣告するだけでなく、日本民衆の一国主義的限界こそあれ、この半世紀のあいだに血肉化してきた思想と生き方に光を当て、そこから次の時代をひらく原動力をすくいだそうとする。(P34)
 普遍主義の原理と現実との「往復運動(実践)」をつうじて「普遍の具体化」を追求していくのであって、このとき「最初の抽象的普遍は限定(否定)され、「性、障害、地域、民族、文化、歴史などによるさまざまな差異」とぶつかる。それらを無視して平等をとなえるのではなく、「具体的平等、具体的自由への遍歴、行進において、多面性と矛盾を経験」(P48)していかねばならない、とする。
 この道行が第2章以下第8章までである。
 まず戦後日本の普遍主義(西欧化)への批判を検討し、国際人権論の進展を確認する(第2章)。つぎにエスニシティの視点により階級や国民国家を相対化し(第3・4・5章)、第6章「反差別の論理と倫理」、第7章「女と男」と続く。第8章では「開発と発展」の対象とされがちな「地域」を軸に、もう一度、市民社会をとらえ直し、そこから国民的市民を超えた、生活の共通規範の創造を含む市民社会の再建を展望する。
 おわりに近い第9章「ピープルとしてのアイデンティティと共生」は圧巻である。読者はここに、旅の途中で知った多くの言葉、考え方がすべて流れ込んでおり、大河となって流れていることに気付く。そしてここに来てはじめて、この旅がどこに向かっていたのか、旅の目的を知ることになるのである。

(3) 旅のおわり
 花崎さんはここで「他者」の不可知性を承認し、また利己心をも相互に尊重しあう関係としての倫理的な「共生」の関係、国民でも市民でもない「ピープル」としてのあり方を提示する。
 それをまず、久重忠夫の『罪悪感の現象学』を下敷きにしながら、人と人とがたがいに他を「受苦可能性」(傷つきやすさ)をもつ存在として認めあう人称関係として構成する。そしてさらに、その人格における「受苦可能性」を、ウェーバーの「名誉感情」(毀損可能性をもつ)をともなった「身分状況」に重ね、差別や社会的広がりをもつものへとふくらませていく。そのようにして「ピープルとしてのアイデンティティ」を生活世界としての地域や、文化と歴史をもつ民族の契機などを含むものとして広げていく、というのである。
 だが読者はここに来て、著者に連れてこられたこの「ピープル」としてのあり方がなぜか妙にリアリティのない、不思議な世界であることに気付くはずである。
 「三里塚にはすべてがある」と全国に檄を飛ばしたのは、今は亡き前田俊彦翁だが、本書にはたしかに、ピープルとしてのアイデンティティを具体的普遍として構成すべき多くの契機が、言葉としては登場している。自然、生活、性、地域、身分、民族、経済、国家、歴史など。
 だがこの第9章にいたって読者は、先行する諸章でのそれらの議論がすべて、ここでの花崎さんの哲学的意識の歩みを構成する契機としてのみ登場させられていたのではとの疑念におそわれるのでるある。(あたかも全哲学史がヘーゲルにとって、その論理学の諸契機をなすのみであったように)
 そしてこの疑念をもって道行を振り返れば、済ませてきたはずの多くの議論がじつはいま様々な分野で市民運動・反差別運動がつき当たっている困難な理論問題に対して、ほとんどなにも答えていないことに改めて気付くのである。政治論(4)と差別論(5)の2点に絞って述べてみたい。(つづく)

《 あとがき 》
★全国交流会に参加してくださるよう訴えたくて、ワープロのキーをたたいてしまいました。たたいてしまった以上は、印刷して発送するしかないですよね。アハハ……
★夏休みは、机の上の本を手当たり次第に読むのが、このところ習慣になっています。いま、沢木興道さん(1880-1965)の本に熱中。学生時代に一度だけ京都の安泰寺で話を聞いたことがあり、なつかしさも手伝って読みはじめたらやめられなくなって
★柚岡さんの文章は連載になります。悪しからず
★8月9日から17日まで、大阪、滋賀、京都の三人の方より22,542円の切手とカンパをいただきました。ほんとにありがとうございます
★友人に勧められてフアックスをつけました。電話(0582-39-5348)と同じ番号です。お急ぎの場合は利用してください
★本『通信』の連絡先は〒501-11 岐阜市西改田字川向 藤田敬一です。(複製歓迎)